ソーシャルメディアで大切なのは「事後修正」、人は誤情報を見た後に警告を受けたほうがそれを信じない

ソーシャルネットワークやその他のプラットフォームが誤情報に対処するには、それが偽りか否かを知るだけでは十分ではない。それに対して、人々がどう反応するかまで知る必要がある。MITとコーネル大学の研究者は、驚きの、しかし微妙な発見をした。これは、Twitter(ツイッター)とFacebook(フェイスブック)の問題をはらむコンテンツの対処方法に影響を与えそうだ。

MITの発見は、直感に反するものだった。タイムラインに誤解を招くタイトルが現れたとき、打つべき論理的な対策は、真偽が怪しい内容であることを読者にまず知らせるために、事前に警告を表示することだと思われていた。だが、それは間違いだった。

この調査では、3000人近い人々を対象に、内容に関するいろいろなかたちでの警告(警告なしも含む)を見せてから、タイトルの信ぴょう性を判断してもらった。

「この調査を行うにあたって、私は事前に修正情報を提供するのが最善策だと期待していました。なので人々は、問題のタイトルに出くわしても嘘の主張は信じないものと考えていました。ところが驚いたことに、実際は逆だったのです」とMIT Newsの記事を共同執筆したDavid Rand(デイビッド・ランド)氏は書いている。「遭遇した後にその主張を修正するのが、最も効果的でした」。

そのタイトルには誤解を招く恐れがあると事前に警告を与えたところ、人々の判断の精度は5.7%向上した。タイトルと同時に警告を表示すると、精度は8.6%に上がる。しかし、後で警告を示した場合は25%も良くなった。つまり、かなり高い割合で、事前警告よりも事後修正が勝ったことになる。

研究チームは、既存の判断が生まれる過程を改めるのではなく、既存の判断に評価を取り込もうとする傾向があるという他の兆候と一致する点を示唆し、原因はそこにあると推測した。問題はかなり根深く、小手先で対処できるようなものではないと、彼らは警告している。

また、コーネル大学の調査結果は安心と不安が半々の内容だった。誤解を招く恐れのある情報に接した人は、読者の政治的立場に則しているか否かは関係なく、確実に大きなグループの意見の影響を受けた。

これには安心する。なぜなら、人は100人中80人がその話を怪しいと感じたなら、たとえその80人のうち70人が意見を異にするグループに属していたとしても、何かありそうだと疑いを持つことを示唆しているからだ。だが不安もある。なぜなら大きなグループの考えがあちらこちらに変わるだけで、自分の意見も簡単に揺らいでしまうからだ。

「人の気持ちは、政治的な立場とは別に社会的な影響によって変わってしまうことが、具体的に示されました」と、論文の筆頭著者である大学院生のMaurice Jakesch(モーリス・ジェイクシュ)氏はいう。「これは、オンラインスペースの二極化を解消し人々を1つにまとめる手段として、社会的影響を利用する道を開くものです」。

それでも、党派による感情も影響しているといわざるを得ない。別の党派に属する人たちの集団的な意見が、考えを左右する割合は21%下がる。だとしても、人は集団の判断に影響される傾向は強い。

誤情報がこれほど拡散した原因としては、そうした話に人が魅力を感じる理由、その魅力を弱める手段、その他の細かい疑問をよく理解していない点がある。暗闇の中で失敗を重ねている間は、ソーシャルメディアが解決策を探し当てることは期待できない。しかし、こうした研究の一つひとつが、少しずつ光明を増やしていくのだろう。

カテゴリー:ネットサービス
タグ:フェイクニュースソーシャルメディアモデレーション

画像クレジット:Bryce Durbin / TechCrunch

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(翻訳:金井哲夫)

