米名門VCの共同創業者・ベン・ホロウィッツがWeWorkやUber、企業文化について語る

シリコンバレーを代表するベンチャーキャピタル、Andreessen Horowitz(アンドリーセン・ホロウィッツ)の共同創業者である ベン・ホロウィッツ氏の新しい本が来週に出る。同氏は著書「What You Do is Who You Are」(やってきたことがその人自身)で企業文化とその作り方について語っている。

言い古された言葉だが、その意味を捉え常に実行するとなると非常に難しい。ホロウィッツ氏はこのことをCEOとして直接体験してきた。同氏は前著「HARD THINGS 答えがない難問と困難にきみはどう立ち向かうか」に欠けていたのが企業文化に関する分析だったことに気づき、フォローアップを書くことにしたという。自身の経験に加えて他の経営者や組織のリーダーの行動、体験を詳しく観察して取り入れている。ハイチ独立の父で史上初めて黒人による共和国を作ったトゥーサン・ルベルチュールからモンゴル帝国の基礎を築いたチンギス・ハーン、殺人罪で有罪となり20年近く服役した後、著作家、大学講師となり人間の更生の可能性を説くシャカ・センゴアまで幅広く取り上げている。

これらの人々のストーリーは大いに参考になるし、歴史ファンなら特にそうだろう。我々は先日のTechCrunch取材のDisrupt SFイベントにホロウィッツを招き、本書について話を聞くことができた。またこれに関連して最も注目され、社会的にも大きな影響を与えているスタートアップであるUberとWeWorkについても尋ねた。

以下の抜粋は簡明化のために若干編集してある。

TC:あなたの企業文化に関する本が出たとき、ちょうどWeWorkの企業文化について多くの疑問が質問が出された。いったいどういうことが起きたのだろう?

BH:(WeWorkの共同創業者である)アダム・ニューマン氏には、確かにある種の文化があった。同時に彼の人格には大きな穴が空いていた。能力も桁外れだったが欠陥も桁外れだった。こういうことは時折起きる。ある部分で非常に優れていると、自分は必要なものがすべて手に入る人間だと錯覚しやすい。ところが実際は別の部分で非常に無能なのだ。

アダムは驚くべき才能がある。あれだけの巨額を資金を集める力があったことを考えてみるといい。未来に対する素晴らしいビジョンを持っていた。人々がそれを信じたからこそ資金も優秀な人材も集まった。しかしそこまでオプティミスティックな場合、周囲に本当のことを言ってくれる人間、悪いニュースであっても告げてくれる人間を置く企業文化が必須となる。たとえば資金が流出して手がつけられないなどだ。

TC:Uberの創業者で元CEOのトラビス・カラニック氏についても企業文化が非難されていた。これに対してWeWorkのアダム・ニューマン氏は非常にオープンは会社運営をしていた。彼がどういう人間であるかは誰もが知っていたと思うが。

BH:実のところ、トラビスがどのように会社を運営していたかは誰もが知っていた。シリコンバレーでは誰もが知っていたし、もちろん取締役会のメンバーはなおさらだ。企業文化は公開されていた。この記事を読むといいが、当時のUberの企業文化が詳しく説明されている。

トラビスは非常に説得力ある企業文化を創造し、その価値を確信していたし、文章を公開していた。しかし見逃しているものがあり、その結果は誰もが知るとおり(の失脚)だった。つまりトラビスの欠点に対する世間の圧力が耐え難くなってきたと取締役会が判断したわけだ。

TC:こうした例から得られる教訓は?

