STEM玩具の作り方

冷えた土曜日の朝、僕の父親は灯油のヒーターに火をつけガレージ裏を温めていたものだ。彼はラジオをつけ、絶えずローカルの公共ラジオにあわせ、流れるWait, Wait, Don’t Tell MeHarry Shearerが蜘蛛の巣を通って入ってくる風のような静寂をやぶっていた。

「古い服を着ておいで」と彼は言い、そして暖かなキッチンをのぞいていた。僕はまだパジャマ姿でブツブツ言っていた。寒いガレージで牛乳コンテナボックスに座って車の修理をしたりするより、僕はテレビを観たり、コンピューターで遊んだり、本を読んだり、その他のことをしたかった。

しかし、これはあなたも経験したことだろう。1985年に車の修理をしなければならなかったらの話でー当時僕は10歳で、まだ父親も生きていたー僕たちはそうしていた。当時の古いエンジンはアクセスが可能だった。パックにされているものなど何もなく、プラスティックのカバーに覆われたり隠されたりしているものもなかった。かつては、車の下に配置されたブレーキラインをたどっていけた。どのベルトを締めるべきか、どこの継ぎ目から漏れているのか、点火プラグがどんな具合かということがみて取れた。それが私たちがしたことだ。ブレーキパッドを取り替え、オイルプラグを引き抜き、小さな穴から黒い油を上を切ったミルク差しのようなものに流し込んだりした。空回りを直すために小さなスクリューを回し、点火プラグの隙間をつくったり、タイヤを交換したりと、機械で車を上げずにできることは全てこなせていた。

ときに修理は簡単だった。11月のサンクスギビングの直後には両サイドをジャッキで持ち上げて冬用タイヤに交換した。そうして、オハイオリバーバレーまでの道中、シューシューというような音を立てながら滑らかに丘を超えていとこたちに会いに行ったりした。また我々は液体関係のものもチェックし、エアフィルターやオイルフィルターも交換した。

しかし、大きなトラブルのときには、父親はChiltonの修理マニュアルを参考にした。このマニュアルというのは、彼が所有したフォードのFairmontやフォルクスワーゲンのVanagonについて詳しく記していた。メカニクスについてのO’Reillyのように、ほとんどの車についてのマニュアルを作っていた。そうした本は車の修理に関する必要なこと全て網羅しているので、うす汚いガレージの中できれいに保存されていた。彼はその本を大事に扱った。

僕たちがマニュアルを引っ張り出すときというのは決まってそれなりの時間がかかる修理だった。父が銃を隠している場所やMayfairの古いコピーを避けながら銅線や雑誌といった父親のものを引っ張り出す間、灯油ヒーターがシューシュー音を立てていた。彼が僕の手を必要とするまで僕は自分で何かを作ろうとしていた。ある年、僕はバンジョーを作ったし(正しく弾かれたためしはない)、また別の年は肩に担うロケットランチャーを制作した。父親はよく道具を必要とした。モンキーレンチ、ニードルノーズ、11ミリ。それじゃない、別の。父が何年にもわたって集めた分類されていない、ボルトでいっぱいのジャー。父親はどこに何があるのかをよく知っていて、どんなときに必要とするかも知っていた。僕は、父が行うゆっくりの“外科手術”のアシスタントだった。

僕はその役を引き受けていた。父親が何かをねじる間、僕が手で支えていた。父親の大きな手が入らないところは、僕の小さな手でやっていた。僕はメタルの電球ケージにさわると火傷するかもしれないような問題のあるライトを持ったりもした。

あるとき、僕は熱い電球に水をまいた。すると、電球は爆発した。そして父親はケージからガラスを取り出し新しいライトを据え付けながら熱力学を説明した。

何時間にもわたるスローで几帳面な作業を終えたとき、父親は車のエンジンをかけ、僕たちはドライブした。変な音はなくなっていた(時に、より悪い状態になっていた)。ブレーキはよくきくようになり、ステアリングは強くなり、エンジンは低い音をたてていた。僕たちはホワイトキャッスルやBW3まで、あるいは高速まで走らせたりして、ちゃんと走行するか確かめた。いつもちゃんと走るようになっていた。

玩具ではなく、ツール

僕が最後に車を修理したのはヴァージニア州のFairfaxでだ。ブレーキパッドがすり減っていて取り替えようとした。どうやるかは知っていた。僕はChiltonを買い、パッドも用意した。そしてほんの少しスクリュージャッキを使って車を上げた。

