【コラム】美的Vlogの大統一理論

まだパンデミックが始まったばかりの頃のこと。5人のルームメイトとともに薄暗いブルックリンのアパートで暮らしていたRian Phin(リアン・フィン)氏は、ストレスの多い仕事から一時解雇され、コンテンツの制作も思うように捗らず悩んでいた。やがて、天井が高く大きな窓が配された美的感覚が優れたアーティストロフトに引っ越したことで、同氏はようやく自分の生活を美しく演出したライフスタイルコンテンツを作ることに成功した。

若い頃からTumblr(タンブラー)で有名なファッションブロガーとして活躍し、現在はYouTube(ユーチューブ)で7万人以上のフォロワーを持つフィン氏。自身を「審美眼の持ち主」と名乗る彼女や多くの人々にとって、美的Vlog(ビデオブログ)とは、膨大な量の情報をすばやく処理して「美的な」ものへとまとめ上げる能力を披露する場である。美的Vlogのタイトルで最も人気があるのは、ライフスタイルそのものに沿った内容のもので、例えば「一緒にお出かけの準備を」「私が今日食べたもの」「お部屋を大公開」「私の朝の習慣」「おうち時間の朝の習慣」などがある。バンライフ本の紹介勉強、ウェルネス、ファッションなどジャンルが何であれ、これらのVlogの中核にあるのは、商業化されたメインストリームのインフルエンサーたちによって作り上げられてきた憧れの存在というものを拒絶する美学なのである(戦略や目的は同じようなものなのだが)。

しかしファッションサイトのSsense(エッセンス)で購入したルックやブラックを多く用いたフィン氏のスタイルは、他の美的ブイロガーたちとは一線を画している。同氏がメールで筆者に教えてくれたところによると、同氏の感性は他のプレイヤーたちと重なる部分はあるものの、かわいいものやガーリーなものは本質的に「市場性」が高く「売れるもの」であるため、そういったものは意識的に避けるようにしているという。「そうすることでブランドがビデオのスタイルに合わせて、商品やデジタルなどの広告キャンペーンを展開してくれるようになります」。

情報や映像の見せ方に注意を払うことはあっても、大抵の人は美的価値よりも機能を優先させる傾向にある。しかし美的ブイロガーは違う。彼らはインターネットを美的対象として捉えて評価し、いかに見た目が美しいか、またはかわいいかを最も重要な要素としている。

無限にカスタマイズできる時代(Myspace、Tumblr、Neopets、Live Journal)は終わり、現代の美意識の高い人たちには、中期から後期にかけてのファッションブロガー(Lookbook.nu、The Sartorialist、Style Bubbleなど)や、2010年代のビューティーグルたちが残したコンテンツの空白を創造的に埋めるというタスクが課されている。

ファストファッションとデジタルショッピングがもたらしたトレンドサイクルの短縮化によって大量発生した無限コンテンツの世界では、もはやファッションブロガーが公共の場の壁の前でその日のルックを記録したり、ビューティーブイロガーがメイクアップについて議論したりする必要がない。突然変異的な形態である美的ブイロギングでは、High Fashion Twitter(ハイファッション・ツイッター)のようなサブカルチャーからEtsy(エッツィー)やDEPOP(ディポップ)のような販売プラットフォームまで、インターネット上のファッションに焦点を当てたさまざまなエリアが重なり合いながら、これらすべてを組み合わせているのだ。

世に出た新しくて美しいものをうまくコラージュするというのが基本の考え方であり、その根底には統一された美学が存在する。手書き風の筆記体のカラフルなサムネイル用フォントにポップな雰囲気のカラーパレット、かわいい洋服にすてきインテリアというところか。

フレンチガールのクールさや、なりたい自分を演出した理想の女性像を崇拝する美的ブイロガーも少なくない(参照:「That Girl」トレンドNotionアプリのチュートリアル)。

女性らしい身繕いに精を出し、食事や用事、社交、化粧、エクササイズなどの日常的な作業をカメラに収めて理想的かつ共感を持たれる「影響力」を振りまいて、あらゆるセルフケアが生産性や仕事と区別できない状況にあるにもかかわらず、頑張るという行為には不満を持っている(「I Don’t Dream of Labor(労働は目指さない)」のトレンド)。美的ブイロガーが、より明確な労力を必要とする他の種のインフルエンサーと異なるのは、彼らの放つ気楽さと、実際には収入という同じ結果をもたらす労働の一形態である労働を否定していることにある。

