われわれを分断しているのはフェイクニュースだろうか?

すべてインターネットのせいだそうだ。イギリスのEU離脱派対残留派、アメリカの共和党対民主党などの対立する層は互いに別種の現実に住んでおり、相手陣営に向かってあらゆる機会をとらえて「フェイクニュース!」と叫んでいる。メディアも政治的立場によって分裂し、FacebookとGoogleが圧倒的な地位を占めるにつれてユーザーは自分の好むニュースや検索結果しか目にしないというフィルターバブル現象も生じている。現実に対するコンセサスが失われてしまった等々…。

しかし、今週私は映画『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』を見て、そもそもわれわれは現実のあり方に対するコンセンサスなど持っていたことはなかったのだと感じた。われわれがコンセンサスと思っていたのは、実は押し付けられたものだった。マスメディアや政権は常にわれわれの前にあり、大衆に届けられるべきニュースはどれとどれであるかについて暗黙の合意があった(ノーム・チョムスキーの『マニュファクチャリング・コンセント マスメディアの政治経済学』も参考になる)。現在の倫理的な危機は政府がメディアでウソをついていたことに発しているが、実はそれははるか以前からのことだった。

大昔の歴史の話ではない。イラクの政体はベトナムとそう異なるものではなかったが、ホワイトハウスは(それに英国政府も)真っ赤なウソをつき、メディアもそれを承認して拡散した。イラクを巡る戦争は何十万もの命を犠牲にし、何兆ドルもの金が投じられた。ドナルド・トランプはなるほど嫌う人間がいちばん多い大統領かもしれないが、トランプ政権は(今のところ)リチャード・ニクソンやジョージ・W.ブッシュの政権のような戦争を始めていない。

ただし、違いもある。伝統的なジャーナリズムでは、自分たちの仕事はアメリカ市民に対して判断の材料となる証拠を提供することだというのが密かな信条だった。市民はこれに基いてそれぞれの見解を作り、投票する。つまり人々のマインドセットはエンジニア的である、新たな証拠が得られた場合は見解を修正するはずだと考えられていた。たとえそれが現在の見解に反するものであっても、新たな証拠を検討し、必要であれば見解を修正するという姿勢こそ科学、工学が成功した基礎だ。おそらく民主主義の基礎でもあるだろう。

この態度はフェイクニュースに対しても有効だ。証拠を捏造するというのは今に始まったことではない。アメリカ政府はベトナム戦争当時、都合の悪い証拠を発表しないことによってフェイクニュースを作ってきた。政治的におけるセンセーショナリズム、いわゆる政治的イエロージャーナリズムの歴史は控えめに言っても19世紀にさかのぼる。しかし人々はニュースにおける偽りや矛盾を見つけようとする、すくなくともはっきりと指摘されたときはそれを喜んで受け入れるということが前提されていた。フェイクニュースはたしかに問題ではあるが、正しい情報を得ようとする性向が広く存在することによって十分に修正され得るものと考えられた。

本当の問題はフェイクニュースが存在することではない。人々が正しいニュースを探す努力を放棄したとするなら、それこそが問題だ。エンジニアリング的マインドセット、手に入れた証拠を検討し、信頼できるものであるなら現在の見解に反するものであっても新しい証拠を受け入れるという姿勢が現在ほど希薄になった時代はない(私はこうした姿勢が常に大勢だったと言っているわけではない。民主主義がなんとか機能する程度にはこうした姿勢が社会に存在したと主張しているに過ぎない)。

しかし現状は違う。エンジニアリング的マインドセットは影を潜め、弁護士のマインドセットが優勢になってきた。このマインドセットはまず最初に対立する陣営のいずれか選ぶ。そして相手側の証拠を無視し、信用を失わせ、却下させるためにありとあらゆる努力を傾ける。逆に自陣に有利なるようならどんなガラクタであろうとモーゼの十戒を刻んだ石版であるかのように麗々しく提示する。もちろん私は現実の法律家の職務にケチをつけたいわけではない。私の友人には弁護士が大勢いるし、第一は私は弁護士と結婚している。弁護士のアプローチは激しく対立する主張から真実を発見するための優れた方法だ。

しかしこれには重要な前提がある。弁護士のマインドセットが有効なのは、十分な知識があり、慎重かつ公平な判事によって双方の主張が検討される場合に限られる。しかし民主主義一般についていえばそうした法廷は存在しない。あるいは、民主主義が機能するならそれが法廷だといえるだろう。だから民主主義が機能するためにはエンジニアリング的マインドセットが必須だ。アメリカにせよイギリスにせよ他の民主主義国にせよ、こうしたマインドセットセットが一定の水準以下に衰えるなら、それは多大なコストを伴う損失だ。

だからこそ、現代の政治的、社会的危機の原因としてテクノロジーを責めるというのは皮相だ。テクノロジーに多くの欠陥、弱点があるのはもちろんだが、「自分の見解は間違っているかもしれない。そうであるなら、それを示す証拠を検討してみたい」というエンジニアリング的マインドセットこそ(少なくとも理論の上では)民主主義を機能させる最後の拠り所として賞賛されるべき美点のはずだ。

こうなったのは冷戦終結後、共通の敵と呼べる存在を失ったことが原因かもしれない。強力な帝国も次第に衰えるのは歴史の趨勢かもしれない。世界の複雑さ、理解の難しさが増すことに対する自然な反応かもしれない。富の大部分を独占する1%の富裕層と金融ビジネスが寄生的支配体制から目をそらすために対立を仕組んでいるのかもしれない。しかし原因がどうであれ、フェイクニュースは問題そのものではない。私の見るところ、それは結果の一つであって、この根深い危機の原因ではない。

〔日本版〕カット写真は映画からメリル・ストリープ(ワシントン・ポスト社主ケイ・グレアム)とトム・ハンクス(ベン・ブラッドレー記者)。

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(翻訳:滑川海彦@Facebook Google+

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TechCrunch Japan

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