われわれ人間は、自分の意思を表現するのがへたくそだ。他人の頭の中で何が起きているかを決して知ることができない。その意味でわれわれは、Google Glassと大して変わらない。あの小さな画面の中で人が何をしているかを理解するのは容易ではない。この短編映画は、デートの気まずさと、Googleのフェイスコンピューターの親密すぎる性質をミックスさせたものだ。
しかしそれは同時に、薄気味悪いと始終陰口を叩かれているGlassには、映画の主人公の中に入り込める能力によって、新たな芸術の世界を開く可能性があることを証明するものでもある。ビデオの冒頭を下に貼ったのでご覧あれ。
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警告:以下にネタバレあり
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本当に、がっかりすることなるから
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つまり、男はこの初めての「デート」で実際にはGlassをかけていなかった。共同監督兼女優のBoonsri Dickensonが私にこう話した。「私が帰ろうとすると、彼はもっと一緒にいようと言った。それなら私のGlassを持ってきて今起きたことを再現しようと私は言った。
結果は、俳優を第3者視点で見ることでは得られない、恥かしさと居心地の悪さだった。彼が彼女の美しさについて間抜けなこと言うのを見ればたじろぐし、事態がまずい方向へ進むと彼の後悔が具体化される。できればこれをOculusで見たかった。そうすれば本当にニューヨークの街路に移動できたのに。
共同監督兼俳優のDaniel Feigheryがこう私に言った。「映画製作者にとって、Glassは全くの別物だ。カメラを覗いているのではない。自分がカメラなのだ。アクションの一部であり、もはや傍観者ではない。私は俳優であると同時にカメラマンでもある。境界がなくなり、いっそう参加型になる」
つまり、Glassは日常生活で着用するには目立ちすぎるもしれないが、ポケットに隠し持ったカメラよりも、忠実な記録を残せる可能性を持っている。Glassが主流になるためには、もっとスリム化して目立たなくなる必要があるだろう。しかしそれまでの間も、見た通りの生活を取り込むチャンスをわれわれに与えてくれる。
他のGlass映画を見たければ、Boonsriの短編 “The Kiss” が下に貼ってある。Patreonで彼女を支援することができる。
[原文へ]
(翻訳:Nob Takahashi / facebook)