書評:映画『メッセージ』原作者テッド・チャンが問いかける自由意志の意味

今回のTechCrunchブッククラブは、テッド・チャンの『予期される未来』(What’s Expected of Us)を取り上げる

今回の非公式TechCrunchブッククラブ(ニュースサイクルのおかげで現在1週間のお休み中だ。すぐに追いつくことができるだろうか!?)は、とても短いストーリーである『予期される未来』(What’s Expected of Us)を取り上げる。これはテッド・チャンの短編集『息吹』(Exhalation)所収の3番目の作品だ。ブッククラブに遅れをとっていた1人だったとしても、焦る必要はない。たったの4ページしかないからだ。この記事を読み終わるより早く、その短編を読み終わることができるだろう。

そしてまだ読んでいないとしたら、ブッククラブの1つ前の記事もぜひ読んで欲しい、そこでは最初の(やや長めの)短編2つ(宿命を巡る美しい物語の『商人と錬金術師の門』、ならびに気候変動や人びとと社会のつながりなどについて語る重要で繊細な物語である『息吹』)について取り上げている。

本記事の後半では、より長いストーリー『ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル』(ヒューゴー賞、ローカス賞、星雲賞受賞)も取り上げる —— この記事では読み進める中で生じたいくつかの疑問を挙げている。

いくつかの簡単なメモ

  • 話に参加したい場合は、気軽に読者の感想をdanny+bookclub@techcrunch.com宛にメールを送って欲しい。あるいはRedditまたはTwitterのディスカッションに参加してもらうのもいい。
  • こちらにある非公式ブッククラブの記事をのぞいて欲しい。このページには、書評カテゴリ専用のRSSフィードも組み込まれている(投稿量はとても少ない)。
  • 本記事のコメントセクションへの投稿も歓迎だ。

『予期される未来』(What’s Expected of Us)

私たちはまだ作品集『息吹』(Exhalation)の3つの物語を取り上げたに過ぎないが、これらの異なる物語を繋ぐものが見え始めている、技術的決定論で徐々に満たされつつある人生における運命の意味以上に、重要なものはないというテーマだ。

チャンは、私たちの運命がすでに決まっていることを証明するような、新しい技術たちを前提に置いて書くことが大好きだ。 『商人と錬金術師の門』(The Merchant and the Alchemist’s Gate)では、そこを通るものが時間を前後に旅することができるテレポートゲートを登場させたが、一方で『予期される未来』の中では、ボタンが押された時点での1秒過去に向けて光信号を送る「予言機」というデバイスが登場する。これよって利用者はデバイスのLEDが明るく輝いたときには未来がもう決まっているという事実に向き合うことになる。

この2つのストーリーにはある種の対称性があるが、私にとって興味深いのは、それらの結論が互いにどのように異なっているかだ。 『商人と錬金術師の門』でチェンは、運命は決まっているかもしれないし、タイムマシンがもしあったとしても過去を変えて未来に影響を与えることはできないかもしれないが、本質的には旅そのものに意味があるのだと主張している。過去は確かに不変かもしれないが、過去の理解には高い順応性があり、自身と他人の以前の行動の文脈を理解することが、多くの点で存在における肝心なポイントなのだ。

しかし『予期される未来』が描くのは、予言機が生み出す、人びとの無気力が広がるディストピアだ。ここに描かれているのは、わずかな時間を遡って信号を送るシンプルなデバイスに過ぎないが、自由意志が本質的に神話に過ぎないという圧倒的な証拠を示しているのだ。これは多くの人、少なくとも一部の人にとっては、カタレプシー(強硬症、自発的な動きが行えなくなること)となり完全に食欲をなくしてしまうのに十分なことなのだ。

Extra Crunch寄稿者のEliot Peper(エリオット・ペパー)は時折寄せるフィクションレビューに、チャンの解決策の中に示された、彼のお気に入りの一節を取り上げている。

「自由意志を持っているふりをしろ。たとえそうではないとことを知っていても、自分の決断に意味があるかのようにふるまうことがもっとも重要だ。現実がどうなのかは重要じゃない。重要なのはなにを信じるかだ。そして、目覚めたコーマを避ける唯一の方法は、うそを信じることだ。いまや文明の存続は、自己欺瞞にかかっている。いやもしかしたら、昔からずっとそうだったのかもしれないが」(早川書房刊『息吹』(大森望訳)所収『予期される未来』より引用)。