BH:我々はLyftに(6000万ドルを)投資しているので当然ライバルのUberについてもよく知っている。あれは非常に微妙な問題だった。いってみればトラビスは非常にすぐれたアプリだったが隠れたバグがあった。

トラビスが(社員の)悪い行動を奨励したように報じられがちだ。そんなことは決してなかったと私は見ている。彼に問題があっとすれば、倫理性、合法性は競争に勝つことより決定的に重要だということを周知させることに失敗した点だ。その結果、とにかくUberのような会社では機能は広く分散するので、その一部では人々が暴走することになったのだと思う。

しかもトラビスのおかげで関係者はみな大金を稼いだ。Uberはとてつもない急成長を続けていたから、私のみるところ取締役会も「これだけ儲かっているなら多少のことをとやかく言うまい」という気持ちになっていたのだろう。

最後に誰も責任を取らなかったのは不公平というしかない。 トラビスに落ち度はあった。しかし彼を責めるなら、見て見ぬふりをした人間にも責任はある。ごく控え目に言ってもそうだと私は思う。

いかにして企業文化を確立すべきかという本を私が書いた理由は、スタートアップを立ち上げたCEOにしてみたら、企業文化なんて小さい問題だと思えるかもしれない。しかしやがて大問題に発展するのだ。倫理問題というのはセキュリティ問題に似たところがある。あまりにも本質的な問題なので実際に問題が起きるまでは問題だと気づかない。

TC:なぜこの問題に興味を持つようになったのか?

BH:いくつかあるが、第一にこれが CEOとして体験した中で最も困難で解決にいちばん時間がかかる問題だったからだ。 なるほど誰もがこれは重要だと助言してくれた。「ベン、企業文化に注意しろよ。これがカギになるぞ」というので「オーケー、じゃどうしたらいい?」と尋ねると「ああ、そうだな、会議で検討したらいいんじゃないか?」といった話になって要領を得ない。誰も問題の本質はどこにあり、具体的に何をすればいいか教えてくれない。それなら、ここに私の知識の穴があるのだろうと考えるようになった。

もう1つ、今何をしていようと文化を作ること以上に重要なことはない。 社員たちに常々言っているのだが、10年後、20年後、30年後に振り返ったときに個々の取引で勝ったとか負けたとか、どれだけ儲けたとか覚えている人はいない。覚えているのは、ここで働いていたときの気分、我々とビジネスをしたときの気持ちや印象、我々が周囲に与えた影響だ。つまりそれが企業文化であり、誰もここから逃げることはできない。これはどんな企業にも当てはまることだと思う。

加えて、シリコンバレーの企業は非常に急速に成長し強力になってきたのでこの文化について厳しい批判が出ている。一部はもっともだ。しかし解決策の提案となると、はっきり言って奇妙なものが多い。そこで単に批判や非難をするのではなく、具体的どうすればいいのかまとめてみる必要があると感じるようになった。

TC:先ほどUberの話が出たが、こうした急成長企業の多くは高度に分散的な環境であることが多い。本書ではこうしたリモートワークの場合ついてあまり触れられていないように感じる。広く分散した職場で働く社員についてはどのように考えているだろうか?

BH:確かにこの本ではリモートワークについては触れていないが、もちろん非常に重要な分野だ。ただその環境を支えるテクノロジーが急激に発達しており、リモートワークは進化中だ。以前はコミュニケーションその他のシステムが不十分だったためにエンジニアリングを中心とする組織がリモートワークで機能を発揮するのはほぼ不可能だった。だからMicrosoft(マイクロソフト)は(本社が所在する)レドモンドに移転できるスタートアップだけを買収していた。

しかし最近はSlackやTandemなどがのサービスが普及し、環境は大きく改善されている。企業文化を作ることもこうしたツールの発達によってリモート化可能だろう。ただ、ミーティングで顔を合わせたり廊下でつかまえたりした社員に直接に企業文化を普及させるのに比べて、電子メディアを通じて文化の伝達を図るのはかなり難しいだろう。

実際、最近もメールでいろいろやったし、電子的ツールにはもちろん文化的価値がある。私は起業家をあれこれ批判したくはない。そのアイディアがばかばかしく見えようと問題ではない。起業家はゼロから何かを作ろうとしている。夢に賭けているわけだ。だから我々は彼らをサポートする。以上だ。

