インターネット権利法案は私たちの道義的義務の一部に過ぎない

[著者:David Gorodyansky]
プライバシーアプリHotspot ShieldのメーカーAnchorFreeの共同創設者。

米連邦下院議員Ro Khannaが提案しているインターネットの権利法(Internet Bill of Rights)案は、インターネットの個人の権利擁護を積極的に推進する。これは、アメリカならびに世界の現在の法律に欠けている決定的な要素を示すガイドラインであり、すべての党派に伝わるよう一括化されている。悪魔は細部に潜んでいるというのが夜の常だ。Khanna議員のインターネット権利法案には、まだかなり主観的な部分が残っている。

しかし、ひとつ無視してはならないこととして、我々個人は、この公共財、つまりインターネットにおいて権利を持つばかりでなく、道義的義務も負っているという点だ。ウェブは私たちの生活に、良い意味で多大な影響を与えた。私たちには、それをこのまま育ててゆく共同責任がある。

この法案に書かれている権利の一部に、市民が、インターネットに集められた自分たちの情報を自分で管理できる権利を持つこと、そしてその情報に基づいて差別されるべきでないとすることがあるが、それは誰もが同意するだろう。インターネット接続業者が通信をブロックしたり、速度を絞ったり、料金に応じて利用者を優遇するなどして、世界の情報にアクセスする権利を奪ってはいけないという点にも、誰もが賛同するだろう。さらに、透明でわかりやすい料金体系で、適正価格のプロバイダー複数に自由にアクセスできる権利も、万人の希望だ思う。

これらすべては、Khanna議員の法案に盛り込まれている。私はそのすべてを全面的に支持する。

FacebookやGoogleなどの大企業の最近の動向を見るにつけ、デジタル時代に相応しい法律がぜひとも必要だと感じる。技術の進歩は非常に早く、法規制が追いついてゆけない。そこで、利用者を保護するためには、劇的な改善が必要となる。

しかし、よく理解しておくべきは、企業も政府も個人も、みな繁栄のために同じインターネットに依存しているということだ。どの団体にも、それぞれに独自の権利や責任があるが、重点を置くべきは、責任のほうだ。

ゴミを例にとって考えてみよう。道端にゴミを捨てることを法律で禁じている地域は多い。しかし、そうした法律とは別に、私たちには、自分たちが住む環境や世界を守らなければならないという道義的な義務も存在する。大抵、人々はその義務を果たしている。なぜなら、それは正しいことであり、住む場所を美しく保という社会的な空気があるからだ。罰金を取られるのが嫌だからではない。

同じように、インターネットについても考えてみよう。

個人も企業も政府も、高い意識を持ち、インターネットに対する責任を明確に描く必要がある。この3つのグループは、どれもこの責任を完全に果たさなければならない。それは法律や罰則のためではなく、それが最大の利益をもたらすからだ。

個人の場合、自分が描ける最高の夢をも超える力をインターネットが与えてくれた。そして、次々と思わぬ方法を使って私たちを結びつけようとしてくれている。企業にとってインターネットは、従来の方法では到達し得なかった広大にして儲けの大きな市場への足がかりをもたらしてくれる。政府にすれば、インターネットによって、よりよいサービスを市民に届けることが可能になり、国境を挟んで、または国境の外に新しいビジネスを創設し、これまでにはあり得なかった水準の税収がもたらされるようになった。

すべての人が、本当の意味であらゆる人が、安全でオープンなインターネットの恩恵を受けてきた。これからも受け続けるだろう。そこに気がついた私たちの社会は、責任を果たさない人たちに強い圧力を掛けるようになってきた。

世界の住民である私たちは、今日あるインターネットの発展に貢献してくれた人たちに、大いに感謝すべきだ。もし、目先のことしか考えられない政府が、国境の中にインターネットを閉じ込めようとしたら、そんなことは許すべきではない。それは私たちを傷つけるだけではない。政府そのものが、貿易の減少から税収を失い、国民からの信頼も失ってしまう。政府は、短期的な考え方に囚われるあまり、長期的な利益を見失うことが少なくない。そのような国では、厳重な規制によってインターネットの情報にアクセスできない人たちが20億人もいる。

もし、インターネット接続業者が、インターネットで提供される情報を好きなように管理できるようになってしまったら、これも許すべきではない。そんなことをすれば、結局はその業者は収益を失うことになる。貧弱で多様性のないインターネットのサービスを提供したところで、そんなものを利用したいと思う人はいない。業者は信頼を失い、顧客は離れていってしまう。

インターネットがなくなれば、私たちの世界は急停止してしまう。オープンなインターネットに制限をかければ、それがなんであれ、人類の進歩と発展を減速させることになる。そうした制限を課する輩は、私たちとともに廃れてゆく。

そのために私たちには、インターネットが本来の目的を維持できるようにする道義的な責任を負っている。もちろん、1989年の時点では、ワールドワイドウェブ(WWW)が世界にどんなインパクトを与えるかなど、誰も予測できなかった。Sir Tim Berners-Lee本人ですら、わからなかっただろう。だが簡単に言えばそれは、「誰がどこにいようとも」人とつながれるものであり、膨大な情報を利用できるものであり、生活をより良くするための力を個人に与えてくれるものだ。

それは、オープンで無料のインターネットだからこそ可能なことだ。

今後5年間で、ガレージの電動シャッターや冷蔵庫や暖房の温度調節器やマットレスまで、無数のデバイスがIoTによって接続されるようになる。さらに、発展途上市場に住む50億人の利用者がインターネットに参加してくる。このふたつの大きな変化は、信じられないほど素晴らしい好機を生み出すであろうが、同時に、私たちの個人情報の悪用も増加し、インターネットユーザーである私たちは、ますます脆弱になってゆく恐れがある。

今こそ、アメリカのみならず世界中の国々で、インターネットの保護を適切に提供するときであり、それがKhanna議員のような人たちに論議を進めさせる推進力となる。このインターネット権利法案が、超党派の法案となり、本当の変化が起きることを祈るばかりだ。

結果はどうあれ、私たちは自分たちの道義的責任の遂行を怠ってはいけない。個人も、大企業も、政府もみな同じだ。オープンなインターネットを守るために、私たちみんなでそれを背負うことが必要だ。もしかしてインターネットは、現代社会でもっとも意味深くインパクトのある発明品だからだ。

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(翻訳:金井哲夫)