展覧会レビュー:Cult of the Machine(機械への崇拝展)

マシンエイジの不安が示唆するものは私たちが今でもそれほど進んでいないということだ

マシンエイジ(19世紀末から第二次世界大戦が終わる頃までの米国)を振り返ってみよう。米国のその時代は、組立ラインが生まれ、初の無着陸大陸横断飛行が行われ、通常のラジオ放送が始まり、そして20以上の動きが可能なロボットが登場した。これらの技術的進歩は、精密主義(Precisionism)と呼ぼれる芸術スタイルを触発した。そのスタイルを代表する有名なアーティストとしては、ジョージア・オキーフ(Georgia O’Keefe)、チャールズ・シーラー(Charles Shearer)、チャールズ・デムス(Charles Demuth)などの名を挙げることができる。

サンフランシスコのデ・ヤング(de Young)美術館で開催されている”The Cult of the Machine”(機械への崇拝)展は、マシンエイジにおける機械とロボットへの芸術の態度を反映したものだ、この時代は2つの世界大戦に挟まれ、工業的な効率性が至上命題として掲げられていた。効率性が、美であると同時に脅威としても捉えられていた時代に、大衆が工業技術の台頭に対して抱いた不安に影響を受けた、アートの隆盛が見られた。この展覧会は、精密主義者たちのレンズを通した徹底した(おそらく過剰なほどに徹底した)コレクションと共に「機械は人間にとって友人かそれとも敵か?」という議論を再び問いかけるものだ。

Emma Ackerが企画したこの展覧会は、主に精密主義者たちの作品で構成されている。精密主義は20世紀初頭の米国におけるモダニズムスタイルであり、ヨーロッパのキュビズムと未来派を米国の工業的で都市的テーマで合体させたアーティストたちから生み出された。私たちは煙突、工場、橋、摩天楼などが幾何学的な滑らかな技法で描かれたものを目にする。

現代の科学技術者たちは、ロボットの台頭、製造業における仕事の減少、AIへの制御を失うこと、バイアスのかかったアルゴリズム、そして機械利用による職人技の喪失といったことに対する懸念を表明している。あらゆるテクノロジー企業は、機械学習とAIに関する戦略を持っているし、ベンチャーキャピタリストはロボットスタートアップに投資を行っているピザを作るためにデザインされたロボットがあるし、ラストマイルを担当して自律的に商品を配送するロボットもある。人間の運転手を置き換える自動運転車や、飛行する自動車も姿が見え始めている。テクノロジーは私たちの世界をより効率的かつ便利にし続けているが、機械が最終的に種としての私たちを助けるのか、それとも妨げるのかを予測することは不可能だ。デ・ヤング美術館で開催されている”The Cult of Machine”展を見て歩く者は、この答に決着がつくことはあるのだろうかと訝しく思い始めることだろう。

陰と陽、機械の二面性

今回のデ・ヤングのコレクションは、マシンエイジにおいて、米国人たちがテクノロジーに抱いていた不安と、テクノロジーがより結びつき便利な世界を生み出すことへの希望を、ないまぜにしてバランスが取られたものだ。1つの展示室では、その時代に技術が意味していたことへの恐ろしい解釈へ浸ることができる。チャールズ・シーラーが1939年に描いた油絵である”Suspended Power”は、工場の中に居る少数の小さな人間たちの上にぶら下がる大きな機械を描いている。それは人間の力をはるかに凌ぐ巨大で制御の利かないテクノロジーの力を荒涼と表現していて、ほんの僅かな間違いによって、私たちが押し潰されてしまうことを描いているのだ。この作品は、未来に対する漠然として測りようもない脅威を内包している、本展覧会の看板とも言えるものだ。

アーティストたちは、アメリカの産業崇拝の中に確かに闇を見たのだ。チャールズ・デムスの1921年の作品“Incense of a New Church”(新しい教会の香り)を見てみよう。ここでは工場が教会に喩えられ、煙が香りとして扱われている

