クラウド需要の急増が突きつけるグリーンエネルギーの課題

このロックダウン期間中に、膨大な数の人が仕事でビデオ会議を行っている。しかし、燃料を使う通勤手段をデジタルコネクティビティで置き換えると、個人が2時間のビデオ会議で使用するエネルギーは、4マイル(約6.4km)電車に乗る場合に使う燃料よりも大きなものになる。これに加えて、数百万人の学生が、徒歩ではなくインターネットを使って教室に「通って」いる。

一方、デジタル空間の他の領域では、科学者たちが研究を加速するためにアルゴリズムを猛烈な勢いで展開している。にもかかわらず、ひとつの人工知能アプリケーションのパターン学習フェーズが消費するエネルギーは、1万台の自動車が1日で消費するものを上回る可能性があるのだ。

社会のエネルギー使用を変化させるこの壮大な「実験」は、少なくとも間接的には、ある高レベルの事実セットで見ることができる。4月の第1週までに、米国のガソリン使用量は30%減少したが、全体的な電力需要の現象は7%未満だった。この動きは、実際のところ将来の基本的な傾向を示している。移動用燃料の使用量は最終的には回復するだろうが、真の経済成長は電気を燃料として使うデジタル未来に結びついている。

今回の新型コロナウイルス(COVID-19)危機は、経済が最後に崩壊した2008年のような「大昔」のインターネットと比べて、2020年のインターネットがどれほど洗練され、堅牢であるかを浮き彫りにしている。もし当時、全国でロックダウンが行われていたとしたら、現在在宅勤務している数千万人のほとんどが、解雇された約2000万人の集団に加わっていただろう。また当時だったら、何千万人もの学生や生徒が自宅で学習することも、大学や学校にとって現実的なものではなかった。

アナリストたちは、あらゆる手段での在宅勤務によるインターネットトラフィックの大幅な増加を様々な場所で発表している。デジタルトラフィックを使った手法は、オンライン食料品からビデオゲーム、そして映画のストリーミングまで、あらゆるものに対して急増している。これまでのところ、システムはすべてを適切に処理しており、クラウドは継続的に利用可能で、散発的な問題が発生する程度だ。

新型コロナウイルス危機に際してのクラウドの役割は、ワンクリックのテレビ会議やビデオチャットだけではない。遠隔医療がついに現実のものになった。例えば、症状を自己診断するためのアプリや、X線診断を強化したり、接触者追跡を支援するAIツールがどんどん登場している。また、クラウドを利用することで、研究者は臨床情報の「データレイク」を迅速に作成し、治療法やワクチンを探求するために展開されている現代のスーパーコンピュータの天文学的な能力を活用できるようになった。

AIとクラウドの未来は、新しい治療法のための超迅速な臨床試験はもちろんのこと、実用的な家庭診断や便利なVRベースの遠隔医療とともに、上記のようなことをたくさんもたらしてくれるだろう。そして、ここに述べたことは、医療の一部ではない残り80%の経済で、クラウドが何を可能にするかについてはまだ何も述べていないのだ。

これらの新機能がもたらしてくれるすべての興奮のために、クラウドコンピューティングの背後にある基盤システムは、エネルギーの需要を増やし続けている。エネルギーを節約するどころか、私たちのAIを利用した作業環境では、これまで以上に多くのエネルギーが使用されている。これは、テクノロジー業界が今後数年間で迅速に評価および検討する必要がある課題なのだ。

新しい情報インフラストラクチャ

クラウドは重要なインフラストラクチャである。これにより、多くの優先順位が再構成される。ほんの数カ月前には、ハイテク業界の大企業たちは、エネルギー使用量の削減と運用のための「グリーン」エネルギーの推進についての誓約の公言に対して、お互いに肩を並べていた。もちろん、そうした問題は引き続き重要だ。しかし、信頼性と回復性、つまりシステムの可用性(availability)が今や最優先事項となった。

2020年3月、国際エネルギー機関(IEA)の専務理事であるFatih Birol(ファティ・ビロル)氏は、風力発電と太陽光発電の将来について、外交的な控えめな言葉で次のように語っている。「今日、私たちは、デジタル技術への依存度がさらに高まっている社会を目の当たりにしています」そのことは「政策立案者が極端な状況下での柔軟性のある資源の潜在的な可用性を慎重に評価する必要性を強調しています」。新型コロナウイルスの危機に続くだろう経済的に困難な時代には、「可用性」を確保するために社会が支払わなければならないコストがはるかに重要なものになるだろう。

太陽光および風力技術で 高信頼性の電気を提供することは、依然として法外に高価なものだ。太陽光、風力発電が「グリッドパリティ」(既存電力コストと同等もしくはそれ以下になること)になっていると主張する人びとは、現実を見ていない。データによれば、風力発電や太陽光発電のシェアが米国よりもはるかに高い欧州では、送電網のキロワット時(kWh)のコスト全体が約200~300%高くなっていることがわかる。注目すべきは、消費者の大きな負担を横目に、テック企業を含む大規模な産業用電力需要家は、一般的にグリッド平均からの大幅な割引を受けているということだ。

やや単純化していうならば、大手ハイテク企業がスマートフォンにデータを流すための電気代への支払いが少なくて済むように、各消費者が家庭の電力供給に対して多くのお金を払っていることを意味する(私たちは、今回の危機後の世界で、市民がこの非対称性に対してどれほど寛容であるかを見届けることになるだろう)。

そのような多くの現実は、実際には、クラウドのエネルギー動向が個人的な移動と反比例するという事実によって隠されている。個人的な移動を考えると、消費者は自分の車のガソリンタンクを満たすときに、エネルギーの90%が費やされる場所を、文字通り自分の目で見ている。しかし「接続された」スマートフォンに関していえば、エネルギー消費の99%は遠隔地にあるクラウドの、広大なしかしほとんど目に見えないインフラの中に隠されているのだ。

こうした方面に詳しくない人のために説明すると、クラウドを駆動する貪欲なデジタルエンジンは、人の目に触れない何の変哲もない多数の倉庫規模のデータセンターの中に格納されている。そこには膨大な数の冷蔵庫サイズのラックが立ち並び、そこに置かれたシリコンのマシン群が、私たちのアプリケーションを実行し爆発的に増えるデータを処理している。多くのデジタルの専門家でさえ、そうしたラックのひとつひとつ毎年50台のテスラよりも多くの電力を消費していると知ると驚く。さらにこうしたデータセンターは、グラスファイバーで構成された約10億マイル(約16億km)の情報ハイウェイと、400万基の携帯基地局が作り上げる、さらに巨大な目には見えない仮想ハイウェイシステムを通して、データを送受信する(電力消費のさらに激しいハードウェアを備えた)市場と接続されているのだ。

このようにして、数十年前には存在しなかった、グローバルな情報インフラストラクチャは、ネットワークやデータセンターから驚くほどエネルギーを大量に消費する製造プロセスに至るまで、すべての構成要素を数え上げるなら、現在では年間約2000テラワット時(TWh)の電力を使用するシステムにまで成長したのだ。これは、全世界の500万台の電気自動車すべてが、毎年使用する電力の100倍以上の量だ。

これを個人レベルの話にするなら、個別のスマートフォンが年間で使用する平均電力は、典型的な家庭用冷蔵庫が使用するエネルギーよりも大きいことを意味している。そして、このような見積もりはすべて、数年前の情勢に基づいたものだ。

よりデジタル化される未来は、必然的により多くのエネルギーを使用するだろう

一部のアナリストは、近年デジタルトラフィックは急増しているものの、効率性の向上により、データ中心のエネルギー使用量の伸びは鈍化しているか、あるいは横ばいになっていると主張している。しかし、そのような主張は、拮抗する事実に直面している状況だ。2016年以降、ハードウェア建物 に対するデータセンターの支出が劇的に増えてしているが、そこにはハードウェアの電力密度の大幅な増加も伴っている。

近年、デジタルエネルギーの需要の伸びが鈍化したかどうかとは関係なく、クラウドの急速な拡大が進んでいる。クラウドのエネルギー需要がそれに比例して増加するかどうかは、データの使用量がどれだけ速く増加するか、そしてクラウドの用途に特に大きく依存する。エネルギー需要の大幅な増加は、クラウドの中心的な運用指標 、すなわち可用性を満たすための、エンジニアリングと経済的な課題をはるかに難しいものにする。

過去5年間でその前の10年間全部よりも、広い面積のデータセンターが 建設された。「ハイパースケール」データセンターと呼ばれる新しいカテゴリさえも生まれている。それぞれが100万平方フィート(約9万3000平方メートル)を超える、マシンで満たされた建物のことだ。これらを、1世紀前の不動産用語である「超高層ビルの夜明け」と同じものだと考えて欲しい。しかし、現在の世界には、エンパイアステートビルディング並の大きさの超高層ビルは50棟未満しかないが、地球上には既に約500カ所ほどのハイパースケールデータセンターがある。そして後者は合計すると、6000棟を超える超高層ビルに相当するエネルギーを必要としている。

クラウドトラフィックの成長を推進しているものが何かを推測する必要はない。このリストのトップを占める要因はAI、より多くの動画、特にデータを多用するバーチャルリアリティ(VR)、そしてネットワークの「エッジ」に置かれたマイクロデータセンターの拡大だ。

最近まで、AIに関するほとんどのニュースは、従来の仕事を奪う可能性の側面に焦点を当てたものが多かった。だが真実は、AIは生産性向上を推進するツールの最新版に過ぎない。こうしたツールは、生産性の向上が歴史の中で常に行ったきたことを再現することになる。つまり雇用を拡大し、より多くの人びとのためにより多くの富を生み出すのだ。新型コロナウイルス感染症からの復活の過程では、より多くの雇用や富の生産が必要とされる。だが、それについて話すのはまた別の機会にしよう。現時点では、個人の健康分析やドラッグデリバリーから医学研究や就職活動に至るまで、あらゆる分野の中にAIが果たす役割があることは既に明らかだ。おそらくAIは、最終的には「善い」ものと見なされるようになるだろう。

だがエネルギーに関していえば、AIはデータを大量に使い、電力を大量に消費するシリコンを使用している。そして世界は膨大な数のそのようなAIチップを使用したがっている。一般に、機械学習に費やされる計算能力は、数カ月ごとに倍増している、これはムーアの法則の一種のハイパーバージョンだ。例えば、Facebookは2019年にデータセンターの電力使用量が毎年倍増する主な理由としてAIを挙げている。

近い将来、数週間のロックダウンの最中に、小さな平面スクリーンでのビデオ会議の欠陥を経験した消費者たちが、VRを使ったビデオの時代への準備が整っていることにも期待しなければならないだろう。VRでは画像密度は最大1000倍までに増加し、データトラフィックが約20倍に増加する。進み方は断続的だったが、技術的には準備ができており程なくやってくる高速5Gネットワークは、そうした増加するピクセルを処理する能力を備えている。ただし繰り返しておく必要があるが、すべてのビットは電子であるため、バーチャルリアリティの増加は現在の予測よりも多くの電力需要につながることを意味している。

これに加えて、顧客の近く( エッジ )にマイクロデータセンターを構築する最近の傾向が挙げられる。会議やゲーム用のVR、自動運転車、自動化された製造業、あるいはスマート病院や診断システムなどの「スマート」な物理インフラなどのリアルタイムアプリケーションに、遠隔地のデータセンターからAI駆動のインテリジェンスを届けるには、光の速度は遅すぎるのだ(ヘルスケアにおけるデジタルとエネルギーの密度自身は、既に高く上昇している。病院の単位面積あたりのエネルギー消費量は、他の商業ビルの5倍程度に達しているのだ)。

エッジデータセンターは、この先10年も経たないうちに、10万メガワット(MW)の電力需要を積み上げると予想されている。別の見方をすれば、これはカリフォルニア州全体の電力網の電力容量をはるかに超えている。これらもまた、近年のエネルギー予測のロードマップには載せられていなかったものだ。

デジタルエネルギーの優先順位は変わるのか?

これは関連する質問へとつながる。ポストコロナウイルス時代のクラウド企業は、支出をエネルギー免罪符へと集中させ続けるのだろうか、それとも可用性へと集中させるようになるのだろうか? この場合の免罪符とは、自社施設に対する直接給電以外の場所(海外を含む)に対する、風力、太陽光発電への企業投資のことを指している。それらの遠隔地での投資は、実際には自社の施設に電力を供給していないにもかかわらず、自分たちの施設がグリーン電力であると主張するために「クレジット」されている。

グリーンエネルギーを求める企業が、従来の電力グリッドから物理的に切断して、独自のローカル風力、太陽光発電を構築することを妨げるものは何もない。ただし、それを行って24時間年中無休の可用性を確保することで、施設の電力コストは約400%押し上げられることになる。

購入された免罪符としての電力の現状に関しては、世界の情報インフラは既に世界中の太陽光発電所と風力発電所を合わせた発電量よりも、多くの電力を消費しているということを知っておくと役立つ。したがって、テクノロジー企業にとって(誰にとってもだが)、デジタルエネルギーの使用をすべて相殺するための「クレジット」として購入できる十分な風力、太陽光エネルギーは、もはや地球上に存在しないのだ。

デジタルエネルギーの傾向を研究しているひと握りの研究者は、今後10年間でクラウドによるエネルギー使用量が少なくとも300%増加する可能性があると予測していたが、それは今回の世界的なパンデミックの前のことだ。一方、国際エネルギー機関(IEA)は、その期間における世界の再生可能電力は「単に」倍増するものと予測している。その予測もまた、新型コロナウイルス以前の経済状況下で行われたものだ。現在IEAは、不況がコスト高なグリーンプランへの財政意欲を減らすことを心配している

だが電気を作り出す技術の課題や議論がどうであれ、情報インフラの運営者にとっての優先順位は、ますます必然的に、可用性を重視するものへと移っていくだろう。それは、クラウドが私たちの経済的な健康にますます密接に結びつくようになってきただけでなく、心と体の健康にも関係を持つようになってきたからだ。

そうした可用性の重視が引き起こす変化は、パンデミックと前例のないシャットダウンからの経済の回復の先に、何がくるかについて(グリーンエネルギーへの自らの取り組みが活発になるという意味で)私たちを楽観的にしてくれるはずだ。Microsoft(マイクロソフト)が、新型コロナウイルス以前に出したエネルギーマニフェストの中で、「人類の繁栄を進めることは……エネルギーの賢い利用と表裏一体である」と述べていたことを評価しよう(このマニフェストの中でマイクロソフトはグリーンエネルギーへの大規模な取り組みを表明している)。私たちのクラウドを中心とする21世紀型インフラストラクチャもこれと同じだ。そして、良い結果へとつながるだろう。

【編集部注】著者のMark Mills(マーク・ミルズ)氏は書籍「Digital Cathedrals: The Information Infrastructure Era」(デジタル大聖堂:情報インフラストラクチャ時代)」の著者であり、Manhattan Instituteのシニアフェロー、ノースウェスタン大学のMcCormick School of Engineeringのファカルティフェロー、並びにエネルギーテックのベンチャーファンドであるのCottonwood Venture Partnersのパートナーである。

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(翻訳:sako)

すべてのものがランダムに決まる確率論的時代へようこそ

1990年にKleiner Perkinsは、持ち込まれた投資案件の99.4%を却下し、その年には12の新しい企業に投資した。これらの投資によりKleiner Perkinsは“歴史上もっとも成功した金融機関”と呼ばれるようになり、向こう30年間の合計で“1年あたりのリターン40%”を誇示する結果となった。