僕はそのパッドを前後逆につけた。フロント用パッドを後部に、後部用パッドをフロントにつけたのだ。そして車はガラクタのように走った。

僕は諦め、すぐ近くのSears修理センターに車を持って行った。それは1999年ごろのことで、SearsがまだD.C.周辺のモールを牛耳っていたことのころだ。

「BIGGSさ〜ん!」。サービスにいたスタッフがテレビや圧縮空気工具のやかましい音越しに叫んだ。彼は笑っていた。

「なおしましたよ。しかし、あなたは大したことをしてましたよ」と彼は言い、請求書を渡した。

それはそれとして、これまでの知識は一瞬で消えた。それまでの20年間、洗剤液体を注入する以外にフロントカバーを開けることはなかった。なぜ、そしていつから車はメカニカルな馬ではなく、よりロボットに近いものになったのだろう。

しかしかつての寒い週末は無駄ではなかった。僕は問題の謎を解く術を、古い本で答えを探す術を、額面通りに受け取らないことを学んでいた。壊れている部分というのはいつも見えないところにありー継ぎ目、ヒビの入ったホース、鋳鋼部分の割れ目などーそれを突き止めるのは楽しい。だから僕は何かを学ぶことができた。僕は現実の問題を解くことで現実の問題をどう考えるかを学んだ。ワイヤを交換することでエレクトロニクスの知識を得た。そして忍耐も学んだ。

最近流行のSTEM玩具に話を移そう。そうした玩具は、僕の父が僕と一緒に寒い土曜の朝にやっていたことをするためのものだ。床を走り回る小さなロボットは、組み立てと学習を置き換えるものとなる。レゴのようにぴったりフィットするパーツのボックスとアニメ化されたコードは、どんな子どもにも十分なはずだ。

しかし玩具は玩具だ。僕は近ごろのSTEM玩具に批判的だった。というのもただの玩具だからだ。僕が少しは教育的だと思うものはScratchと、本当のはんだを使うAdafruitプロダクトだ。Nintendoラボや他のロボットなどは全てくだらない。

教育するのは親の責任だ。しかし、教育する機会はもはやそう多くはない。ゴールのない教育というのは空っぽだ。僕は壊してつくることで学んだ。全てが使い捨てである場合、壊してつくるというのは最近だと難しい。しかしおそらく望みはある。僕はコマンドライン、プロトコル、お気に入りのゲームのコードを見せることを子どもに約束した。僕の息子はビットコインを持っていて、その価格を株トレーダーのように追っている。娘は Raspberry Piのものを定期的につくっていて、彼女は自分の小さな手に持っているのは玩具ではなくコンピューターだということを理解している。僕が子どものころからの古いガジェットをあけ、接触部分をきれいにし、電池を交換しながら、どうやって壊れたものを直すかを学ぶのだ。僕たちのお気に入りのゲームはDungeons & Dragons Computer Labyrinthで、これはちょっとしたトラブルシューティングで復活させたものだ。

この些細な取り組みは、明らかに僕が父親としたものと同じではない。そのような朝を再現できるとは思わない。当時僕はそうした朝を嫌ったが、今では愛しい。おそらく、寒いガレージとNPRラジオの日々は終わりだ。そして全ての子どもたちが欲しいのはプラスティックで出力形成されたLogo Turtlesだ。しかし、やるように言われてではなく自らやりたいと感じ、プロジェクトの最後には外に出て草原の向こうから来る新鮮でクリア、そして未来に満ちた冷たい風の匂いをかぐという子どもがどこかにいると信じたい。そうしたフィーリングを与えることが僕たちの仕事だ。それを玩具におしつけることはできない。

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(翻訳:Mizoguchi)

なぜデザインマインドセットが大切なのか?

Close up of a designer working on a project

【編集部注】著者のGian Paolo Bassi氏はSolidWorksのCEO(この投稿者による他の投稿:デザインベース学習が子供たちに主体性を獲得させる

エンジニアがエンジニアになるのは、物同士が文字通りあるいは比喩的に、一緒に収まる方法を見出すことを彼らが好きだからだ。これは常に当てはまる真実であるというわけではないが、多くの場合に成り立つことだ。今や、これまでの「デザインを実現するエンジニア」と、「エンジニアとして振る舞うデザイナー」の間を隔てる線はぼやけている。いまやデザインマインドセットを持つ人なら誰でも、ソリューションを巧みに生み出せることを、テクノロジーが可能にしている。

多くの組織が、問題解決を考える際に、デザイン思考あるいはそのバリエーションを取り込もうとしている。スタンフォード大学のd.schoolでは、共感で始まり進化し続けるサイクルが取り入れられている;共感し、定義し、想像し、そしてプロトタイプを作りテストする(そしてそのサイクルを繰り返し続ける)。

私がここで述べたいのは、デザイン思考手法だけに特に焦点を当てようということではなく、デザインはエンジニアリング、あるいはプロダクト開発、そしてマーケティングよりも遥かに大切なものであることを認識しようということである。大企業から政府機関に至るまで、或いはスタートアップビジネス(そしてその支え手であるVC)から学校(小中高から大学レベル)までの多くの組織が、デザインマインドセットに移行しつつある。