Facebookの最新のフェイク、監督委員会を民主的な独立機関と思うなかれ

35歳の億万長者にして、各国の議会からの彼と彼の事業が世界中の民主主義と人権に悪影響を及ぼしているかという質問の回答を拒み続けているFacebook(フェイスブック)のCEOであるMark Zuckerberg(マーク・ザッカーバーグ)氏は、さらにあなたを利用して金儲けをする説明責任劇場を立ち上げた。監督委員会だ。

Facebookの事業の話ではないのか。Facebookのブログ記事が高らかに主張する「Establishing Structure and Governance for an Independent Oversight Board」(独立した監督委員会の構成とガバナンスの設立、日本語版のタイトルは「監督委員会の構成とガバナンス」)からそう考えるのも無理はない。

昨年、まだ種まきの段階だったころザッカーバーグ氏は、自身のコンセプトを真剣な顔で広めてくれそうなポッドキャストやテレビ番組のお気に入りの司会者を厳選して直に会って伝えた。それが、いわゆるFacebookの最高裁判所だ。この追加的な意志決定機関は、それ以降(困難な問題に対して使う)同社のお決まりの無味乾燥なFacebook語をまとうようになった。Facebook語では、同プラットフォームでのフェイク活動を婉曲に「非認証の行動」と表現する。

この監督委員会は、Facebookが日々行っているコンテンツの適正化管理(モデレーション)の苦労の上に位置する。モデレーションは、密室の中で守秘義務契約を交わした人間によって行われ、アウトソーシングされた契約部隊が、一般ユーザーに代わって下水のように流れ続けるヘイトや嫌がらせや暴力に目を光らせている。これは問題解消のためのよく目に見えるメカニズムであり、口論を収めることができる(とFacebookでは期待している)。

Facebookの、ひとつですべてに適応しようとするモデレーションのポリシーには実効性がない。22億人を超えるコミュニティーには、同社が言うような地球全体を覆うユーザーベースなどというものは存在しない。非常に多様性に富むFacebookユーザーを、内容監視の最後の手段としてわずか11名の委員会が納得のいく代表者になれるのかどうかも、いまだ明らかにされていない。

「委員会のスタッフを最大まで増員すれば40名になります。委員会の人数は必要に応じて増減します」と、先週Facebookはあいまいなことを書いていた。

1人の委員がFacebookの事業のひとつの市場を担当することを意図していたのなら(そうはなっていないが)、国全体の多様な観点の代表者として1人ずつを充てる必要がある。だが、それは現実的ではない。それどころか顕在する政治的分断が誠実な業務を妨げてしまう。

どうやらFacebookは、最初の委員会の構成を、同社の企業理念を反映する形にしたいと考えているようだ。米国の企業としてFacebookも表現の自由の擁護を信条としている(同監督委員会の憲章の最初の言葉が「表現の自由」であるのは偶然ではないはずだ)。

米国的でないものは、憲章で明言されているもうひとつの基本姿勢を危険にさらすだろう。つまり「自由な表現が最重要」というものだ。

だが、ヘイトスピーチ危険な偽情報政治的暴力などなど、Facebookにどこまでも付きまとう無数のコンテンツ関連の不祥事のモデレーションにFacebookが失敗したなら、個人や社会に重大な危害がおよぶ恐れのある国際市場はどうなるのだろうか。

Facebookの事業が利益を生むためには国際市場が必要だ。しかし、同社が分配する資源からは、決してそれを知ることはできない。Facebookのデジタル植民地政策が、非難されていないわけではない。

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おそらくこれは、政治(地政学)の(短期の)レベルでは辻褄が合う。一部の委員からは、いつかFacebookの商慣習の変更が求められるかも知れない。
いずれにせよ、実用規模のプラットフォームとしてのFBは、あまりにも力を持ちすぎた毒性の無責任な企業であり続けるだろう。
私はとくに、FBの見た目に素晴らしいグローバルな監督委員会のためのグローバルな入力処理の構築にどれほど投資したかに興味があった。
– 純利益3カ月ぶんか?
– 純利益1カ月ぶんか?
– 純利益1週間ぶんか?

