Facebookをやめる、という選択もありだ

プライバシー問題をめぐるFacebookの一連のスローモーション的対応をみて、多くの人が、おそらくあなたもFacebookの利用をやめようとか考えている。少なくとも、ソーシャルネットワークの活用方法を変えようとしている。我々にとっては幸い、ザッカーバーグにとっては残念ながら、Facebookをやめるのはかつて難しいものだったが、今ではそうではない。大事なことは、ソーシャルメディアはあなたが使うものであり、その反対、つまりあなたがソーシャルメディアに使われる、というものではないということだ。

誰かとやりとりをする、という役割にとどまらず、ソーシャルメディアは私たちの暮らしにすっかり浸透しているが、ソーシャルメディアをどのように使うか選ぶことは可能だ。それは素晴らしいことだ。社会規範やテクノロジーの進歩にとらわれることなく、私たちが自身の体験を自由にデザインできることを意味している。

この記事では、なぜソーシャルメディアの利用方法をコントロールをするのに今が適しているのかについて書く。Facebookにフォーカスするが、InstagramやTwitter、LinkedIn、その他のネットワークにもあてはまることだ。

イノベーションの失速は安定した商品を意味する

Facebookを取り巻く環境は2005年と、2010年、2015年ではまったく異なるものだった。その10年間でモバイルや、ブロードバンドが格段に充実し、社会に浸透した。ウェブネイティブプラットフォームはすっかり成熟し、より安全で安心して使えるものになった。それまではかなり機能が限られていた電話はスマートになった。多くの人にとってコンピューターも同様だ。その結果、GoogleやFacebook、Amazonといったインターネットベースの企業は、ニッチな存在から世界を支配するような存在へと変貌を遂げた。

さまざまな理由で、そして多くの点で移行期だった。絶えず変革が続く中で商品やサービスが展開されてきた。少し前にそれらがどんなふうに展開されていたか、どんな制約があったかを考えると、おそらくあなたは驚くに違いない。私たちがいまオンラインで当たり前のようにやっている多くのことは、この10年間で発明され、人気になったものなのだ。

しかしこの数年では、インターネットによる恩恵が劇的に減った。あなたがもっと使いたいと思うような機能をFacebookは加え続け、人々をオンラインにしばりつけるような方策を絶えず追求している。これはなぜなのか。

それは私にいわせれば、Facebookのようなプラットフォームができること、やるべきことが限界に達したということ。それだけだ! それで何ら不都合はない。

車の改良に似ている。どれだけの機能を加えたとしても、あるいはエンジンを取り換えたとしても、車は車なのだ。車は便利なもので、Facebookだってそうだ。しかし車はトラックではなく、バイクでもなく、リンゴでもない。そしてFacebookは(例えば)ブロードキャスト媒体でもないし、緊密な関係を築く場所でもないし、VRプラットフォームでもない(必死に試みてもだ)。

Facebookがうまくやってきたこと、私たちが便利に思ってきたことは長い間変化がなかった。それは、ニュースや写真を友達とシェアしたり、イベントをアレンジしたり、人々と知り合って連絡を取り合ったりといったことだ。そうした機能の目新しさは次第に薄れ、当然のこととして、それらを使う機会は減り、もっと自分に合う方法で活用するようになった。

Facebookは、長所短所を伴いながらも、初めからそこにあったかのようなプラットフォームになり、それ以上のものになれなかったというのは、特に悪いものではない。事実、私は安定しているというのはいいことだと思う。それが何か、どういうものになるかということがわかったら、見識ある選択をすることができる。

欠点が次第に明らかに

どのテクノロジーにも、それを強く批判する人がいるものだ。ソーシャルメディアに関しても例外ではない。私自身もかつてそうだったし、ある程度はまだそうだろう。しかし、それらのプラットフォームの変わり様をみると、恐れていたことが跡形も無くなっていたり、現代にそぐわないものになっていたりした。