現実のベールの背後にある緻密な決定論を科学が明らかにして行く中で、より良い未来を築くためには、その反対を信じることがますます重要になる。自由意志への信念は、参政権を持つことと同じだ。それは私たちの人生をかたちづくる目に見えないシステムに立ち向かうために、変化の機会を生み出し、私たちを刺激する希望の火花なのだ。

ペパーはこの物語の核心的なメッセージを捉えているが、率直に言って、自己欺瞞を続けるのは簡単ではない(自分の製品について投資家を説得しようとしたことがある、完璧に自信がないスタートアップ創業者なら、そのことを教えてくれるだろう)。「すべてが重要なものではないというふりをする」と言うのは1つのやり方だが、もちろん実際には重要なことはあるし、誰もが本質的にその欺瞞を認め理解している。それは物事を成し遂げるために人為的な締め切りを設定するような、まやかし的自助努力のようなものだが、まさにその非常に人為的な点であることこそが、効果が出ない理由なのだ。チャンが「予言機」について書いているように「その後、予言機に対する関心を失ったように見えたとしても、それが保つ意味を忘れてしまえる人間はいない。それからの数週間で、未来が変更不可能であるということの持つ意味がだんだん身にしみてくる」のだ(上記書籍から引用)。運命は私たちの魂の中に閉じ込められている。

しかしチェンは、人によってこの認識に対して、異なる反応を示すことを指摘している。カタレプシーになるものもいるが、物語の中には他の経過をたどるものもいることが暗示されている。もちろん、そうした他の経過もすべて、予言機がやってくる前に定まっているものなのだ ―― 運命や運命自体の知識にどのように立ち向かうかについても、自分の運命を選べる者はいない。

だが、そうした選択の自由が与えられていないとしても、私たちは先に進まなければならない。構造的には、物語は過去に遡るかたちで語られる(これも『商人と錬金術師の門』に似ている)。未来のエージェントが予言機の未来についての警告を、時を遡って送ってくるのだ。そしたメッセージで何かを変えられるのかという疑問に、未来のエージェントは「いいえ」と答える。だが最後にこう付け加えるのだ「なのにどうしてわたしはこんなことをしたのか?なぜなら、そうするよりほかに選択の余地がなかったからだ」(上記書籍から引用)と。

つまり、実際にすべてが事前に決定されていた可能性があるのだ。人生のすべてを変えることはできないのかもしれない。それでも、私たちは生きている限り前進するつもりだし、すでに決められている行動であったとしてもそれを行うつもりだ。おそらくそのためには、自己欺瞞となんとか折り合っていく必要があるだろう。あるいは、そもそも行為を選択できるかどうかに関係なく、目の前のアクションにひたすら一所懸命に取り組めばよいだけなのかもしれない。

『ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル』(The Lifecycle of Software Objects)

短編集所収の次の作品は、もう少し広範に渡っている。仮想世界や、その中で私たちが育成する実体、そしてそれが人間としての私たちにどのような意味を持っているかに関して触れている内容だ。この物語を読んでいく中で、考えることを迫る問いかけについて挙げておくことにする。

  • 何かを愛するとはどういう意味なのだろうか? (人間の)子どもだということで私たちは愛を理解しているが、AIを愛することはできるだろうか? 彫像のような無生物を愛することはできるか? 私たちの愛がそれ以上は及ばなくなる境界線はあるのだろうか?
  • 実体を感じさせるものは何か? 他者から与えられた経験が必要だろうか、それともその感覚はどこからともなく生み出すことができるのだろうか?
  • チャンは、さまざまな状況で時間を早送りする。AI学習を促進するための特別な場所を使ったり、プロットにおける人間のキャラクター自身の時間も進める場合がある。この物語の文脈における時間の意味は何だろう? 時間と経験の概念はどのように相互作用しているのだろうか?
  • 著者は、知的な存在としての文脈におけるAIの「人権」をめぐる法的問題に関して、触れてはいるものの深くは掘り下げていない。これらの「実体」(AI)がどのような権利を持っているかを、私たちはどのように考えるべきなのだろうか? 読者の意見を最もよく代表しているのは、どのキャラクターだろうか?
  • 意識、感覚、独立などの概念は、どのように定義できるのだろうか? チャンがこれらの定義の境界を示しているように見えるのは、物語のどの要素だろうか?
  • プロットの中心的な主題の1つは、AIの金銭と収益性への挑戦だ。AIが判断される観点は、人間に提供する有益性だろうか、あるいはAIが独自の世界と文化を作る能力の観点からだろうか? これらのコンピュータープログラムができることの文脈の中で「成功」(非常に広く考えて)について私たちはどう考えるのだろう?
  • 私たちが「不気味の谷」を超えて、ますます多くの技術が私たちの感情的な心と結びつくにつれて、人間による共感は今後数年間でどのように変わっていくのだろう? これは最終的には人類の進化なのだろうか、それとも今後数年間で克服すべき課題というだけなのだろうか?