今日では、シリコンバレーの寵児Y Combinatorが毎年250社あまりに投資している。同社は厳しい審査で有名で、申込者の1.5%ぐらいしか支援しないが、しかしそれでも、全盛時のKleiner Perkinsほど厳しくはない。ただし同社(YC)は、承認案件は多くて、投資単価は小さい。でも当時のKPですら、1994年にNetscapeの25%をわずか500万ドルで買っている。

1995年には、事実上三つのキー局のネットワークがアメリカのテレビを支配していた(ABC, CBS, NBC)。それだけで、1週間を填め尽くすだけの番組量があった。今ではあまりにも多くのテレビ放送があり、一年中毎日どこかで新番組の第一回が放送されている。映画では、1995年には、上位10本の作品が1年間の総興行収入の14%を占めたが、2018年のここまででは上位10作が総収入の25%を占めている。出版もこれに似ていて、いわゆる“中堅作”(midlist)…ほどほどのヒット…がほとんどなくなり、“ベストセラーか失敗作か”という様相に取って代わられた。

1995年にあなたがジャーナリストだったら、あなたの記事の読者数は記事が何に載ったかで決まった。あなたのとっても優れた記事がHalifax Daily News〔カナダの地方紙、2018年廃刊〕に載ったら、もともと少ない読者数のほとんどが、他の記事と同じく、見出しをさっと見るだけで通り過ぎただろう。でもThe New York Timesだったら、ページの隅っこに埋もれたような記事でも、カナダの地方紙でそれを読まなかった人よりも多くの人が、読んでくれただろう。しかし今では、どんな記事でも、複数の出版社間および一つの出版社内の競争において読者数の勝者を決めるのはソーシャルメディアによる共有であり、それは必然的にべき乗則従う。つまり、意外なほど少数の記事が、読者数の大半を奪う。

これらの共通項は何だろうか? いわゆる“ヒット”の数は比較的一定だが、それらの価値が大きくなっている。そして、その他大勢(swings)の数が今や大きすぎて、どんな個人も、そしてどんなグループさえも、それら中堅作にしっかり注意を払うことができない。だから個々の結果や作品などにフォーカスすることは今や無意味であり、むしろあなたはコホート(特定集団)にフォーカスし、確率論的に考えるようになる。〔コホート自体はランダムに決まり、それら上位作のオーディエンスが雪崩(なだれ)的雪だるま的に急増する。〕

“確率論的”とは“ランダムに決まる”という意味なので、初めてこの言葉を聞く人は逃げ腰になるだろう。たしかに、製作者も投資家もパブリッシャーも、ランダムに動いてなんかいない! 彼らは大量の分析と努力と知恵を傾けて何かを作っている! それは本当だがしかし、ぼくが言いたいのは、そういう情報管理者たちの力は先細っているし、そして自称監督、CEO、評論家等々は急増し、制作や発表の費用は激落していることだ。そんな中では、ランダム性がますます重要な要素になってるのだ。

挿話は、簡単に見つかる。売値が100万ドルだったときのGoogleを、Exciteが買収していたら、どうなっていただろう? Picplzが成功してInstagramが失敗したときから、一体何年経っているのか?〔ちょっとしか経っていない〕。 正直なサクセスストーリーには運の要素が必ずあり、それはここの文脈ではランダム性の一種だ。ぼくが言いたいのは、世界の大きなトレンド…相互接続性の増大や、その高速化、テクノロジーへのアクセスの大衆化…これらによってランダム性はますます重要な要素になる、ということだ。

それは一概に良い(善い)こととは言えない。ランダム性は、ときにはランダムなテロだったりする。それは、“マスコミュニケーション的情報通信技術の大衆化が特定の個人や集団を攻撃する手段になり、それがテロを誘起し、それらは統計的には蓋然的と言えても、実際に起きるときにはランダムに起きるように見える”、ということだ。殺し屋たちがISISに加わるとき、事前に十分なコミュニケーションなどなんにもない。これをもっと一般的かつ論争的に言うなら、憎悪や過激主義がブロードキャストされることによって、政治的暴力が助長されるのだ。

そして、気候変動はますます確率論的な災害になってるようだ。温暖化で大気中のエネルギーが増え、なお一層不安定な動きをするようになる。すると、旱魃や山火事、ハリケーンなどの大災害も増える。気候変動が、それらを起こしているのか? いや、直接そうではない。それらが起きる確率を大きくしているだけだ。確率が大きくなり、当たる頻度が増している、という言い方でもよい。

このことは、人間の努力のどの分野にも当てはまるわけではない。しかし、本質的に異常で極端な成功や失敗を動因とする分野なら、そのどれにも当てはまる。それらは、Nassim Talebが造語したextremistanだ。 Extremistanは至るところでますます極端へと成長し、その肥大が終わる気配はない。

画像クレジット: Piere Selim/Wikimedia Commons; クリエイティブ・コモンズ CC BY 3.0のライセンスによる。

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(翻訳:iwatani(a.k.a. hiwa

個人のプライバシー vs. 公共のセキュリティ

個人のプライバシーというのはかなり新しい概念だ。ほとんどの人はかつて、互いの暮らしに絶えず首をつっこむような緊密なコミュニティーの中で暮らしていた。 プライバシーは個人の安全面で重要な部分を占めているという考えはもっと新しいものだ。よく比較の対象となる公共セキュリティの必要性−例えば壁を築き、ドアを施錠する−というものは明白だ。政府に反発するアナーキストすら、暴力的な敵やモンスターがいることを認めるだろう。

富める人々なら、自己防衛用に高い壁を築き、ドアを閉めるということができる。プライバシーというのは、長い間、ぜいたくなものだったし、今でもそういうふうにとらえられている。“使い捨て”の財産であり、あるといいけれど、しかし必須というほどではない。人間にとって、ほとんどプライバシーなんてないような小さなコミュニティーで暮らすというのは驚くほど簡単なことだし、本能的なことでもある。半ば厭世的で内向的な私ですら、小さなコミュニティーで何カ月も暮らし、意外にもびっくりするほどそれが自然なことだと気づいた。

だから、テクノロジー上のセキュリティが、公共セキュリティとプライバシーの間での交換のように扱われる時、最近ではそうした傾向が強いが、公共セキュリティが優先される。これは、悪用されるかもしれない暗号化された携帯端末に政府がアクセスできるよう、バックドアという“万能の鍵”に対する需要が常にあることを考えると明らかだ。そうしたシステムはハッカーやストーカーという悪徳な人たちによって必然的に攻撃されるだろう、という事実に基づいているともいえる。あまり考えられないかもしれないが、システムへの攻撃がない状況で万能な鍵が存在していたとする。利用制限内で政府関係者がそれを使用できる場合、その行為が実行されるべきかどうか、というのは道徳的には非常に判断が難しい。

カリフォルニア州での車のナンバープレートリーダーを考えてみてほしい。このリーダーでは間もなく、ほとんどの車の正確な位置をほぼリアルタイムに追跡できるようになる。また、ゴールデンステートキラー(カリフォルニア州連続殺人事件の犯人)がどうやって特定されたのかも考えてみてほしい。彼は、オープンになっている遺伝子データに基づくオンライン家系図サービスでたぐって特定されたのだ。つまりこういうことだ。データジャーナリズム先駆けメディアであるFiveThirtyEightにあるように、たとえあなたがデータ共有に加わることを選択していなくても、すでに取り込まれていて、そのデータの共有から身を引くことはできないのだ。ハッカーがそうしたデータに手を出すことがないとしたとき、どの程度であればそれが基本的に許されるのだろうか。犯罪者をとらえ、テロ攻撃を防ぐという公共のセキュリティは、個人のプライバシーよりずっと重要なはずだ。

企業のセキュリティもやはり、公共セキュリティと同様に個人のプライバシーよりはるかに大事なものだ。最近まで、世界初のプライベートメッセージアプリSignalはGoogleやAmazonのウェブサービスで“ドメイン・フロンティング”という手法を使ってきた。しかしそれも今月までだ。インターネットブロック回避に使われてきたものだが、Googleはこれを使用できなくなるようにし、AmazonはAWSアカウントを終了させようとしている。というのも、GoogleやAmazonにとって攻撃されやすい人たちのプライバシーはさほど重要ではないからだ。Facebookの数えきれないほどの巧妙な個人プライバシーへの侵害も考えてみてもほしい。人と人を結びつけるという名の下に、Facebookは巨大になり、人々はそこから逃れられないものとなっている。と同時に、Facebookは従業員やデータをこれまでになく支配するようになっている。

しかし、厳密な企業秘密がプライバシーはリッチで権力を持った人のためのものという考えを強固なものにしたとしても、プライバシーはやはり必要不可欠と言うわけではない。AmazonやFacebook、Google、そしてAppleまでもが秘密を明らかにしたところで、大した差はないだろう。同様に、普通の人が公共セキュリティのために個人のプライバシーをあきらめたところで、やはり大きな違いはない。皆が互いの職業を知っているコミュニティーでの暮らしは、アパートで住民が互いの名前も知らないというような暮らしに比べ自然で、間違いなく健康的だ。公共のセキュリティは必要不可欠であり、個人のプライバシーはあればいいというものなのだ。

ただし−

ただし、個人のプライバシーと公共のセキュリティを区別するとき、よく知っていてもいいはずの人が広めている考え方は完全に間違っている。私たちが携帯電話のデータ、車のナンバープレートリーダー、遺伝情報、暗号化されたメッセージなどにおける個人のプライバシーについて話す時、そのプライバシーとは私たちが普通に理解しているものとは異なる。普通に理解しているプライバシーというのは、リッチな人のためのものであり、緊密なコミュニティーで暮らす人には必要ないものなのだ。そうではなく、ここでいうプライバシーとは個人情報の収集と使用についてのことだ。というのも、政府や企業は何十億もの人の、かなりプライベート度の高い個人情報を大量に集積している。

こうした情報の蓄積は、蓄積された情報の中身、そして蓄積されていること自体が、個人のプライバシー問題ということではなく、大きな公共セキュリティの問題なのだ。

これに関し、少なくとも3つの問題がある。1つは、プライバシーの欠如というのは、元々の考えとの相違に抑止効果を及ぼす。プライベートスペースというのは、共同体にとっての実験用ペトリ皿だ。もしあなたが、一挙一動が見られている、全ての会話が監視されていると知ったら、プライベートという空間は事実上ないに等しい。何か刺激的なこと、または物議をかもすようなことを試してみようとは思わなくなるはずだ。カメラがあちこちにあり、そして顔認識、足取り認識、ナンバープレートリーダー、Stingraysなどですべての動きが監視されるのだから。

仮に、あなたが属する小さなコミュニティーの雰囲気が好きでなかったら、好みの雰囲気のコミュニティーに移ればいい。しかし、国や州を変えるのはかなり難しい。マリファナや同性愛が西洋諸国で違法だったころのことを覚えているだろうか(いまだに多くのところで違法であるが)。もしユビキタスな調査や、そうした法律の広汎な施行が可能だったらどうだっただろうか。私たちの法律すべてが完全なものであり現代に合致していると自信を持って言えるだろうか。新しいテクノロジーを、すぐに先見の明でもって統制できると言えるだろうか。私には言えそうもない。

2つめの問題は、リッチな人のプライバシーとつながっているが、大衆のプライバシーの消滅だ。これは、現行の法律や基準、確立されたものを永続させ、他人の利益への依存や改悪、縁故資本主義などをはびこらせる。リシュリュー枢機卿の名言がある。賢い男が書いた6行の言葉を誰かが私に渡したとしたら、私はその男を縛り首にするに足る何かを見つけるであろう−。支配層が、自分たちのプライバシーを保持しながら反体制の者のすべての言動を監視するのがいかに簡単なことか、想像してみてほしい。反テロリズムの名の下のプライバシーの消滅が不公平な法律の恣意的な施行となり、親しい人の調査が現状に反発する人への攻撃となるのにそう時間はかからない。

3つめの問題として、テクノロジーは、プライベートなデータを基に世間を操るのにますます長けてきていることが挙げられる。あなたは、広告を悪だと思うだろうか。素行→データフィードバックのループでひとたび人工知能が広告を最適化するようになると、あなたはなんとなく目にする広告を好きになるかもしれない。しかし、プロパガンダ→素行→データループという流れは、広告→素行→データという流れと大して変わらない。まさしく最適化にほかならない。

蓄積されたプライベートなデータが世論を操作するのに大々的に使用されるとなれば、プライバシーというのは個人の贅沢品というものではなくなってくる。富裕層が、自分自身を隠蔽したまま、意見を異にする人の信用を傷つけるために非相称のプライバシーを使うとき、プライバシーというのはもはや個人の贅沢品ではない。絶え間ない調査や、それによる脅威があれば、人々は新しい考えを試したり、論戦的な考えを表明したりといったことをためらうようになる。プライバシーはもはや個人の贅沢品ではないのだ。そうした世界にまだなっていないとして、間もなくそんな世界に生きていかなければならなくなることを私は恐れている。

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(翻訳:Mizoguchi)

スタートアップ時代が終わった後に何が来るのか?

