HR Technology Conferenceに見る人材領域イノベーションと日米温度差

編集部注:この原稿は鈴木仁志氏による寄稿である。鈴木氏は人事・採用のコンサルティング・アウトソーシングのレジェンダ・グループのシンガポール法人の代表取締役社長を務めていて、シンガポールを拠点にクラウド採用管理システム「ACCUUM」(アキューム)をシンガポールと日本向けに提供している。

世界最大級のHR Techイベントである『http://www.hrtechconference.com/』が10月にラスベガスで開催された。イベントのレポートと合わせて、日本と欧米におけるHR Techの比較をしていきたい。

読者のみなさんはHR Techと聞いて何を思い浮かべるだろうか? SAPやOracleのような大企業向けの人事管理システム、もしくはリクナビのような求人サイトだろうか。AdTechやFinTechと比べるとぼんやりとしたイメージを持っている人が多いかもしれない。HR Techが日本より高い認知度を得ているアメリカと比べると、日本での認知度はこれからだろう。このレポートでは、今回のイベントを通じて見られた、HR領域でもますます高まっているデータサイエンティストのニーズや、HR Techで社員エンゲージメントを高めていこうとする試みなど、人事担当者だけでなくスタートアップの経営者なども注目すべきトレンドについて紹介したい。

今年で18回目を数える一大イベント

このHR Technology Conferenceも、1998年から始まって、今年で18回目を数えた。2015年10月18日〜21日の4日間にわたって開催されたが、プレイベントデーとして開催される初日と、午前中のみの開催となる最終日を考慮すると、実質的には2.5日間のイベントとなっている。フルカンファレンスパスが20万円以上、展示会のみの入場でも5万円必要であるにも関わらず、今年も5000名以上がラスベガスに集結し、60以上のセミナーと300以上のブースが展開されていた。

言語や入場料の違いや、来場者の大半が飛行機で来るラスベガスと、オフィスから1時間以内で行ける東京会場という開催地の違いなどがあるため単純な数字の比較はできないが、アメリカではHR Technology Conferenceは非常に大きなイベントだ。ラスベガス開催の翌週10月27日〜28日にはフランスのパリで4000名近くが来場した『http://www.hrtechcongress.com/』という別のイベントが開催され、そのどちらかへの参加を選択した来場者や出展企業が多くいたであろうことを考えればなおさらだ。

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*1,3: 主催者発表。
*2: HR Expoは、セキュリティや防災など他5つのExpoと同時開催されており、HR Expo単体での来場者数は発表されていないため、HR Expo出展企業数を全体数で割った19%という比率をもとに、主催者発表の来場数から算出。

今年の HR Technology Conference を通じて、筆者が感じたトレンドをいくつか挙げてみたい。

高まるHRデータサイエンティストの必要性

セミナーでは、人事管理、採用、教育・人材開発、福利厚生など人事に関する様々な領域における事例紹介やトレンドの分析などが発表されるが、今年のセミナーや出展ベンダーとの会話や打ち出し方から感じられたのは、今後高まっていくであろうHRデータサイエンティストの必要性だ。以前書いた通り、人事・採用においてデータドリブンなアプローチは日本よりアメリカの方が進んでいるといってよいが、そのうえでなおも進化を続けるアメリカにおいて、今、”Real-time data”と”Reliable data”という2つのキーワードが飛び交っている。

一つ目の”Real-time data”とは、文字通りHRデータにもっと即時性を求める課題意識だ。人事における社員・候補者分析をベースにして回すPDCAサイクルは、例えばマーケティングにおける顧客分析などと比べてリアルタイム性に欠ける、というわけである。これには、テクノロジーの問題だけでなく、社内における優先順位が相対的に低くなっていたために、人的リソースが十分に割かれていなかった問題もあると指摘されている。例えば採用において採用単価やチャネル分析が完了する頃にはそのポジションの採用が終わっていたり、業績評価結果が人事から部門に渡るのは数ヶ月後なんてこともあったりする。リーディング企業はこのPDCAサイクルを回すためのHRシステムアナリスト やHRデータサイエンティストなどを人事部門においており、このトレンドは今後も加速していくと見られている。