ある特定の記事を削除するか放置するかのFacebookの決断が及ぼす被害は、うんざりするほど大きくなる恐れがある。Facebookのプラットフォームが、民族抗争を焚きつけるロヒンギャなどの少数民族へのヘイトスピーチの運び役となったミャンマーのようにだ。

昨年、国連にけだもの”¥と言わしめたFacebookプラットフォームのミャンマーでの不名誉な失敗が、今回の自主規制の動機になった。将来の意志決定においては、さらに適正な努力を行うとするお決まりの主張とともに、Facebookは外部の人間に助けを求めるショーを開始した。

さらに大きな問題は、事業を広げすぎたFacebookが困難で異論が多く、ときには命の危険すらあるコンテンツが確実に大量に流れ込むようになり、そのモデレーションの判断を迫られていることだ。同社は私企業にとっては難しい判断だと主張している。だがFacebookは、これらすべての問題を収益化することに後ろめたさを表明したことはない(実際、ナチスのターゲット広告に使われたことすらあったにも関わらずだ)。

Facebookの規模は人道上の問題だが、Facebookはそうとは考えていない。その代わりに同社は、2020年中にモデレーションの強化を図り、監督委員会に委託した事例を通じて宝くじ並みの確率で上告する予定だ。

今回の追加的な監督がおよぶ程度は、当然のことながら非常に限定的なものとなる。これは最後の手段だ。Facebookのモデレーターが毎日毎秒拾い出しているものから比べると、信じられないほどわずかなコンテンツを扱うに過ぎず、サクランボ狩り的なアピールの場だ。だがそこから現実世界に影響が波及し、雨が降る。

「委員会は、当初はわずかな案件のみを扱うことになりますが、時が経つに連れてその範囲を広げ、業界内の多く企業も含まれるようになる可能性があります」と、先週、予定されたキックオフの時期はまだ数カ月も先であるにも関わらず、出力期待値を維持しようとザッカーバーグ氏は述べた。その後は、彼が大好きな“将来の期待”の話に移行した。

同社はまた、緊急の案件を通常の手続きを一足飛びにして直接委員会に送り、素早い意見が求められる権限を自身に与えている。会社側のコンテンツに関する質問が優先されるようにだ。

驚くべきことにFacebookは、この自らの都合に合わせた監督機関を独立機関だと喧伝している。

監督委員会という大げさで官僚的なこの名称は、独立した監督委員会という偏向した大見出しでFacebookに花を添えている。しかし、Facebookがこれまでに広めてきた監視委員会に関するその他の文書では、独立したという形容詞はなぜだか見あたらない。先日公表されたばかりの、委員会の権限、範囲、手続きなどを定めた憲章にも登場しない。

「Facebookの監督委員会への関与」と題したザッカーバーグ氏の意見をまとめた書簡を伴う9ページの文書でも、独立したという文言は外され、いつもの心地よい世界に引き戻されている。なんかおかしい。

ザッカーバーグ氏の書簡には、委員会が独立していることを示す言葉がいくつか見受けられる。「独立した組織」であるとか「独立した判断」を行うなどだ。しかし、これはあくまでマークの個人的な意見に過ぎない。

「部屋の中に象がいる」的な誰も口にしたくない大きな問題は(象の比喩を使うとすれば、例えば委員会の会議室の机に見せかけるためにFacebookによってきれいなコスチュームを着せられている象か)、最高指導者が命令に従わず有効な監督の判断に失敗し続けていることだろう。

最高指導者は、FacebookのCEOであるザッカーバーグ氏を適格に言い表している。株式構造と彼が持つ議決権により、ザッカーバーグ氏以外の何者もザッカーバーグ氏をクビにできないことになっているからだ。昨年、Recodeのカーラ・スイッシャー氏がポッドキャストのインタビューで、Facebookのプラットフォームで問題となった無数の言論関連の不祥事の責任をとって辞任しないのかと尋ねたところ、ザッカーバーグ氏は一笑に付した。

