1962年2月20日、ジョン・グレンは問題を抱えていた。
地球周回軌道を飛行した最初のアメリカ人であるグレンは、その時フレンドシップ7のカプセルの中にいた。ミッションコントロールは、彼にカプセルの手動制御を引き継がせた。その間に自動システムが故障し、彼にはそれまでに人類が作成した最も複雑な成果物の1つを完全に制御する使命が残された。宇宙空間でただ1人、うっかりすれば地球から彼を弾き飛ばしてしまうか、あるいはその厚い大気の中に転落させかねない乗り物の舵を握っていたのだ。
「私は手動制御に移行して、2周目、3周目、そして再突入をそのモードのまま継続しました」とグレンは語った。「この故障は、私たちが長い時間をかけて検討してきたものが正しかったかどうかを、素早く証明してみせることを私に迫りました」。
そして彼は米国上院議員になるために生き残り、科学と実践主義に彩られた政策の策定に何十年も携わった。その男が亡くなった。彼の生まれたオハイオ州ケンブリッジから100マイルも離れていない場所で、家族に囲まれながら。
グレンは凄腕のパイロットだった。無数の出撃を通して何千時間もの飛行を行った。彼は宇宙最古の男であり、アメリカの希望と可能性の生きたサンプルだった — そして何よりも — 中心だった。戦後の恐怖と懐古的な無知によって大部分のアメリカ人が盲目的に這い回っていたときに、彼は超音速で飛行し、地上での希望が薄かった時に私たちを前へと押してくれた。彼はピッグス湾の上を飛び、ビートルズの「ラブ・ミー・ドゥー」に先んじて飛んだ。彼は最初のコンコルドを製造するエンジニアたちの上を飛び、アメリカのそして世界の戦争の際にアメリカの上を飛んだ。
彼はそれら全ての上を飛んだのだ。
ジョン・グレンのような男たちと女たちが重要だ。彼のときと同じ争いで形作られるこの時代には、熱い恐れと冷たい戦争の時代には、片手にはスロットルを、もう一方の手にはステアリングを握り、私たちを前へ導いてくれる男女が必要なのだ、宇宙で、地上で、研究室で、そして政治の場で。私たちには、手動制御に切り替えることを恐れない、思想家たち、実践者たち、製作者たち、男たち、そして女たちが必要なのだ。大勢のジョン・グレンが必要だ。
宇宙開発競争の英雄たちは高齢化している。それに続く世代は宇宙に対する敬意に欠けている — 少なくともまだ今は — そして彼らにとって宇宙飛行はありふれた奇跡に過ぎない。私たちは、出産時に死ぬことはない。私たちは、数時間で数1000マイルを移動し、数秒で世界の誰にでも電話をかけることができる。私たちは、この指先に世界中の情報を集めている。私たちは、願いが人生で徐々に叶っていく素晴らしい夢の中で眠っているのだ。私たちは、グレンでさえ予測することができなかった世界に住んでいる。
だから、グレンと彼の同類たちが私たちに与えてくれたものに感謝して、その先へ進もう。手動制御に切り替えよう。恐れを見せることなく。なぜなら私たちの可能性を無視することこそが恐怖なのだから。
グレンはかつて宇宙飛行の魔法についてこう言った「1日に4度の美しい夕焼けを見た日のことはどのように語ればいいのか分かりません」。世界を変えるために私たちがしなければならないことは、生涯に渡って日の出を見つめることだ。
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(翻訳:Sako)