Elena Taber(エレナ・テイバー)、Jenny Welbourn(ジェニー・ウェルボーン)、Orion Carloto(オロオン・カルロト)などの最も有名な美的ブイロガーたちは、年齢や文化的環境の違いを超えて、ものや興味の集合体として自分自身を表現し、スプレッツァトゥーラ(「計算され尽くした無頓着さ」)とかわいらしさを融合させているのだ。古着、デザイナーズ、アップサイクル、コーチからのギフト(例えば個性的な小物やDetroit Floydのベッド)などのアイテムや、ヨガ、読書、映画写真などの興味にまつわる個性や歴史すべてが彼らを作り上げている。

スプレッツァトゥーラはこんな感じで小馬鹿にするのである。「15世紀の宮廷人とAlexa Chung(アレクサ・チャン)と最先端のデザイン会社が一緒になって努力しているように見える、意図的なデザインとキュレーションね。一体どうしてこんなことになるのかな。ははは」。努力の証は失敗であり、何も気にしていないように見えることが重要なのである。

これを見事に演出してくれるのが、ミニマルな白い壁とダークウッドのトリムとのコントラスト、むき出しのレンガ、質感、ダウンタウンクールな雰囲気、合わせガラスのテーブル、ラッカー仕上げのフローリング、パイン材の床に広げられ積み重ねられた本、1960年代から1980年代のパリやイタリアのモダニズムデザイン、ミッドセンチュリーモダンの家具や小物、アシンメトリー、高い天井、適当に投稿したように見せかけたエフォートレスなInstagram(インスタグラム)の「フォトダンプ」、レイヤリング、手描きやハンドメイドのもの、フィルム関連、アートコレクション、レコードコレクション、編み込みスローピロー、計算され尽くした散らかり方、フィルターなしの低解像度の自撮り写真、ブラウンやベージュの世界、自然光、植物や花など自然界への感謝、ハイパーリアルな個人主義、流行への雑食性、古着によるカウンターシグナリングなどである。

かわいらしさというのは、遊び心のあるガーリーな身振り、親密な雰囲気やアイテムの他、決してキャンプでもキッチュでもない、マキシマリズムなピンクや緑、黄色など、遠慮のないカラーパレットによって演出されている。

B21によるKOYAのぬいぐるみやキノコのランプなどのキュートなインテリアが、ボヘミアンデザインの個性と目新しさの中に入り混じっている。それは、さりげなく美しい生活品の中に生きる彼らの生活の記録であり、美的センスを厳選してコラージュすることであり「Instagramを再びカジュアルに」というムーブメントであり、大人になったオルタナ系女子の必死の自己表現なのである(ライフスタイルよりも教育的な観点からチャンネルを運営している美的ブイロガーたちは、既存のオルタナ系女子の持つべき美意識を事細かに描写し、執拗にカタログ化している)。

ヨーロッパで育ったMadelynn De La Rosa(マデリン・デ・ラ・ローザ)氏29歳は、ハイクオリティな映像コンテンツで人気の美的ブイロガーの1人である。3年ごとに軍事基地を転々とするという幼少期を過ごしたこともあり、美に対して幅広い視野を持つようになった同氏は、メイクアップ、映画、ファッション、アートなど、どの土地や文化でも適応できるあらゆることに興味を持つようになった。

彼女のYouTubeチャンネルでは、彼女の人生をアーティスティックかつロマンチックに表現した、手の込んだ美意識の高いVlogが公開されている。映像の中では美しく装飾されたスペイン風のアパートや、友人とビーチに出かける様子、持続可能なファッションやビーガニズムなどのテーマについての談話が繰り広げられている。

デ・ラ・ローザ氏は女性としての平凡さやスリルを記録し、それを美化する方法として自分の映像を記録し始め、芸術的に実体化しているのである。

10万人のフォロワーを獲得した後、Michelle Phan(ミシェル・ファン)氏が経営するIpsy(イプシー)から3年間の美容コンテンツ制作の契約を与えられたデ・ラ・ローザ氏。ロサンゼルスに引っ越すことになり、それから6年間をその地で過ごした。