二つ目の”Reliable data”(Good dataかBad dataと表現されることもある)は、データに対する信頼性を問う論点だ。つまり、どれだけ信頼できるデータなのか?分析に足るデータなのか?という議論である。例えば、給与などの定量的な情報は、データとしての信頼性が高いのに対して、評価などの定性的な情報はデータとしての信頼性が低くなる傾向がある。この、従来当然のこととして片づけられていた事実に光が当てられようとしているわけだが、それこそ、人事業域でのデータ分析においてデータドリブンなアプローチを模索してきたアメリカを中心とした先駆者たちだからこそ辿り着いた課題感だといえる。具体的に定性データの信頼性を高めていく手法についてはまだ明確なテクノロジーがあるというわけではないようだが、心理学や社会学の見地からいかにデータの仮説・検証を進めるか、社員からの自己申告などでいかに定性データを効果的に取得するか、などといったテーマが研究されており、ここでもHRデータサイエンティストの活躍が期待されている。

エンゲージメント向上への挑戦

もうひとつのトレンドとして、”エンゲージメント”を挙げておきたい。社員エンゲージメントというのは、人事にとって特に新しい概念ではないが、今年はセッションでもこのエンゲージメントがこれからの人事の課題としてあらためて注目されており、エンゲージメント領域でのHR Techも盛り上がってきている。社員エンゲージメントとは、「帰属意識」や「会社愛」などの意味で使われることもあるが、本質的には『組織や仲間と目的を共有することによるコミットメント』という方が近い。Gallupの調査によると、エンゲージメントの高い社員は、比例してパフォーマンスが高くなると証明されているにも関わらず、アメリカ全体でエンゲージメントが高い社員は全体の三分の一以下に留まっているという。ちなみに日本はどうかというと、2013年のGallupの調査では7%とアメリカを大幅に下回る数字が出ている。調査会社により数字の違いはあるものの、Aon Hewittの調査でもダントツで世界最低水準となっている。

この社員エンゲージメントを図る指標の一つが社員エクスペリエンスだ。ここでいう社員エクスペリエンスとは、人事・採用システムのUI/UX改善により、エンドユーザーである社員の人事・採用システムに対する満足度を上げる、といった表面的な話ではなく、HR Techを活用して会社が社員に対して価値を提供することにより、社員の会社での幅広い体験と満足度をいかに高めていけるか、といった論点を意味している。

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*この図は人事的視点に合わせて作成しており、マズローの5段階欲求の一般的な解釈と異なる場合があります。

マズローの法則で低階層の“生存欲求”や“安全欲求”(図の下から1つ目・2つ目)は、人事制度においては基本給、社会保障、基本的な福利厚生と言われている。後述するヘルスケアや福利厚生でこうした低階層を強化しながらも、併せて中高階層の“所属欲求”や“承認欲求”(図の下から3つ目・4つ目)を満たしていくことが、社員エンゲージメントを高める上で重要となってくる。

HR Techによってエンゲージメントを高める施策は入社前から始まる。例えば、WantedlyのOpen API提供開始も、「なぜその仕事をやるのか」、「どんな価値観を持った人達と働くのか」といった価値観によるマッチングという中高層寄りのコンセプトをHR Techを通じて普及させていくだろう。採用プロセスを経て、内定から入社までの間には、新人社員研修などを意味する”Onboarding”というプロダクト、もしくは機能を使って内定者のエンゲージメントを入社前から高めることもできる。Onboardingというと、先日開催されたTechCrunch Tokyo 2015のスタートアップバトルで優勝したSmartHRのように、内定者と人事のどちらにとっても煩わしい労務関連の手続きを自動化する機能も含まれるが、ここで意味するのは、内定者に対して入社前からチームメンバーやプロダクトの情報を閲覧できる環境を提供することを通じて、所属欲求(図の下から3つ目)を高めることでエンゲージメントを向上させ、入社前の内定辞退率を下げたり、入社後により早く会社に馴染み戦力化したりすることを狙うような機能の話だ。人事ソフトウェア・人事アウトソーシング大手のADPは昨年2014年のHR Technology Conferenceのデモで、アップグレードしたOnboarding機能により内定者エンゲージメントをより高めることを強く訴えていたのだが、そのADPやZenefitsを追いかける立場にあり、今年6月にシリーズCで$45M(約55億円)を調達し、給与・労務システムで勢いのあるNamelyが自社ブースでのデモにおいてもエンゲージメントを強調するなど、差別化要因として機能強化している。

