「AI時代」の子どもたちはロボットの夢を見るか?

Little boy holding his daddys hand, wearing box over his head with robots face drawn on it.

編集部:Crunch Network ContributorのRemi El-Ouazzaneは、最近Movidiusに加わった。前職ではTexas InstrumentsのOpen Multimedia Applications Platform (OMAP) 部門担当およびグローバル業務部長を務めた。

想像してみよう、ここに5歳の女の子がいる。母親はSiriに、父親はAlexaに話しかけているのを毎日のように見ている。こうしたやり取りは、その子の目にはどのように映っているだろうか。最近の子どもたちは、心を持っているような、あるいは関わり合いの対象として実在物のようにすら見えるコンピューターを目の当たりにしているのだ。今の子ども世代にとってのマシンというもの - そして世界そのもの - の認識は、当然私たちのそれとは大きく違っているのではないだろうか。

人工知能(AI)は、今日最も前途有望なテクノロジーのひとつだ。たとえ私たちの生活様式、経済の動向、社会が機能する方法に衝撃的な変化をもたらす可能性が低かったとしても、そのことに変わりはない。膨大な量のデータと、それを分析する計算力のおかげで、テクノロジー企業はまるでゴールドラッシュの様相を見せるAI分野で進歩を遂げている

ディープ・ニューラル・ネットワークの活用のような新しいアプローチは、AI分野では画期的な成果をあげた。その一部は、次の10年では起こらないだろうと予測されていたほどだ。Googleが囲碁の世界チャンピオンを負かしたのは有名なだし、今後も推論や計画の組み合わせによるディープラーニングの進歩、あるいは創造性とアートのエミュレーションすら含め、さらに多くの事例が登場することだろう。

機械学習のアプローチはAIへと進化を遂げつつあり、医用画像から株取引にまで応用されている。それによりマシンはビッグデータの多大なる利点を保ちつつ、より人間らしい方法で思考できるようになるのだ。

2016年現在、私たちの多くがコンピューターの使用における次世代の始まり — AI革命 —  に立っていると信じている。この「人工知能の時代」が「モバイルの時代」を継承すると仮定するならば、このことは「ジェネレーション I」(情報化時代)を継承する子どもたちにとって、何を意味するのだろう?「AIの時代」に育つことの意味とは?そして社会全体として、私たちはこの変化をどのように促進し、この進歩が善用されるようにできるだろう?

現在のオートメーションに関する議論は、すでに対立があることを示している。それが自動運転車、工場のオートメーション、あるいはロボット手術についてであろうと、この話題に不安あるいは疑念すら抱いてかかる大勢の人々がいるのだ。

人が行っている仕事の大部分をマシンが遠隔で再現するなんて突拍子もない考えだと多くの人が思っている。というのは、マシンたちの優雅さに欠けた進歩の過程を目にしてきたからだ。今生きている大人なら、日常生活にコンピューターが存在していなかった世界を、また黎明期における成長痛の目撃例を思い出せるだろう。分厚いマニュアルやクラッシュ画面、2000年問題のバグに苦しめられた、あの時代だ。今の子どもたちが目にする直感的かつ堅ろうで、信頼できる現在のシステムと比較になるだろうか。

子どもたちはもう間もなく、マシンを「エンジニアリングの偉業」ではなく、「感覚をもった存在」として認識しながら育っていくだろう。

しかし、一部の人々がいくら懐疑的になったところで、事実を否定することはできない。AIが工程を改善し、安全と効率を向上しているという見方は広く認められている。やがて車のハンドルをマシンに明け渡さないと軽率あるいは公然の無責任として受け取られる日が来るだろう。法的な観点では、1975年(41年前)のKlein対米国連邦判例がすでに先例となっている。この件ではパイロットが自動操縦装置を解除し、手動操縦を選択したことが怠慢とみなされたのだ。人々が車の自動運転を解除して手動で運転することを選び、怠慢とみなされて訴えられる日まで、あとどれだけかかるだろう?

TeslaのCEO、イーロン・マスクは、自社の自動運転機能がアメリカ国内の自動車平均よりも10倍安全であると示せた時点で「ベータ版」と書かれたシールをはずすと述べた。しかし将来的にシールが取れたとしても、統計的に10倍安全なオプションを意図的に避けているという理由で、「無責任な行動をとっている」と手動ドライバーを非難するのは難しいだろう。AI世代ならばそんな説得工作がなくても、マシンに主導権を明け渡すのではないだろうか。

オートメーションを受け入れたあかつきには、社会における生産活動と労働の捉え方は根本的に変化するだろう。AI世代が生活のあらゆる面でオートメーションを取り入れれば、経済はそれに適応せねばならないし、実際に適応の道筋をたどることになるはずだ。富の再分配、私企業、あるいはユニバーサルな生活賃金のような概念について対処する必要も出てくるだろう。技術的かつ知的な苦闘のあとには、もっと大変な作業が待ち受ける。コンピューターが発明される200年も前に生まれた1人の男の著述に根付いた経済システムと「自動化を認めた世界」を順応させる、あるいはまるごと入れ替えるという哲学的な課題だ。

I世代がiPadとスマートフォンを生まれながらに受容したのと同様に、AI世代は、AIの備わったマシン - 精神と、思考(として認識される)能力が宿るマシン、さらには人工的な共感性やカリスマすら備わったマシン - を当たり前のように受容するだろう。

社会が大きくて根源的な問いに答えを出さねばならない一方で、AI世代としても自分たちの私生活でどのようにAIを取り入れるのか考える必要が出てくる。チャットボットとの会話や仮想デートの利用は、今でこそ「不気味」の領域に入ってしまうが、iPhone上のSiriや、キッチンに置いたAlexaに話しかける両親のもとで育った子どもたちにとっては、移ろいやすい人間関係を避け、シミュレートされた関わり合いに興味をもつのも、敷居は低いだろう。

未来の世代にとっては「ロボットの権利と保護」という発想も、大して違和感がなさそうだ。当然のことながら権利には責任がついてまわる。いつの日か自動運転車が殺人の罪で訴えられるようになるだろうか。あるいはお手伝いロボットが刑事的な違法行為で起訴されるのだろうか。冷笑する前にちょっと思い出してほしい。私たち自身の司法システムがサルを裁こうとしたのは、ほんの少し前のことだったではないか。

子どもたちはもう間もなく、マシンを「エンジニアリングの偉業」ではなく、「感覚をもった存在」として認識しながら育っていくだろう。彼らにとっては、「何がAIを『真のAI』たらしめるのか」という哲学的な議論が争点になるだろう。なぜなら、実際に「何が」AIを動かしているのかに気づくよりもずっと前に、マシンが人間らしい方法でインタラクションする世界(そう、驚くべきことに人間「だけ」に向かって!)で彼らは育つのだ。本物そっくりな人格や共感のシミュレーションのおかげで、マシンの擬人化はさらに簡単になるはずだ。

車輪の発明を目の当たりにした私たちの祖先は、おそらく「車輪ってけっこう便利だな」とは思っただろうが、その後も数多くの技術の進歩にとって重要な役割を果たすことになるなどとは思いもしなかったはずだ。私たちは、というと、AIが未来の世界に影響をもたらすだろう、と、かろうじてその方法を想像し、うっすらと感じ取ってはいるように思える。しかし、人間社会がここで述べたような課題にどのように向き合い、「必ずしも人類だけが知的な存在ではない世界」に順応するかは、時間のみが知るところだ。

画像提供: SALLY ANSCOMBE/GETTY IMAGES

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(翻訳:Ayako Teranishi / website

投稿者:

TechCrunch Japan

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