個人のプライバシー vs. 公共のセキュリティ

個人のプライバシーというのはかなり新しい概念だ。ほとんどの人はかつて、互いの暮らしに絶えず首をつっこむような緊密なコミュニティーの中で暮らしていた。 プライバシーは個人の安全面で重要な部分を占めているという考えはもっと新しいものだ。よく比較の対象となる公共セキュリティの必要性−例えば壁を築き、ドアを施錠する−というものは明白だ。政府に反発するアナーキストすら、暴力的な敵やモンスターがいることを認めるだろう。

富める人々なら、自己防衛用に高い壁を築き、ドアを閉めるということができる。プライバシーというのは、長い間、ぜいたくなものだったし、今でもそういうふうにとらえられている。“使い捨て”の財産であり、あるといいけれど、しかし必須というほどではない。人間にとって、ほとんどプライバシーなんてないような小さなコミュニティーで暮らすというのは驚くほど簡単なことだし、本能的なことでもある。半ば厭世的で内向的な私ですら、小さなコミュニティーで何カ月も暮らし、意外にもびっくりするほどそれが自然なことだと気づいた。

だから、テクノロジー上のセキュリティが、公共セキュリティとプライバシーの間での交換のように扱われる時、最近ではそうした傾向が強いが、公共セキュリティが優先される。これは、悪用されるかもしれない暗号化された携帯端末に政府がアクセスできるよう、バックドアという“万能の鍵”に対する需要が常にあることを考えると明らかだ。そうしたシステムはハッカーやストーカーという悪徳な人たちによって必然的に攻撃されるだろう、という事実に基づいているともいえる。あまり考えられないかもしれないが、システムへの攻撃がない状況で万能な鍵が存在していたとする。利用制限内で政府関係者がそれを使用できる場合、その行為が実行されるべきかどうか、というのは道徳的には非常に判断が難しい。

カリフォルニア州での車のナンバープレートリーダーを考えてみてほしい。このリーダーでは間もなく、ほとんどの車の正確な位置をほぼリアルタイムに追跡できるようになる。また、ゴールデンステートキラー(カリフォルニア州連続殺人事件の犯人)がどうやって特定されたのかも考えてみてほしい。彼は、オープンになっている遺伝子データに基づくオンライン家系図サービスでたぐって特定されたのだ。つまりこういうことだ。データジャーナリズム先駆けメディアであるFiveThirtyEightにあるように、たとえあなたがデータ共有に加わることを選択していなくても、すでに取り込まれていて、そのデータの共有から身を引くことはできないのだ。ハッカーがそうしたデータに手を出すことがないとしたとき、どの程度であればそれが基本的に許されるのだろうか。犯罪者をとらえ、テロ攻撃を防ぐという公共のセキュリティは、個人のプライバシーよりずっと重要なはずだ。

企業のセキュリティもやはり、公共セキュリティと同様に個人のプライバシーよりはるかに大事なものだ。最近まで、世界初のプライベートメッセージアプリSignalはGoogleやAmazonのウェブサービスで“ドメイン・フロンティング”という手法を使ってきた。しかしそれも今月までだ。インターネットブロック回避に使われてきたものだが、Googleはこれを使用できなくなるようにし、AmazonはAWSアカウントを終了させようとしている。というのも、GoogleやAmazonにとって攻撃されやすい人たちのプライバシーはさほど重要ではないからだ。Facebookの数えきれないほどの巧妙な個人プライバシーへの侵害も考えてみてもほしい。人と人を結びつけるという名の下に、Facebookは巨大になり、人々はそこから逃れられないものとなっている。と同時に、Facebookは従業員やデータをこれまでになく支配するようになっている。

しかし、厳密な企業秘密がプライバシーはリッチで権力を持った人のためのものという考えを強固なものにしたとしても、プライバシーはやはり必要不可欠と言うわけではない。AmazonやFacebook、Google、そしてAppleまでもが秘密を明らかにしたところで、大した差はないだろう。同様に、普通の人が公共セキュリティのために個人のプライバシーをあきらめたところで、やはり大きな違いはない。皆が互いの職業を知っているコミュニティーでの暮らしは、アパートで住民が互いの名前も知らないというような暮らしに比べ自然で、間違いなく健康的だ。公共のセキュリティは必要不可欠であり、個人のプライバシーはあればいいというものなのだ。

