カタルーニャの本と薔薇の日

紙の本が死んだと思う人は、 サン・ジョルディの日の前日にバルセロナの本屋を訪れたことがない人だろう。この守護聖人のためのフェスティバルは、カタルーニャではバレンタインデーに相当する日だ。しかしこの日、人びとは茎の長い赤いバラを贈るだけではなく、本も贈るのだ。本当に沢山の本だ。なにしろこの日だけで2000万ユーロ(約23億円)に相当する本が売られる(贈られる)のだから。

4月23日はまた、UNESCOの制定する「世界図書・著作権デー」(世界本の日)でもある。これは比較的最近(今年が20周年)の、本に対するお祝いだ。しかしともあれバルセロナでは、今日(23日)はサン・ジョルディの日だ

フェスティバルが近付く何日かの間、カタルーニャの州都バルセロナの書店には人びとが押し寄せ、ピカピカのペーパーバックが平積みに置かれ、完璧な文学の贈り物を求める買い物客たちで引きも切らない。ちょっと立ち止まってタイトルをざっと眺めようとすれば、文字への渇望を抱きながら縦横に行き来する人びとの波に押しのけられてしまうだろう。

今年は、ガウディのカサ・バトリョの乳白色のバルコニーが、このフェスティバルの到来を告げるために赤いバラで飾られ、グラシア通りに立ってロマンチックなセルフィーを取りたがる観光客たちの目を引いている。一方、通りの向かい側の書店カサ・デル・リブロの書架に挟まれた通路にも、別の愛の形が溢れ、キャッシュレジスタはクリスマスイブのように取り囲まれている。

市政府から提供された2015年の統計によればサン・ジョルディの売上は地域の書店の年間の売上の5から8%を占めている。その日だけで150万冊ほどの本が売られたのだ。今年私は、なんとか贈り物を選ぶことができた土曜日の買い物客たちを見た。彼らはまるで教会の儀式の順番待ちをする人たちのように通路に20人ほど蛇行した列を作っていた。もし支払い処理がこれほどまでのボトルネックではなく、需要に応えることができていたなら、どれほど多くの本が売れたのだろうと考えたくなるだろう。

スペイン最大の書店チェーンであるカサ・デル・リブロが、電子書籍コーナーを持っていたとしてもさほど驚きではない。ここでは同社自身による(Tagusという名の)電子リーダーが売られている。サン・ジョルディの前夜には、この明るく照らされたささやかなTagus専用コーナーは、紙の本を求めて通り過ぎていく人たちの前でとても色褪せて見えた。電子書籍を贈ってくれる恋人を待ち望んでいる人など居ないことは言うまでもない。おそらくこれが紙の書籍の販売が勢いを盛り返し電子書籍の勢いが鈍化してきた理由の1つなのだろう。

バルセロナのより小規模な書店では、あなたが購入した本を個別にラッピングしてくれる別のスタッフが待機している。私が立ち寄った書店では、ピエル・パオロ・パゾリーニの「バラのかたちの詩」(Poésie en forme de rose)を新しい赤い紙で包んで貰えた。店の奥には天井に届こうかというほどに古書が積み上げられ、本を眺める人たちで夜まで賑わっている。店の片隅ではピアニストが曲を奏でる。サン・ジョルディが、本を買うことだけの日ではないことは明らかだ。それは雰囲気と文学の祭典なのだ。4月23日が来るまで、街のそこここで、作家たちは話し、詩を読み、物語を語る。

