デジタル時代でも重要なプライバシーの課題

double exposure of woman looking at cityscape,shenzhen,china

【編集部注】本稿著者のGry HasselbalchとPernille Tranbergはdataethics.euの創業者であり、Data Ethics – The New Competitive Advantageの著者たちでもある。

私たちの生活はデータの中で生きている。データは国境を越え、仮想空間内で接続されている。しばしば、私たちはオープンでアクセスが容易なデータネットワークの中に生きているかのように見える。国や企業がデータを通して私たちを見ている、そして私たちはデータを介してお互いを見ている。このデータ飽和環境で、個人のプライバシーとは何を意味するのだろう?

プライバシーは信頼や安全に似ている;失われてみるとその定義がはるかによく分かるのだ。私たちは、脅かされている不安定な状況、他の誰かの嘘や不正な行動が明らかになった状況に自分たちがいることに気付いた時、信頼と安全が何であるかを正確に知ることになる。それは私たちを怒らせ、不安にし、そしてなによりも無力に感じさせるようなものだ。

同じことがプライバシーにも成り立つ;失われる前にそれを指差すことは難しい。私たちはますます、日々のデジタル生活の中でプライバシーの欠如を感じ始めていて、同時に何を失っているのか、自分たちはそれについてどう感じているのかを理解するようになりはじめている。

今日のデータ飽和環境に対するより人間中心的かつ倫理的なアプローチの必要性について話すとき、私たちは第一に、社会に埋め込まれた力のバランスをとることについて話し合う。個々人のプライバシーは、現在のデータ飽和インフラストラクチャーの中で、プレッシャーに晒されている唯一の社会的価値ではない。不当な扱い、差別や不平等な機会 — 倫理に欠けるデータの取り扱いの影響は多様である。しかし、その中心にあるのは プライバシーだ。それが社会のパワーバランスメーターの針となる。

良好に機能している民主主義の中では、権力者は力の行使方法についてはオープンで透明だ。しかし個人に対する透明性を期待すべきではない。透明性があるほど、個人はより脆弱になってしまう。

現在のデジタルインフラストラクチャでは、私たちは間違った方向に向かっている:個人はますます透明になっていて、様々なタイプの制御、操作、そして差別に晒されている。一方政府、起業、そして組織などの力を持つ側はますます閉鎖的になっているのだ。自由、個人の独立、そして民主主義こそが、プライバシーに対する個人の権利を私たち全員が気にするべきものにしている根本的な理由である。

プライバシーは、プライベートな人生がディフォルトであった時代に定式化された、国際条約や、宣言、そして憲章に書かれた普遍的な人権だ。民家と公共の通りや建物の間や、民間人と公的機関との間には、はっきりとした線と限界が存在していて。それは封をした封筒の中の手紙だったのだ。

自由、個人の独立、そして民主主義こそが、プライバシーに対する個人の権利を私たち全員が気にするべきものにしている根本的な理由である

しかし、世界のデジタルメディアの足場は、Joshua Meyrowitz教授が1986年に彼の著書「No Sense of Place」で著したように、徐々に、しかし着実に公的領域と私的領域の壁を破壊してきた。最初はラジオとテレビが公共の場をプライベートなリビングルームに持ち込んだとき、そしてインターネットと携帯電話が、私たちのポケットの中で公共の生活を静かに、バイブレーションを通して文字通り揺れるように感じさせるようになったときだ。

機械は私たちのプライベートな電子メールや会話に関与することを始めた。封筒は開かれたのだ。私たちはますます、私たちのアイデンティティや生活ををオンラインソーシャルネットワーキング空間で広げ、プライバシーは積極的に選ばなければならないものになった。同時に、これらのオンラインスペースは、私たちのアイデンティティを創り出す;それらは私たちを制限したり、機会を創出したりして、プライバシーがエンパワーメントのツールになる。

実際に、プライバシーはエンパワーメントだ。私たちが積極的にデジタルメディアを使用し、自分自身の詳細を共有しているという事実があるからと言って、プライベートな人生には価値がなく、FacebookのMark Zuckerbergがかつて言ったような、もはや社会的規範ではないということは意味していない。それは単にプライバシーには新しい条件が備わったということを意味しているだけだ。私生活、画像、アイデンティティをオンラインにすることは、エンパワーメントに関わる。エンパワーメントとは、誰があなたについて何を知っているか、そしてそれはいつ(現在や未来)なのかを「あなたが」決めることができて、その知識から生まれる結果をコントロールできるということを意味する。

プライバシーとは個人の持つ固有の特徴だ。私たちがどのような文脈で何を開示するかは、独立した個人として、とても個人的なことで独自に決まるものである。プライバシーは文化や個人に特有であり、まさにその理由から重要だ。それは私たちそれぞれを、個別の能力の中で行動するようにエンパワーする。

プライバシーは日々の社会的な実践だ。Googleのエリック・シュミット会長はかつて「もし誰かに知られたくないものがあるならば、そもそもそれはやるべきではないことかもしれません」と語った

この論理に従うならば、プライバシーは秘密や、性癖、あるいは犯罪の詳細についてだけに限られてしまう。しかし、この論理を反対に見て、もし私たちがプライバシーを持てなかったり、プライバシーを可能にする基本機能を持っていない場合に、一体何が失われるのかを見れば、この議論は消えてゆく。

平行する現実世界では、私たちは毎朝起き上がり、衣服で身体を覆い、トイレに入ってドアを閉めるが、そのことに対して、私たちはするべきではないことをしている、と主張するものはまだいない。私たちの日々の慣習は、プライバシーが私たちが社会空間で独立した個人として行動することを可能にする原則であることを証明しているのだ。

プライバシーは民主的な価値だ。それは思想の自由と個の独立である。誰かに見られていると感じると、人間の行動が変化するということを示す研究がある。 自由な情報の検索を控え、自由な行動を表現を控え、目立ったり流れに逆らったりすることを恐れるようになるのだ。国際プライバシー保護者協会(IAPP)のTrevor Hughes CEOは、プライバシーの重要性についての良い説明を行っている「人間は、自らの脆弱さを感じているときには孤独を求めるものです。往々にして、これは物理的な脆弱さにも関係しています。私たちは、病気のときや特定のリスクの瞬間(睡眠、排泄、セックス、その他の時間を思って下さい)には、社会から離れようとします。しかし私たちはまた情緒的な脆弱さを感じているときにも、独りになりたいと思います。私たちは、新しいアイデンティティやアイデアを探求するためのプライベートな空間を求めているのです」。

誰からも見張られることなく考え行動できるプライバシーと空間は、個人が独立し自由に振る舞う能力のための前提条件である。私生活では、各自が独自のアイデンティティーを生み出し、自分の人生の方向性を決断することができる — その過程で失敗する権利や、流れに逆らう権利と共に。プライバシーの権利は、こうした積極的な民主主義のための前提条件なのだ。

そして最後に、もちろんそれが最低条件ではないが、プライバシーは自由なイノベーションと創造のための前提条件なのだ。法学教授のJulie E. Cohenが語ったように: 「イノベーションにはあれやこれやの自由な試行錯誤の余地が必要です、それ故にそうした、あれやこれやの試行錯誤のための場所に価値を置き確保するような環境の中でこそ、イノベーションは最も高い繁栄を達成するのです」

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(翻訳:Sako)

FEATURED IMAGE: JASPER JAMES/STONE/GETTY IMAGES