最近シリコンバレーとサンフランシスコには奇妙な空気が漂っている。他所では、つまりデンバーサンチャゴトロントベルリンなどではSilicon GlenSilicon AlleySilicon RoundaboutStation Fなどスタートアップのセンターを育成している。こうした都市は皆、第2のシリコンバレーになることを夢見ているのだ。しかしシリコンバレー自体ではどうだろう? ここでは「スタートアップの黄金時代は去った」という空気が支配的だ。

世界中いたるところで工学や経営学の学位を得た若者たちが第2のFacebook、Uber、Airbnbを創立しようと懸命だ…ポール・グレアムが創立したY Combinator方式のスタートアップ・アクセラレーターがどこの大都市にも生まれている…テクノロジー起業家は生活、経済のあらゆる面をディスラプトしつつある…ビッグビジネスは神経痛の恐竜も同様、動きが鈍く、俊敏で鋭い牙を持った哺乳動物―スタートアップにとって代われられてしまうだろう…。

残念ながら、ノーだ。上に述べたようなことは10年前の話だ。 時代は変わった。いまやスモールではなくビッグであることがもてはやされる。しばらく前から振り子は反対側に揺れ始めた。来るべき10年の主役はスタートアップと起業家ではなく大企業と大企業経営者たちだ。今の優秀な若者は第2のザッカーバーグになろうとするよりザッカーバーグの会社で働くことを目標にしている。

1997年から2006年ごろのインターネット時代の到来はAmazon、Google、Facebook、Salesforce、Airbnbといった新たな企業を登場させた。インターネットはそれほど革命的だった。数人の若者がガレージや学生寮の1室で新しいサイトを立ち上げ、数百万ドルの資金を手に入れ、世界を変えるような存在に成長することが可能だった。その後、2007年から2016年にかけてのスマートフォンの時代にはUber、Lyft、Snap、WhatsApp、Instagramなどが注目された。スマートフォン・アプリの登場はインターネットの登場に近い大きな影響を与えた。

しかし周囲を見回してもインターネットやスマートフォンに匹敵するような革命が起こりつつある様子はない。ウェブはすでに巨大企業に分割占領されている。誰もがすでにスマートフォンを持っており、アプリの世界を支配するのもビッグビジネスだ。ウェブにせよスマートフォンにせよ、現在のテクノロジーはきわめて複雑で開発には莫大なリソースを必要とし、ビッグビジネス以外には手に負えない規模となっている。

2017年のシード投資がダウンしたのは偶然ではない。Alphabet、Amazon、Apple、Facebook、Microsoftは「テクノロジー分野のビッグ5」から世界でももっっとも時価総額が大きい上場企業5社へと成長した。世界の支配者はこの5社とそれに続く大企業グループだ。

次世代の重要テクノロジーにはAI、ドローン、AR/VR、暗号通貨、自動運転車、IoTが含まれることは常識となっている。これらの技術が全体として社会を大きく変えることは確実だが、当初のウェブやスマートフォン・アプリに比べると圧倒的に複雑であり、多くのスタートアップの手が届かない範囲にある。以下個別に問題点を見ていく。

AI:実装には並外れた才能を必要としない。というか機械が学習する基礎となる膨大なデータなしにはいかに才能があっても役に立たない。それでは誰がそうした巨大データの山を所有しているかといえば、先程述べたビッグ5だ。プラス中国のTencent、Alibaba、Baiduだろう。

ハードウェア:これはドローンやIoT(モノのインターネット)デバイスが中心になるが、プロトタイピングが困難で大きな資金を必要とする。また一般に製造業はマージンが低く、スケールさせるのも難しい。FitbitJawboneJuiceroHTCなどの例を見てみるとよい(ただし新しく登場しつつあるハードウェアを基礎とするソフトウェアやサービスは例外だろう。こうした分野のスタートアップは成功の確率が平均よりずっと高いと思われる)。

自動運転車: 言うまでもなく金がかかる分野だ。バイオもそうだが、こうした分野は巨大企業による資金投入の競争の場となっている。少数のスタートアップは有利な条件で買収される可能性があるが、それ自身で大企業に成長できる可能性はほとんどない。

AR/VR: 現在すでに当初の楽観的な普及の予測は大きく外れている。ハードウェアは依然高価であり、ソフトウェアの開発も依然として難しい。スタートアップのMagic Leapは20億ドル近く(!)の投資を集めたにもかかわらず、まだ何のプロダクトも発表できない。(根拠の有無はともかくとして)Theranosと比較する懐疑的な意見も出ている。一方、MicrosoftのHoloLens、GoogleのCardboard / Tango / ARCore、AppleのARKitは着実に前進し続けている。

暗号通貨: これは別にスタートアップに価値を与えるようなテクノロジーではない。これは新たな分散型の通貨とそれによるエコシステムを創造しようとするテクノロジーだ。Bitcoin自体の価値はBitcoinをベースにしたスタートアップの会社評価額とは比べ物にならないほど大きい。Ethereumについても同じことがいえる。信奉者は暗号通貨が世界のすべてを変えるはずだと主張するが、このTwitterのスレッドを読めば、私のようにインターネット経済は非中央集権化されるべきだと信じている私でさえ、そこここでうなずかざるをえない。

Blockchain/暗号通貨に関する賛否の意見 

とすると、テクノロジー・スタートアップの出番はどこに求めたらよいのだろうか? 成功へのハードルは高いだろう。大企業、願わくばトップ5に買収されるというのがベストの可能性かもしれない。もちろん例外的に独自の成長を遂げるスタートアップも現れるだろう。しかしスタートアップがブームであった頃に比べるとその数はずっと少ないはずだ。

こうした移り行きをすでに現実のものだ。たとえばY Combinatorを考えてみるとよい。スタートアップ・アクセレーターというコンセプトのパイオニアであり、あらゆる意味でその模範となる存在だ。YCのクラスに入るのはハーバード大学に入るより難しいと噂されるくらいだ。ではその卒業チームはどうなっただろう? 5年前、 2012年にはYC出身のトップ3といえばAirbnb、Dropbox、Stripeであり、まさに世界を変革する勢いだった。

では早送りして現在の状態を見よう。YCを代表とするスタートアップのトップ3は…変わっていない。この6年、YCはそれ以前の全期間(最初の6年)の2倍以上のスタートアップに投資してきた。しかし2012年のビッグ3ほどの成功を収めたスタートアップを1チームでも覚えているだろうか? 唯一の例外になる可能性があるのは生鮮食品配送のInstacartだが、AmazonがAmazon FreshとWhole Foodsスーパーマーケットチェーンの買収でこの市場に参入を図っているのは大きな不安材料だ。

Amazon、Apple、Googleを始めとする巨大テクノロジー企業はますます支配力を強め、スタートアップの成功はますます難しくなる。もちろん歓迎すべき事態ではない。ビッグ・ビジネスの支配力は今でも強すぎる。AmazonとGoogleはあまり圧倒的なので公的規制を受けるべきだという声もある。Facebookに掲載されたフェイクニュースが大統領選に影響を与えた可能性もある。

スタートアップは新しいアプローチ、新しい思考をもたらし、時代遅れの巨大企業が支配する非効率な市場を変革する。しかしテクノロジーの進化の現状を見ると、次の5年から10年は、時代遅れであろうがなかろうが、巨大企業が支配を強める時代になりそうだ。私としては振り子がいつかまた逆の方向に振れ始めればよいと祈っている。

画像: Wikimedia Commons UNDER A Public domain LICENSE

〔日本版〕トップ画像はアニメ番組『ルーニー・テューンズ』のエンディング。「これでお終い」。

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(翻訳:滑川海彦@Facebook Google+

投票のハッキングを防ぐ

投票は、自由世界のアキレス腱でありトロイの木馬でもある。正規の有権者が抑圧され、投票の監視が抑圧され、有権者登録システムがハックされる。そしてホラー映画のモンスターのようわれわれの前に立ちはだかる最悪のシナリオ:もし投票マシンそのものがハックされたら?「投票結果」は偽りであり、民主主義は民衆が気づきもしないうちに静かに消滅する。

テクノロジー世界の多くの頭脳がこの問題を考え、さまざまな対策を講じてきた。FacebookとGoogleは、ハーバード大学ベルファーセンターの超党派プロジェクト、Defending Digital Democracy[デジタル民主主義を守る]に資金を提供し助言を与えている。脅威情報を見つけ出し共有するために、アメリカの巨大な半分散化された群単位の投票システムに、サイバーセキュリティツールと戦略を提供することを目的としている。

そして、今日のDef Conでは、既成勢力/反体制スペクトルの対極にあると言える “Voting Machine Hacking Village” が設定されMatt Blaze等の技術専門家が中心となって、中古品店やe-Bayで購入した各種の自動投票機の脆弱性を評価した。

いずれも称賛に値するイノベーションだ! しかし、自由で公正な投票を守るために、私たちにできるもっと単純かつローテクで効果的な方法がある。それはハッキング不能なマシンを作ることでもサイバーセキュリティを強化することでもない。Verified VotingのBarbara Simonsはそのためのロビー活動を何年も続けている。内容はこうだ:

  1. あらゆる投票で紙の投票用紙を必須とする。電子投票は禁止、オンライン投票は禁止、「暗号化保証済み」電子投票も禁止。必ず単純で物理的な箱を準備、維持して個人が記入した投票用紙を格納する。もちろん投票箱でも不正は起きうるが、対策は容易であり、何十もの区域や国全体に拡大することはない。
  2. 予防策としてあらゆる投票を動的に監査する。「動的」とは、「それぞれの投票区域で最初の票集計の後、少数の投票結果を無作為抽出して集計結果と照合する、という意味だ。もし異常があれば、標本数を増やして再確認し、統計的に異常の有無を検証できるまで繰り返す。

ロナルド・レーガンの言葉を借りれば、「信頼せよ、ただし検証せよ」。もちろんセキュリティの高い暗号化されたネットワークや安全な自動投票機等も必要だ。しかし、上のプランは単純だが効果的で、投票マシンをブラックボックスとして扱い、たとえ間違いがあっても検証できる。これはわかりやすく、効果的で、無党派的なソリューションだ。そして、わずかに加わったコストと複雑さは、社会全体を支える基盤を強化できることの価値で十分に正当化される。

しかしこれを実現するためには、この問題が緊急優先事項になる必要がある。ヒトという種は、新しい種類の攻撃に対して、最初の数回が大きく成功した後にのみ反応するという長い歴史を持っている。このケースでそれはよい選択とは言えない。それでも、IT業界や政府、さらには世間一般を通じて、投票の安全は保証されているべきだという認識が高まりつつあるのは幸いだ。

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(翻訳:Nob Takahashi / facebook

C/C++に死を

プログラミング言語Cはおぞましい。いや、素晴らしくもある、もちろん。私たちの住む世界の大部分はCの上に作られている。そしてほとんどのコンピュータープログラミングの基礎をなしている、歴史的にも、実質的にも。Xavier Nielの革新的な “42” スクールのカリキュラムが、学生に標準Cライブラリー関数を一から書き直させることから始まるのはそれが理由だ。しかしCは、C自身が作り上げたこの世界にとってもはやふさわしくない。

「おぞましい」と言ったのは「悪い」ということではなく「畏敬の念を起こさせる怖さ」という意味だ。Cはモンスターになってしまった。あまりに多くの大砲を与えたためにユーザーは自分の足を撃ち抜いてしまう。豊富な体験が教えるところによると、セキュリティーホールにむしばまれることなく大量のCコードを書くことは非常に困難であり「事実上不可能」になりつつある。2年前、私は最初の「Cに死を[Death To C]」の記事にこう書いた:

原理上、ソフトウェアが成長し進化して成熟度を増すほど、セキュリティー脆弱性は複雑になっていく。しかし、C/C++で書かれたソフトウェアにそれは当てはまらない。バッファーオーバーフローや宙ぶらりんのポインターのために壊滅的セキュリティーホールが生まれる事態は、繰り返し繰り返し起こっていて、昔も今も変わることがない。

私たちはこれ以上巨大な口を開けたセキュリティーの盲点を放っておくことはできない。引退して別の言語に取って代わられる時期はとうに過ぎている。問題なのは、ほとんどの近代言語はCを置き換えようという意欲すら持っていないことだ。〈中略〉どの言語もCが最も得意とすることに長けていない ―― 例えばシステムの奥深くまで掘り下げてマッハスピードで動くこと。

あなたがデベロッパーなら、私の言いたいことはもちろんわかっているだろう。Rustの長所を並べることだ。実際これは有望なC/C++の後継だ。2年前に私は、新規の下層レベルコーディングをCではなくRustで書くことを勧めた。つまるところ、穴に関して何よりも大切なのは、掘るのをやめることだ。

[Cでプログラミングする際のセキュリティー心得(2017年版):
1)タイプするのをやめる
2)すでにタイプしたものを削除する]

今私は、エンジニアが既存のCコードをリファクタリングするとき、特にパーサーなどの入力ハンドラーを書き直すとき ―― ゆっくりと、すこしずつ ―― Rustで置き換えるように真剣に勧めている。

何か行動を起こす必要がある。自分たちのソフトウェア基盤を強固にしなくてはならない。それは、オペレーティングシステムやドライバー、ライブラリー、コマンドラインツール、サーバー等あらゆるものを修正するという意味だ。今すぐ、あるは来年までに直すことはできないかもしれないが、おそらく10年後には状況が改善されているだろう。

残念ながら、全部を書き換えることはできない。〈中略〉私が勧めるのはもっとずっと簡単なこと:弱い部分を手術で置き換え、プロジェクトの大部分はそのままにしておくことだ。〈中略〉既存プロジェクトからCコードの断片を取り出し、RustからアクセスできるようにCの構造体と関数をインポートし、コードをRustで書き直し、Rustから関数と構造体をエキスポートし、コンパイルしてプロジェクトのほかの部分とリンクすればよい。

Rustはもちろん万能薬ではないし、ソフトウェアの安定性とセキュリティーを改善する有効な方法はほかにもたくさんある(例えば形式検証[Formal verification]Langsec構想など)。しかし、これは有望で価値ある反復アプローチであり、私たちはこの巨大なセキュリティーホールから自らの手で這い出すために、良いコードを書き良いツールを使うことをスコップ一杯ずつ反復していくことしかできない。掘り始めるのが早ければ早いほど、Cは早く風化していく。

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(翻訳:Nob Takahashi / facebook

なぜ今、テック業界は女性問題に力を入れるべきなのか――声をあげはじめた被害者たち

テック業界における性差別はこれまで公然の秘密のように扱われてきたが、ここ数年の間に私たちは転換期を迎えたようで、声をあげる女性の数は増えつつある。

最近では、6人の女性がVCのJustin Caldbeckからセクハラを受けたと暴露した。そのうち3人は報復を恐れて名前を伏せたが、残りの3人は実名を公開しており、この傾向は強まりつつあるように見える。

彼女たちによれば、Caldbeckは女性の太ももをテーブルの下で掴んだり、プレゼンしていた女性に対して続きをホテルの部屋で行うように誘ったり、性的なメッセージを送ったりといったセクハラ行為におよんでいたという。さらに、彼の不適切な言動はBinary Capital(ファウンディング・マネージング・パートナーだった彼は、同社から「無期限の休職」を言い渡された)時代よりも前から続いていたようだ。

実名を公開した女性のひとりであるNiniane Wangは、Medium上のポストに「7年間ものあいだJustinの行為を暴露しようとしていた」が、Caldbeckが記者を脅していたため、この話をなかなか公にできなかったと記している。

それでは、なぜ最近セクハラ問題についてオープンに語る女性が現れはじめたのだろうか?

なぜ今なのか?

Susan FowlerはUberの文化を根底から変えたと言われている。彼女以前だと、Ellen Paoが女性差別を理由にKleiner Perkinsを訴えた。結果的に彼女は敗訴したが、この事件がテック業界の女性問題に関する議論に火をつけたと言われている。最近ではトランプ大統領やBill Cosbyの女性問題を受けて、世界中で500万人もの女性や支持者がウィメンズ・マーチに参加し、アメリカではベトナム戦争反対運動以来、最大規模のデモとなった。「女性の権利は人権」というメッセージを伝えるために行われたこのデモで、どれだけ多くの人がこの運動を支持しているかということが明らかになり、真実を伝えようとしている人たちにとっては大きな励みとなった。

上記のような出来事や、力を持った男性であればセクハラ行為も隠蔽できてしまう現状に嫌気がさした女性たちの存在を考えると、今や女性は声をあげるのを恐れなくなったばかりか、声をあげなければいけないと感じるようになったということがハッキリとわかる。

スターなら皆なんでもやらせてくれる

「股間を掴め」で終わるこの有名な言葉は、当時はまだ大統領候補だったドナルド・トランプのものだ。2005年のBilly Bushとの会話から抜き出されたこの言葉は、選挙活動中の民主・共和両党に大きな衝撃を与えた。これをロッカールームトーク(公の場では話せないような下品な内輪話)と片付ける人もいるが、未だにこの発言(やその他の問題発言)を受け入れられない人もいる。

インターネットは、女性を餌食にするような男性を人目にさらす上で有用なツールになりえる。Caldbeckの記事がそれを物語っている。Uberの件も、Fowlerが女性蔑視で男性中心の企業文化に関する暴露記事を公開したことで大きな問題となった。どうやらUberは以前から数々の問題(一連の訴訟や業績の傾き、海外市場での問題など)を抱えていたようだが、Fowlerが2月中旬に公開した「Uberでの極めて奇妙な1年間について」のポストがCEOのTravis Kalanickら幹部の失脚を含む、同社の大改革のきっかけとなった。

しかし未だに、女性が声をあげるにはかなりの勇気が必要だ。インターネット上では、声をあげた被害者が逆に非難されることもよくある。実名や顔を公開することで、発言の妥当性を疑うような質問や嫌がらせ(「そのとき何を着ていたんですか?」「そんな遅くに二人っきりにならなければよかったのに」等)を受ける可能性は高くなりさえする。

さらに、セクハラや性的暴行は立証しづらい問題だ。Bill Cosbyの裁判を見てみればその様子がよくわかる。30人もの女性が彼を同じ罪で訴え、Cosbyが暴行を繰り返していたことも公然の秘密であったにもかかわらず、評決不能で裁判はやり直しになった。

自分の不幸な経験について公に語るというだけでも十分に恐ろしいことなのだろう。Caldbeckの被害者3人も個人情報を明かしていない。真剣に取り合ってもらえないばかりか、投資や職業など自分の人生に関わる重要事項をコントロールできる立場にある人からひどい仕打ちを受けていると、女性たちも自分たちは重要ではないのだと思いこんでしまう。

しかし、テック業界にも望みはある。Cosbyやトランプは報いを受けなかったものの、シリコンバレーでもこれまでとは違う結果が出始めている(少なくともここ数か月では)。

まだまだ続く長い道のり

最近とあるVCのイベントに参加し、新しくそのVCに加わったパートナーのひとりに、直近の数か月でどのくらいの数のプレゼンを見たか尋ねた。「大体50件くらいですかね」と答えた彼に対し、他の人が「その中に女性は何人いますか」と続けて質問した。彼は少し考えてから、ひとりだと答えた。たったひとりだと!