その当日には、街路はさらに多くの人びとと彩りで満たされる。本屋と薔薇売りのテーブルとバスケット、その間をそぞろ歩く手を繋いだカップルたち。花びらが紙よりも何時でも安いわけではないが、薔薇の売店の数は、本屋の屋台の数を、おおよそ4対1の割合で上回っている。多くの屋台は、学生たちによる地元からの応援や、Save the Childrenのような慈善活動によって助けられている。カタルーニャ広場(Plaçade Catalunya)では、好きな作家が最新作に署名しているところに出くわす幸運を体験できるかもしれない。同じように、地元の人たちの穏やかな雑踏の中を、一緒にゆったりとした散策を堪能することもできるだろう。サン・ジョルディは、本の内容や咲き誇る花の美しさの助けを越えて、内に秘められていたものが立ち現れる様を祝うためのものだ。それは創造のプロセスへ、個々にそしてまとめて注ぎ込まれるエネルギーへの祝福だ。本や読書と同じくらい、感情と感覚に訴えるものなのだ。

電子書籍にも、紙の本同様の死が訪れるのかと尋ねる記事の数はもう数え切れない。私にしてみればそうした質問は、花はデジタル式にスクリーン上に表示できるのだから、デジタルスクリーンは本当の薔薇を不要にするのだろうか、と尋ねているようなものだ。明らかにスクリーンにふさわしい場所があり、紙にふさわしい場所がある。2つの異なるフォーマット、2つの異なるメッセージ、そしてその間に現れるあらゆる用途と有益さ。スクリーンを介して情報にアクセスできるように、書籍を購入すれば情報にアクセスすることができる。それと同じくらいに、本を買うことは根本的に異なるものにもなり得る。たとえば正確に言葉にする必要なしに、あなたの気持ちやあなたの希望を伝えたいときのように。メディアはメッセージの本質的な部分である、特に贈り物が関わるときには。常識に従えば、デジタル薔薇は本物のようには甘く匂わず、電子書籍には紙の深さと歴史は刻まれていない。

多分、いつか誰かが何処かで、単一フォーマットのシングルボタン枠の中に本を閉じ込めることのない、より良い電子リーダーを発明するだろう。また、実際のものにより近い感触と振舞を持つ、新しい電子ペーパーも必要だ。束ねて積み上げることができて、読み手が書き込むことができ、角を折ったりページを前後にめくったり、本の重みを感じたり、その中で自分の場所を熟考することができるようなものだ。私たちはまだそこに至っていない。なにしろテクノロジーが特に愛しているのはアップグレードで、歳月を経た風格ではないのだから。絶え間ない消滅に感傷的であり続けることは難しい。こうなると、人間の脳は、スクリーンの上で読み書きをするときよりも、紙の上で読み書きをする方が、情報をよく記憶し理解することができるかもしれないという学説(それがもし本当なら、紙は真に最先端のものとなるだろう)を考慮することもせずに、非常に虚無的な方向へ向かうかもしれない。

また、私たち人間が関わり合いをもちたいフォーマット(この場合はスクリーンと紙)同士の間にも興味深い相互作用の余地が沢山ある。それが意味するのは、印刷からデジタルへの流れがこれまでに沢山あったように、デジタルから印刷の方向へと重なる部分もあるということだ。ここで地元の関連する事例を紹介しよう。Yo Fuí a EGBは2011年に2人のジェネレーションXのスペイン人Jorge DíazとJavier Ikaztによって開設されたFacebookページだ。そこでは彼等が子供だったころの1980年代から典型的なスペインの小学校に至るまでの写真と動画が投稿され始めた。もしそれが少しばかりニッチに聞こえるとしたら、 ご注意を(cuidado) 、決してそうではないからだ。このFacebookページには120万以上のいいね!がつけられており、彼らがデジタルで構築したコミュニティから生み出された興味深い記録は、複数のベストセラー書籍やボードゲーム、さらにはテレビシリーズへと形を変えている(もちろん電子書籍もある)。こうして、人びとが集うデジタルコミュニティが、長い間失われていたものを巧みに複数の形式として甦らせたのだ。「昔なじみの」インクと紙のメディアも含めて。これに驚く人はいないだろう。

まあ別の言い方をするならば、薔薇は薔薇でも、あるときには本物の薔薇を欲し、また別のときには美しい薔薇の絵を愛でたいということだ。

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(翻訳:Sako)

投稿者:

TechCrunch Japan

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