さて、1月2日になってMediumで今度はテック企業の幹部が怒りの辞任発表を行った。Ross LaJeunesse(ロス・ラジュネス)氏が1月2日に投稿した内容がそれだ。同氏は、Google(グーグル)の国際関係の元責任者で、同社で10年以上にわたりさまざまな役割を務めた。同氏は、Googleが人権重視の企業であろうとする志を失いつつあると非難し、技術と資本主義の未来について一連の問いを投げかけた。
重要なのは、米国を代表する会社がこれほど劇的に変わってしまうということが一体何を意味するのか、という問いだと思う。社会的影響や責任よりも、成長と利益に報いる企業文化がもたらした必然的な結果だろうか。米国の連邦政府を覆う腐敗に関係があるのか。「強い男」のリーダーが世界中で権力を握り、そこでは「正しい」か「間違っている」かに関する問いが無視され、私利私欲と利権が優先される、そういう世界的な傾向の一部なのか。最後に、「かつては」素晴らしかった米国の会社が、世界中の何十億人ものユーザーに関する大量のデータを管理すると、我々一人一人にどう影響するだろうか。
投稿全体が興味深い。Googleの中国事業、Project Dragonflyにおける検索検閲の危機、Google Cloudのサウジアラビアのアプリ、同氏のGoogle HRとのやり取りについて触れている。
これは一種のマニフェストだが、ラジュネス氏が共和党の現職Susan Collins(スーザン・コリンズ)氏の対抗馬としてメイン州の上院議員選挙で民主党予備選に出馬していることを考えれば、おそらく驚くべきことではない。同氏の巨大テック企業に対する批判は、ミズーリ州の共和党上院議員のJosh Hawley(ジョシュ・ホーリー)氏とも似ているために、魅力的な政治戦略にもなっている。
議論の中心にある重要な問いに焦点を当てたい。グーグルには、技術が社会に与える影響に関して、「善良」または「邪悪」になる能力はあるのか。世界中の国々で、人権の観点から違いを作り出せる影響力があるだろうか。筆者の答えはこうだ。同社が持っていた大きな影響力は、残念ながら極めて急速に失われつつある。
筆者は、文字どおり何年もの間、インターネットがさまざまな影響圏に分断されることについて取り上げてきた。中国のような国だけでなく、ロシア、イランなども、インターネットのネットワークとアプリケーションをより正確にコントロールし、インターネットの本来の開放性と自由の精神に覆いを被せ、この通信媒体を鉄拳の管理下に置く。
分断が進めば、グーグル、Shutterstock、NBAのような企業は、筆者が「権威主義の足かせ」と呼ぶ状況に直面する機会が増える。インターネットをコントロールする国々に協力して現地のルールに従うのか、単に撤退するのか。その選択は自国の市場にも派生し深刻な影響を及ぼす。
企業には選択の幅が与えられているわけだ。Shutterstockは天安門広場での抗議の写真に対する中国の方針を変えるつもりはない。Googleが中国で検索エンジンを立ち上げるつもりがなく、憂うべきサウジアラビアの女性の権利を変えようとしないのと同じだ。
影響力を持つには、企業の製品やサービスが市場で独占状態にあり、独裁政権が企業の提示する条件を受け入れざるを得ないほど独占が進んでいることが必要だ。言い換えれば、極端な力関係の差による「てこ」が要る。独裁政権に対し「ノー。ふざけるな。どうなるか見ておけ。我々は人権を尊重する。この問題にお前に選択肢はない」と言える能力だ。
テック企業が認識しつつあるのは、グーグル、Facebook(フェイスブック)、Apple(アップル)、Amazon(アマゾン)、Microsoft(マイクロソフト)といった巨大企業でさえ、権威主義的な国々でてこなどというものはまったく持ちあわせていないということだ。中国の下請業者を通じて何十万人もの労働者を雇用しているアップルでさえ、中国で目立った変化を起こすことはもうできない。イランは、その国での政治的抗議の激しさを和らげるために、一定期間インターネットを閉鎖した。ロシアは先週、いざとなったら使用不能にできるか確認するためインターネットの遮断をテストした。あらゆる国がスイッチを切るだけで「技術」をオフにできるなら、そもそも巨大企業がてこを持っていると言えるのか。
企業が持つパワーが縮小する傾向に対して、テック企業、特に米国のテック企業は十分に対処しきれていない。もはや企業の意思決定に選択の余地はない。中国には独自の検索エンジンがあり、米国の親会社、究極的には米国の方針に煩わされない独自の携帯電話エコシステムがある。Azureがサウジアラビアから撤退すれば、代わってAlibaba Cloudが喜んでそのスペースに踏み込み、金を稼ぐことになる。
ラジュネス氏がGoogleに対し、同社の価値を明文化するよう社内で要求したときの様子について、同氏がコメントしている。
私の解決策は、全社に適用される正式な人権プログラムの採用を提唱することだった。そのプログラムでは、国連の人権宣言がうたっている人権に関する原則の遵守をGoogleが公約し、製品設計のさまざまな局面で製品およびエンジニアリングチームが内部レビューを受けるメカニズムが導入され、主要な製品の発売と市場参入の際に人権への影響を評価することが義務付けられる。
より良い製品設計レビュープロセスが世界の人権改善に貢献するという楽観的な世界感は、慰めにしかならないかもしれない。問題は以前よりはるかに単純だ。人権に関する内規や何らかの市場参入審査プロセスは不要だ。市場に参加するのか、しないのかの二択だ。権威主義的な国で製品やサービスを立ち上げ、避けて通れない人権侵害の問題と同時に、自国市場で消費者からの抗議に対処するか、価値を堅持し、蜃気楼の中に見える独裁政権下での将来の利益を無視して立ち去るかだ。
だから筆者は最近、GoogleとNBAはただ立ち去るべきだと主張した。筆者の信念は変わらない。筆者がShutterstockに対し、中国を去って同社のより開放的で自由な価値に立ち返るよう呼びかけたのも同じだ。もはや米国のテック企業は、10年前と同じように人権問題にくさびを打つことはできない。インターネットは分断され、データの国家主権が高まっており、関わるか逃げるかの二者択一になる。究極的には、私はラジュネス氏の側につく。企業は去るべきだ。それ以外にほとんど選択肢はない。
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(翻訳:Mizoguchi)