デモセッションでエンゲージメントの重要性を強調したHR Cloudは、Onboardingと合わせて、入社後の施策として”Employee Recognition”機能をアピールした。これは「社員同士の感謝の気持ちを伝え合う」ことを通じて組織の目的意識や価値観を明確に共有してエンゲージメントを高めるアプリで、承認欲求(図の下から4つ目)を満たす。大規模HRシステムには組み込まれていることが多い機能だが、HR Cloudのように規模的に1レイヤー下のHRシステムが機能強化していることや、KudosAchieversなどがスタンドアローンのアプリとして数億〜数十億円の調達をしていることも、この領域が注目されている証左であるといえる。

エンゲージメントを語る際に外せないのがヘルスケアだ。もちろん、ヘルスケアは人事にとっては常に重要な領域だが、社員の健康はエンゲージメントを高めるとGallupも指摘する通り、ここ数年は単純に”社員に健康でいてもらいたい”という会社の想いだけでなく、このエンゲージメントという視点から、今まで以上に注目されている。日本でも最近CHO(チーフ・ヘルスケア・オフィサー)やCWO(チーフ・ウェルネス・オフィサー)をおく会社が見られるようになった。今回のHR Technology Conferenceでは、スマートウォッチ・リストバンドのFitbitが、定価1万円以上するスマートリストバンド端末Fitbit Flexを、来場者である人事関係者に対して1500個も無料配布しており、会社の所在地をもとに来場者を4つのエリアに分類し歩数を競う『HR Tech Fitbit Challenge』を開催してみせながら、社内でこのような活動を行うことにより社員の健康を促進していくことの重要性を訴えていた。

エンゲージメントから話は逸れるが、ヘルスケアはコスト面においても大きな意味を持つ。社員が病気をすることによって会社が負う年間コストは、アメリカの労働人口全体で約73兆円 (5889億ドル)というIBIの調査*もある。このレポートでは、33%にあたる約24兆円(1995億ドル)が生産性の低下による費用とされている。この調査がアメリカの労働人口としている約1億3300万人で計算すると、一人当たり22万円(1800ドル)となり、テクノロジーで改善できる余地の大きな領域と考えられている。
*Integrated Benefits Institute FCE reports参照

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日系企業の存在感から学ぶこと

視点を変え、この世界最大規模のHR Tech イベントにおける日系企業の存在感はどうだったかを振り返ってみたい。注目すべきはリクルートグループとワークスアプリケーションズだろう。

リクルートグループは、リクルートやRGFという名前でスポンサーや出店をしていたわけではないため、会場でロゴなどを目にすることはなかったが、買収したIndeed以外にもコードチャレンジ/エンジニア採用ツールのHackerrankやビデオ面接のWePowなどへの出資を通じて知られていた。そのためか、参加者と話していると“Recruit”という名前は知っているものの、投資会社と思っている人も多かったようだ。実は人事・人材やマーケティングの領域で1.5兆円の事業会社なのだと教えると、一様に驚いていたのが印象的だった。

日系企業で唯一スポンサーとなり大きなブースを出展していたのはワークスアプリケーションズだ。ERPシステム『HUE』の海外版『AI Works』の発表をこのHR Tech Conference開催の10月20日に合わせてくるなど、気合いの入った展開だった。売上高365億円のワークスアプリケーションズは、日本では総合的なERPプロバイダー大手としてSAPなどと競合するが、アメリカ市場では同2兆円超の独SAPの競合というよりは、2005年に創業され人事・経理システムで約975億円(7億8790万ドル)を売り上げるWorkdayなどと比較されている印象だ。デモルームでのプレゼンでは分散型処理によるレスポンス時間などがアピールされていたが、これに対する参加者の反応は残念ながら期待通りではなかったようだ。より高い付加価値の提供により社員の総合的な体験を向上させるという前述の社員エンゲージメントの論点よりも、ソフトウェアのユーザビリティアピールに聞こえてしまっていたからかもしれない。これは、『AI Works』(もしくはHUE)の機能やコンセプトが悪いというわけではなく、今後アメリカ市場の特徴やトレンドに合わせたアピール方法やローカライゼーション(もしくはアップグレード)が必要となってくるということなのだろう。