しかし2020年のロックダウン中、デ・ラ・ローザ氏はフィン氏と同様、美しいコンテンツを制作することができず頭を抱えていた。人生の中の美しいものに対して、ここに来てもやはり真面目に取り組んではいけないのだろうか。しかしデ・ラ・ローザはこの前例のない時期こそ、成長のチャンスだと考えた。セルフケアを重視し、健康に配慮し、社会的にも距離を置いた、美しいライフスタイルを推進するVlogのあり方を考えたのである。

彼女の作った美しいコンテンツを見て褒め称えてくれる人々を、デ・ラ・ローザ氏は筆者との電話での会話の中でお茶目に真似てみせる。「どうしたらこんな素敵な生活ができるの?LAに生まれた時から住んでいるけど、こんなLA見たことない!」。

2019年、美的VlogはTikTok(ティックトック)やInstagramに移行し、世界的パンデミックの開始とともに注目を集めた。特に日常生活をロマンチックに描写した「主人公のエネルギー」的動画が人気を博すようになる。

主にZ世代の若者に浸透している美的Vlogコンテンツは、Emma Chamberlain(エマ・チェンバレン)氏をトップに押し上げたよりカジュアルなスタイルのライフスタイル・Vlogから発展したものだ。「エマ・チェンバレンは『That girl』の定義に近いものがありますが、彼女はあたかもそうなることを望んでもいないのになってしまった、という感じを演出しています」とメディアおよびYouTubeの専門家であるTiffany Ferg(ティファニー・ファーグ)氏はいう。

また、Z世代が作り上げてきた美学のほとんどには、彼らが生み出して普及させた用語が使用されている。Cringe-yやCringe(「イタい」や「ドン引き」)がCringeworthyに変わり、Aesthetic (美学や美的)は、かつては誤用だったものの今では「美しい」や「かわいい」という意味として使われている。もし何かが「Aesthetic」であれば、それは醜くなく、意図的にそうしているものなのである。また、Gaby Rasson(ギャビー・ラッソン)氏の造語である「Cheugy」という言葉はがんばりすぎているスタイルを指す。これらの用語はすべて美学に関連しており、態度や人々を表現するものなのである(「スターターパック」のミームが画像に一般的な記述を付け加えたのと同じように)。

新しいスラングの使い方に初めはとまどうが、やがて文化を牽引する若者たちのコンセンサスリアリティに誰でも適応できるようになる。自分の主観を、Z世代の思考、感情、関心事、不安、嗜好に合わせて再構成することを学んでいけば、長い間続いていた世代間の溝をなくすことができるだろう。

90年代半ばから2000年代初頭に生まれた人々が支配する市場トレンドを観察するミレニアル世代は、文化的に言えば、はるかに若い世代と大差ない存在となっている。その結果、若者がミレニアル世代に影響を与えるということを前提とした思い込みが人口統計学の崩壊をもたらし、後期資本主義下での女性性の過剰な優先順位付けが生じている。

若さを重要視する文化の中で、若者の文化的生産への固執は、女性性と美しさを若さと結びつけるという悲しい性質を悪化させるばかりである。キュートなスプレッツァトゥーラ精神は基本的には見ていて楽しいものだが、それを少しだけ崩し、通常女性らしさとは結びつかない被作用性を特権化している。ソーシャルメディアのフィードの一番下までスクロールした後に、かっこ悪くてダサい過去の自分に遭遇することによってもたらされる疲労感というどうしようもない現代の危機を、努力したという形跡、つまり失敗したという感覚を取り除くことによって軽減するのである。

くすんだピンクのアートプリントや大理石風デザインなど、ミレニアム世代の美意識に関連した大量生産のデザインや、洗練された贅沢で派手な消費は必然的に逆効果となる。

しかし本質的には、特に「かわいらしさ」が押し出されていると売れやすいというのは間違いない。リアン・フィン氏が自分の美学を市場に同化させないために、かわいらしさを取り除きたいという考え方は正しいのだろう。