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(翻訳:sako)

アイザック・アシモフ生誕100年を迎えて

SFは「グッドドクター」を乗り越えられるのか?

Alec Nevala-Lee(アレック・ネヴァラ=リー)は、最近出版した著書「Astounding」の中で、ジョン・W・キャンベル、ロバート・A・ハインライン、L・ロン・ハバード、そしてアイザック・アシモフの4人の主要人物を追うことによって、アメリカのSFの黄金時代を振り返っている。アシモフ氏の正確な生年月日は不明なのだが、米国時間1月2日に公式な生誕100歳を迎えた。

ネヴァラ=リーによる詳細なアシモフの姿は、同じジャンルの他の創始者たちに対するものよりも、はるかに共感をもって描かれている。彼は魅力的で謙虚な人物であり、他の作家や編集者には寛大で、政治的に進歩的な思索家であり、科学と合理性のたゆみない擁護者だった。ちなみに彼は、ファンの間では別名「グッドドクター」の名で親しまれていた。

Author Isaac Asimov (Photo by © Alex Gotfryd/CORBIS/Corbis via Getty Images)

しかし、ネヴァラ=リーは、アシモフの物語の別の側面についてはっきりと述べている。彼は女性の身体を悪びれることなく触る人物だったのだ。

Astoundingで詳しく述べられているように、米国のSF作家であるジュディス・メリルは、アシモフは若い頃「百の手を持つ男」として知られていたと語った。また別の米国のSF作家であるハーラン・エリスンは、「若い女性と一緒に階段を上るときには、アイザックが彼女の尻に触らないように、私がその女性の後ろを歩いたものさ」と書いている。そして、フレデリック・ポールは、アシモフが彼に「昔から良く言われてるけど、ひっぱたかれる数が多いほど、寝る数も多くなるものさ」と言ったことさえ思い出している。

そして、これらはアシモフを批判したり非難したりする者の言葉ではない。彼らはみな、彼の友人や仲間なのだ。アシモフの手癖はとてもよく知られていたので、1962年に世界SF大会の議長は彼に「The Positive Power of Posterior Pinching」(尻つねりの肯定的な効用)について講演を行うように依頼したほどだ(訳注:この講演は結局実現していない)。

ファウンデーション:ハリ・セルダン

2014年に私が、BuzzFeed上でアシモフの誕生日エッセイを書いたときには、すでにアシモフの振る舞いの噂は耳にしていた。しかしそのエッセイでは、私は彼の作品に対する個人的な関係を述べるだけにとどめていた。具体的にはファウンデーションとロボットシリーズが私を生涯続くSFファンにしてくれたこと、そして彼の広範なノンフィクションがいかに私の世界を広げてくれたのかといったことについて書いたのだ。

それから6年経った今でも、(アーシュラ・K・ル=グウィン、サミュエル・R・ディレイニー、フィリップ・K・ディックと並んで)アシモフは私のお気に入りの1人だ。ニュースに登場する彼を称賛できることは私の喜びなのだ。

それでも、彼の性格のあまり称賛されない側面を無視することはますます難しくなっているようだ。ファン、友人、その他の擁護者たちはエリスンがそうであったように、「今とは時代が違っていた」と主張するかもしれない。アシモフは彼の行動を「無害なもの」とみなしていたし、それ以外の称賛に値するキャリアの前では比較的軽微な傷だというわけだ。しかし、さまざまな大会でのハラスメントは深刻な問題であり、もしアシモフが1992年に死去していなかったなら、#MeToo時代を無傷で逃げおおせた、もしくは逃げおおせるべきだったと想像することは困難だ。