これは企業ガバナンスの独裁だ。Facebookの少年王は、一切の内部チェックなしに世界中で強大な力を行使できる。言うなれば倫理的責任を伴わない権力だ。

ザッカーバーグ氏のFacebookのCEOとしてのお詫びの旅は今年で15年目になるが、次は同じ過ちを犯さないとも、冷淡な拡張主義者の野望が消えたとも話してはいない。もちろん、彼は今もそれに専念している。国際デジタル通貨(リブラ)計画や、出会い系サービスの強気の植民地化(Facebookデーティング)だ。個人情報や広告による金の流れを確保するものならなんでもありだ。

先日、Facebookは米連邦取引委員会に50億ドル(約5400億円)の制裁金を支払った。これは、個人情報の管理態勢や規約の施行での失態に関して、上級幹部が質問を受けるのを避けるための手段だ。そしてザッカーバーグ氏とその仲間は、普段どおりのプライバシー無視の儲かる仕事に戻ることができた。ちなみに、Facebookの2018年の年間収益は558億ドル(約6兆円)を記録した。

これらすべてが、独立したFacebookお手製の監督委員会がザッカーバーグ帝国の内外を問わず、実際の規制を欠いた空洞に貼り付ける光輝く絆創膏に過ぎないことを示している。

これはまた、Facebookが民主的な説明責任から逃避し続けていることを覆い隠すものでもある。同社の広告プラットフォームが素早く、しかも杜撰に人々の人権や生活をもてあそんでいる事実から人々の目をそらすために、Facebookの創設者は国会議員からの質問には答えず、不祥事にまみれた業務上の意志決定の責任もとらず、民主主義やコミュニティーを歪めている。ザッカーバーグ氏のためにプライバシーが死ぬことなどあってはならない

責任回避などという言葉では生ぬるい。Facebookのやり方は、もっとずっと積極的で攻撃的だ。Facebookのプラットフォームは説明責任も監督もなく、私たちを変えようとしている。さらに、私たちが民主的に選出した代表者にそれを変えさることを阻止するために、偏向した情報を流したり、事業の姿をあれこれ変形させることに利益をつぎ込んでいる。

書簡の中でザッカーバーグ氏は、民間の監督や法体系といった言葉を彼が呼ぶところのプロジェクトにふさわしい形に言い換えているが(すべてを自分でお膳立てしたコンテンツ関連の意志決定を行う審査機関の条件から外れないように。Facebookが作成したその憲章では「Facebookのコンテンツポリシーと価値に沿って審査と決定を行う」と規定されている)、まったくニュース価値はない。Facebookのトップがどんなに偏向報道に精を出してもだ。

米国外で彼の製品を利用している数億人のユーザーの中から民主的に選ばれた代表者の質問に答えることにFacebookのCEOが同意したなら、それはニュース性の高い衝撃的な話となるだろう。

定期的に質問や不安に答えるべく、ザッカーバーグ氏が世界の国会議員に面会することに同意したなら、それも本当に驚きのニュースとなる。

しかしそれは絵空事だ。彼の帝国はそのようにはできていない。

その代わりにFacebookのCEOは、歴史的に前代未聞の偽情報マシンの能力に匹敵する勢いで、民主的な監視をかわしてきた。昨年の米国議会に出席して非協力的な質問のはぐらかしに終始していたし、当初非公開で行われた欧州連合の会派長会議の定型会議(欧州議員の反発で公開化された)では、質問に答えずにヤジを浴びた。

つい最近では、彼はドナルド・トランプ米大統領と握手を交わしている。その意見の一致がどこへ向かうのかは、憶測するしかない。権力が無責任と出会った。またはその逆か?

