先週、2万人を超えるGoogle従業員が抗議のためにストを行ない、ハラスメントや差別への対応について会社に大きな改善を求めた。多くの従業員による組織が経営側に要求するーこれは古い20世紀のコンセプトのようなものをかすかに思い出させないだろうか。それが何と呼ばれていたか? その言葉は舌先まで出かかっているのだが…本当だ。
参加者の1人は「会社がDeVaulを給料支払い対象から外すのに、私たちが職場を離れるという脅しだけで十分だった」とRichard DeVaulに言及しながら語った。Richard DeVaulはGoogle幹部で、セクハラとそれよりもひどいことについて告発され、その渦中にありながら今週会社を辞めた。一方、ストを呼びかけ人は哀れっぽく「この後も私がシリコンバレーで働けることを願ってる」と語った…他の呼びかけ人はコメントを拒否した。
テック企業の従業員が経営陣に不平をぶつけることができ、選ばれた代表がグループで経営陣と話し合い、さらにはそうした人たちが報復から守られるようなフォーマルで組織化された手段があればいいのだが。撹拌するような人や、シリコンバレーの常識にとらわれない考え方をする人は、そうしたことを可能にする革新的なシステムを見つけるかもしれないーこれがSFのように聞こえるのは承知だが、まあ私に付き合って欲しいーいつの日かそうした組織が特別な法的認知や保護を成し遂げるかもしれないのだ。
しかしそれを彼らは何と呼ぶだろう。私にはわからない。おそらく、ここでは私はスピットボールを作っているだけだが、彼らは“労働組合”かそれに近いもので呼ぶかもしれない。集合演算のあとではそうなる。わかっただろうか? 結局のところ、彼らはGoogleでやっている数学のようなものが好きなのだ。
そうしたコンセプトはメリットがあるだけでデメリットがない、と私は言っているわけではない。またそれが必ずしもいいアイデアだと考えていると言っているわけでもない。しかし、こうした状況でどうして誰も公にその可能性を考えないのだろうと思う。
私が思うに、シリコンバレーは労働組合というものを、全てのスピードやイノベーションを窒息させる、獲物を絞め殺す大ヘビのようなものだと考えている。もし20世紀の労働組合の概念を適用すれば、それは事実かもしれない。労働組合は労働時間や労働条件をコントロールしようとしていた。それは、当時の製造業で働く人や肉体労働者の大きな関心事だったからだ。しかし、誰も“労働組合2.0”コンセプトについて話さえしないことに私はかなり驚いている。そのコンセプトとは、20世紀の車産業の従業員ではなく21世紀のソフトウェアエンジニアのためのものであり、スピードやフレキシビリティ、実験への開放性などを犠牲にする必要はない。
少なからずそれは、会社という組織を超えて重要な跳ね返りがあるはずだ。大きなテック企業は、少なくとも間接的に世界でも最も影響力のある存在となった。テック企業への政府による規制についての議論はぞんざいでかなり遅く、何年か前にようやく適用となったばかりだがもう本質的に時代遅れになっている。これは批判されるのは当然で、往々にして法的賠償適用となっている。
そうすると、テック大企業にとって抑制と均衡とは何なのだろう。どのような力、そしてどのような人でもって企業の正直さを保てるのだろう。答えは明白だ。従業員だ。GoogleやFacebookといった企業は、世界の数億人のユーザーの怒りより、数万人の従業員の不穏な状態を恐れる。影響としては決して完璧なレベルではないが、ないよりはマシだ。それを労働組合と呼ぶかどうかはわからないが、不平や共同の交渉、報復からの保護のためのフォーマルな組織は多くの人にとって、特に主要テック企業の従業員にとってはかなりいいアイデアになるかもしれない。
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(翻訳:Mizoguchi)