ただし−

ただし、個人のプライバシーと公共のセキュリティを区別するとき、よく知っていてもいいはずの人が広めている考え方は完全に間違っている。私たちが携帯電話のデータ、車のナンバープレートリーダー、遺伝情報、暗号化されたメッセージなどにおける個人のプライバシーについて話す時、そのプライバシーとは私たちが普通に理解しているものとは異なる。普通に理解しているプライバシーというのは、リッチな人のためのものであり、緊密なコミュニティーで暮らす人には必要ないものなのだ。そうではなく、ここでいうプライバシーとは個人情報の収集と使用についてのことだ。というのも、政府や企業は何十億もの人の、かなりプライベート度の高い個人情報を大量に集積している。

こうした情報の蓄積は、蓄積された情報の中身、そして蓄積されていること自体が、個人のプライバシー問題ということではなく、大きな公共セキュリティの問題なのだ。

これに関し、少なくとも3つの問題がある。1つは、プライバシーの欠如というのは、元々の考えとの相違に抑止効果を及ぼす。プライベートスペースというのは、共同体にとっての実験用ペトリ皿だ。もしあなたが、一挙一動が見られている、全ての会話が監視されていると知ったら、プライベートという空間は事実上ないに等しい。何か刺激的なこと、または物議をかもすようなことを試してみようとは思わなくなるはずだ。カメラがあちこちにあり、そして顔認識、足取り認識、ナンバープレートリーダー、Stingraysなどですべての動きが監視されるのだから。

仮に、あなたが属する小さなコミュニティーの雰囲気が好きでなかったら、好みの雰囲気のコミュニティーに移ればいい。しかし、国や州を変えるのはかなり難しい。マリファナや同性愛が西洋諸国で違法だったころのことを覚えているだろうか(いまだに多くのところで違法であるが)。もしユビキタスな調査や、そうした法律の広汎な施行が可能だったらどうだっただろうか。私たちの法律すべてが完全なものであり現代に合致していると自信を持って言えるだろうか。新しいテクノロジーを、すぐに先見の明でもって統制できると言えるだろうか。私には言えそうもない。

2つめの問題は、リッチな人のプライバシーとつながっているが、大衆のプライバシーの消滅だ。これは、現行の法律や基準、確立されたものを永続させ、他人の利益への依存や改悪、縁故資本主義などをはびこらせる。リシュリュー枢機卿の名言がある。賢い男が書いた6行の言葉を誰かが私に渡したとしたら、私はその男を縛り首にするに足る何かを見つけるであろう−。支配層が、自分たちのプライバシーを保持しながら反体制の者のすべての言動を監視するのがいかに簡単なことか、想像してみてほしい。反テロリズムの名の下のプライバシーの消滅が不公平な法律の恣意的な施行となり、親しい人の調査が現状に反発する人への攻撃となるのにそう時間はかからない。

3つめの問題として、テクノロジーは、プライベートなデータを基に世間を操るのにますます長けてきていることが挙げられる。あなたは、広告を悪だと思うだろうか。素行→データフィードバックのループでひとたび人工知能が広告を最適化するようになると、あなたはなんとなく目にする広告を好きになるかもしれない。しかし、プロパガンダ→素行→データループという流れは、広告→素行→データという流れと大して変わらない。まさしく最適化にほかならない。

蓄積されたプライベートなデータが世論を操作するのに大々的に使用されるとなれば、プライバシーというのは個人の贅沢品というものではなくなってくる。富裕層が、自分自身を隠蔽したまま、意見を異にする人の信用を傷つけるために非相称のプライバシーを使うとき、プライバシーというのはもはや個人の贅沢品ではない。絶え間ない調査や、それによる脅威があれば、人々は新しい考えを試したり、論戦的な考えを表明したりといったことをためらうようになる。プライバシーはもはや個人の贅沢品ではないのだ。そうした世界にまだなっていないとして、間もなくそんな世界に生きていかなければならなくなることを私は恐れている。

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(翻訳:Mizoguchi)

投稿者:

TechCrunch Japan

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