スタンフォード大学d.schoolのディレクター兼共同創設者のGeorge Kembleは、起業家兼投資家から、教育者へと転身した人物だ。TEDxのSemesterAtSeaにおける、There is No Leader(リーダーはいない) 、という講演の中で、創発的システム(emergent system)はリーダーなしでやっていること;魚や鳥の群れがただ一匹に従うわけでないことなどを説明した。彼らは、観察と小さな変化に基づいて反応しているのだ。彼の話の中心はデザイン思考(design thinking)である。デザイン思考は、スタンフォード大学のデザインのハッソープラットナーデザイン研究所(Hasso Plattner Institute of Design:通称d.school)でメソッドの中核が形作られた。

デザインの達人

デザイン思考という用語が生み出される前は、世界で最も革新的な建築家の一人、Frank Gehryがその実践者だった。彼が手がけたものとして、シアトルのユニークな形状のExperience Music Projectや、オーストラリアのシドニー工科大学の「paper bag」ビジネススクールビルディングなどの名を挙げることができる。何年も前に、私は彼に会いに行った。彼は段ボールブロック、木製ブロック、プラスチックや発泡材などが置かれた倉庫に私を案内した;彼は実際の素材を使いながら、発明とプロトタイピングを行っていた。しかし、彼が私に語ってくれたのは、ソフトウェアを使う前にアイデアを生み出す必要があるということだ。

Gehryにとって、アイデアは(ときに多くのアイデアは)、何らかの秩序を保ちながらも様々な思考を経てやってきていた。彼は、構想段階でははコンピューターによって支援されていないことを私に示した(当時の話だが)。段ボールでモデルを作成することには、多くの時間がかかり、創造性を発揮するための柔軟性がない。例えば、何平方フィートなのか、底面積は、体積は、何人の人がここに入れるのか、ハリケーンのシミュレートができるのか、照明はどのように見えるのか、などの問いかけに対して、段ボールモデルからは簡単に答えを取り出すことができない。なので、物理からデジタルに移動することができなければならないし、その逆もまた真なのだ。

私は毛糸玉と戯れる猫のようなものだ。玉があちらに転がると、猫もそちらへジャンプする。玉が床に落ちれば、猫もそこへ降りる。私は柔軟に対応する。一旦問題を理解したら、私はそれを試してみる。何が上手く行き、何が上手く行かないのかを観察し、そして再び試してみる。前にやったもののように見えたなら、私はそれを棄てる。私は自分の直感を信頼することを学んだ – Frank Gehry

多くの人びとが、デザインが始まるのは、ペンを紙にあてた時、段ボールで何かを作った時、あるいは、ありがちなのはデジタルモデルが3Dデザインソフトウェアの中で形をとる時だけだと思っている。もちろんこれらは皆大切かもしれない。

しかし、デザインが真に始まるのは、私たちが人びとの心をいかなるプログラムの制約からも解き放ったときなのだ ‐ ユーザーが創造プロセスを思慮深く進んでいけるように、ソフトウェアが補助として働き邪魔をしないように。このタイプの自由が実現されたとき、革新が起こりやすくなるのだ。デジタルツールが邪魔をせず、助力と支援を行ってくれるときに、素晴らしいデザインが可能になる。

工学専攻からやってくる技術デザイナーの数が増加している。90年代を振り返ってみると、MITで電気工学とコンピュータサイエンスを学んだ卒業生として、エンジニアリングのバックグラウンドを持つデザイナーは珍しかった。私は変わり者だったのだ。ここ10年ほどは、私たちはより多くのエンジニアリングの背景をもつデザイナーに出会っている… – John Maeda:ベンチャー企業Kleiner Perkins Caufield and Byersのデザインパートナー。

d.schoolやデザイン会社が、問題を解決するためのこうした新しい方向へ向かうのに従って、多くの企業も課題に対処するための新しい方法が必要であることに気付き始めた。あなたが属しているビジネスのタイプは問題ではない、人びとが直面している問題を理解して、それを解決するための創造的な手法を見付けなければならないのだ。私たちが今生きている、このモバイルの席巻する世界では、デザインツールは身につける服のようなものだ ‐ それがどのように作られているかは気にせず、ただ着るだけだ。

こうしたエンジニアリングとデザインの境界の曖昧さは、クラウドとモバイルがもたらす強力なテクノロジーツールで可能になった。ここに、より洗練された手法、例えばデザイン思考を加えてやれば、おなじみの「デザインの未来」への転換点に立つことになるだろう。John Maedaの言葉が示唆するように、デザインマインドセットを持つことは、どんな学位を持っているかには関係なく可能である。それがテクニカルであろうとなかろうと。デザインの未来は、限界を意識せず考え創造することを許す、まるで身につけている服のような、空気のようなツールにかかっている。

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(翻訳:Sako)