人間はどうも人権の扱いを理解していないようだ。もちろんソーシャルメディアの扱いも。両方の無知が合わさると、人々はインターネットという安全地帯から憎悪を吐き出し、その偏見を公の記録に残す。
今そうした出来事が、人種差別者に正義を求める一人のTumblrユーザーによって、公な辱めを受けている。これは一種のサイバー自警行為である。しかし、人種差別をなくすために、もっと効果的で思いやりのある方法はないのだろうか?
【警告:以下に引用されている投稿には著しく攻撃的な表現が使用されているものがある】
RacistsGettingFired.tumblr.comには、マイケル・ブラウン事件に対する、一連の人種差別的投稿のスクリーンショットが掲載され、別のユーザーらは投稿者たちを職場に通報し、ついには、投稿者たちが解雇された証拠も掲載した。
同サイトは、発言したレイシストたちの職場を突き止めるよう呼びかけ、ヘイトスピーチの詳細を雇用者のSNSアカウントに投稿して、懲罰を要求した。中には、辱しめと雇用者への通報を促すために、無断で個人情報を晒されたレイピストもいた。
問題は、サイバー自警主義が、偏見を克服しようとする社会にとって、倫理的あるいは生産的なのか、である。
もちろん、私は決してレイシストたちを擁護するつもりも、彼らの憎悪や差別表現を許すつもりもない。この国の誰もが、スクリーンショット投稿にあるような脅しや中傷や、悲しいブラウン事件で浮き彫りにされたような人種差別の恐怖に晒されることなく生活する権利を持っている。
しかし問題なのは、インターネットやソーシャルメディアにおいて、公的でない人々に公の辱めを与える使い方が加速していることだ。
差別は許されないという強いメッセージが発せられるべきであることに、私は心から同意する。恥は強力な教師である。そして今回のケースでは、一連の投稿に見られる露骨な差別性と凶暴性が、深刻な結果を招くであろうことは保証されている。
企業がこの種の発言をする従業員と関わりを持ちたくないことは明白である。紛れもなく嘆かわしい事態であるだけでなく、差別訴訟の時限爆弾が爆発を待っている。表現の自由に関わる可能性のある件で社員を解雇することには、たとえそれがひどく不快なもので不買運動に結びつく可能性があったとしても、法的な問題がある。
それでも私は、復讐を喜ぶかのように、標的にされた人々を笑う風潮に恐れを感じる。そこには慈悲が感じられない。たとえ、レイシストに対して共感を抱くことが極めて困難であるとしても。
理想的には、われわれはそうした人々を教育する努力をすべきだ。確かに、インターネットの愚か者たちに知恵をもたらすことは不可能な仕事であり、労力の無駄だ。しかし、逆方向に行き過ぎることは問題を引き起こす。
恐らく、そうした人々を教育する唯一の方法が恥辱なのだろう。たぶん、#HasJustineLandedYetのJustineという、自分はアフリカでAIDSにならない、なぜなら白人だから、という人種差別発言を投稿した女性は、糾弾される必要がある。そして、ひどい投稿でソーシャルウェブの笑い者になったさらに多くの人々は、干渉されないことに慣れきっているのかもしれない。
しかし、いずれは、誰かが誤って告発されたり罠にはめられたりして、それでも公的に葬られてしまうことが起きるだろう。そしてもしヘイトスピーチの加害者が自殺したらどうするのだろう。それは、われわれが不正と戦う建設的方法を探し始めるために必要なことなのだろうか?
もし彼らが誤って、あるいは周囲の圧力に負けてひどいコメントを書いたのだったとしたらどうするのか? この種の忌しい行動に言い訳は通用しないが、そういう人々もまた人間であることを忘れてはならない。最低限、われわれの暴動を生産的に方向転換させるべきだ。われわれは、AIDS被害者を助けるために寄付すべきなのであって、彼らに対するJustineの無神経な発言を罵ったり笑ったりすることではない。
マイケル・ブラウンの死によってこの国を二分させるのではなく、私たちはこれを歩み寄る好機として利用すべきだ。愚かな世代からの受け売りのレイシズムに浸った連中に対して、忍耐強くいることは容易ではない。しかし、もし怒れる群衆による復讐がインターネットのお気に入りの気晴らしとて拡大を続けるようなら、感染者たちを治療する代わりに、憎悪の症状を悪化させるリスクを抱えることになる。
[Image: Zach T Jordan via You Will Rise]
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(翻訳:Nob Takahashi / facebook)