テレビ評論家のEmily Nussbaum(エミリー・ナスバウム)は、そのエッセイ「Confessions of a Human Shield」の中で、「ひどい男性の芸術をどう扱うべきか?」と問いかけている。

これまでは、ナスバウムは芸術と芸術家を分けて考える従来の方法に従っていたと言う。「真っ当な人が、良くない芸術を生み出すこともあるし、道徳に反する人でも、優れた作品を創り出すことができる。残酷で利己的な人、たとえ犯罪者であったとしても、寛大で、生きる力を与え、人道的なものを作るかもしれない」。しかし今、彼女はこうした「ソシオパスを扱う方法」はもはや満足できるものではないことを認めている。

夜明けのロボット

それは、そのパーソナリティが作品と切り離せないように思えるアシモフの場合に特に当てはまる。作家としての彼の強みの1つは、明快で語り上手で、まるで個人的に語りかけているように思わせる能力だ。彼の科学の本やエッセイのいずれかを読めば、あなたの親友であるアイザックが、あなたが理解できるやりかたで、物事を説明してくれているような印象が残される。彼のSF小説でさえ、その親しみやすい声で書かれた自伝的なエッセイが前書きとして置かれているのが普通だ。

だから私にとって、それは単に芸術と芸術家を分ければ良いという問題ではないのだ。アシモフの書いたものの中の本当に多くの称賛されるべきものが、彼自身の中から生み出されているように思えること、他のどんな作家よりも私の世界観を形作る手助けをしてくれて、(6年前に書いたように)「アイデアが重要で宇宙は説明可能だ」と、私を納得させてくれたことは認めなければならないし…その一方で女性に言い訳のできない振る舞いをしていたことも、認めなければならないのだ。

だが結局のところ、アシモフの評判に対する最大の脅威はもっと単純なことなのかもしれない、すなわち「時の経過」ということだ。

SFは過去10年で劇的に変化し、才能豊かで多様な作家グループがこの分野を再編して来た。アシモフ、ハインライン、そしてアーサー・C・クラークを中心としない新しい一団が形成されている。作家のジョン・スコルジーが言ったように、「ハインラインやクラーク、そしてアシモフといった人たちは巨人だった。しかし、巨人たちが新しい神々によって打ち倒され、そうした神々自身もまた時とともに置き換えられて行くという物語を忘れてはいけない」のだ。

Getty Images

おそらくそうあるべきなのだろう。結局のところ、アシモフの作品はその時代の産物なのだ。2020年以降の読者は、彼が描いた未来を追うことがますます困難になるだろう。そこに描かれているのはパーソナルコンピューターやインターネットのない未来であり、あらゆる科学者、政治家、そして重要な人物すべてが男性であることが、注目に値するものとは思われない。(「われはロボット」に登場するロボット工学者のスーザン・キャルビン博士は例外だ。彼女の卓越性は男性が支配的な分野で今なお際立っている)。

アシモフが忘れ去られてしまいそうになっているとは思っていない。実際Apple(アップル)は、数百年にわたって物語が展開するファウンデーションシリーズに基いて、新しいTV+シリーズを制作している。なおファウンデーションシリーズとは、銀河帝国の崩壊後、文明を再建しようと努力する少数の科学者のグループの奮闘を描いた作品だ。

したがって、アシモフはおそらくすぐに、また話題になることだろう。そして、ためらいをおぼえつつも私はうれしいのだ。

なぜなら、彼は主要な技術トレンドを予測できなかったかもしれないし、彼の世界観が1930年代と40年代に根ざしているとしても、アシモフは今でも現代の私たちが直面している課題について語ってくれているからだ。彼の有名なファウンデーションやロボットシリーズだけでなく、宗教原理主義に対して科学を擁護したエッセイだけでもなく、私が最近読み直した「神々自身」(The Gods Themselves)の中にもその課題は提示されている。1972年に出版されたこの小説は、人類の愚かさ、貪欲さ、そして安価なエネルギーへの執着が、実際の脅威から私たちの目を逸らしてしまえることを描く、怖ろしい予言的な小説のままなのだ。

そしてアシモフの扱った主題の1つは皮肉なことに、この分野における彼の卓越性を浸食した、時間の経過そのものだった。彼の優れた作品は、各世代が直前の世代を置き去りにすることを熱望し、新しいアイデアで新しい問題に直面しなければならないことを明確にしている。