人々は“現実の世界”で互いに関わるのをやめ、デバイスの中に生きているという考え方は、明らかに私たちが想定していたものではなかった。年配の人が、コミュニケーションをとる正しい方法を次世代に教えるというのは、成功したためしがない。しかし、もしあなたが、海外の選挙の妨害がFacebookのオーバーシェアリングやプライバシー問題と同じくらいが深刻なものになると2007年に予見していたら、あなたの顔は疑い深いものになっていたに違いない。

他の欠点は思いがけないものだった。例えば、ソーシャルメディアのシステムがニュース収集システムではなかった時代、つぶやきや拡散が出てくるとは予想できなかった。オンラインに投稿された他の誰かの生活のハイライトだけを見るという現象は、それは羨ましさを持って見る人にとっては自己管理問題につながるが、面白いものではあるものの悲しい進展だった。

ソーシャルメディアに付き物のリスクが予言されていたかどうか、あるいは証明されていたかどうか。いずれにせよ、人々は今そうしたリスクを真剣にとらえている。ソーシャルメディアに時間を費やしすぎたり、ソーシャルメディアから有害な影響を受けたり、またソーシャルメディアでのやりとりが苦痛になったりちょっとした騒ぎになったり、というのが今直面しているものだ。

そうした欠点を、長所と同じくらい真剣にとらえることは、ある種の成熟を意味する。少なくとも、社会がそれにどう対応するかということを表しているという意味においてはそうだ。技術の成熟度が落ち着き、現実にそぐう判断が行われ、人々とソーシャルメディアの関係性の難しさが妨害されることなく検証される。

ソーシャルメディアの能力の安定性と、そうした能力が考慮されたリアリズムの間で、選択肢はもはや独断的なものでなければ、絶対的なものでもない。あなたがソーシャルメディアをどう使うかというのは、もはや彼らによって決められることではないのだ。

ソーシャルメディアは個人の選択の最たるものに

あなたの経験は、私がここで言うものとは異なるだろうが、私の意見ではソーシャルメディアが開発された当時は、選択肢は2つに1つだった。つまり、ソーシャルメディアを利用するか、しないか、というものだ。

彼らが進めてきた方法は、機能を追加したり、機能に誘導したり、あるいはレイアウトやアルゴリズムを変更したりしてあなたがソーシャルメディアをどう使っているかを明らかにしてきた。迫ってきつつあるとき、どうやって有意義に活用するかを決めるのは難しい。数カ月毎に新機能や遊びツール、アプリが加えられ、あなたは仕組まれた通りそれらを使うか、取り残されるリスクをとるかということになる。つまり、使い続けるか、距離を置くかのどちらかだ。

しかし全ては変わった。基本原則が設けられ、数カ月使用を中止してまた戻ってくるということもようやくできるようになった。これは、以前に比べかなり大きな変化だ。

ソーシャルネットワークが何十億もの人々に使われる安定したツールとなり、複数のサービスを使い分けることは基本的にありえる。

Facebookを使うか、Instagramを使うかといった選択は、どれを使ってどれを使わないかというものではない。交友のためのツールとして、また自己表現や創造のためのプラットフォームとしてソーシャルメディアを受け入れることは自然なことであり、(多くの面で)疑う余地はない。

それは毎日の暮らしにおいて絶対不可欠のツールにする、ということから、まったく使用しないということへと拡大解釈される。前者は人がどうソーシャルメディアを使うべきかということを意味しているのではない。接続しないことや技術革新に反対を唱えることはもはや恥ずかしいことではない。

あなたと私は異なる人間だ。違う場所に住み、読む本も異なるし、違う音楽を好む。異なる車に乗り、お気に入りのレストランも好むドリンクも違う。だから、ソーシャルメディアをどう活用し、どのように表現するかという点でなぜ皆同じでなければならないだろう。

繰り返しになるが、これは車に似ている。車を所有して、通勤に毎日使ってもいいし、あるいはたまにしか乗らなくてもいい。また、所有しないというのもありなのだ。これを誰が断じることができるだろうか。どんな車かということではなく、その人が何が欲しいのか、生活する上で何を必要としているのかということなのだ。