(Benchmarkの著名ベンチャーキャピタリストである)ビル・ガーリー氏ばりにTwitterに「あんなクソ会社、1ドルだって儲けていないじゃないか」などと書き込むと誰もが読むことになり会社をクビになるだろう。我々のポッドキャストにはニュース部門があるが「WeWorkの失敗の教訓」といった安易な話はしたくない。そんなことは他の連中がやればいい。企業文化的の問題で教訓などを書きたい人間はいくらでもいる。

つまりリモートで企業文化を構築しようとすることは可能だが、慎重にやる必要がある。また誰がそれを読むのか考えなければならない。

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(翻訳:滑川海彦@Facebook

キャッシュアウト、買収撤回、裏切り——ソウゾウ松本氏はどん底をどう乗り越えたのか

ソウゾウ代表取締役・メルカリ執行役員の松本龍祐氏

編集部注):起業家の成功談よりも、苦しい時期を乗り越えた話にこそ、重要な学びがあるのではないか。この記事では資金調達やプロダクトローンチのニュースではあまりフォーカスされない、起業家の経験を伝えていく。今回話を聞いたのは、現在ソウゾウ代表取締役・メルカリ執行役員を務める松本龍祐氏だ。松本氏はかつてソーシャルゲームやスマートフォンアプリを手がけるコミュニティファクトリーを立ち上げ、その代表を務めた人物。

コミュニティファクトリーは、2011年101月にリリースした無料写真加工アプリ「DECOPIC(デコピック)」がヒット。2012年9月にはヤフーが買収するに至った。いわゆるM&Aによるイグジットを果たしたわけだが、そこまでにはさまざまな苦労があった。どのようにして松本氏は苦労を乗り越えていったのか——これまでの歩みに迫る。

突如、追い出される……カフェ経営で味わった挫折

起業について最初から話をすると、2001〜2002年頃までさかのぼります。私は当時学生で起業し、都内でカフェをやっていました。当時はいわゆるカフェブーム。軽い気持ちでギャラリーを借りて、土日だけカフェにする、というイベントを友達と定期的に開催していました。

そうしているいうちに、知り合いから経営があまりうまくいっていないカフェのオーナーを紹介されて、実際に会ってみることにしました。その頃、飲食店経営の書籍も読んでいたこともあって、オーナーと話をする中で、「ここだったら坪単価、月10万円くらいの売上が欲しいですね」なんて本に載っていることをそのまま言ってみたら、どういうわけか「又貸しするよ」と言ってもらえたんです。

そのカフェはお世辞にもオシャレとは言えない内装だったので、内装も含めて普通にやれば上手くいくんじゃないかな、と思いました。とはいえ、飲食関係の人脈もなかったので、当時のガラケーのメーリングリストを使って知人や友人にいろんな人を紹介してもらいました。

オシャレな外国家電を個人輸入している人を紹介してもらったり、恵比寿のカフェで料理長やっていた人を紹介してもらったり——トントン拍子で良い人を紹介してもらうことができ、カフェの経営をスタートしました。

とは言え、フタを開けてみれば最初から自転車操業でした。家賃が月70万円くらいかかるのですが、貯金は20万円しかない。何かトラブルがあれば、すぐキャッシュアウトになるという状態でした。ですが、最初の月にはいろんな友達が貸切パーティーを開いてくれたりと支援してくれ、運転資金は少しずつですが積み上がっていました。

当時のことを振り返ると——自分が旗振りをして、決意を持って進めていけば、まわりの人がついてきてくれるんだなと思いました。これが今に続く起業の原体験になっています。

ただ、カフェの経営事態は結果的に失敗に終わりました。月70万円の家賃って、結構な額じゃないですか。当時、「もし何かあったら、逃げればいいかな」というズルい気持ちもあって、きちんと契約も結んでいなかったんです。そうしたら、黒字になってしばらく経った後、カフェから追い出されてしまいました。自分で購入したアンプやスピーカー、大きなポリバケツを抱えて、当時住んでいた家まで歩いて帰りました。これが最初の大きな挫折です。

