「Google Glassは異様な体験」とGoogle会長Eric Schmidt–産業用としては生き残るか?

Googleの会長Eric Schmidtが語った体験談によると、Google Glassに大声で話しかけてそのインタフェイスをコントロールするのは“とっても異様”であり、Google Glassを使うことが“不適切な場面”も少なからずあるだろう、という。ぼくも短時間試してみたが、このプロダクトが短期間で大衆的なヒット製品になることはない、と確信した。これが商品として将来性を持つためには、ふつうの眼鏡の中に隠れてしまうか、または産業用の器具に徹するしかない。このままでは、スマートフォンのように大きく普及することはないだろう。

ヨーロッパで行われたあるカンファレンスで、ある人からちょっとだけ借りて試してみた。プレビュー機は人に貸してはならない、というGoogleの規約になってるらしいから、その規約破りの人の名は明かさないことにしよう。

一言で言えばそれは、なんだかへんな体験だった。自分が今眼鏡をかけているという体感はあるが、でも目の前には何もないふつうの視界がある(レンズなどがない)。しかし、視線の上のやや右には小さな画面が宙に浮いている。だから、ちょっと上を見るだけではその画面を見られない。上、そしてやや右、と眼球を動かさなければならない。それは、少なくともぼくの場合は、日常的で自然な目の動きではない。画面を視界のどこに置くかは、ユーザ個人々々が設定できるようにすべきだ。

コンタクトレンズをしている友人はGlassを10分間使ってみて、その後の1時間を頭痛に悩まされた。画面を見るために目線を上に動かすことが、つらいのだ。

次のハードルは、自分の音声による命令だ。たとえば「写真を撮れ」とか。誰かと話をしていて、その人の写真を撮りたくなって、「写真を撮れ!」と大声で言ったら、非常におかしなことになる。突然会話が途切れて、人ではなくGlassに話しかけるのだ。スマートフォンで、人と話をしていて突然ほかのことに気を取られる、という状況とGlassは全然違う。Glassでそれをやると、非常に不作法で、相手に対して失礼だ。

つまり結論として、Google Glassを社会性を維持しつつ使うのは不可能だ。テク業界の人たちがカンファレンスの会場などで使うぶんには、お互いの社会性もまあまあだろう。会場で何かをググったりする必要性も、たぶんある。でも、世の中のふつうの人には無理だ。

アムステルダムで行われたThe Next WebカンファレンスでAndrew Keenが、上と同じようなことを言った。彼は、誰かの面前でGoogle Glassを誇示する行為自体が一方的で無礼で“無許可だ”、と言った。お互い、文明人としての会話をこれから始めるためには、その前にまず、Google Glassを外していただくようお願いすることになるだろう。スマートフォンなら、会話の前にスマートフォンをしまってくださいとは言わない。

Google Glassを使いたいのは、手をコンピュータの操作以外のことに使いたいときだ。撮影しながら山の斜面をスキーで下るとかなら、Google GlassをGoPro的に使える。また産業用としては、建築や製造の現場で便利に使える場面があるだろう。設計図面をGlassに表示するとか。警察も、いろいろ便利に使えるかもしれない。

でも、ふつうの人がふつうに歩いているときは、ノーだ。

この技術そのものの将来性は? 上述のように、ふつうの眼鏡のふつうのフレームに入ってしまうなら、チャンスはある。ただし、音声命令による会話の中断は、未来の人類がそれを受け入れ、慣れるとは…少なくともこのぼくには…想像できない。

だからぼくにとってのGoogle Glassは、かつてのSegwayと同じだ。あれは、画期的と持て囃されたが結局今は、倉庫で作業する人や、ショッピングモールを巡回するお巡りさんしか使っていない。

〔訳注: この記事の原文はコメントがとても多く、その中にはこの記事への反論も多い。〕

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(翻訳:iwatani(a.k.a. hiwa))