展示の多くは、工場、煙突、そして人間や、動き、そして色の乏しい都市の風景である。作品そのものも、まるで機械で描かれたようで、筆の跡を追うことはできない。こうした大量の動きのない都市風景組み合わせによって、アートが単調となり、展示の一部を空虚で退屈なものにしているかもしれない。しかし、おそらくはそれこそがポイントなのだ。

展示を締め括るのはクラレンス・ホルブルック・カーターの”War Bride”(戦争の花嫁)だ。花嫁は彼女の新郎である機械に向き合っている。

人間の誤りを除外することによって、テクノロジーの世界に存在する匿名性と疎外性が呼び起こされる。機械システムのこれらのクローズアップショットには不気味な空虚さがある。とはいえ、それらも私たちの世界を構成している小さな部品なのだ。

美しさと効率性を混同する

マシンエイジの期間は、効率性の追求が近代への原動力となった。効率性が経済的な必要性の充足とみなされるのではなく、美しさと混同されていたことは容易に理解できる。それでも、アーティストたちは、芸術、商業、産業の交わる場所に意味を見出していた。

「私は時代の舌を使って語る。機械的なものであれ、工業的なものであれ、効率的に動くものはみな美しい」―― チャールズ・シーラー。

この展覧会は決して美しいものではない。自宅のリビングルームの壁にかけたいと思わせるようなものは何も無いのだ。

とはいえ、このとき初めて「アーティストたちは、私たちの米国の産業と製造の基本構造に美と意味を見出し始め、それを美術のレベルまで引き上げたのです」とAckerは語る。「この時代の作品で探求されたアイデアやテーマは、私たちの現在と大きく共鳴するように思えます。それこそが私が強調したいことです。精密主義はマシンエイジと今日のテクノロジーに対する私たちの関係を取り巻く、より大きなテーマについて考えさせるための跳躍台でした。そして米国人が技術革新に際して経験した興奮と不安は、現在の私たちのソーシャルな力に反映されているのです」。

人間と機械の衝突

おそらく展覧会でもっとも興味深い出し物は、見学者に30の中から3つの単語を対話的に選ばせて、テクノロジーが彼らにとってどのような意味があるかを表現する対話的な仕掛けだ。例えば選択候補としては、creative(クリエイティブ)、interconnected(相互接続)、revolutionary(革命的)、automated(自動化)、isolating(隔離)、surveillance(監視)、collaborative(協調)、addicting(中毒)、alienating(疎外)、cold(寒さ)などがある。展示場の出口には、最も頻繁に選ばれた単語たちが、集団として投影されている。

このワードクラウド(単語の雲)は3秒ごとに更新され、もう一つのワードクラウドと対比される。もうひとつのワードクラウドは、1920年代から30年代にかけて出版された米国の定期刊行物から引用された、テクノロジーを記述するためのマシンエイジ用語の集合である。ワードのサイズと色は、テキストに出現した頻度によって決定される。この展示会の見学者たちは、マシンエイジ時代のメディアよりも、テクノロジーに対してより楽観的な見方をしているようだ。

全体として、この展覧会はテクノロジーに関する2つの見方を結びつけている。それらは、より良いエンジニアリング世界に対する崇拝的な約束と、人間の生活に対する未知の脅威に対する圧倒的な怖れだ。

これが私たちに残していくものは何だろう?「第四次産業革命に入ろうとする今、私たちはマシンエイジと結びつくことができるのです。私たちは未来を、興奮と、混乱や待ち構える移行と変化に対するある種の怖れと共に、見つめているのです」とAckerは言う。

“Cult of the Machine:Precisionsim and American Art”展は、サンフランシスコのデ・ヤング美術館で8月12日まで開催中。 アメリカの歴史の中で、テクノロジーがどのようにアートを形作って来たのかに興味のある者にとって、この展覧会は見るべきものの1つだ。

 

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(翻訳:sako)

投稿者:

TechCrunch Japan

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