SNSブームに乗って誕生した「コミュニティファクトリー」

追い出される前、カフェの経営はうまくいっていたので、まったく大学に行かず、辞めようと思っていました。ですが突如仕事がなくなったので、焦って大学に通い始めました(笑)。2004年のことだった思います。

ちょうど「GREE」に次いで「mixi」がサービスを開始するなど、ネットにはSNSブームが来ていました。そこで私は友達を招待しまくって、SNSでの発信を楽しんでいました。そんな中で“友達を10人紹介し、レポート書いたら1万円もらえる”というキャンペーンを実施している新たなSNSを友達から教えてもらいました。

自分でもレポートを書いてみたところ、どうやら一番細かい内容だったみたいで、中の人から「一緒に事業をやろうよ」と誘われて、社長とエンジニアに次ぐ、3人目のメンバーとしてジョインしました。この経験が、インターネットサービスを主体的に運営することになったポイントかもしれないですね。

その後、約1年ぐらい、GREEやmixiをライバル視しながら、SNSを作っていきました。結局その会社は現在の人人網(レンレン)に買収され、日本法人が解散になったタイミングで運営から抜けました。

また、目の前の仕事がなくなり、どうしようか……と思っていたのですが、2004年当時、SNSの企画を考えているような人はこの業界にもほとんどいませんでした。それで、自ら「プランナー」という肩書きで名刺を作り、ブログマーケティングやSNS利用の事例をまとめた冊子を作ったんです。それを持って、知り合いの広告代理店の人の営業に同行して、クライアントから「コミュニティサービスやりたいよね」と言われたら企画を提案する。そんなことをやっていました。

案件を受注できたら、知り合いのエンジニアやデザイナーに発注する。自分は営業、企画、ディレクターとして仕事を進めていきました。そうして、少しずつ実績を作っていったら、仕事の規模が大きくなっていきまして……。最終的に、ナショナルクライアントの仕事まで請け負うようになったんですね。取引上、さすがにここまで来たら会社にしてもらわないと困るということで、立ち上げたのがコミュニティファクトリーです。クライアントの代わりにコミュニティをつくるから、“コミュニティの工場”という意味で「コミュニティファクトリー」にしました。2005〜2006年(編集注:創業は2006年2月)くらいのことです。

コミュニティファクトリーのオフィスの一部

その頃はまだライブドア・ショックが起きる前。まだ企業内に「Web2.0」的な事業に費やす予算が残っている会社も多く、案件も想像以上に獲得できたこともあって、順調に会社も大きくなっていきました。

日本のメンバーが3人に増えた時に、前職での経験を生かして中国でのオフショア開発をやることになり、中国で3人のチームを作ってみたんです。今、考えると開発メンバーが日本に1人もいない段階で、中国にチームを作るのは相当無茶だったのですが。のちに日本に開発体制を戻したときに、横に人がいて開発が進むのは、かなりラクだと思いました(笑)

好調なスタートを切った学生向けSNS「LinNo」

中国を開発の拠点にして、日本と中国とを行き来する感じで働いていました。そうしたら、人人網がFacebookのクローンのようなSNSを開発し、大ヒットしたんです。「そのSNSを日本でも展開すればいい」という提案もあって、人人網の創業者・CEOのジョー・チェン(Joe Chen)から30万ドルを出資してもらい、体制を整え、開発を進めていき、大学生向けのSNSをつくりました。

人人網はローカルマーケティングが非常にうまくて、中国の大学内に学生組織をつくり、SNSのロゴを焼印で付けたチキンを配る代わりに、会員登録を促すというマーケティングをしていたんです。その手法でユーザー数をかなり伸ばしていました。

ただ、「日本の大学生はチキンじゃ釣られないかもな」とも思っていました。何が良いかいろいろと考えた結果、「日本は過去問だ」と思ったんです。テストの過去問を共有できる、ファイルアップロード機能を搭載したSNSにしました。それでビラをつくって、まずは慶應義塾大学の日吉キャンパスでテスト的に始めたら、全生徒1万2000人のうち4000人くらいが1週間で会員登録したんです。