しかし、かわいらしさとは見た目だけの話ではなく、非常に複雑なものである。理論家のSianne Ngai(シアナ・ガイ)氏は著書「Our Aesthetic Categories:Cute, Zany and Interesting」の中で「かわいらしさ」とは、消費性が高く、コピー可能で、女性特有の美的カテゴリーであり、無力感を「美化」して「エロティック」にすると主張している。私たちが老人をかわいいと思うのは、そのもろさのためであり、少女や女性にかわいらしさを押し付けるのと同じ理由なのである。そして少女や女性は意識的または無意識的に、自分自身をそのようにパッケージ化するのである。

例えばAudrey Tautou(オードリー・トトゥ)氏が演じるアメリや、Hello Giggles(ハローギグルス)の生みの親であるZooey Deschanel(ズーイー・デシャネル)氏、サンリオのハローキティなどのキャラクターは、非常に親しみやすく「かわいい」ものを見事に表現してみせている良い例だ。事実、彼らのように誰でもかわいくなれるのだ。美容と違って誰にでも手の届くものであり、飽和状態のクリエイター経済の中で、なんとか自分の居場所を確保しようとしているコンテンツクリエイターにとっては魅力的な領域なのである。

ジェニー・ウェルボーン氏 (YouTubeのスクリーンショット)

前述した、架空および実在の正統派キュートガールズは、現代のインターネット上で生まれた「it girl」やインフルエンサーたちと多少の摩擦をともないながらも共存している。ユーチューバーのAshley(アシュリー)こと@Bestdressedもその1人だ。倹約家の母親からサステイナブルなファッションを教わったという移民の少女によるコンテンツなのだが、彼女がAmazon(アマゾン)とのブランド契約を結んだことにより、それを理解できないZ世代の怒りを買っている。

情報密度の高い文化における市場ニーズと、Z世代が最も賢明な消費者であるという現実によって、思慮深く多才であるということが一種の前提条件のようなものになっている。インフルエンサーになる若者たちは、もはや影響を与えるというだけでは不十分なのである。

さらに彼らは、私は「おもしろい」のだということを証明しなければならない。これは「情報の美学」というもう1つの美的カテゴリーであり、ガイ氏は「Our Aesthetic Categories」の中で「個人とシステムの間のテンションがおもしろいという価値を補強している」と述べている。

こうした若い女性たちのモデルとなりうる存在なのがTavi Gevinson(タヴィ・ゲヴィンソン)氏だ。

文才に恵まれ、文化的にも鋭敏なゲヴィンソン氏は、当初ファッションブロガーとして登場し、やがてRookie Magazine(ルーキーマガジン)の編集長として活躍するようになる。彼女はYara Shahidi(ヤラ・シャヒディ)氏、Amandla Stenberg(アマンドラ・ステンバーグ)氏、Zendaya(ゼンデイヤ)、Willow Smith(ウィロー・スミス)氏など、同様にスマートで早熟なスターたちに影響を与えている(Tumblrで知り合ったスミス氏とステンバーグ氏は、ルーキーと類似しつつもより中心的ではない自分たちのためのスペースを作りたいと考え、強いビジュアル・アイデンティティを持つ若い女性アーティスト集団The Art Hoe Collectiveのメンバーとなった)。またこれは、人々の社会問題への意識が高まっていた時期と重なっており、この頃若い少女や女性の多くが、主流メディアでは見られない左派的な政治意識を展開し始めていた。新たなタイプの「it girl」の出現を象徴するゲヴィンソン氏は、これまでの「it girl」の前提条件(パッケージとして考えられた彼女の外見)を備えているだけでなく、パッケージの中にあらゆる種類の情報を忍ばせていたのである。

生まれつきのおもしろさに恵まれていない人にも、これが実現できるようだ。影響力にまつわるさまざまな領域の中で、この事実は映画「Ingrid Goes West(イングリッド -ネットストーカーの女)」のような偽者たちの基準を作り出しており、私はこれをTastefishing(テイスト・フィッシング)と呼んでいるのだが、彼らは俗物的な自分を暗号化して模倣というレイヤーをまとい、すでに起こっているミメーシスの引力を強めているのである。まるで半袖シャツの下に長袖シャツを着ることで、自分の個性を演出するかのように。