例えば、私自身は1年以上前に、携帯からFacebookを削除するという選択をした。それによって私はずいんぶんハッピーになり、悩まされることも少なくなった。Facebookの方からアプローチがあり、それに拘束されるのではなく、より慎重に付き合うようになっている。しかし私の友達の中には、散らばっている知人で構成する、ゆるいネットワークに大きな価値を見出し、維持している人もいる。そうした人たちは、即席で誰かと知り合いになったり、分単位、秒単位でやりとりすることを楽しんでいる。また、連絡を取り合う手段が無数にある中で、Facebookに最初から近寄っていないという友達もいる。

これらは、いずれもFacebookと付き合うパーフェクトな方法だ。何年か前の話になるが、ソーシャルメディアをめぐる支配的な考え方、生活における誇張された役割ーその多くは小説からきているーのために、たまにしか使わないというのは難しいとされていた。そして全く使わないことは、貴重な機会を逃すことを意味していた(または、使用をやめることは不安をもたらすと恐れていた)。

試してみれば気に入るはずだ

ソーシャルネットワークは、車やキーボード、検索エンジン、カメラ、コーヒーメーカー、その他のものと同様に生活を改善するためにある。つまり、何かをするために、そのパワーをあなたに与えるというものだ。と同時に、かつて50年代、60年代に車や車メーカーが社会に大きな影響を及ぼして公共交通機関から高速道路へと人気が移ったときのように、ソーシャルネットワークやその背後にいる企業はあなたや社会にかなりの影響力を及ぼしている。

一部の人や場所はまだ、車メーカーの影響を受けている。車なしでLAを移動してみたらわかるだろう。同様のことがソーシャルメディアにもはてはまる。ソーシャルメディアなしに誕生パーティを計画してみたらいいのだ。とはいえ、近年その影響力は弱まり、私たちは自分で意義ある選択ができるようになった。

ネットワークはどこにもいかない。あなたは去って、また戻って来ればいいのだ。ソーシャルメディアはあなたの存在をコントロールすることはない。

イエスかノーかではなく、100%使ってもいいし、0%でもいいし、その間のどこかでもいい。あなたがソーシャルメディアをどう使うかは、ソーシャルメディアが決めることではない。

あなたが何か大事なことを逃すということはない。なぜなら、何が重要なのかを決めるのはあなたなのだから。ソーシャルメディアはあなたの優先順位を考慮しないのだ。

あなたがソーシャルメディアをどう使うか、あなたの友人は心配することはない。なぜなら、彼らは人はそれぞれ異なるものを必要とすることを知っているからだ。ソーシャルメディアはあなたのことを気にしない。

挑戦してみよう。すぐに携帯電話を手に取り、Facebookを削除する。どうしてやってはいけないことがあろうか。おそらくその後に起こりうる最悪なことは、次の日に再びダウンロードして、振り出しに戻ることだ。私の時もそうだったし、私が知っている人もまた同じだったのだが、体重を落としてみて初めて余分な体重をつけていたことを実感するような体験となるはずだ。ぜひ試してみてほしい。

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(翻訳:Mizoguchi)

投稿者:

TechCrunch Japan

TechCrunchは2005年にシリコンバレーでスタートし、スタートアップ企業の紹介やインターネットの新しいプロダクトのレビュー、そして業界の重要なニュースを扱うテクノロジーメディアとして成長してきました。現在、米国を始め、欧州、アジア地域のテクノロジー業界の話題をカバーしています。そして、米国では2010年9月に世界的なオンラインメディア企業のAOLの傘下となりその運営が続けられています。 日本では2006年6月から翻訳版となるTechCrunch Japanが産声を上げてスタートしています。その後、日本でのオリジナル記事の投稿やイベントなどを開催しています。なお、TechCrunch Japanも2011年4月1日より米国と同様に米AOLの日本法人AOLオンライン・ジャパンにより運営されています。