作家として、そして個人として、真の欠点は抱えてはいたが、アシモフは私たちに、より良いアイデアを探し、より良い未来のために働くことを勧めていた。だからこそ、彼の本は常に私の本棚に置かれているのだ。そしてだからこそ、彼のように見たり、考えたり、書いたりしない作家たちのために、その棚の一部を喜んで譲ってくれることを願うのだ。

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(翻訳:sako)

Warframeゲームのスーパーガンでパトカー真っ二つ、NYCの路上で大ドッキリ撮影

無料のオンラインゲーム、Warframeのプロモーションビデオをニューヨーク市の路上で撮影する際にMichael Krivicka(マイケル・クリヴィカ)監督は大がかりなドッキリを仕掛けた。

上にエンベッドしたビデオを見ればわかるが、撮影スタッフはゲーム中で使用されるOpticorと呼ばれるスーパーガンの撮影に協力するよう通行人を呼び止めている。銃を構えてポーズを取った人々は「引き金を引かないよう」注意される。ただし通行人が知らないのは道の向こうのパトカーや近くの郵便ポストにはみな仕掛けがしてあることだ―パトカーはまっぷたつになり、郵便ポストも吹っ飛ぶ。人々が仰天するようすがおかしい。

私は今週クリヴィカ監督にインタビューして撮影の模様を聞いた。監督はプロップやカスタムデザインでそれを作ったA2ZFXについて説明してくれた。無線によるリモコンで銃、パトカー、郵便ポストが同時に吹き飛ぶ仕掛けだったそうだ。

爆発のエフェクトは圧搾空気によるもので、チームがプロップを再セットするには15分かかったそうだ。そのため各テイクの登場する通行人はそれぞれまったく別の人々で、「何が起きるのかまったく知らず」、その都度驚いてくれたという。
Director Michael Krivicka, Producer Chris Yoon

プロップのパトカーの前でポーズを取るマイケル・クリヴィカ監督とプロデューサーのクリストファー・ユーン氏

クリヴィカ氏によれば、安全には十分に配慮しており、カメラのアングルから外れたところでニューヨーク市警の警察官がモニターしていたという。「編集でものすごい迫力になっているが、現場はそれほどでもなかった」のだそうだ。

これはクリヴィカ氏にとって最初のゲームプロモーションビデオだが、以前にはバイラルな話題をさらったマーケティングビデオをいろいろ作っている。たとえばジャパニーズ・ホラーの発端となった「リング」のように不気味な女がテレビから本当に這い出すビデオだ。今回のビデオの原型は「ベストキッド」のコブラ会の設定で空手の形を披露すると電柱やオートバイが破壊されるというもの。クリヴィカ氏の狙いは「SFを現実にする」ことだという。

クリヴィカ氏が創立したビデオ製作会社、WhoIsTheBaldGuyにとって今回のビデオは最初の本格的作品だ。ただし目標は変わらず「視聴者を『ええっ! なんだこれは?』と驚かせるような作品を作りたい。さらにスケールアップし、過激なものにしてオンラインの人気をさらいにいく」という。

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(翻訳:滑川海彦@Facebook

現実に追いつかれた? 未来の民主主義を描いたマルカ・オールダーの最新SF小説『State Tectronics』

全能のデータ・インフラストラクチャーと知識共有技術を持つ組織が、世界中に広がっている。地球規模でのプロパガンダの拡散と不正選挙に関する陰謀説は、いまだに消えない。人が何を客観的事実と見るかをアルゴリズムが決定し、テロ組織は情報の独占企業を引きずり下ろそうと身構えている。

Malka Older(マルカ・オールダー)は、スペキュレイティブ・フィクションを得意とするSF作家でも、生涯滅多に遭遇しないであろう事態に直面した。自分が描いた作品に現実が追いついてしまうという問題だ。オールダーは2年前に『Central Cycle』シリーズを書き始めたのだが、そのプロットは早くも本のページを飛び出して、日常的にニュース専門チャンネルのネタになり、議会では度重なる調査の対象にされている。彼女の世界は数十年先の未来と想定されていたのだが、歴史は速度を上げてきた。数十年後の未来は、今では2019年を意味する。