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今日、オーバルオフィスでFacebookのマーク・ザッカーバーグといい会談ができた。

世界の議員たちは、世界のFacebookユーザーの大多数を代表して、ザッカーバーグ氏を綿密に調査し、彼の広告事業を民主化しようと試みているがこれまで露骨に無視されてきた。

今月も、ザッカーバーグ氏は今年の12月にダブリンで招集される偽情報に関する国際拡大会議での説明を求める招待を3回連続で断ったばかりだ。

今年の初めにカナダで開かれた2回目の会議でも、ザッカーバーグ氏とCOOのSheryl Sandberg(シェリル・サンドバーグ)氏は出席を拒否した。そのためカナダ議会は、両氏を倫理委員会に召喚するよう議決した。

一方で昨年英国議会は、インターネット上の偽情報に関する時宜にかなった質問に対して、偏向報道やはぐらかしに長けたザッカーバーグの一連の代理人たちによって誤魔化されてしまうというFacebookの非協力的な態度に業を煮やした。それが政府をまたぐ化学反応を招き、偽情報に関する国際拡大会議が一瞬で結成された。Facebookに民主的圧力をかけようと複数の国の議会が集結する。

不誠実なFacebookの態度にフラストレーションを募らせた英国のデジタル、文化、メディアおよびスポーツ委員会も、魔法の議会権限を行使して米国での訴訟に提出されたFacebookの内部書類を入手し、ザッカーバーグ氏の疑惑の装置の中に組み込まれた世界観を暴こうとクリエイティブな試みを行っている。

それらの書類からは、Facebookの事業の実態が垣間見られたが気持ちのいいものではなかった

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Facebookの事業の実態。
(マーカー部分)「人間が切れかかっている(広告主の観点で価値のある人間を使い切ってしまった)」

米国の法的な発見は、国家規模の獣の腹からデータを引き出すことができる唯一の信頼できる外圧になりそうだ。その巨大さが民主主義の障害になっている。

そこでFacebookは自分で作った監督委員会に、すでに知れ渡っている道のこぶを平らに均す以外のことなら何でもするよう、そして普段どおりFacebookが事業を進められるように舗装するように指示を出した。これはあたかもコーク兄弟に化石燃料権益から独立したシンクタンクを作らせるようなものだ。監督委員会はFacebookの最新の危機管理ツールだ。民主主義を無効化する契約書に軽率にも署名してしまった人たちを、さらに騙すものだ。

憲章をよく調べてみると独立のボロがすぐに現れる。

監督委員会がFacebookのためだけに存在しているという最も重要で明白な事実のほかに、Facebookはそれを子どもを生み続ける親システムの運用を継続させるための従属機能にすることを目指している。さらに、その資金を提供する者も憲章に書かれた目的の責任を負う者も、まったく同一の神だ。同時にその神が監督も行うことになっている(利害が衝突する)。そして憲章にはFacebook自身が最初の委員を選出すると明記されている。その委員が、最初のメンバーとなる残りの委員を選出する。

「委員会の最初の構成を支援するためにFacebookは共同議長を選出する。その共同議長とFacebookは、一緒に委員会の残りの席を埋める人間の候補を選択する」と穏やかな安心感を与える口調で薄灰色のFacebook語で書かれている。何が言いたいのか。その実質的な内容がわかれば「おい、独立性なんて欠片もないじゃないか!」となる。

初代のFacebook公認メンバーは、発達段階の判例に責任を負うことになる。つまり、彼らは基礎となる判例を積み重ね、今後はそれに(Facebookの憲章に沿いつつ)従うようになるのだ。

「すべての決定において、それ以前の委員会の決定は、事実、適用可能なポリシー、その他の要素が実質的に類似している場合、先例としての価値を持ち、高い説得力のあるものと見なされる」と「意志決定の基本」という解説部分に記されている。

この問題点を特筆する必要もないだろう。これではFacebookは変わらない。これまでコンテンツのモデレーションの決定の基準になってきたFacebook第一の精神とまったく同じだ。今回はただ、監督というピカピカに磨かれた豪華な衣装をまとっただけだ。