そうした実績もあり、VCから出資を受けて「株式会社リンノ」を設立し、大学生向けのSNS「LinNo」の開発・運営をすることにしました。5人の学生を執行役員にしてマーケティングを行っていき、開発はコミュニティファクトリーに委託する。そんな感じのスキームでした。設立時に2億円の出資を受けたのは、当時(ローンチは2008年7月)としてはあまり例がなかったと思います。

執行役員が学生ということで、いろんな大学生が来てくれて、関東と関西を含めて30校近くの大学で支部が立ち上がりました。それぞれ学生から過去問を集めて、それをもとにしたマーケティングを実施していました。授業の評価ができる機能があったり、時間割を管理できたり、ガラケーでもPDFをFlash liteに変換して閲覧できる機能を作ったりして。大学生にとっては便利な機能だったんじゃないかと思います。当時は学生の売り手市場。最終的に企業の採用につながるようなビジネスモデルを考えていました。

ただ、LinNoを運営していく中で、過去問を共有するSNSだと、テスト期間が終わったら全く使われなくなることが分かりました。今考えれば当たり前です。とにかく、アクティビティが上がらない。そこでサービスを経常的に使うゲームやコンテンツがあったらいいんじゃないか、ということで、プラットフォーム化することにしたんです。ちょうどFacebookがオープン化し、オープンソーシャルの仕様が出たタイミングだったので、FacebookとオープンソーシャルのAPIに対応したプラットフォームを開発し、その上で内製で占いとかミニゲームなどをいくつか実装していました。

キャッシュアウトまで残り1カ月、消えた買収

ただ、リーマン・ショックが起こり、リンノに暗雲が立ち込み始めたんです。出資を受けた2億円は、1年間でマーケティング費用を中心に使い切る予定でした。計画は順調に進んでいて、次の増資を検討していた中での事でした。ほとんどのVCが新規投資自体をしなくなり、八方塞がりでした。そんな中、ジョー・チェンから「日本に進出しようと思っているから、お前の会社を買う」と言われ、助かったと思っていたのですが……。

キャッシュアウトまで、あと1カ月というタイミングで買収の話がなくなってしまったんです。今思えば買収話なんてそんなもので、アテにしていた自分が悪かったんですが。そこに追い討ちをかけるかのように、スタッフの学生が不祥事を起こして週刊誌の記者から電話が来るまでになりました。よくネットや漫画などで言われる「ガクブル」という状況はまさにこれか——そう思うまでになりました。そんな経験は初めてでした。

ただ、しっかりと話を聞いたら、(記者と学生)お互いに言い分があったようでした。その話を正直に記者に話して、何かあれば訴えてもらってもいいですと伝えたところ、「学生の不祥事に関しては記事にすることができない」と言われ、週刊誌沙汰になることはありませんでした。毅然とした態度をとった結果だったのかもしれません。ですが資金繰りが厳しい状態は変わらず、LinNo自体は縮小せざるを得なくなって、最大100人くらいいたインターン生も10人以下になりました。

これから先どうなっていくんだろうか——そんなこと漠然と考えているときに、エンジェル投資家から電話がかかってきました。もともと、小泉(メルカリ取締役社長兼COOの小泉文明氏。当時はミクシィ取締役CFOだった)との知り合いだったみたいで、「いま小泉と飲んでるんだけど来ない?」と言われたんです。夜の23時くらいだったんですけど、二つ返事で「行きます」と答えました。

実際に行ってみたら、「mixiのオープン化を考えていて、ミクシィファンドの立ち上げを考えているんだけど興味ある?」と言われて、すぐに「めっちゃあります」と。そこで小泉から「じゃあ今度、原田(DeNA執行役員の原田明典氏。当時はミクシィ代表取締役副社長だった)にプレゼンしてみてよ」と言われたので、プレゼンのために2週間くらいの時間で開発できるソーシャルアプリ、ソーシャルゲームの開発を進めていきました。