オールダーのこの三部作は『Infomocracy』から始まった。そしてその続編『Null State』を経て、今年、完結編である『State Tectonics』が発表された。三部作を書き上げるのは並大抵の苦労ではないが、『State Tectonics』は彼女がもっとも得意とする手法で書かれている。政治の未来にいくつものスリラーのスタイルを混ぜ合わせ、思考を刺激するニュアンスを山盛りにしているのだ。

オールダーの世界は、2つの単純な前提の上に作られている。ひとつは、マイクロデモクラシーと呼ばれるプロジェクトにより、世界がセントラルと呼ばれる10万人単位の行政単位に分割され、誰もが自由に好きな行政単位に移住できる権利を持つという世界だ。これは奇妙な副産物を生んだ。たとえば、ニューヨーク市のような過密地域では、企業が支援する自由主義の楽園的行政単位から、最左翼の環境主義のオアシス的行政単位へ、まるで地下鉄で移動するかのように乗り換えることができてしまう。

もうひとつは、市民が最善の選択をできるよう、Informationと呼ばれる世界的組織(Googleと国連とBBCのハイブリッド)が、政治と世界に関する客観的情報を提供するために不断の努力を行っているという社会だ。Informationは、選挙公約からレストランのメニューの味に至るまで、あらゆる物事のクレームを検証している。

これらの前提をひとつにまとめ、オールダーは情報操作と選挙戦略の世界を、客観的真実の意味とは何かを黙想しつつ探求した。この三部作では、Informationの職員の目線で、一連の世界規模の選挙にまつわる政治的策略や陰謀を暴いてゆく。こうした構造により、テンポのよいスリラーでありながら、スペキュレイティブ・フィクションの知的な精神性が保たれている。

前作『Null State』では、不平等と情報アクセスの不備に焦点が当てられていたが、『State Tectonics』では、オールダーはInformationによる情報の独占の意味に疑問を投げかけている。このマイクロデモクラシーの世界では、検証されていない情報を一般に公開すると罪に問われる。しかしInformationでも、全世界の膨大な情報を完全に持ち合わせているわけではない。そこで、闇のグループがInformationの公式チャンネルの外で、地方都市や人々に関する情報を流し始める。そうして根本的な疑問が湧く。誰が現実を「所有」しているか? その前に、客観的事実をどうやって判断するのか?

この核心となる疑問の背景には、都合よく現実を調整してしまうアルゴリズムの偏向の罪に問われたInformation職員の苦悩がある。どこかで聞いたような話ではないだろうか?

スペキュレイティブ・フィクション作品として、とくに未来の民主主義という難しい問題を扱った小説として、『State Tectonics』は最上級だ。細かい場面にアイデアを次から次へと織り込むオールダーの激烈な才能は、常に読者を立ち止まらせて思考に迷い込ませる。この本だけで、私たちは政治、精神的健康、インフラ金融、交通、食糧、国粋主義、アイデンティティー政治のすべてを論議できる。爽快なまでのダイナミックレンジだ。

ただ、幅が広すぎて深さが犠牲になっている部分もある。いくつかの問題では掘り下げが足りず、表面をなぞっただけのようなところが見受けられ、登場人物も十分に描かれていない。この3冊の分厚い本を読み終えた今でも、私には、長い間付き合ってきた登場人物たちを理解しきれていない感覚が残っている。彼らは、出入りの激しいニューヨークで知り合った友人のようだ。一緒に週末を楽しんだが、離れてしまった後、連絡を取ろうとは思わない程度の人物だ。

さらに言わせてもらえれば、余分とも思われる細部に重点を置きすぎている面がある。仮想世界を読者の頭の中に構築させたいのはわかるが、Wikipediaを読まされているような気になる。その点では、オールダーは初期の作品から成長している。細かい説明は短くなり頻度も減った。だが、それでもまだ、説明によって本筋から脇道にそれることがあり、そのために登場人物のさらなる肉付けのための時間が奪われている。

『State Tectonics』は、その前の2作と同様、最高にして最低の折衷料理だ。メニューには刺激的な料理が並んでいて、従来のカテゴリーや信念を劇的に超越する思考を与えてくれる。しかし、大半の料理はごちゃ混ぜで、その場は美味く感じても余韻が残らない。だがこの小説は、民主主義の未来を見事に物語っている。このテーマに強い関心を持つ人にとって、これ以上の小説を探すことは難しいだろう。