その理由は「女性は起業家精神に欠ける」や「女性は素晴らしいアイディアを持っていない」といったことではない。女性が声を奪われ、ファウンダーではなくデート相手のように扱われることで、社会全体に不利益が生じている。女性への脅しが繰り返されていなければ、どれだけ素晴らしいビジネスが誕生していたかと考えると悲しい気持ちになる。

幸いなことに、今では女性が沈黙を破り「公然の秘密」について声をあげはじめた。しかし、女性が真実を伝えられるようになったからといって全てが解決するわけではない。

問題認識は改善のための第一ステップなのだ。Uberの取締役会も心から企業文化を変えなければならないと認めている。しかし、そこからアクションが生まれなければ何の意味もない。Uberは本当に変わることができるのだろうか? その答えはまだ見えないが、少なくとも彼らは企業文化の改革に向けた第一歩を踏み出したようだ。その一方で、UberやBinary Capitalの誰かだけが悪いわけではない。彼らは問題が明らかになっただけなのだ。つまり、本当に女性問題を解決するには、シリコンバレー全体が変わっていかなければならない。

では、なぜ今なのかというと、いつであろうと私たちは男性の支持者と共に(大きな)声をあげ続けなければいけないのだ。そうすれば、もしかしたら時代錯誤な男性も自分の行いが間違っていたことに気づき、彼らが人目にさらされるようになるかもしれない。

※もしもVCやテック業界で権力を持つ人からのセクハラ行為で悩んでいる人がいたら、sarah(ドット)buhr(アットマーク)techcrunch(ドット)comまで、もしくはSignalでご連絡ください。

原文へ

(翻訳:Atsushi Yukutake/ Twitter

科学を黙らせる努力、やりたいようにやってみれば!

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テクノロジーとインターネットは、ビジネスやコミュニケーションと並んで科学にも力を与えてきた。ほかのものと同様にテクノロジーは、科学の努力も、その活動と到達の範囲をグローバルにし、妨害に対して強くし、数十億の人びとがアクセスできるものにした。それは、権力の承諾の有無とは無関係に。そのことは、現在の政権の、科学の研究に口輪をはめようとする努力が失敗する、理由のひとつにすぎない。

オンラインのコミュニケーションを改ざんされたり、即座に閉鎖された国の省庁のリストが、日に日に成長している。環境保護局、国立公園庁、エネルギー省、農務省、運輸省、そして内務省、などなど。その雑でぶきっちょなやり方を見ると、これらの省庁がもっぱら気候変動に関して情報活動を抑圧されたことが明らかだ。うまくいくと、いいけどね!

しかしまず、早とちりを防いでおきたい。今はしょせん、政権移行期だ。模様替えでちょっとした失敗が起きるのは、当然ではないか? ホワイトハウスのWebサイトのスペイン語バージョンが完全になくなったのも、入れ替えに手間取っているだけかもしれない。

しかし、現政権のエネルギー計画に、“solar”や“wind”、“renewable”の言葉がないことは、たまたまではない。

また、Obamaの気候変動政策に代わるものや、まして反証すらもないことは、偶然ではない。

国立公園庁が、気候変動に関するいくつかのツイートのあとで叱責されたのも、

疾病管理センターが気候変動に関する会議を突然キャンセルしたことも、

閣僚指名者たちが何度も繰り返して、気候変動の存在やその危急性を認めることを拒否したのも、

硬軟多様なコミュニケーションの制限を受け取った省庁の多くに、気候変動に大きく影響する、あるいは影響される、担当行政職掌があることも、

環境保護局が気候変動のページを閉鎖され、削除を命令され、そして今では同局の研究を公表前に政府が検査するとなったのも、偶然ではない。

これは移行作業のちょっとしたミスでも、正々堂々とした主張でも、特定の考え方の誇大宣伝でもない。ほかのことは何を語ってもよいが、気候変動はだめ。それは、政府による、政府が危険と見なす話題に関連する情報の、意図的な抑圧だ。

もっと、ふさわしい言葉がある。今日(こんにち)、その言葉は誤用されることが多いが、この場合は正しい使い方だ。それは、検閲である。

検閲志望者にとって不運なことに、そんなものが有効だったのは遠い昔だ。どんなに強力な情報抑止努力よりもStreisand effectの方が強いことは、何年も前から証明されている。でも今回のは、そんなレベルではない。要するに、科学を黙らせることは、誰にもできないのだ。

とくに気候変動は、おとなしく寝かせておくことが難しい厄介者だ。ここ数十年にわたって、世界中の何千×n人もの科学者たちによる研究が、人為起源の気候変動(あるいは、いわゆる“地球温暖化”)という理論(重力や進化が理論だ、という意味での理論)に到達し、それを日々強化している。

それは、どこかの小さな研究室のひとにぎりのインテリたちではない。その膨大な数の科学者たちを、ほかの研究課題へ再配置したり、彼らの膨大な量の論文を小さな学術誌に封じ込めることは、誰にもできない。結果はすでに目の前にある。産業界はすでに、対応努力をしている。かつては議論があった場所の突然の沈黙は、これらの省庁が言うかもしれない文句などよりもずっと大声で語るだろう。それは、誰かに月について語るな、と言うのと同じで、そんなことをやってみようと思うだけでも、十分に異様だ。

しかしさらに加えて、今の科学は何にも増してグローバルであり、そしてテクノロジーに強い。科学のグローバルなコミュニティとテクノロジーおよびインターネットは、今や切っても切り離せない親密な仲だ。どの研究所にも、すべての実験を詳述している小さなブログがあり、そんなブログは何千もある。大学のニュースサービスは教授たちのインタビューを載せ、公刊されている学術誌は新しい研究を誰もがレビューできる形で公開し、Natureのような巨大でグローバルな出版物は、話題を求めて研究者たちの世界を掘りあさり、おもしろい研究結果を載せる。TwitterやFacebookなどのソーシャルメディアも、ほとんど無限にある研究や意見の公式/非公式なアウトレットだ。その一つを切り殺せば、そこに新たな二つが生まれる。

要するに、彼らがやっていることは無駄である。もちろん、今日の人類が直面している最重要な問題への言及は、どの政権にとっても不快にきまっている。それらの言及は、過去の政策を批判し、新しい政策を求めているからだ。たぶん、現政権がやっている気候変動の無視は、ほかでもあったし、現にほかでもやっているだろう。それはとても不幸なことだけれども、でも、言及を削除するやり方は、単なる、途方もないアホだ。

今ではたくさんの気象衛星が地球のまわりの大気を見張り、そのデータを各国に報告している。海洋では多くのブイや船が水温等を調べ、結果を世界中のいろんな機関に共有している。専門の研究機関が世界各地にあって、研究者たちが毎日のようにたくさんのペーパーを発表している。今ぼくらがこうしているあいだにも、海水面の上昇が続き、国全体が水没しつつある。それを黙らせるなんて!

科学者も、自己の情熱というものを持つ個人である。ロボットの改良でも、疾病の治療法の発見でも、そしてこの惑星の気候というミステリーの解明でも。彼らは書き、共有し、友だちと話し合う。彼らは、真実を探求する者たちのグローバルなコミュニティだ。友だちの誰かがひどい目に遭ったら、黙っていないだろう。そのひどい目が、どんなに幼稚で無意味な方法だったとしても。彼らは、自分たちが発見したものに関する知識を、広める方法を見つける。ぼくたちは、彼らを助ける。そして、そう、彼らもワシントンでデモ行進をする

ところで、2016年が記録の上では史上最温暖の年だった、と言っているツイートはすべて消されるかもしれないから、ここでも言っておこう。2016年は記録上最温暖の年でしたd〔NASAのこのページは日本時間1/26 11:54現在、消されていない。〕。

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(翻訳:iwatani(a.k.a. hiwa))

ドローンは、徐々に、そして突然にやってくる

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ドローンの話題はもはやニュースとは感じられなくなってきたのではないだろうか。少なくとも注目の対象が目まぐるしく変わるこのシリコンバレーでは。軍部は何十年も前から使ってきた。(消費者向け)ドローン業界の誰もが認めるトップメーカーであるDJIは、2006年に設立された。われわれITジャーナリストはドローンについて話さずにいられないが、現実にはまだおもちゃであり好奇心の対象にすぎない。いったいこの騒ぎはこの先どうなるのか、と心配する向きもある。

この過度な期待や懸念を思えばもっともな疑問だ。ドローンはFedExの配送トラックにとって代わる、ドローンは緊急支援に活躍する、ドローンはデモの抗議者をこっそり顔認識している等々。しかしこれは、一貫した直線的変化、という非現実的な予測に基づいていると私は思う。

多くの重要な技術変革は、「徐々に、そして突然に」起きる。ヘミングウェイは『日はまた昇る』で倒産についてそう書いている(これについてAndreessen HorowitzのChris Dixonがすばらしい記事を数年前に書いている)。問題は、自分が変曲点にいることをどうやって知るかだ。徐々にがいつ突然に変わるのか?

これについて何らかの確証を得ることは常に困難だ。大体においてこの手のことは、後になってデータが得られて初めてわかるものだ。しかし、これは信じる理由がある:ここ数ヵ月のドローンのニュースの加速度的ペースから見て、2017年はドローンが本当に、そう、離陸する年になる。

考えてみよう:

  • 先月Amazonは英国ケンブリッジで“Prime Air” ドローン配達サービスのテストを開始した。
  • …一方7-11は、ネバダ州リノで商用ドローン配達の最初の一ヵ月を終えた。
  • Y Combinator出身のスタートアップ、Apptonomyは空飛ぶ警備員の役目を果たすドローン(写真)を作っている。
  • 多軸ヘリコプターは今や日常になりすぎて、ほとんどの先端的ドローン研究の対象は別の物に向けられている。例えば、サンフランシスコのOtherlabではDARPA[国防総省国防高等研究事業局]の資金を得て、使い捨てダンボール製ドローンを開発している。
  • 一方で、消費者向けドローンはどんどん進化している。例えば、折り畳み可能なDJI Mavic等。その結果、一般大衆はさらにドローンに慣れ親しみ、抵抗なく利用するようになっていく。

しかし、消費者向けドローンは、当分の間おもちゃの域を出ないだろう。注目すべき大規模かつ重要なドローン市場は、企業/産業用ドローンであり、これは規制の影響を強く受ける。7-11はリノでのサービスで、FAA規制に従うために地上に操縦士を配置した。AmazonがPrime Airを英国でテストしている理由は、(度重なるテストの末)有視界外飛行が許されたからだ。

今週私は、法律事務所のBuchalter Nemerが主催するドローンと法律のイベント、Buchalter Connectに参加し、そこで航空法弁護士のPaul Fraidenburghの興味深い話を聞いた。FAAは、これまでほとんどの米国人の生活にとって遠くで抽象的な存在だったが、それは「飛行に使われる」「あらゆる」「装置」を規制している組織である。そして、ドローンがわれわれの生活の大きな部分になったとき、規制当局との関わりも大きくなる。

しかしその規制が面倒になりすぎると、ドローンメーカーは規制の緩い場所を求めて法律ショッピングに走る。既に行われているものもある。3ヵ月前、Ziplineは医療用品のドローン配送という画期的試みをスタートした…ルワンダで。ルワンダの狭小で丘陵に富んだ地形にとってドローンが非常に魅力ある解決方法であったことは理由の一つだろうが、厳格な規制がないことも一役買ったに違いない。

もちろんFAAは軍用航空機を規制していないので、軍部のドローン研究は非常に活発だ。国防省は最近103機かならるドローンの〈スウォーム[群れ]〉をテストしたが、これはかなり重要な話だ。本物のハチの群れと単体のハチ[ドローン]の関係は、多細胞生物とアミーバの関係に相当する。

(私は、FPGAを塔載したドローンの群れが悪の手に渡るという小説を8年前に書いたので、連日ISISがUAV(無人飛行体)を使って敵を攻撃しているというニュースを見るたび、複雑な気持ちさせられている)。

だが最も大切なことは、上に挙げた木々でなく、目の焦点を森に合わせることだ。ドローン開発のスピードは加速しているようだから。

Buchalter NemerのNathan Walterは、ドローンをスマートフォンになぞらえて、実際の飛ぶ機はプラットフォーム、即ち端末で、そこにインストールされたもの、あるいはそれを使って何をするかがアプリだという。結局これはChris Dixonの指数関数的成長説に立ち返る:「テクノロジービジネスの核をなす成長過程は、プラットフォームとアプリケーションの間の、相互に強め合う多段階なポジティブフィードバックである」。

私は暫定的にこう提唱する。そのフィードバックは最終的にドローンにも成立するものであり、今われわれは指数関数的成長曲線の変曲点にいる。もしそうならば、一歩下がって驚きに備えた方がいい。なぜならこれから先、ドローン技術の進歩と普及のアクセルペダルは全力で踏み込まれるのだから。

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(翻訳:Nob Takahashi / facebook

JIRAに死を

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Atlassianのバグトラッカー/機能プランナーJIRAは、今や至るところで使われているし、ぼくも長年、ソフトウェアビジネスの重要な目的に奉仕する製品、と考えていた。重要な目的とは、プロジェクトチームが共通の敵を見つけて共同で立ち向かうことだ。でも、そうではなかった。JIRAの設計は基本的に、良質なソフトウェア開発とは正反対のもので、単純なバグトラッキングぐらいにしか使えない。では、もっと良いやり方とは、なんだろう。

