「言論の自由市場」だったインターネットは、なぜ争いが絶えない場になったのか

今週、私がインターネットで見た一番おもしろかったものは、Venkatesh Rao(ベンカテッシュ・ラオ)の「Internet of Beefs」(不平のインターネット)というエッセイだ。すべてに同意しているわけではない。ほとんど同意しかねると言ってもいい。しかしそれは、インターネット上のパブリックスペースがほとんどすべて戦場になってしまった理由を、鋭く、明敏に、よく練られた文章で解説している。

「そこは、不満で頭がいっぱいの人たちに、ゆっくりと占領されつつある。[中略]何であれ彼らが行っている、または言っていることを純粋に全面的に支持する表現以外のものはすべて、無礼で攻撃的と受け取られる。[中略]世界的な文化戦争が、安定的で土着的、争いが絶え間なく続く社会条件背景になっていくにつれて」。そして彼は、インターネットにおけるこのような状況と戦う騎士や卑劣な人間たちを、鋭く詳細に分析していく。

絶え間ない対立が存在することは、私も同意する(原因のほとんどは、ボットや偽情報による工作のためとする別の説もある。そうかも知れない。だが、その主張は次第に説得力を失いつつある)。こうした怒りに満ちた自然発火的な衝突が、大きな部分を占めているのだと私は思う。言論の自由市場の、株式市場から武器市場への変化だ。

かつては、「言論の自由市場」というものが存在し、そこではさまざまな政治思想を持つ(一般に高学歴で、しかし草の根から湧き上がった考え方を受け入れる余裕がある)人たちが、社会運動、政治活動、計画、あるいは法律に関する考えを主張できたと思われていた。その主張は熟考され、対比され、討論され、磨かれ、修正され、検討され、そして時間をかけて、株式市場が最良の企業を特定するように、言論の自由市場はもっとも優れたアイデアを見つけだす。やがてそれは、権力を持つ人たち、つまり金持ちや選ばれた人たちの厚意によって、すべての人の大義のために実践される。

それが、政策文書、重要な会議でのプレゼンテーション、大切な演説での息弾む報告、世の中の反応を探る意見広告、議会証言、賛否あらゆる立場から慎重によくよく考えたと思わせる内容豊富な報告書の元となる委員会、サミット、研究といった頭脳集団の世界だった。新しい考えが、いわゆる実力者の階層構造を上っていき、十分に高いところまで行き着いたとき初めて実社会に適用されるという世界だ。

お気づきでないかも知れないが、そのような世界に少しでも暮らしていたことがあったとしても、今はもう違う。誰かがこれを(正確に)地面に投げ捨ててしまったのだ。いわゆる言論の自由市場は、大多数の人々ではなく、常にその「権力者」つまり金持ちで選ばれた人たち、議員や講演者の利益を確保する方向に、ぞっとするほど偏っていたように思える。その他の人たちは、誰も損をしないパレート効率性の高い社会を目指すのではなく、単に他者の分を減らしてまで自分たちが多くなるように望んでいる。

今や、第一目標は対立相手に勝つことであり、その他のことは二の次となっている。政策文書や統計情報は、総合的な検討の際に真剣に取り上げられることがない。それはあくまで、すでに決断された事項の防衛のための武器、あるいは言い訳のための隠れ蓑に過ぎない。

これはまったく自明のことであり、あえて書く必要すらない。地元自治体や国の政策を考えてみればわかる。だが不思議なのは、この装置に組み込まれている人たち、つまり政策アナリスト、シンクタンク、発言力のある人、講演者たちの多くが、自分たちの発言が言論の自由市場で切磋琢磨されることなく、今では武器や言い訳に利用されているということをに気付いていないように見える点だ。

みなさんの体に染みついた対立への拒否反応が起きないように、比較的に政治や文化とは縁遠い例を挙げよう。サンフランシスコ湾含地区の不動産を巡る「ニンビー主義」について考えてみたい。ニンビー(NIMBY)たちは、今以上の住宅建設に反対している。それで地価が下落するとはとうてい考えられないのだ。これは、すべての当事者がずっと前から自分の立場を固定化してしまった低レベルな対立の好例だ。ニンビーに、反論データを見せても意味がない(彼ら自身もニンビーに対しては我々同様に否定的な意見を言うはずだ)。彼らは逃げるか無視する。馬にデータを見せることはできても、考えさせることはできない。

インターネットで私が関わっている分野での、政治とはあまり関係のない例もいくつか挙げておこう。それは暗号通貨の世界だ。そこに参加する人たちの大半は「ひとつの真実」を信じるよう強く奨励される。そのため、ほぼすべての考えや提案は、自分が信じるものとは異なるすべての真実を非難する大合唱に見舞われる。または、暗号化されたメッセージへの公権力による「合法的なアクセス」を擁護する人たちと、それに心底反対する私のようなプライバシー擁護派の対立についても考えてみて欲しい。どちらの側も、相手の主張を支持するかもしれない新しいデータやアイデアを真剣に考えるつもりはないように見える。対立の種は、もっと深いところにあるのだ。

本当の言論の自由市場は、まだわずかながら残っている。たとえば、工業規格やプロトコルの世界だ(もちろん、どこにでも現れる政治家や民間の回し者や復讐心に燃える人間がそこにもいるが、程度の問題だ)。もうひとつは、減少傾向にあるものの、政治の世界だ。しかし、学術論文、政策分析、分野横断的研究、よく議論された意見広告、注目を浴びるプレゼンテーションなどは、かつては実在していたものの、すでに失われてしまった世界の産物であり、ますます減少している。今では、そうした産物は、ほぼすべてが、小さな集団の昔ながらの信念への忠誠心を塗り重ねるために使われている。

これはなにも、すべての政治家、CEO、大富豪、またはその他の意志決定を下す人たちに当てはまるわけではない。また、どちらか一方にその傾向が偏っていることも事実だ。とはいえ、言論の自由市場が軽視されていく傾向を無視することはできない。おそらく、インターネット上の石炭に火が点いたようなこの絶え間ない対立の目に見える影響に関しては、学会を揶揄した古いジョークで言い表すことができる。「利害が小さいときほど、論争は暴力的になる」

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(翻訳:金井哲夫)