[原文へ]
(翻訳:金井哲夫)

伝説のSF誌「ギャラクシー」350冊以上が無償公開――PDFダウンロードも可能

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マルチメディア資料のアーカイブ閲覧サービスを行うIntermet Archiveが、1950年代に創刊された米国のSF雑誌「Galaxy(ギャラクシー)」ほぼ全号を公開しました。英語オリジナル版ではあるものの、アイザック・アシモフやレイ・ブラッドベリらの連載を画面上で楽しめるようになっています。

ギャラクシーといえば、1950年から1980年にかけて刊行され、SFというジャンルのなかでもゴリゴリのハードSFだけでなく、社会風刺やユーモアある内容の作品を取り扱うなどして成功を収めたSF雑誌。

Intermet Archiveは、1950年から1980年までのギャラクシー誌350冊以上をデジタルスキャン、無料で公開しています。PCブラウザーで読むには読みたい号をクリックするだけでビューアー画面になりそのまま読むことが可能。EPUB、Kindle、PDFなどの各形式でダウンロードもできるので、手持ちのタブレットに取り込んでゆっくりと楽しむという手もあります。ただ米国の雑誌なので、内容がすべて英語なのは言うまでもありません。

試しに幾つかの号をざっと見てみると、冒頭にも挙げたアシモフやブラッドベリの他に、「ビッグ・タイム」のフリッツ・ライバー、「あるいは牡蠣でいっぱいの海」のエイブラム・デビッドソン、1992年の映画「フリージャック」の原型となる作品を連載したロバート・シェクリイや、デーモン・フランシス・ナイトといったいずれも著名な作家らがその時々の執筆陣として並びます。

もしかしたら、辞書を片手に当時のシーンを雰囲気だけでも感じてみたくなるSFファンもいるかもしれません。

ギャラクシーは1950年にホレース・L・ゴールドが初代編集長となり月刊誌として創刊、出版元が変わったり誌名の小変更、隔月刊化などを経て1961年には編集者として加わっていたフレデリック・ポールが編集長の座を引き継ぎました。その後も紆余曲折を経ながらギャラクシーは継続しましたが、1970年代中盤以降は人気低迷から刊行そのものが不安定になり、最終的には資金難から1980年7月号をもって休刊となってしまいました。

ただ、後の1994年には初代編集長の息子であるE・J・ゴールドが旗振り役となって、8巻だけながら復活したこともありました。もちろん、Internet Archiveにもそれらはスキャンの上公開されています。

Engadget 日本版からの転載。

必見! AIが映画脚本を書いたらこうなった

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スマホの予測変換を続けていくとヘンテコな文章ができあがっていくことがあるが、そのような機能でできあがるのは不条理な詩だけではないらしい。Sunspringのチームは、この技術(正確にはLSTMニューラルネットワークという)を使用して脚本を書き上げた。

それ自体かなり愉快なことではあるのだが、同チームはさらに優れたアイデアがあった……。なんと、ドラマ「シリコンバレー」でPied PiperのCEOであるリチャード・ヘンドリクスを演じたトーマス・ミドルディッチをはじめとする俳優を起用して本当に映画にしてしまおうというのである!

チームはAIに大量のSF映画脚本、さらに幻覚成分を与えて脚本の執筆を依頼した。

チームはAIに大量のSF映画脚本、さらに幻覚成分を与えて脚本の執筆を依頼した。

計画は実行に移され、とにかく、馬鹿げていて、面白くて、わけがわからなくて、魅力的なものに仕上がった。「良い映画」とまでは言えない。(従来的な意味でいえば視聴に耐えうるレベルにさえない)。しかし、もしAIに触れたことがある人なら(あるいは自動変換で遊んだことがある人なら)、AI脚本家が陥りがちな流れを見て取れるだろう。

しかし、映画の見どころは、俳優たちのセリフが全く。意味を。なさない。ところだ。だが、これはカルト的な傑作だ。ぜひ観てもらいたい。

(注: 訳者が字幕をつけようと試みたところ、現段階では設定上手動で字幕をつけられなかったので、YouTube画面右下の字幕機能から日本語の自動翻訳をONにして雰囲気を味わっていただきたい)

[原文へ]

(翻訳:Nakabayashi)