人工知能とコンピュータ科学の父、マービン・ミンスキー、88歳で亡くなる

2016-01-27-marvin-minsky

マービン・ミンスキーは真のパイオニアであり、常に同時代より一歩先を考えていた。ミンスキーが人工知能とコンピュータ科学の父であったことは誰もが認めるだろう。思慮深い科学者であり、コンピュータ科学者たちを何世代にもわたって鼓舞してきた。

ミンスキーは2016年1月24日、88歳で脳出血のため亡くなった

ミンスキーは1927年、ニューヨークで生まれ、ハーバードとプリンストンで数学を学んだ後、1958年にMITで教職に就いた。1981年にNew Yorkerが掲載した素晴らしいインタビューで、ミンスキーはこの当時のことを回顧してこう述べている。

遺伝学も面白そうだった。当時、遺伝がどのようにして起きるのか詳しいことは誰も知らなかったからね。しかし私の求めるような深遠さがあるのかどうか懸念があった。その点、物理学は深淵であり、しかもその問題は解決可能だった。物理学もなかなかいいと思った。しかし知能の問題はほとんど絶望的なまでに深淵に思えた。私が人工知能以外の分野の専門家になろうと考えたことはないと思う。

ミンスキーは1950年に人工知能の研究を始めている。パソコンやインターネットが発明されるはるか以前のことだ。ミンスキーはMITでジョン・マッカーシー ,とともに人工知能グループの共同創立者となった。LISP言語の開発者として知られるマッカーシーもまた人工知能の偉大なパイオニアであり、「人工知能(Aartificial Intelligence)」という言葉を発明したのはマッカーシーだった〔2011年に84歳で逝去〕。

「しかし知能の問題はほとんど絶望的なまでに深淵に思えた。私が人工知能以外の分野の専門家になろうと考えたことはないと思う」

—マービン・ミンスキー

1951年にミンスキーはハードウェアによるニューラルネットワークを利用した機械学習デバイスを作った。確実なことを言うのは難しいが、世界で最初の自己学習する人口知能であった可能性は高い。

ミンスキーはコンピュータ科学だけでなく認知科学全般の発達にも絶大な影響を与えた。ニューロンは半自動的kに組織化される脳内リレーであり、そういうものとしてコンピュータのような機械にごく近いものとミンスキーは考えた。1960年にミンスキーは人工知能への歩み(Steps Toward Artificial Intelligence)という記念碑的論文を書き、人工知能実現への道筋を示した。

ある意味で、コンピュータは命じられたことしかできない。しかしある問題について、その正確な解決方法がわからなくても、われわれは機械に解決方法を検索するよう命じるプログラムを書くことができる。さまざまな解決方法の試みの巨大な空間を検索するわけだ。残念ながら、われわれがすぐに思いつくような当たり前のプログラムでは、検索のプロセスは驚くほど非効率なものになってしまう。パターン認識手法を用いれば、 コンピュータの作動を適切と思われる方向のみに制限することにより、プロセスを劇的に効率化することできる。また学習については、それ以前の体験を記憶し、参照することで検索を方向づけ、効率を改善することに役立てる〔ことと定義できる〕。 現実の状況を分析するにあたり、われわれがプランニングと呼ぶ手法を用い、探索をより適切な小さい範囲に限定することにより機械の作動は本質的な改良を受ける。最後に、 帰納的推論(Induction)の項で、われわれは知能機械を現実に得るために必要な広汎なコンセプトを検討する。

つまりミンスキーはコンピュータは単に「命じられたことを実行する」だけの機械ではなく、そうした枠をはるかに超える存在だと確信していた。こうしてミンスキーは後に人工知能と呼ばれるようになる分野を理論化し、プログラムを書き始めた。これは文字通り革命的な仕事だった。

コンピュータは20世紀が生んだもっとも可能性に富む機械だといえる。間違いなく、人工知能は21世紀に社会を根本的に変える最大の要素となるだろう。こうした変革をその最も早い時期に研究し始めたのがミンスキーだった。

ミンスキーは1957年に共焦点顕微鏡という有用な装置も発明している。ピアノをよく弾き、哲学者でもあり、優れた文筆家でもあった。またスタンリー・キューブリックの名作、 2001年宇宙の旅のテクニカル・アドバイザーを務めた。しかし、もっとも重要な点は、ミンスキーが当時生まれたばかりのコンピュータ科学に圧倒的な影響を与えたことだ。ミンスキー以後、コンピュータは単に命じられた作業だけをこなす「高速計算機」以上の存在になっていった。

画像: Steamtalks/Flickr UNDER A CC BY-SA 2.0 LICENSE

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(翻訳:滑川海彦@Facebook Google+

元祖「カーハッカー」のトム・マグリオッチ、77歳で死す


ノートパソコン以前、携帯電話以前、コンピュータ以前、ハッカーたちは機械をハックした。前世紀の大半、対象となる機械は自動車だった。車の修理は、チェスに似て、一日で習えるが習熟には一生かかる。そして今われわれが使っている技術の数々 ― 3Dプリンティング、タグチーム・プログラミング、アジャイルデザイン ― は、1950~60年代のガレージで生まれた。John Muirの著書 “How to Keep Your Volkswagen Alive” は、カーハッカーたちのバイブルであり、最初のハッカー空間はDIYガレージだった。カーリペアの核心は人が人を助けることであり、初期のUNIXマシンの核心が共有であり、インターネットの核心が国境を越えた協力であるのと同じだ。今日77歳で亡くなったTom Magliozziは、そんな初期ハッカーの一人だった。彼のラジオ番組、Car Talkは、当時のハードウェアハッカー精神を示した貴重な記録だ。