ライターでないときのぼくはソフトウェアエンジニアで、ソフトウェアコンサルタント企業のHappyFunCorpに籍を置いていろんなクライアントの仕事をしている。だからJIRAのいろんな違った使い方を、見る機会がある。一部の企業はそれをBugzilla++として使っているが、それで十分だ。でも最近ますます多いと思われる使い方が、要求の定義だ; プロジェクトを多数のJIRAチケットに分解すれば、それらを使って、評価もコミュニケーションも進捗管理も変更管理も、何でもできる、という考え方だ。

でも、この考え方には深刻な欠点がある。JIRAのチケットは、絶対的で不可避な想定とそれらの結果を表現している。それが記述している機能やビヘイビアは、離散的でない。それは絶対的な二択、すなわち完全か、無か、だ。しかもそれは、個別に評価できる、とされる。つまり個々に、それだけを孤立的に扱える、と想定される。そしてその、他のチケットとの結びつきは、JIRAの子どもっぽい概念、“リンクされた”チケットという言葉で表現される。

これは、ソフトウェアの最良の作り方ではない。ソフトウェアは、反復的(iterative)である。サブシステムAを作る、次にサブシステムBを作る、そしてABをインタフェイスする…という単純な過程ではなく、デベロッパー間には最初にA-AB-Bの全体を見通した情報の流れ〔プログラム中の情報の流れ、フロー〕が共有されていて、それから(あるいはその前に)最初の方のデータでその流れをテストし、その過程を通じて何かを発見し、何かを学ぶ。そして次は、そこで現れた想定外や、システムのどこかにあった地雷原に対策することが多い。ときにはその作業に数週間を費やし、その後本流に戻って、情報の流れを拡大する、…以上の過程を、A、AB、Bの三者が完成するまで反復する。

しかしJIRAでは、進捗はまだ残っているチケットと、クリアしたチケットの数で計られる。そう明示されているわけではないけど、必然的にそうなる。“To Do”(未着手)や“In Progress”(作業中)のチケットが並ぶでっかいカラムは、誰も見たくない。みんな、できるだけ早くそれらをそこから外して“QA”(品質管理中)や“Shelved”(保留中)へ移したい。だからJIRAのチケット方式では、デベロッパーが一度に一つのチケットだけを扱いがちになり、それは多くの場合に非効率であるだけでなく、開発の後段における重大な、その時点ではもはや手遅れの、エラーを招きがちだ。

さらにまずいのは、デベロッパーが考えるソフトウェアのアーキテクチャが、知らず知らずのうちに、JIRAのチケットにマップしやすい構造になることだ…それが技術的最適ではない場合でもだ(そういう場合の方がむしろ多い)。もちろん、完全に最初に戻って、プロジェクトのメンタルモデルの全面的な再構築を求めることはできる。だが、そんな重い社会的および資本的負担を、すでに進行中のプロジェクトに関して誰が引き受けるのか? ときには非技術系の管理職が片手間で拙速に作ることもある、暗黙にチケットを前提しているアーキテクチャを、黙って受け入れる方が楽である。

しかし最悪なのは、プロジェクトを複数のチケットに分解するこのやり方では、システム全体を展望する場がどこにもないことだ。最良のソフトウェアは、細部の緻密な実装に集中できると同時に、システム全体の大きな目的や狙いをつねに心にとめているデベロッパーから生まれる。JIRAでは後者が、異様なほど、そして不必要に、困難になる。

ここで強調したいのは、悪いのは必ずしもJIRA自身ではない、ということだ。ここまで書いてきたことはすべて、ソフトウェアのアーキテクチャと開発を“チケット”の集合に還元する、という考え方に由来している。JIRAの最大の罪は、それが、もっとも成功し広く普及しているチケットシステムであること、それだけだ。ソフトウェアプロジェクトをチケットの集合で表す、という考え方そのものが、真の敵だ。

そしてぼくが提案するもっと良い方法は、びっくりするほど単純だ。複雑なシステムを定義/表現できて、そこに曖昧性や不確定性、互いに絡みあった関係性、成功のための反復レベル、そして大きさと細部が不特定に幅広いスペクトル、などなどを記述できる強力なシステムが、すでにある。それは、“散文(prose)”と呼ばれる。

何らかの理由で今日の企業の多くが、明快でシンプルな長い散文(2パラグラフ以上)を書くことを、疫病のように恐れて避ける。でも、上手に書けた8ページのドキュメントなら、複雑なシステムのニュアンスを、互いにリンクし合ったJIRAのチケットの扱いにくい小艦隊よりもずっと見事に、定義できる。

しかも今なら、シンプルなテキストドキュメントを、文や箇条書き、パラグラフ、節、章などに分解して、それらの要素の評価や進捗を記録する自動化システムを、容易に作れる。チケットと違って、各要素の大きさは制限されない。散文をJIRAのチケット集合に自動的に変換することも、必要ならできるだろうが、その場合もプロジェクトを主導する仕様は、単一の、一貫性のある散文ドキュメントだ。

機能のプランニングには、コミュニケーションが必要だ。JIRAは、複雑なシステムの要求をコミュニケーションする方法としては基本的に劣悪である。言葉の並びは、それが良く書けていれば、つねにベターである。

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(翻訳:iwatani(a.k.a. hiwa))

製品開発のプロセスに学ぶ自己研鑽の方法

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【編集部注】執筆者のPini Yakuelは、Optimoveのファウンダー兼CEO。

デジタル革命はさまざまな概念を変えてきたが、その中でも1番目立っているのがバージョンリリースの概念の変化だ。

携帯電話は購入から1年が経つと時代遅れになってしまうし、3年も経てば廃れてしまう。携帯電話をWi-Fiに接続すると、いつでもアプリが自動でバージョンアップデートを開始する。今日あなたが使っているFacebookは、先週ポストしたものとは違うバージョンだし、Tesla車は夜中にバージョンアップデートを行う。そしてソフトウェアも定期的にアップデートが行われる。やっと最新のiPhoneのUIの使い方を理解したと思ったら、すぐに新しいバージョンが公開されてしまう。新機能てんこ盛り!新インターフェース!新しい使い方!といった具合に。

より良い姿を目指して

製品だけが絶えずに変化・改善しているわけではない。仕事のプロセス(例えばウォーターフォール型開発からスクラムへの変化)やチーム内でのダイナミクス、組織構造、ビジネス機能も常に変化している。日本では、「改善」の考え方が職場に浸透しており、CEOからライン作業員まで全ての従業員を巻き込んで、常に仕事のやり方を現状より良くしようとしている。この考え方は今では集団意識に深く埋め込まれているため、当然個人の考え方にも影響を与えている。

自己研鑽は特に新しい考えではない。全ての宗教で信者個人の成長が求められているほか、古代ギリシャ・ローマにおけるエピメレイアでも自分自身を大事にして成長することが重要とされていた。アリストテレスもそれに賛成していたし、孔子もそうだった。しかしこれらの思想が、バージョンリリースに見られるような大きなトレンドへと変化することはこれまでなかった。自己啓発、コーチング、フィットネス、美容、ワークショップ、モチベーショナルスピーチなどは全て新しいバージョンのあなたを作り上げるためのものなのだ。

そして、これほどまでに改善・進化しなければいけないというプレッシャーを感じることはこれまでなかった。

しかし重要なのは、自己研鑽と言うのは簡単だが、それを実行に移すのは大変だということだ。それには確固たる意思と変化を起こす力以外にも、自分のアイデンティティーを失ったり、細かなことで心を揺さぶられたりしないような気概が必要だ。

さらに、物事が変わることで新しい弱点が明らかになることがよくあるため、変化に伴って起きることに対処できるような能力も重要だ。しかし何にも増して必要なのは、今自分がどこにいて、どこへ行こうとしているのかというのをじっくり吟味することだ。また、必ず訪れることになるであろう障害を乗り切るためのスタミナについては言うまでもない。

製品開発の世界から個人が学ぶべきこと

結局私は父のアドバイスに従い、あるディベロッパーを雇った。そして、その後彼を手放すことはなかった。むしろその逆に、私はディベロッパーや製品開発のための人員を増やしていった。それから彼らは、最初のバージョンのソフトをリリースし、バージョン2.0で一部機能を改善した後もバージョンアップを継続し、増え続ける200社以上の顧客のために近々バージョン5.0をリリースする予定だ。バージョンアップの間にも、合計数十回におよぶ細かなアップデートを毎月行い、次のバージョンアップに関する情報が常にオフィスで飛び交っていた。

常に上を目指して継続的な努力を続けることこそが、人生の本質ではないだろうか。

そしてソフトウェアのアップデートのかたわら、私も自分自身の新バージョンをリリースしていった。身の回りの変化に対処できるようになり、3つの大陸でスタートアップを設立・運営していくうちに起こる混乱にも順応できるようになり、人生の段階に沿ってだんだんと夫や父になるにふさわしい男へと変わってきた。そして数々のバージョンアップは、製品開発の世界で働いていたときの私の経験を応用して行われたのだ。

以下がその経験則をまとめたものだ。

ユーザーからのフィードバックを大事にする。製品開発チームは、新機能を開発する際に、ユーザーのフィードバックからヒントを得ている。他者との交流の中で、私たちは批判やネガティブなフィードバックを一蹴しがちだが、そこには成長するための大きなチャンスが秘められている。ときにディベロッパーが製品の大事な部分に気づけなかったり、さまざまな機能がユーザーに与える影響について誤解してしまったりするように、私たちも自分のことを読み違えている可能性がある。そのため、改善点をみつけだす上で、私たちは心を開いて真剣に第三者からのフィードバックを聞かなければならない。

締め切りを設定する。フィードバック同様、製品開発チームは大体の場合締め切りに追われている。彼らが締め切りを設定する目的は、頃合いを見計らうというような曖昧なものではない。締め切りを達成するには、真剣に集中してタスクに取り組む必要があり、それが最終的に結果を生み出すことになるばかりか、締め切りは人を集中させるための素晴らしいツールとしても機能するのだ。同じ考え方で、自己研鑽にも締め切りを設定すべきだ。目標設定は、製品開発と自己研鑽どちらにおいても極めて重要な役割を担っている。

オリジナリティをみつける。世に出てくる製品の多くは、市場の穴を埋めるために競合製品との差別化を図りながら開発・アップデートされている。そのため、自分たちの製品のことをよく知り、何を開発する必要があるのか、そして同じくらい重要な点として、どの機能を捨てるかというのを考えなければならない。そしてこの考え方は、人にも当てはめることができる。とくに職場では、勤めている企業がある分野で成功をおさめるのを支えるために、自分の周りを見て、会社の誰もやっていないようなことを探し出し、その力を伸ばして専門性を高めなければいけない。さらにこの考え方は、ソーシャルな場や対人関係においても重要だ。

アジャイルに進める。自己研鑽の方法論をある程度習得すると、”アジャイルマーケティング”の考え方も役に立つようになる。例えば、最初に開発する量を少なくして、徐々にアップデートを重ねてそのサイクルを繰り返すという手法がある。これは個人の成長のための方法論としては、とても楽観的なものだ。つまり、設定されている目標を明日の朝までに完全に達成する必要はなく、最終的に目標へ到達できるように、そこに至るまでの小さな階段を継続的に登っていきさえすれば良いのだ。

忘れたことを学び直す

息子が生まれてすぐ後に、私は人間の成長にバージョンリリースの概念が埋め込まれていることに気付いた。それはまるで、息子が毎日新しいバージョンをリリースし、2〜3ヶ月ごとにメジャーアップデートを行っているかのように感じられた。目玉機能、初めての笑顔!観客を鷲掴みにする寝返り!歩けるようになり、これまでで1番ユーザーフレンドリーに!といった具合だ。そしてこれを実現する上で、息子はフィードバックを頼りにし、自分の体に埋め込まれた締め切りに従って自分だけのオリジナリティを出しながら、街で1番アジャイルな変化を遂げていた。

しかし、バージョンリリースの時代には代償が伴う。まず、どの製品も完成することがなく全てが一時的で、新しいものがすぐに時代遅れになってしまうほか、ユーザーとの距離を縮めるのもこれまでに比べて難しくなっている。その一方で消費者は、製品が購入後もだんだん改良されていくと期待することができる。そして、お気に入りのアプリやソフトウェアのバグ、携帯電話のカメラなど、常にさまざまな製品の新しいバージョンが準備されており、あなたも努力さえすれば、バージョンアップが可能なのだ。

常に上を目指して継続的な努力を続け、最終的に自分の可能性を最大限に引き出すことこそが、人生の本質ではないだろうか。

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(翻訳:Atsushi Yukutake/ Twitter

「経験」の価値など無に等しいのかもしれない

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本稿を読んでいるあなたはソフトウェア技術者だろうか。そして、もしかして10年以上の経験をお持ちだったりするだろうか。もしそうであるのなら「ご愁傷さま」とお伝えすべきなのかもしれない。業務の中で培ってきた知識は、すでに古臭いものになってしまっている可能性が高い。それでありながら、昔覚えた知識に固執しているかもしれない。役立たずであると評価されているやり方にこだわり、周囲に迷惑をまき散らしている場合すらあり得る。「経験は尊いものだ」と、無批判に信じているのなら、ぜひとも考えを改めるようにアドバイスしたいと思う。

念の為に言っておくと、年を取ることが悪だというようなことを考えているわけではない。年令によって理由なく差別することは間違ったことであり、差別的なことでもあり、また愚かしいことでもある(わざわざ言うまでもないが、これまでに出会った最も優秀なエンジニアの何人かは50代の人たちだった)。しかし、技術革新のスピードが上がる時代にあって、「経験」の価値など加速度的に失われていくにも関わらず、それでも「経験」の価値にしがみつく人も多いように思うのだ。

中には「経験により原理原則を身につけることができるのだ」と主張する人がいるかもしれない。ツールや環境が異なることになっても、身につけた原理原則を活かすことができると主張するわけだ。しかしその言い方も、メリットだけを強調する言い方に過ぎないように思う。

かつて(と、いってもさほど昔のことでもない)、オブジェクト指向がさまざまな問題を解決すると信じられた時代があった。しかしいまでは、オブジェクト指向の抱える問題点を解決するソリューションが多く生み出されているような状況だ。また、ウェブ開発者たちがHTMLとJavaScriptは分離しておくべきだと考えていた時代があった。それは「関心の分離」(separation of concerns)ということが強く言われていたからだ。しかしReactが登場してきた。

現在の状況が、完全な変化を被るまでには時間もかかることだろう。しかし「価値ある経験」をもつはずのエキスパートたちも、「そんなことはアルゴリズムを考えるのではなく、TensorFlowで実現するのが普通だろう」などということを言われ始めているに違いないのだ。

もちろん、すべての知識や経験が無駄になるというようなことを言っているのではない。いくつかの知識や経験は、相当の長い範囲にわたって有用であることだろう。たとえばAndroid、iOS、ないしコンテナに関する知識があっという間に陳腐化するとは考えにくい。

しかし長い時間がたてば、骨はサンゴになり、あるいは貝は真珠になったりするものだ。20世紀には、反証の無い限り経験は尊いものであった。しかし、少なくとも技術やソフトウェアの分野において、そうしたことは言えなくなってきている。5年ないし10年のうちには、反証の無い限り経験は評価に値しないものだ、などということが言われるようになるに違いない。

そしてこうした傾向は技術分野以外にも広がることとなる。たとえば、6つのタイムゾーンに散らばる人を、SlackやGoogle Hangoutsを使ってマネジメントするのは、少し前の大企業で管理職を行うのと大いにことなることとなる。開発者でない人も、こうした変化についてはいろいろと感じていることがあるはずだ。テック系の世界では、変化がより一層ラディカルな形で起こりつつあるのだ。