説明責任も果たしていない。Facebookは、透明性恐怖症の役員たちを民主主義(と倫理)の監視から隔絶するための批判対策ファイアーウォールで囲んで実際の規制から事業を守ろうとしている。そして、ザッカーバーグ氏とその仲間たちを、ケンブリッジ・アナリティカのときのような玉座を揺るがしかねない未来のコンテンツ関連の不祥事から保護しようとしている(先週起きた別の事件から判断するに、その使命はあまりうまくいっていないようだが)。

Facebookが、今後どれだけ民主主義の厳しい監視の目を避け続けるかによってインチキな監視構造をでっち上げてまで自身の代わりにネガティブな宣伝を行おうとするなら(そう、さらなるフェイクだ!)、Facebookが何を隠したがっているのかを真剣に疑わなければならない。

それはブラックホールサイズの倫理の真空地帯なのか?それとも、民主的な世界の秩序を完全に支配できるようになるまでの単なる時間稼ぎなのか。

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つまり、FBは通貨を欲しがり、今は最高裁場所で、次は何だ。軍隊か。

当然のことながら、監督委員会は実際のFacebookのポリシーを作れるわけではない。馬鹿を言っちゃいけない。委員会にできるのはポリシーの提案だけだ。そしてFacebookは、それをあっさり無視する。

監督委員会がこれから何年間も存続すると想像すれば、委員たちがFacebookの都合に合わせて設定したサポートゾーンから飛び出すことも理論的にはあり得る。しかし、憲章は別のファイアーウォールに焼き付けられているため、ザッカーバーグ氏は自分が気に入らないポリシー上の圧力はすべて無視できてしまう。監督委員会がそこまで独立心を持つチャンスは極めて低い。まさに、そこに見るべきものは何もない。

企業の利益の上に構築された機関が中立的な助言や透明な監督の役割を果たすなどというのは、つまり、はっきり言って知的な専門性の衣装を身にまとった利己的なプロパガンダを広めることだが、たいていがイカサマだ。

だからこそ、民主主義の中で生きるのが好ましいのだ。そして、透明性に関する法的執行基準に規制された民主的に信頼できる機関による管理が好ましい。ところがFacebookは、そうではなく企業の都合によって操作されることに一票を投じるよう、あなたを説得したいと考えている。

そのため、Facebookの監督委員会は透明に運用されるという主張が正しいように聞こえても、まったく意味のないことだ。それは法的な基準による透明性ではない。Facebookは商売だ。民主的な組織ではない。そこに法的拘束力は及ばない。自己規制だ。ゆえにパントマイムだ。

Facebookが、監督委員会をFacebookの最高裁判所と呼ぶことを避けている理由がわかる。それでは骨に近づきすぎるからだ。

法的な透明性の基準(または民主的な説明責任)が適用されなければ、Facebookの自己の利益が監督委員会、監督の信頼性、その他のFacebookの事業との分離が主張されているその隙間に浸透する機会を永遠に得ることになる。それは、案件の選択、決定、ポリシーの提言を形作り影響を与え、感情的になりやすい話題の周囲に物語を作り上げるための議論の種を蒔いて操作し怒りの言動を煽る。すべては独立した外部の監督に入念にかけられたカバーの下で行われる。

Facebookが作り上げ、資金を提供した機関が、Facebookにあらゆる物事に対して責任を取らせるだけの有効な力を持つなどと思い込まされてはいけない。または今回の場合は、折り合いの付かない論争での強い批判を吸収するために作られた機関なのだから、Facebookは何もしないでよいなどと思わされてもいけない。

たとえ、ザッカーバーグ氏の宣伝手段に組み込まれるのが本当に独立した委員だったとしても、Facebookのビジネスモデルが、巨大な規模で人の気を引き、プライバシーを踏みにじり個人情報を集めることから離れない限りは、同社のポリシーに人間的な方向での有意義な影響を与えられるとは、とうてい思えない。委員会のポリシー提言は、新しいビジネスモデルを要求できなければいけない。とはいえ、Facebookがこう言うのは目に見えている。「笑えるね!断る」。