これらのケースからもわかるように、HR Tech領域、特にアメリカ市場においては、欧米企業が日系企業に先行している印象が否めない。しかし、過去を振り返ると一概にそうとも言えない 。Monster.com(当時Monster Board)がローンチしたのは1994年と、リクナビ(当時Recruit Book on the Net)がローンチした1996年より2年早いだけだった。人事管理システムの領域では、Workdayの2005年創業に対して、ワークスアプリケーションズは1996年と9年も早くに人事システムの提供を開始している。しかしながら、近年Job AggregationやPeople Aggregationのサービスに目を向けると、Indeedのローンチが2005年に対してビズリーチのスタンバイは2015年であったり、EnteloTalentBinのローンチが2011年に対してアトラエのTalentBaseが2015年であったりと遅れが目立ち始めている。国の文化や慣習も、サービスのコンセプトや機能も異なるため、単純な比較をすべきではないかもしれないが、例えば管理システムとしての人事システムを志向してきた日本と、データ分析・改善に価値を置いてきたアメリカとの違いがこの差を生んだ可能性はある。一方、逆に日本のビジネスモデルや機能が海外で受け入れられるケースもあり、例えば(日系企業という呼び方は相応しくないかもしれないが)福山太郎氏によるAnyPerkは、日本型ベネフィット・サービスモデルを逆にアメリカで普及させているビジネスモデルの輸出型といえるし、私たちが提供する採用管理システムACCUUMも、候補者ソーシング機能などでは数十億円を調達しているアメリカなどのプレイヤーに遅れをとるが、よりユーザー目線での管理機能などでオリジナリティを出すことにより、日本だけでなくシンガポールのユーザーにも評価されている。前述のOnboarding機能も、日本では内定者マイページとして日本の新卒採用では一般的であり、当社が提供する人事システムEHRにも米国大手ベンダーよりも先に搭載されていた機能とコンセプトは近い。マーケットの特性や成熟度を見極めていければ、日本発で海外に通用するHR Techは間違いなく存在する。

HR Techでチャンスをどうつかむか?

会場の一部ではスタートアップのブースが並ぶ一角もあった。Y Combinator 2015年夏卒業生で、実際の業務で想定されるシチュエーションをバーチャルに作り出し、シミュレーションにより採用判断をサポートするInterviewedを含む30社が出展していた。ユーザーとして利用を検討するもよし、パートナーとしてシステム連携を検討するもよし、これらの萌芽を研究して、アイデアを自社のプロダクトに生かすのもありだろう。

少しネガティブな表現もしたが、既述した通り、先日開催されたTechCrunch Tokyo 2015のスタートアップバトルでは、労務手続きを自動化するSmartHRが優勝するなど、日本のHR Techも盛り上がりを見せている。HR Techユーザー側となる企業人事も、提供側のHR Techベンダーも学ぶことが多いHR Tech Conference。来年は、ここにより多くの日系企業の出展と日本人参加者が見られることを期待したい。

投稿者:

TechCrunch Japan

TechCrunchは2005年にシリコンバレーでスタートし、スタートアップ企業の紹介やインターネットの新しいプロダクトのレビュー、そして業界の重要なニュースを扱うテクノロジーメディアとして成長してきました。現在、米国を始め、欧州、アジア地域のテクノロジー業界の話題をカバーしています。そして、米国では2010年9月に世界的なオンラインメディア企業のAOLの傘下となりその運営が続けられています。 日本では2006年6月から翻訳版となるTechCrunch Japanが産声を上げてスタートしています。その後、日本でのオリジナル記事の投稿やイベントなどを開催しています。なお、TechCrunch Japanも2011年4月1日より米国と同様に米AOLの日本法人AOLオンライン・ジャパンにより運営されています。