確かに劣化しない「本当の」スキルというものはある。それはすなわち「常に学び続ける」というスキルだ。これはいったん身に着けてしまえば陳腐化したり、役立たずになってしまうようなこともない。しかし何年にもわたって、旧来の知識で仕事にあたってきた人についていえば、本人の自覚のありなしにかかわらず、すでに「キャリア」の終わりを迎えてしまっているのだ。

生きている限り「キャリア」を終わらせるべきではないと思う。「Stay hungry, stay foolishという言葉は、かつて箴言であったのかもしれない。しかし私たちは、その言葉が「当然のこと」である時代を生きているのだ。

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(翻訳:Maeda, H

非集中型ウェブが皆の手に力を取り戻す

Abstract 3D network in future

【編集部注】著者のMatthew Hodgsonは、チャット、VoIP、IoTを統合するオープンソースプロジェクトMatrix.org技術担当共同創業者である。

最近、Googleが新しいビデオ通話ツールをリリースした(その通り、また別のツールである)。Googleのハングアウトは企業向けとしては主役の座を下ろされて、Google Duoが次のビデオ通話の大物と考えられている。

ということで、私たちはMicrosoftのSkype、AppleのFaceTime、そしてGoogleのDuoを手にしているというわけだ。各大企業は、それぞれが独自の類似サービスを持ち、それ自身のバブルの中で立ち往生をしている。これらのサービスは素晴らしいものかもしれないが、インターネットが構築されつつあった夢のような年月の間に、私たちが想像していたものと全く同じものだとは言えない。

ウェブやインターネットの本来の目的は、もし思い出してもらえるならば、人類を良くするために、誰でも公平に参加することのできる共通で中立なネットワークを構築することだった。幸いなことに、このビジョンへとウェブを連れ戻そうとする新しい動きがあり、それはウェブ誕生の当初から続く重要な姿さえ含んだものである。それは非集中型ウェブ(Decentralised Web)またはウェブ3.0と呼ばれ、如何なる単一「中央」組織にも依存することのないサービスを、インターネット上に構築しようとする新しい動きとして説明される。

では、ウェブの初期の夢の期間に何が起きていたのか?この中立な基礎構造の上で価値を生み出すための簡単な方法は、情報を集め、抱え込み、そしてお金にする集中型サービスを構築することだと人びとが気が付いたために、大部分の利他的行為が最初のドットコムバブルの間に色褪せていった。

検索エンジン(例えばグーグル)、ソーシャルネットワーク(例えばFacebook)、チャットアプリ(例えばのWhatsApp)は、インターネット上で集中サービスを提供することによって巨大な成長を遂げた。例えば、Facebookによるインターネットの未来ビジョンは、同社が支援する集中サービスのサブセットを提供するものに過ぎない(FacebookのFree Basicsとinternet.org)。

一方、それはコンテンツへURLを介してリンクできるといった基本的なインターネットの自由を(コンテンツをFacebookの中だけで共有するを強制することで)阻害し、検索エンジンがそのコンテンツにインデックスを(Facebook内の検索機能以外が)張ることを許さない。

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非集中型ウェブが描く未来は、コミュニケーション、通貨、出版、ソーシャルネットワーキング、検索、アーカイブなどのサービスがただ1つの組織に所有された集中型サービスとして提供されるのではなく、人びとの力(彼ら自身のコミュニティとユーザーたち)を使う技術によって提供される世界だ。

非集中型の核となるアイデアは、あるサービスの運営が、盲目的に単一の全能企業に委ねられていないということだ。その代り、サービスへの責任は共有されている:おそらく複数の連携するサーバー上で実行されたり、あるいはおそらく完全に「分散」したクライアント側のアプリ上でピアツーピアモデルとして実行されたりという形で。

コミュニティというものは「ビザンチン」であるかもしれず、お互いを信用したり依存したりする理由はないとしても、非集中型サービスの振る舞いを記述するルールは参加者が公平に行動することを強制するように設計される。こうした設計は、参加者が相互に責任保持することを実現するマークル木とデジタル署名のような暗号テクノロジーに強く依存している。

非集中型ウェブが必ず守らなければならない3つの基本領域が存在する:プライバシー、データ互換性、そしてセキュリティだ。

  • プライバシー:非集中型は、データのプライバシーへの、よりしっかりとした注目を強制する。データはネットワーク全体に分散されるので、許可されたユーザーだけが読み書きできることを保証するエンドツーエンドの暗号化技術がとても重要である。データ自身へのアクセスはネットワーク側で完全にアルゴリズム的に制御される。これは、ネットワークの所有者が、顧客のプロファイルを活用し広告のターゲットとするために、データへのフルアクセスを持つ、典型的な集中型ネットワークのやり方とは反対のやり方である。
  • データ互換性:非集中型環境では、ユーザーが自身のデータを所有し、誰とそのデータを共有するかを選択する。さらに、ユーザーはあるサービスプロバイダーを離れる時にも、そのデータに対する制御権を握っている(サービスと言うものが、サービスプロバイダーという概念を保っていると仮定している)。これは重要なことだ。もし私が、今日ゼネラルモーターズからBMWに乗り換えるとするなら、自分の運転記録を一緒に持っていくことができない理由があるだろうか?同じことが、チャットプラットフォームの履歴や健康記録にも適用される。
  • セキュリティ:そして最後に。私たちはセキュリティ上の脅威が増大する世界に住んでいる。集中型の環境では、サイズが大きくなるほど、悪者を惹きつけるハニーポットも大きくなっていく。非集中型の環境は、最初から公的な監視の下で構築されて来ているため、ハッキング、潜入、買収、破産、その他の脅威に対して、一般的な性質としてより安全だ。

丁度インターネット自身が、多くの異なる未接続のローカルエリアネットワークを、お互いに接続された新しい共通基盤へと持ち上げるきっかけとなったように、今私たちは更に高レベルのサービスを支える、中立な共通基盤をもたらすテクノロジーの登場と共に、全く同じパターンが再び起きつつあることを目撃している。そして、ウェブ 2.0の時と同様に、ウェブ3.0到来を告げる最初の波は、既に何年も私たちの間を歩き回っているのだ。

Gitは完全非集中型のバージョン管理システムとして広く成功していて、ほぼ完全にSubversionのような集中型システムを置き換えている。有名なビットコインは、1つの通貨が中央当局なしに存在できることを示した、これはPaypalのような集中型管理システムとは対照的である。Diasporaは、Facebookを代替する非集中型システムの提供を目指している。Freenetは、非集中型ウェブサイト、電子メール、そしてファイル共有のための道を開いた。

それらよりは有名ではないが、StatusNet(現在はGNU Socialと呼ばれている)は、Twitterの非集中型代替システムを提供している。XMPPは、AOLインスタントメッセンジャー、ICQ、MSN、およびその他のメッセージングシステムの非集中型の代替システムを提供するために作られた。

1914年頃の電話交換機のオペレーター。写真提供:Flickrやreynermedia。

1914年頃の電話交換機オペレーター。写真提供: Flickrならびにreynermedia

しかしながら、これらのテクノロジー(これらを夢見て、そのマスマーケットでの不調を喜んで受け入れるようなオタクたちのお気に入り)は、いつでも崖っぷちに座らされてきた。いらいらするほど主流から外れたものだったのだ。しかし潮目は変わってきている。大規模なサイロ(牧場で干し草を詰め込んで貯蔵するための倉庫、転じて何でも囲い込むように押し込めた場所)のようなコミュニティプラットフォームへの依存は、ユーザーにとって最善の利益ではないという認識と共に、世の中の時代精神がついに追いつきつつある。

重要なことだが、主流産業からの注目を集め、現実世界の新時代を告げる、新しい世代の非集中型スタートアップが出現している。

BlockstackとEthereumは、ブロックチェーンが単なる暗号通貨以上のものとして、どのように使えるのかを示している。ここでは、強い合意を必要とする非集中型システムを構築するために用いられる、ビルディングブロックの汎用セットとしてブロックチェーンは振る舞っている。

IPFSとDatプロジェクトは、所有権およびデータへの責任が、1箇所でホストされるのではなく、アクセスする者全員で共有される、完全に非集中型のデータの基礎構造を提供する。

実際の歩みに対する現在の変化の勢いは、 Internet Archiveが6月に主催したDecentralised Web Summit(非集中型ウェブサミット)によってもたらされた。このイベントは、多くの元祖「インターネットとワールド・ワイド・ウェブの父親たち」 を集め、「ウェブを開かれた場所にし続ける」方法と、「より信頼でき、プライベートで、そして楽しい」ウェブの再発明に関しての議論が行われた。

Internet Archiveの創設者であるブリュースター・ケールは、どのように集中型のInternet Archiveを非集中型のものに移行するかを考えているときに、非集中化技術の進展を直に知った:壊れやすく脆弱な単一サービスではなく、それを利用するコミュニティによる運用とホスティングということだ。

さらに、サミットにおける、ティム・バーナーズ=リー、ヴィントン・サーフ、そしてブリュースターその他多くのインターネットの古参たちの熱烈な支持は、非集中型へのシフトが、初めて注意を集めその確立へ向けた真の承認を得たことを示した。

ティム・バーナーズ=リーはこう語った

ウェブは、自分自身のドメインと自分自身のウェブサーバーを持つことで、誰でも参加することができるように設計されました。そしてそれは上手く行っていません。その代わりに、私たちは各々の個人データがこうしたサイロの中に閉じ込められているような状況に置かれています。[…]そこで、提案したいのは、非集中型ウェブのアイデアを取り戻すことなのです。

人びとに力を取り戻すために。私たちはただ微調整をしていけば社会革命を起こすことができると考えています:私たちはウェブの技術は使いますが、あなたが使うデータからあなたが使うアプリを分離するような方法で行うのです。

現在の課題は、これらの新しい技術を成熟させて、マスマーケットに完全に持ち込むことだ。商業的には非集中型には巨大な価値がある:現在のようなサイロは洗い流される一方で、新しいものが常に新しい共通基盤の上に現れてくることになる。丁度最初のウェブのときに起きたようなことが。

Githubはこの代表選手である:この20億ドルの会社は、Gitの非集中型テクノロジーの上に、完全に付加価値サービスとして構築されている ‐ ユーザーが自分のデータを取り出し、任意の時点で残すことを当たり前のようにできるにも関わらず。

同様に、新しい機会がこの勇敢な新しい世界に登場するにつれて、私たちは非集中型インフラストラクチャと、その上の商業的に有効なサービスを提供する会社群の新しい波を見ることができることを期待している。

最終的に、ウェブ 3.0が私たちを向かわせる最終的な方向のを予測するのは難しい、そしてそれこそが肝心な点なのだ。ウェブを少数のプレイヤーの手から解放することによって、必然的にイノベーションが加速し、ユーザーの利便性を優先したサービスが繁栄するようになる。

Apple、Google、Microsoft、その他の企業は、その中心にそれぞれの収益を置いている(もちろんそれが必要だからだが)、それが意味するところはユーザーはしばしば純粋に収益源としてみなされるということである。文字通りユーザーを糧にして。

非集中型ウェブが主流の開発者コミュニティの関心と情熱を集めて行くにつれて、どんな新しい経済が出現し、どんな種類の新しいテクノロジーとサービスを彼らが発明するのかは予想できない。ただ1つ確かなことは、その創造者たちの関心と同じように、コミュニティは本質的に自身のコミュニティとユーザーベースを支援していくということだ。

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(翻訳:Sako)

起業家はSF小説を読むべきだ

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編集部注:Ben Narasinは25年のキャリアをもつ起業家だ。これまでに8社に対するシード投資の経験を持ち、現在はCanvas VenturesでGeneral Partnerとして勤務している。

この世界には3つのタイプのSF小説がある(あくまでも私の意見だが):駄作、駄作の続編、そして本格的なSF小説だ。最後のタイプのSF小説には未来の世界像が豊富に描かれている。その未来像のなかには、現在私たちが住んでいる世界ですでに実現しているものも多い。その未来像が多くのテック・スタートアップや世界レベルの起業家たちから参考にされ、彼らに影響を与えている。

1993年にfashionmall.comを創業した当時、生まれたばかりのWebをビジネスにしようとする人々がいて、どのような方法でビジネスにするのか、または、それは本当に可能なのかという議論がいたるところで交わされていた。そんな時、1冊のSF小説が私にWebの進化についての先見の明を与えてくれた。この本がなければ、その6年後に自分の会社を上場することなど不可能だったのかもしれない。

当時の人々の多くは、Webが平等主義者にとって素晴らしいコミュニティになるだろうと考えていた。すべてが平等で、たった1クリックで到達可能なコミュニティだ。Webを構築しさえすれば、人々が集まる。Neal Stephensonが書いたSnow Crashを読んだとき(PayPalの創業者であるReid HoffmanとPeter Thielが、創業前にこの本について議論を交わしながら週末を過ごしたことを後になって知った)、そこにより地理学的にWebを捉えたメタファーが書かれていることに気づいた。入口こそが最も価値のある土地であり、クリックを重ねてその土地から離れれば離れるほど、不毛の大地となっていくというメタファーだ。

その本から得た洞察をもとに、私は今でいうところのポータルサイトとの交渉に2年を費やすこととなった。そして、AOL、Excite、Yahoo、Netscape、Microsoftなどの企業との取引を成立させることになる。結局、私たちは自分たちがフォーカスする分野においてはこれらの企業以上の存在となることができ、自分たち自身がポータルとなり、そして上場企業の一員となることができた。1冊の本に書かれたビジョンが私たちの助けとなったのだ。

企業の創業者たちの間では、SF、ファンタジー、ロールプレイングゲーム、コミックが共通の関心ごとであることも多い。私はその関心を失うべきではないと言いたい。SFやコミックは未来のビジョンを与えてくれるものであり、そのビジョンを起業家が実現し、そのビジョンに投資家が出資するのだ。Charles Strossが書いたゲームについての著作のなかには、私が見る多くのピッチよりも優れたARやVRについてのアイデアが書かれている。StephensonのDiamond Ageに書かれた素晴らしいEdTechのコンセプトは、まだ実現されていない。John Barnesが書いたMother of Stormsは地球温暖化が与えるインパクトを予知しているだけではなく、パテント・トロール、市民ジャーナリズム、個人衛星の打ち上げなどのアイデアが、それらのコンセプトが誕生するはるか以前に描かれている。

中国でさえもSFの重要性に気がづいている。Neil Gaimanは「2007年に行われた中国初の国家主導によるSF大会」で交わされた共産党幹部との会話を詳細に語っている。なぜ中国で大会が開かれたのかという質問について、その幹部は:

この数年間、私たちは製造業で素晴らしい功績を残してきました。iPodを製造し、電話を製造してきたのも私たちです。私たちは世界の誰よりも製品を製造することに長けていますが、製品のアイデアを考え出したのは私たちではありません。そこで、アメリカに訪れ、Microsoft、Google、Appleなどから話を聞くことにしたのです。そこで働く人々に私たちは沢山の質問をしました。それによって分かったのは、彼らが皆SF小説を読んでいるという事でした。だからこそ、SF小説を読むことは良いことなのかもしれないと考えたのです。

それから10年が経ち、単にモノを製造するのではなく、モノを創り出すという中国の試みは著しい成功を納めている。SF小説だけが成功の理由だとは言わないものの、その要因の一部だったと考えられるだろう。