監督委員会は、ひとつの国家に匹敵するほどのユーザーベースを有し、その膨大な資産をイメージ作り(とFacebookは見ている)に投入する企業の、批判を避けるための最新の宣伝活動に過ぎない。つまり、民主的な監視や政府の規制をすり抜けるためにあらゆる手段を尽くしつつ、善良な企業市民と見てもらための方策だ。蛇足ながら、まず根底に問題があると疑わない限り、何事も改善はできない。

選りすぐった独立した少数の専門家の意見が特定の企業の課題を前進させる方法の実例を探すならば、Google(グーグル)の外部委員会を見ればいい。2014年、欧州司法裁判所の“忘れられる権利”の規定に対応して、グーグルがヨーロッパに設立したものだ。この規定はグーグルの業務上の利益を損なう、上訴もできない司法判断だった。

Googleは、外部の人間による諮問委員会と名付けた機関を、おもに宣伝手段として使った。数多くの公開ヒアリングを行い、規定に反対する大きな議論を巻き起こし、ロビー活動も行った。こうした流れの中でGoogleは、EUのプライバシー規制に対するそのあからさまで利己的な批判に、学識のある、地域の事情に精通した、学術的な懸念を抱いたような雰囲気をまとわせていった。これは、外部の人間がそのプラットフォームで任期を務めてくれたお陰だ。

Googleはまた、諮問委員会には、規制の履行に関する意思決定プロセスを左右する権限があると主張していた。その最終報告書では、Googleの意向を汲んでヨーロッパのドメインでの検索インデックス除外を実施することにした(グローバルなcomは含まない)。報告書には反対意見も盛り込まれていた。しかし、Googleが望むポリシー上の立場が勝利した(Googleがお膳立てした委員会には善人も入っていたわけだ)。

Facebookの監督委員会は、また別の利己的な巨大ハイテク企業の曲芸だ。そこでは外向きに大きな出し物を見せつつ、ひと握りの難しいコンテンツに関する意志決定を外部委託するかどうかを自分で選べるようにしている。しかも、民主的な説明責任から逃げ回るために一般のそして政府の注意をそらす役割も果たしている。

今回のFacebookの見せかけの芝居において最も悪質なことは、Facebookのコンテンツ事業の末端の現場で毎日根を詰めて働いている何千ものモデレーターたちに、世間の人々の目を向けさせないようにしていることだろう。彼らは外部委託された声なき労働者だ。Facebookにアップされた中で、最も悪質と思われるコンテンツを短時間で処理しなければならない。いくつものメディアが伝えているが、彼らは精神的ストレスや感情的なトラウマ、さらにはもっと深刻な病に悩まされている

なぜFacebookは、現在抱えているコンテンツ専門家集団の適正な地位について公表するように委員会に言わないのか。また、ポリシー提言の権限を与えると委員会に言わないのか。

監督委員会のメンバーを、コンテンツ適正化のために雇われた人たちの中から選ぶことをFacebookが積極的に支持するとは考えにくい。Facebookはすでに、パイプから何が湧き出てくるかを心底恐れる人間的な感情が事業をストップさせてしまわないように彼らに金を払っている。

監督委員会のメンバーになるための資格について憲章には「メンバーは、思慮深く、偏見を持たずチームに貢献できる経験が実証された者でなければならない。一連のポリシーまたは基準にもとづく意志決定とその説明ができる能力を有し、デジタルコンテンツ、ガバナンス、表現の自由、民間の議論、安全、プライバシー、そしてテクノロジーに関連する問題に精通していること」と書かれている。

世界広しと言えども、この技能をすべて揃えたFacebookのモデレーターなど存在しない。そんなわけで、Facebookの監督委員会は彼らからの志願書は受け付けないだろう。

[原文へ]

(翻訳:金井哲夫)