そしてプレゼン当日、「これがダメだったら会社を畳むかもしれない」ということをメンバーに伝え、プレゼンに臨みました。プレゼン自体は良い評価をしてもらえて、ミクシィから出資を受ける話が進んでいきました。ただ、ミクシィも初めての投資案件だったので、実行までに3カ月くらい時間がかかりました。当時、資金もなかったので、オフィスも安いところに引っ越しましたし、親戚にお金を借りながら受託事業をやっていました。

ミクシィからの出資を受けるまでを振り返って、VCから大きな出資を受けて舞い上がっていたなと思います。ただ、毎月のP/Lを見るのは怖かったんですよ。1日P/Lを見る度に背筋を凍らせて、残りの30日は楽しく過ごしてたんですけど、それじゃダメですよね。

あとはPR施策の見込みの甘さもありましたね。普通は2回くらい外したときに抜本的に施策を見直さなければいけないんですけど、学校のテスト期間は年に2回しかないので、なかなか変えられずにいました。中国の成功事例を見すぎていたのも良くなかったですね。

ただ、良かったことはオープンソーシャルに可能性を見出して、無理やりにでも乗っかったことです。それがあったからこそ、ミクシィから出資をしてもらえたと思います。

「お前は裏切られているぞ」大ヒットサービスの誕生前夜の事件

その後結果的に、リンノの社長を退任することになりました。当時の出資先から「VCキャリアをかけて言うけれども、ソーシャルアプリは絶対来ない」と言われたのが記憶に残っています。それ以降はコミュニティファクトリー1本でやっていくことになりました。

mixiオープン化のローンチパートナーということで、受託以外にも自社でアプリを開発していました。それでローンチ時に数本アプリを出したのですが、そのうちの1本が、「わたしのドレイちゃん」というアプリでして……大炎上しました。ローンチから3時間くらいでクローズすることになってしまいました(編集注:このゲームはユーザーがマイミクシィ(mixi上の友人)を「ドレイ」として買い取り、ニックネームを付けて強制労働させてお金を得る、というコンセプトだった。これにインターネット上で批判が集まり、公開当日の閉鎖となった)。

その後もmixiアプリをいくつか出していたのですが、なかなかヒット作が出ず、苦労していました。そんな中、大ヒットしたのが、「みんなのケンテイ」でした(編集注:さまざまなテーマの「検定」や「診断」をクイズ感覚でプレイできるアプリ)。最大で800万ユーザーが登録していて、1日に20万ユーザーずつ増えていくというペースでした。

当時飲み屋に行ったら、隣の大学生グループ全員が一斉にみんなのケンテイで遊んでいて、それをネタに飲んでたんですよね。当たり前に定着している、という状況にめちゃめちゃ感動しました。多くの人に使われるサービスを作りたい、と強く思うようになりました。

実はまだ、この段階ではコミュニティファクトリーの開発拠点は中国にありました。これから頑張っていこうと思っていたら、突然、中国にいるエンジェル投資家から、「お前は裏切られてるぞ」と連絡がありました。一体、何のことだと思っていたら、少し前に辞めたばかりの、中国法人の元代表からその投資家に出資の相談があったということが分かりました。その人物は創業からのメンバーだったのですが、いろいろと話を聞いてみたら、社内の優秀なメンバーを引き抜いて新しい会社を作ろうとしていたんです。さらには「日本法人にも協力者がいる」と言っていたことも知りました。社内に裏切り者がいる——その事実だけが明らかになったんです。

誰が当事者かわからず、誰にも言えないまま1人で調査を進めていましたが、数ヶ月後、実際に社内に引き抜きを画策している人物が見つかり、最終的には証拠の書類を全部見せて、その人物には会社を辞めてもらいました。問題は解決したのですが、これがきっかけで中国法人はクローズせざるを得なくなりました。ただ、ソーシャルゲーム事業の成長スピードは想像以上で、日本の社員も増えているところだったので、致命的とならなかったのが幸運でした。みんなのケンテイを中心とした広告収益が徐々に積み上がってきたのですが、ソーシャルゲームで大きなヒットを生み出すことはできていませんでした。