Tom(写真右)とRayは、カウンターカルチャー気質の家庭で育った人にとっては馴じみのある名前だろう。世界中で聴かれたこの番組は ― アラスカ、英国、およびアフガニスタンから電話がかかってきた ― 自動車に関するアドバイスを始めとする情報て満載だった。兄弟はいつもジョークを飛ばし、Tomの伝染性の笑いはカーラジオやハイファイセットをかけ巡った。彼らは古い車にこだわった。新しい車はコンピュータとセンサーがないと診断が困難だったからだ。タイミングベルトや古き良きボルボ、あるいはホンダアコードは時速40マイル以上で走ればあのthwap thwap thwap[舌打ち]音がしない、等の話を聞くことができた。

MIT出身のTomとRayは、厳しく教育されたが奇人コンビのように振舞った。Tomは初期のDIY修理工場、Hackers Heavenを開き、後にGood News Garageをスタートした。彼は決して口にしなかったが、彼と弟のRayがコンピュータを得意としていたことは明らかだった。ただし、彼はビットやバイトよりも鋳物やオイルを愛していた。番組の価値は車に関するアドバイスではなく ― インターネットを見れば兄弟よりはるかに正確な情報がある ― 彼らのパーソナリティーにあった。

Maglizzi兄弟、中でもTomは、作ったり直したりすることは怖くない、修理は前へ進むための方法だいうことを私たちに思い出させてくれた。手が汚れることを恐れてはいけない、なぜならそれは進歩が生まれる道であり、楽しさを手に入れる方法だからだ。Tomは一世代のハッカーたちに、物を分解することは何も怖くないと教えてくれた。

番組は、Tomがアルツハイマー病と闘っていた過去2年間、再放送が流されていたが、結局その病が彼を死に至たらしめた。彼は寛大で美しい心の持ち主であり、私たちがこの素晴らしい新世界を未知の人々に説明する時、誰もが彼から何かを学び取ることができるだろう。

【日本語版:ディズニーアニメ『カーズ』の登場人物、ラスティーとダスティーのモデルはこのマグリオッチ兄弟で、ふたりは声優も務めた】

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(翻訳:Nob Takahashi / facebook


現在の音楽シーンを支えるドルビー・システムを生み出したレイ・ドルビーの追悼ビデオ

お聞き及びかもしれないが、うっかり見逃してしまった人のために記事を掲載しておこう。「ドルビーノイズリダクションシステム」を生んだレイ・ドルビー氏が、2013年9月12日にこの世を去った。享年80歳だった。アルツハイマー病を患い、最期は白血病と診断され、サンフランシスコの自宅で息を引き取った。

ドルビー氏は1966年、レコーディングスタジオおよびレコードレーベル向けに、よりクリーンでクリスプな音声録音システムを提供し始めた。この技術により、それまでの録音につきものだったヒスノイズやハムノイズを大幅に軽減することに成功したのだった。プリエンファシスやデエンファシスと呼ばれる変調技術を用いてテープノイズを削減し、録音ないし再生時に発現するノイズを大幅に減らすことができたのだった。

尚、サラウンドシステムの創始者としても知られている。現在ではシアターのみならず家庭でも5.1ないし7.1チャネルのサラウンドシステムが広く普及している。

ドルビー氏が生まれたのは1933年のこと。ティーンエイジャー時代にオーディオ関連企業のアンペックス社でアルバイトをした。スタンフォードに進んで電子工学にてBSを取得後、ケンブリッジで物理を勉強した。卒業後しばらくしてドルビーラボラトリーズ社を設立して、そこでいろいろなミュージシャンの録音実験などを行ったが、生まれてしまうノイズのせいで、どうしても満足することができなかった。そこでノイズリダクション技術を生み出し、テープスピードに関わらず、ノイズを大幅に抑えることに成功した。後には映画産業向けのマルチチャネルオーディオ技術も開発し、1980年には家庭用DVDなどにおいてもサラウンドサウンドを実現する技術を開発した。

ドルビーラボラトリーズ社は、当初ロンドンに設立されたが、後に本社をベイエリアに移すこととなった。そこで高音質およびサラウンド技術などを育んで頭角を現すこととなった。そして「ドルビー」の名前は「高品質サウンド」と同義として捉えられるようになった。ドルビー氏は、誰にも真似ができないくらいに物事を進化させていこうとするパイオニア精神を体現した人だった。また主要な戦いの場として位置づけた高品質サウンド分野では、大いなる知名度を獲得して、誰もが知るブランドとして発展することとなった。ひと言で言えば、生きる伝説となったのだった。

ドルビー氏の追悼動画が公開されているので掲載しておく。

サラウンドシステムのテスト用動画も掲載しておこう。

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(翻訳:Maeda, H)