テック分野の起業家、その予備軍、そして企業の創業者たちはSF小説を読む必要がある。なかには若いころに夢中になったSF小説を今でも読み続けている人もいる。過去のSF小説を読むことによって現在を捉えることだけが重要なのではなく、現在出版されている小説も読むことで未来を想像する助けとなってくれるだろう。

私は数週間おきに図書館を訪れ、新しく出版されているSF小説をすべてチェックするようにしている。駄作もある。何章か読んだ後に読まなくなる本もある。暇つぶしに最適なものもある。しかし、ものの見方や考え方を変えてくれる本もある。私の心のなかにある未来への窓を開き、そのビジョンをもつスタートアップを探し求めるのだ。

NASAが宇宙から写真を持ち帰えると、数名のSF小説家などが招かれて写真のレビューが行われると聞いたことがある。SF小説家たちは、NASAが抱える数多くの優秀な人材を差し置いてチームに参加するのだ。SF小説家たちは彼らの人生を科学に捧げ、彼らが描く未来を小説という形で書きおこしている。思うに、彼らと同じく未来を創っていく起業家にとって、彼らの作品から何かを得るために週末の数時間を費やすだけの価値はあるだろう。

[原文]

(翻訳: 木村 拓哉 /Website /Facebook /Twitter

人類の運命を握る、太陽と太陽の戦い

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週の大半をたまたまアブダビで過ごしていた私は、今週、今月、今年、いやこの10年で最も重要なニュースに都合よく遭遇した。そう、アメリカの選挙以上。待ち望まれる機械学習の進歩以上。Elon Muskの宇宙旅行と電気自動車のワンツーパンチ以上 ― だが、それに関係している。

もちろん私が言っているのは、Ramez Naamがエレガントにこう表現しているもののことだ:「地球上のあらゆるテクノロジーを使ったものの中で、史上最も安い電力」。そしてその信じられないほど安いエネルギーの源が、この石油にまみれたアラブ首長国連邦、ペルシャ湾の縁、世界の石油の1/5が眠るこの地のどこににあるというのだろうか。

そう、ご想像の通り。ソーラーパワーだ。〈助成金なし〉のソーラーパワー。

Naamの記事を通読して、その想像を越える内容を考えてほしい。今起きているソーラーパワー価格の急落を「並外れた」と呼ぶのは控え目すぎる。これは「革命的」と呼ぶにふさわしい。

The Economist観測によると、ソーラー電力の価格は過去6年間に80%下がっている。〈80%!〉だ。一方、Tesla、GMを始めとする、電気自動車メーカーのおかげで、「発電」は、ゆっくりと ― しかし確実に ― 「電気自動車推進」の同義語になりつつある。

しかし重要な疑問は、〈どれほど〉ゆっくりなのかだ。どうやら人類は、使い尽すよりずっと前に、化石燃料から離れられそうだ。しかし、それだけでは十分でない。今われわれが突進している崖は、もっとずっと近くにある。

New Republic書いているように、人間が壊滅的な気候変動を避けたければ、「現在運用されている炭鉱とガス田は、取り尽くすよりずっと前に全面閉鎖する必要がある」。

安価なソーラー(および風力)電力でそれが可能になる日は来るのか?おそらく来ない。エネルギーの生成だけでなく、エネルギー〈蓄積〉のブレークスルーが必要だ。(加えて、少なくとも可能性としては、原子力発電の大幅な増加も)。

そこには、劇的なアイロニーがいくつかある。もちろん一つは、湾岸の産油諸国が再生可能エネルギーの最前線にいること。

…そしてもう一つ、今人類は、太陽がわれわれの文明を焼き尽くすのと、同じ太陽が、われわれをその運命から救ってくれるのと、どちらが先かのレースのさなかにいること。

これは、人類が自らもたらした脅威として、初めて直面するものでも最大のものでもないが ― それは冷戦中の核兵器の脅威だったろう ― 最も扱いにくいものであることは確かだ。それでも明るく振舞っていられる理由がある。つまるところ、安いソーラーエネルギーは空から降ってくるドーナツようなものだ。長期的な「コモンズの悲劇」を招くことなく、長期的に主要なエネルギーが供給される世界は、少なくとも〈存在しうる〉。

何よりも、今週のニュースの出所が象徴的だ。もしアラブ首長国連邦がソーラーエネルギーを活用し、油田の上に立つ国から投資貿易移民を糧とする国へと、徐々に変わることができるのなら ― 他の国々にも間違いなくできるはずだ。

[原文へ]

(翻訳:Nob Takahashi / facebook

デバイス自体の重要性が低下するスマートな未来

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【編集部注】執筆者のTom Goodwinは、Havas Mediaにおける戦略・イノベーション部門のシニアバイスプレジデント。

スマートフォンがポケットの中に入っている今では、Thomas Watsonの「全世界でコンピューターは5台ほどしか売れない」という有名な発言を笑うのは簡単なことだ。しかし、彼の予測のズレが40億台ではなく、たった4台だったとしたらどうだろう?

2000年代初頭、私たちは高価なストレージ機器や遅い通信速度が普通の時代に生きていた。そんな中未来を予測しなければならない人は、将来的に全てのデバイスがこれまでに作られたものを全て記録できるくらい情報処理機器やストレージが安くなるのか、もしくは、全ての情報を遠隔地に保存できるほど、将来通信速度が高速化し情報を遠くまで届けられるようになるのか、というジレンマに陥っていた。

当時から見た「将来」では、どちらもほんの一部が現実となっており、ローカルとクラウドベースのストレージという妥協案に私たちは落ち着いた。

後述の通り、未だに両者の戦いは続いているものの、あえて言えば、デバイスよりもクラウドに軍配が上がりつつある。スマートフォンは明らかに今後も洗練されて行くだろうが、そのペースは加速しているとは全く言えないし、むしろスマートさは段々と、そのデバイス用に作られたソフトウェアや、実装されているプラットフォーム、もしくはGoogle NowやCortana、SiriといったAIへのインテリジェンスの全面的なアウトソース自体に依存するようになっている。

事実、私たちは驚くほどシンプルな機器が蔓延していることに気付かされる。Amazon EchoやGoogle Homeのようなデバイスは、実質的にマイクとスピーカー、低音を生み出す大きなチューブ、そしてクラウドへの接続性だけで構成されている。クラウド上に全てのスマートさが詰まっていて、そこで情報が処理されているのだ。自動運転車は、道路状況や最短経路などの情報にアクセスしながら、全ての判断をローカルで行うようになるだろうか?それとも、単にデータをどこか別の場所にある情報処理拠点に送信し、指示内容を受け取るだけになるのだろうか?ヒューマノイドロボットが登場しても同じ問題が浮上してくる。

実際のところ、恐らく私たちは電子機器の役目について考え直し、電子機器とうまく機能しあうシステムの観点から考えるはじめる必要があるだろう。携帯電話やソフトウェア、ハードウェアの最小単位で考えるよりも、複数のデバイスや、プログラム、パートナーシップを含めたシステムという観点で考える必要があるということだ。

この考え方の変遷についてよく理解するためには、それぞれ7、8年毎に起きた4段階の変化(アナログ機器の普及、デジタルへの収束、デジタルオプティマイゼーション、システム統合)に沿って、電子機器発展の歴史を振り返る必要がある。

アナログ機器の普及

20世紀末頃におきたメディアのデジタル化以前の電子機器は、今日のそれとは全く異なる姿をしていた。メディアは全てモノとして存在し、今とは何もかも違っていただけでなく、各メディアは記録されている物理的なデバイスに基づいた名前がつけられていたのだ。

私のiPodは、3つの音楽デバイスに取って代わったが、最終的にはスマートフォンの登場で捨てられてしまうこととなった。

1995年頃、私はテレビ、VHSビデオプレイヤー、ウォークマン、ディスクマン、コードレス電話、デスクトップPC、CDプレイヤー、オーディオ機器のほか、それ以外にもたくさんのデバイスを所有しており、毎年何か新しいテクノロジーや、新しいエンターテイメントの手段が生み出されていた。1997年にはMDプレイヤーが登場し、1998年にはレーザーディスク、2000年にはDVDプレイヤーが誕生した。この時代は、「デバイスの絶頂期」にあたる言える。一例として、レコード店ではそれぞれの物理的な形式に合わせて、同じアルバムを同時に数種類販売しなければならないことがよくあった。

デジタルへの収束

デジタル化がその全てを変え、物理的なメディアがシンプルになっていく一方の時代に入った。私のiPodは、3つの音楽デバイスに取って代わったが、最終的にはスマートフォンの登場で、膨大な音楽コレクションやその他の多数のアイテムと共に捨てられてしまうこととなった。

年配の人は、何でも捨ててしまう世代や、1000ドルもするスマートフォンの行き過ぎに愚痴をこぼすかもしれないが、無駄なものがない人生は、私たち自身にとっても環境にとってもよっぽど高い価値を持つ。今では、ゲームをするのにも、テレビを見るのにも、世界中を移動するのにも、何も「持つ」必要がないのはもちろん、所有する必要さえない。実家にある私のロンリープラネットのコレクションは、高価で場所をとるデジタル時代以前の遺物を垣間見ることができる数少ない存在だ。

スマートオプティマイゼーション

2000年代後半に、スマートフォンが、時計からゲームコンソールや懐中電灯まで全ての機能を果たすことができる、決定的な汎用パーソナルデバイスとしての地位を確立した途端、スマートフォン以外のデバイスは、消費者から見て説得力のある存在意義を求められるようになってしまった。その結果、それまでは機能向上がもう出来ないと思われていた、たくさんのデバイスの最適化が進められた。テレビの機能を向上させたGoogle ChromeCastのようなデバイスが誕生したのだ。他にも体重を測るとともに天気予報を教えてくれる体重計や、PhilipsのIoT照明Hue、SonosのサウンドバーPlaybarなどが登場した。全てのアイテムが、今日のわがままな消費者のニーズを満たすために作られた素晴らしい例だと言える。

しかし、未だに上手く機能していないシステムや、使用例が重複しているものが存在する。私は、家電製品の次の時代が、人々の考え方の変化から始まると考えている。これからは、私たちの住む世界に存在するデバイスが、あるシステムの中のノード(点)として機能していると考えなければならないのだ。

パーソナルデジタルシステム

TeslaやEchoの最も素晴らしい点のひとつが、これまで長い間当然と思われていた、物理的なものは時間と共に劣化するという原則を覆そうとしている点だ。ソフトウェアのおかげで、前日に置きっぱなしにしていたデバイスの機能が、翌日目覚めると、比べものにならないほど進化しているのだ。これは新しい考え方で、このような製品は、ソフトウェア、ハードウェアそしてパートナシップの全てを勘案してデザインされている。いくつかの企業は、ユーザーエクスペリエンスが、製品単体の快適さよりもシステムへのアクセスに依存していると遂に気づいたのだ。

私たちは、大手テック企業がつくりだすことのできる、商業的パートナシップの視点から物事を考える必要がある。

電子マネーの便利さは、それを受け入れる小売店にかかっている。ドアを開くことができるスマートウォッチから、モバイル搭乗券を受付けている航空会社まで、私たちは、大手テック企業がつくりだすことのできる、商業的パートナシップの視点から物事を考える必要がある。つまり、各デバイスを、独立した形ある存在としてではなく、あるクラブのメンバーになるための物理的な入会トークンや、アクセス権の所有証明として捉えなければならないのだ。

一方、デバイスを製造する企業も、デバイスそのものではなく、ユーザーが所属するクラブを生み出す企業として考え方を一新する必要がある。将来的にデバイスメーカーは、そのデバイスが何をできるかだけではなく、そのデバイスを所有することで何ができるか、所有者のクラブに属することでどのような気持ちになれるか?また、どんなユニークな機能を開発したかではなく、どんなユニークな経験をユーザーに提供しているか?という質問に答えなければならないのだ。

自動車メーカーでいえば、自動車の性能よりも所有者の経験を重視し、自社が自動車製造業界ではなくモビリティ業界にいるといった考え方に変えていく必要がある。デバイスの所有者は、どのように自分が持っているデバイス群が機能し合っているかや、各デバイスがどんなユニークな経験を提供しているか、現実世界とデバイスがどのように交流しているかなどの観点から、自分たちが利用しているシステムにとってプラスとなる情報を生み出していかなければならない。

携帯電話やスマートウォッチ、タブレットは、段々と現実世界と仮想世界をつなぐ、クラウド上にある私たちの生活のハブへのアクセスポイントとして機能しはじめている。つまり、デバイスが両方の世界における、私たちの移動、購入、決断といった行動を形作っているのだ。今こそこの業界にいる全ての人にとって、それぞれのデバイスがどうすれば素晴らしい製品になるかだけではなく、どうすればより簡単で、早くて、良い生活への素晴らしい入り口となるかということを考えるチャンスだ。

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(翻訳:Atsushi Yukutake/ Twitter)

Brexitの悲劇はイギリスのフィンテックに必要な出来事だったのかもしれない

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【編集部注】執筆者のDamian Kimmelman氏は、企業情報データベースサービスを提供するDueDilの共同設立者兼CEO。

誤解しないで欲しいが、Brexitは悲劇だ。ヨーロッパの同盟国と課題に取り組んでいく代わりに、イギリスは正に誤った道を辿ろうとしており、経済に対して不必要に不透明感や否定感をもたらしている。

テック業界は特にBrexitで苦しむことになるだろう。国際的に活動するベンチャーキャピタルや、イギリスへ移住したいと考える技術を持った労働者たちに支えられてきたイギリスのスタートアップシーンは、グローバル企業や膨大な数の高給職を生み出そうとしているところであった。スケールするのに必要な資金調達や社員の雇用の問題から、その発展は今後行き詰まるだろう。

間近に迫ったロンドンテック業界の低迷に関する憂鬱な予測は、既に掃いて捨てるほどなされている。そして、イギリスを捨ててダブリン、パリ、ストックホルムやフランクフルトなど受け皿となる都市への移転準備を整えようとしている銀行やスタートアップの動きを受け、フィンテックに関する予測はとりわけ厳しい。

しかしこういった不安は大げさなものだ。実際のところ、Brexitはイギリスのフィンテック業界に必要な出来事だったかもしれず、同時にいくつかのイギリス企業を世界のリーダーへと成長させるきっかけとなる可能性を秘めているのだ。

その理由は簡単だ。ロンドンは世界の金融業界の中心地で、その背景には、銀行業界におけるイギリスの覇権や、外国為替の世界的なハブとしての役割、そして国際的な金融機関がEU各国でオペレーションを行うことを可能にするパスポート制度がある。

そのポジションが危ぶまれるということから、金融機関は社員やオペレーションを欧州にある他の金融センターへ拡散させることになるだろう。しかし、バックオフィスのテクノロジーや手厚く保護されている社員の観点から、移転は簡単ではない。大手銀行に関して言えば、どの機能をロンドンから移転するにしても膨大な時間と労力とお金がかかる。

対照的に、フィンテック企業はとても機動的だ。最小限の埋没費用かつ小さなチームと共に、スタートアップはすぐに方向転換することができ、日々変化する関連法令への対応や、新たな顧客・サプライヤーの発掘、データ解析を基にした意思決定など、Brexitによって新たに生まれるであろう様々な企業の課題を解決することができる。