心の声には従え——アプリDLは累計8000万件に

そして次のタイミングではソシャゲは捨てて、スマホアプリの開発に振り切る、という経営判断をしたんです。2011年の頭に、「1年後に収益の半分をスマホアプリから上げる」という目標を立てたんですが、6月くらいのタイミングで100%をスマホアプリに切り替えることに。もちろん最悪のシナリオも想定した上で、この判断と、それでも会社に残ってもらえるかという手紙を書き、社員の前で読み上げました。

手紙を読み切った後、それでも一緒にやっていきたい」と言ってくれたメンバーは、これまでの半分以下の9人でした。そのメンバーと開発し、1カ月後にリリースしたアプリこそが、コミュニティーファクトリーの今後を決めることになる「DECOPIC」だったんです。

2011年当時、「Path」というコミュニケーションアプリを見て、少人数の写真のコミュニケーションが良さそうだと思い、「Mix Snap」という写真のコミュニケーションアプリをリリースしました。ただ、そのアプリはmixiログイン(mixiのアカウントを利用したログイン)しかできない上に、Android版からリリースしたこともあって、結局2000件ほどしかダウンロードされませんでした。ただそこにも学びがありました。ユーザーを見てみると、7割くらいが台湾からのアクセスだったんです。それで、「写真ならもしかして海外でもサービスが通用するのではないか」と思いました。また、日本の「カワイイ」文化が海外でも受けていることは知っていたので、ピボットして作ったDECOPICは、最初からなんとなく「当たる」という感じがしていました。

決して最初から女性向けのアプリを作りたかった訳ではないです。単純に考えたら、獲得できるユーザーが半分(男女のうち女性のみで)になっちゃうわけですから。ただ、それ以上にアプリを当てたかった。だからこそ振り切った判断をしました。最初の数日、バイラルでユーザー数が一気に増えて、そこからは試行錯誤しつつサービスが伸びていきました。そこからはDECOPICだけでなく会社全体を女性向けアプリ事業にピボットして、どんどん女子向けアプリをリリースしました。DECOPICをローンチした半年後には出資やM&Aの話が来るようになり、その半年後にヤフーと買収の話をした、という感じですね。2012年9月にバイアウトしました。その後ヤフー時代も含めるとコミュニティファクトリーのアプリ群で累計8000万件を超えていたので、このチャレンジとピボットは成功したんじゃないかと思っています。

M&A前、最初は事業会社でシナジーのあるところから出資を受けたいと思っていました。そこでいくつかの事業会社さんを中心に、増資、買収のお話を進めていました。

元々ヤフーにも出資のお願いに行ったんですが、当時のヤフーは「爆速」をキーワードに経営体制が変わった直後のタイミングでした。CMOの村上さんとお話したんですがヤフーが面白そうで、1時間の面談後には、バイアウトすることを決めていました。

自分の中で、教訓として残っているのは、「これはやった方がいい」という心の声が聞こえたときに、やらなかったことはすごく後悔する、ということですね。もちろん、当時はやらない理由もあったのですが、心の声には従った方がいい。社内のリソースの問題やそれまでの経緯など、やらない理由はいくらでも挙げられるんです。でも、そこで無理でもやるかやらないかが経営者としての実力だと思います。自分の場合、ソシャゲのときは100%やりきれなかったけれど、スマホアプリの時には「やるべき」と思ったから、社内に誰もエンジニアが居ない状態から無理やり体制を作って、なんとかローンチまで漕ぎ着けました。その結果なんとか生き残れたんだと思います。

スタートアップ業界で前向きにやった失敗を責める人なんて居ないので、とにかくなんでも挑戦をしていってほしいと思います。