その例を挙げてみよう。Kendall Jenner(ケンダル・ジェンナー)氏は最近、テイストメーカーと呼ばれる、「高い神聖さ」や「高いステータス」を象徴するようなテイストを持つとされる人物となった。同氏のマネージャーであるAshleah Gonzales(アシュリア・ゴンザレス)氏が選んだ流行のフィクション小説や詩集と一緒にポーズをとり、男性の注意を引き、アートバーゼルから持ち帰った芸術品を自宅に飾り、自身のApple Radio(アップルラジオ)番組「Zaza World(ザザ・ワールド)」で古い曲を流す。5年前のVogue 73 Questions(ヴォーグの73の質問)で好きな映画に「Marley and Me(マーリー 世界一おバカな犬が教えてくれたこと)」と「The Notebook(きみに読む物語)」を挙げ、Tupac(2パック)をスピリットアニマルとして答えていた時とは大違いである。

しかし誰が彼女を責められようか。美人で金持ちであるだけではもはや十分ではないという状況下、ブックチューバーや美的ブイロガー、ゲヴィンソン氏の他、Kaia Gerber(カイア・ガーバー)氏、Emily Ratajkowski(エミリー・ラタコウスキー)氏、Emma Roberts(エマ・ロバーツ)氏など、スタイリッシュで文才があり、本好きで若い数え切れないほどの女性たちに遅れをとらぬよう、興味深い人物でなければならないというプレッシャーがあるのだ。

知的でおもしろい人物を演じる必要性、大きなアイデアに満ちた無限で漫然としたインターネットの世界をスタイリッシュに切り抜ける能力を示すことへの必要性は果てしない。この必要性によって彼らは圧倒的な情報量を、手に負えないものではなく、むしろ生成的なものに変えてしまい、ピクセルや16進コード、フォント、静止画、動画などの細かなディテールが私たちに美的感覚を与えるのである。

特に少女や女性などの美意識の高い人たちにとっては、イメージを重要視する文化の中で、YouTubeやTikTok、Snapchat、Instagramなどのパフォーマンス型のプラットフォームを介して自分のアイデンティティを演じることがより明白に求められている。そのため、視覚や聴覚、記憶、はかない感覚や印象の蓄積が生成的なものとなるのだ。

ライフスタイル系のインフルエンサーが憧れられるのは、それをマネタイズする能力があるからだ。ファンが彼らを尊敬するのは、自分も同じように生きたいと思うからだけでなく、自分の人生をマネタイズしたいと思うからなのである。

美的Vlogへの憧れは、美しいものに囲まれて優雅に生活したいという願望だけではなく、すべての静的なものを切り取り、溢れかえるものの中から美しくかつ売れるものを作り出す能力への願望なのである。オンライン上で美意識や経験を変化させたり、厳選したりするのに女性や少女ほど適した存在はいないだろう。結局のところ、彼らは「他人が自分を見る」のを見るという想像力を持っており、別の身体や経験の中にいるかのように自分自身を見つめる不思議な能力を持っているのだ。女たちの視線は、最先端のテクノロジーや男性の視線よりも優れた観察能力を持っているのである。

編集部注:本稿の執筆者Safy-Hallan Farah(セイフティ-ハラン・ファラ)氏は、TechCrunchの特別寄稿評論家。「Vanity Fair」「The New York Times」「Pitchfork」「NY Mag’s The Cut」などに寄稿している。

画像クレジット:Madelynn De La Rosa / YouTube

原文へ

(文:Safy-Hallan Farah、翻訳:Dragonfly)

投稿者:

TechCrunch Japan

TechCrunchは2005年にシリコンバレーでスタートし、スタートアップ企業の紹介やインターネットの新しいプロダクトのレビュー、そして業界の重要なニュースを扱うテクノロジーメディアとして成長してきました。現在、米国を始め、欧州、アジア地域のテクノロジー業界の話題をカバーしています。そして、米国では2010年9月に世界的なオンラインメディア企業のAOLの傘下となりその運営が続けられています。 日本では2006年6月から翻訳版となるTechCrunch Japanが産声を上げてスタートしています。その後、日本でのオリジナル記事の投稿やイベントなどを開催しています。なお、TechCrunch Japanも2011年4月1日より米国と同様に米AOLの日本法人AOLオンライン・ジャパンにより運営されています。