そして、パスポート制度終了の可能性は、イギリスの金融セクターにとって大きな重荷となるが、銀行に比べればフィンテックへの影響は極めて小さい。

フィンテック企業のほとんどが拡大にあたって、EU各国の規制に対応した法人を作るのではなく、自分たちの製品を販売、トレード、決済できるような各国の金融機関と協業しようとしている。この戦略をとれば、規制変更にも大きく影響されないですむ。

つまり、動きの遅い銀行が形式主義的な規制に縛られる中、フィンテック企業は銀行の利益の大半を奪いながら、そのそばを通り過ぎて行くことができるのだ。Funding Circleのようなスタートアップは、制度からくる遅滞によって発生しているレンディング・ギャップを埋めようとしており、今後フィンテック業界中で、迅速に動ける企業が既存のプレイヤーを打ち負かす同様の動きが繰り返し発生するだろう。

ロンドンから世界を見据える

一方でフィンテック企業にとっても全てが簡単にいくわけではない。国ごとや企業ごとのデータ保護の考え方のすり合わせや、送金会社にとって大問題となる、ロンドンでユーロ建て証券の決済ができなくなる可能性など、大きな課題が残っている。スタートアップの中には、利益を生み出す仕組みが機能しなくなり倒産に追いやられる企業も出てくるだろう。

しかし、代表的な金融機関の全てが拠点を置いており、先進的でビジネス寄りな規制団体の下にある一大市場であることから、ロンドンは依然フィンテックの首都だと言える。さらに、EU圏内の技術をもった労働者が、マーケットを牽引する企業で働き、世界でも指折りの都市であるロンドンに住みたいと今でも思っていると私は考えている。

フィンテック業界の投資家は状況を理解し、一時的な混乱に対処する準備ができている。フィンテックへの投資に対するリターンは巨額だが長期的な目で見る必要があるのだ。ベンチャーキャピタルは辛抱強く耐え、強力なビジネスアイディアと明解なマーケットへの進出計画を備えた企業を支えていくことだろう。そういう意味では、うまく経営されている企業はこれからもスケールに必要な資金を手にすることができる。

Brexitがフィンテックにもたらす本当の影響は2つある。まず、投資家がリスクの高いスタートアップを避けて、ある程度名前の売れた企業に集中することで、各企業の質が重要になってくる。これに伴い、フィンテックバブルがはじけはしなくとも、しぼむことになるだろう。

次に、各企業はロンドン中心の考え方をやめ、海外に成長機会を見出すことになる。もはやイギリス国内向けの金融サービスを開発して、除々にその他の国へ展開していくという戦略は通用しなくなり、もっと早い段階で外国を意識する必要がでてくるのだ。この戦略の転換は、情報やデータなど簡単に国境をまたいで動かすことのできる商品を扱うフィンテック企業にとってはむしろ追い風となる。

結局、Brexitは市場に不透明感をもたらし規制の泥沼を生み出すだろう。これはイギリスや経済にとっては残念なことであるが、同時にフィンテック企業が成長するのに適した環境を作り出すことになる。イギリスのスタートアップが、金融機関の手の届かない分野で活動を行い、新たに生まれる問題に対しての解決策を提示することで、企業や消費者がもっと賢くお金が使えるようなサポートをしていくだろう。

以上が、なぜBrexitがイギリスのフィンテックにとって欠かせない出来事であったか、そうでなくとも総合的に見てイギリスにとって良いことであったと私が信じる理由だ。

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(翻訳:Atsushi Yukutake/ Twitter

Google+、5歳になって今もどうにか生きている

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Google+が好きな人たちは、本当にGoogle+が好きだ。それは、Googleが信頼できるFacebook競合として、2011年6月にこのサービスをスタートした時から変わっていない。もしあなたがGoogle+ファンなら、今日はめでたい日だ。あらゆる予想を覆して、あなたの好きなソーシャルネットワークは今日5歳になった。それ以外の人にとっては、Google+が今もオンラインでいることが驚きかもしれない。

PDP_FiveAlive_59このサービスを愛し続ける人たちの数は、2011年夏のめまぐるしい日々を過ぎてから急速に減った。Googleはあらゆる面で正しいことをした。デザインはすばらしく(そして、当時としては、極めて高度なウェブ技術を使っていた)、サークルを利用したプライバシーへの配慮は、Facebookへの強力な対抗手段と思われた。人々は心からGoogle+に期待していた。

ハネムーンは長く続かなかった。サークルは殆どの人にとって複雑すぎる結果になり(友達をバケツに分けるアイデアは奇異に感じられた)、Googleの匿名を認めない(仮名すら)方針は、直ちに反感を買い、Googleがポリシーを変更した後も、当時の苦い思い出は多くの人の心に残った。

スタート当時、Googleはサービスの改善よりも、Google+のユーザー数を増やすことに集中していたように思える。

Twitterと異なり、Googleはこのサービスをサードパーティーデベロッパーに対して、殆ど開放しなかった。それはGoogleが、「非常に特別でマジカルな何か」を壊したくなかったからだ。

Googleが同社の全サービスにソーシャル(即ちGoogle+)を盛り込むことへのこだわりは、プロジェクトリーダー、Vic Gundotraによって強く進められたが、少々行きすぎていたようで、2014年4月にGundotraがチームを去った後、各サービスからGoogle+統合機能を取り除く作業には、当初の開発と同じくらいの工数がかかった。

Gundotraが去った後、コミュニティーとコレクションに焦点を絞って昨年再スタートするまで、Googleはこのサービスのことを殆ど忘れていたようだ。その反響は、夏の暑い日の心地良いコオロギの声のようだった。

Googleの他の社会実験、例えばあの不運なBuzzとは異なり、Google+は5年後の今も生きている。これは、それ自体一つの成果だ。公平のために言うと、Google+はHangoutやあの完璧なGoogleフォトを生んでいる。それがGoogleの経験したあらゆる激しい苦痛に値するものだとは思わないが、少なくとも何らかの価値はあった。

ハッピーバースデー、 Google+!

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(翻訳:Nob Takahashi / facebook

職場にもっと多様性を、まずは技術職から

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テクノロジー業界が性別、人種、民族や年齢において多様性を欠いているということは周知の事実だ。主要なテック業界の公開しているデータによると全従業員における女性の占める割合は25から45%でしかない。この格差は技術系の職種になるとさらに悪化する。Anita Borg Instituteの実施したTop Companies for Women Technologistsの調査によると、過去の5年間に渡り、技術系における女性の占める割合は 21%のまま全く動いていない

他の、人口構成比的に少数のグループに関しても結果は似たり寄ったりである。テクノロジー企業において、ヒスパニックの雇用は最高で11%であり、黒人に至ってはたったの2から8%だ。先ほど同様、技術職では、数値はさらに低下する。テック業界公表の雇用の多様性に関するデータによると、ヒスパニックでは2から8%、黒人では1から7%にもなる。

女性はテック業界においては、マーケティング、人事、会計や他の部門で多くの役割を果たしている。それ自体は良い傾向であるが、この業界の性格差を埋めるまでには至らない。なぜか。それはほとんどすべての企業において、最も雇用が増えているのが技術職だからだ。もし我々が今、女性が技術職を志向することに二の足を踏ませ続けるのであれば、この格差は今後どんどん開いて行くだろう。

2016年の今、全ての会社がテック企業だ

今日では、全ての会社がテクノロジー企業であり、全ての産業が生産性と革新性の向上をテクノロジーに依存している。金融機関、小売り業、メディアは技術者の採用を増やしており、多業種に渡って、非技術系の部門、例えばマーケティング、人事や会計などもどんどん専門の技術者への依存度を高めている。

テクノロジーのあらゆるビジネス領域への拡散はとどまる兆しを見せず、企業や機関の技術部門では、多様で才能あふれる人材をリクルートし、雇用、昇進させることが大変重要な意味を持つ。

また、単なる事実として、技術職は他のポジションに比べて、条件が良く給料が高い。より多くの女性および社会的に比率の低いグループの人々を技術職につけることが今ある格差を埋める上での鍵となる。

技術職における男女間の格差

なぜ技術系の従業員が特に重要なのだろうか。その点を説明するため、シリコンバレーにおいて著名なテック企業であるインテルに目を向けてみよう。インテルは今年度初旬に多様性とその受け入れに関する年次報告を公表した。

テルのアメリカ内の技術系従業員中で女性の占める割合はたったの20.1%だ。背景を説明するなら、インテルのアメリカにおける従業員のうち、何と86%が技術職である。

女性技術者をリクルートし、雇用、昇進させることは単に正しいだけでなく賢い選択だ。

インテルにおいては新規雇用の大半が技術職なので、同社はまず、技術職の均等雇用に取り組まねばならない。もしインテルの技術系従業員の男女比が同等であったなら、会社全体における性格差は今日存在しないだろう。

企業が特に技術職において雇用の多様化に取り組まない限り、組織全体に渡る男女の均等雇用などは夢物語に終わるだろう。

女性の昇進には過大な要求が立ちはだかる

女性はテクノロジーの分野で職を得るのが容易ではないが、昇進にはさらなる困難が待ち受ける。女性が上級職に昇進するためのハードルは男性の場合よりずっと高く設定されており、さらには女性は数学や科学が苦手だという考えが根強く浸透している。

その証拠に、Sequoia Capitalの投資家であるMichael Moritzのコメントを紹介しよう。この男性の意見では、もしテック業界にもっと才能のある女性がいるのであれば、そう言った人材はもう雇用されているだろうし、自分的には職場の多様性の確保だけを目的に採用基準を下げるつもりはない、ということだ。しかし、そのような採用基準とは一体なんだろうか。テックに職を求める女性はコンピュータ科学や工学の学位を持っているが、どうやらこの基準はこの男性には当てはまらないようだ。というのも、彼が持っているのは歴史の学位だったからだ。

この様な女性に対する一般的態度と、その結果テック業界で働く女性がいないことは大変嘆かわしいことだ。しかし、この様な問題があっても、女性のビジネスや社会における進出は目覚ましものがあり、その指導力は着実に高まっている。例えば、今年度のインテルのScience Talent Searchでは、最終選考に残った半分以上、さらには受賞者3人中2人が女性だった。

世界の知的資本の半分は女性であり、女性の参加により経済成長は飛躍的に増大することが可能だ。この事実を無視することは企業にとって損失だ。現代のようなペースの速い、過当競争下のグローバル市場で成功するには、企業は継続的に変革を続けなければならない。そして、多様性ほど変革を促進するものはない。女性の技術者をリクルートし、雇用、昇進させることは単に正しいだけでなく、賢明な選択なのだ。

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(翻訳:Tsubouchi)

Googleの「公正使用」勝訴後も残る著作権に関する疑問

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OracleがGoogleを相手取った長きに渡る裁判に関し、もしも陪審員がどのような判断を下したか知らなければ、昨日(米国時間5月26日)の両社の弁護団の様子からは、その結果について推測することはできなかっただろう。判決が読み上げられた直後、両サイドの知的所有権を専門とする弁護団は、それぞれ肩を寄せあって小声で話し合っていた。その光景からは、OracleがGoogleのポケットから最高で90億ドルを手に入れる可能性のあった、重要な戦いに敗れたということは見てとることができなかった。

陪審員の、GoogleによるAndroid上でのJava APIの利用は公正使用である、という判断は、Googleが巨額の小切手を切ることを防いだだけではなく、Javaを利用したソフトの開発者にも一息つく間を与えた。しかしながら、前回の裁判では、APIが著作権による保護の対象とされるという判決が下っており、公正使用を認める判決さえ覆される可能性があるという意味で、Googleにとっては複雑な勝訴であったといえる。さらに、Oracleは既に控訴の意向を示している。

デューク大学でコンピューターサイエンスの教授を務めるOwen Astrachan氏は、今回の判決に関し「APIに著作権が認められていることを考えると、今回の判決は興味深い」と語る。Astrachan氏は、著作権に関する前回の裁判と、今回の公正使用に関する裁判両方で、Google側の鑑定人として証言しており、ホテルの部屋で、Twitter上に現れた判決に関するニュース目にしたときには、喜びで飛び跳ねたという。「Java APIの利用について、それが一件ずつ公正使用かどうか裁判で争わないといけないということでしょうか?面白いですね。Oracleは誰に対しても裁判を起こせるくらい十分なお金を持っていますし」

開発者には、これから自分たちの製品を裁判で守る必要があるかどうか、という問題がまだ残されている。彼らのJavaの再実装が、公正使用と認められる可能性はあるものの、誰もOracleのような資金力のある会社を相手に、裁判で戦おうとは思わないだろう。EFFのような支援団体は、ラベルAPIに著作権さえ認めない方が、開発者のコミュニティーにとってはよりシンプルで安心できると主張する

Googleの弁護団は、公正使用の四大原則をもとに議論を作り上げ、Astrachan氏いわく、これが陪審員に対してうまく効いたようだ。弁護士と証人は、コードの実装について一風変わった例を示した。問題となっていたAPIは、2週間に及ぶ審理の中で、キャビネット、ハンバーガー、コンセント、ハンドルさらにはハリーポッターシリーズにまで例えられていた。しかし、結果的にこの奇妙な例えが、望まれていた効果を発揮したのだ。

「多分、ハンバーガーとコンセントとハンドルの例えに効果があったんだと思います」とAstrachan氏は語り、さらに陪審員による評決が発表された後、「私たちはハンバーガーを食べにいこうかと冗談を言っていました」と話した。

一方、Googleの弁護団はシャンパンで勝訴を祝っていた。

しかし、祝福ムードはOracleのオフィスまでは届いていなかった。今回の裁判でOracle側に立った、知的所有権専門弁護士のAnnette Hurst氏は、LinkedIn上で判決内容を非難するブログ記事を公開した。Hurst氏は、今回の判決で、Oracleが不意打ちを食らったと示唆し、「GoogleによるAPIの使用法が、公正使用にあたると予想した著作権の専門家はいなかったでしょう」と綴っている。

「この度の判決が覆されることがなければ、世界中のクリエイターが苦しむことになるでしょうし、フリーソフトウェア運動自体も今大きな危機に直面しているといえます。」とHurst氏は付け加えた。「著作権で保護されている全てのソフトウェアの所有権が、この結果を受けて今後どのように守られていくのかわかりません。ソフトウェア企業は、ソフトウェアそのものとしてではなくサービスとして製品が管理されるよう、今からクラウド化を加速させなければなりません」

Hurst氏の、GoogleによるAndroidの開発でオープンソース・ソフトウェアが痛手を負ったという主張は、Oracleの共同最高経営責任者であるSafra Catz氏が証言中に述べたコメントと内容を同じくする。Catz氏は、Androidの導入によってJavaのオープンソースコミュニティーが分裂し、開発者をふたつのプラットフォームに振り分けることになってしまったと語っていた。

Hurst氏は、開発者コミュニティーを強く非難しながら、フリーでオープンなソフトウェアを推進する運動の草分け的活動家でプログラマーでもあるRichard Stallman氏の名前を挙げ、ブログ記事を締めくくった。「この戦いであなたたち開発者は、Oracle側に立つべきでした。Googleの言うフリーは、Richard Stallman氏が言っていたフリーとは意味が違うんです」

5年におよぶ法的論争をもってしても、Oracleの辛口批評家の大多数がその意見を曲げることはないようだ。しかし、そこには控訴という手段が残っている。

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(翻訳:Atsushi Yukutake