ビデオを引用する人たちはなぜいつも間違っているのか?

みなさんにも経験があるに違いない。なにかの論争であれ単なる好意的な意見交換でも、何らかの議論がネット上で持ち上がると、人は自分の知っていること、あるいは知っていると思っていることをしゃべりまくる。中には、リンクや情報源を示す立派な心がけの人もいる。そういう人は、概して正しい可能性が高い・・・

・・・ただし、リンク先のビデオが数分以上の長いものである場合を除く。そういうときは、ほぼ間違いなく、完全な誤りであり、多くの場合、何も引用しない人よりもはるかにひどく間違っている。

このことに本質的理由はない。ビデオはなんらかの考えを裏付けるうえで優れたメディアといえる。長いビデオは概して優れた裏付けをもたらすはずだ。だったらなぜ、ネットでの引用は常に、例外なく常に、ひどく壊れやすい粘土細工でできているのだろうか?

なお、私が言っているのは、何かしらの客観的真実に関わる議論のことだ。”De gustibus non est disputandum” [好みの問題に論争はありえない]ということばがあるが、ビデオは主観的意見を裏付けるのに最適な手段であることが多い(”Honest Trailers“(オネスト・トレーラーズ)は私の一番お気に入りのYouTube番組のひとつ)。そして客観的観点を説明する「60秒」のビデオクリップは、1000の言葉よりも価値がある。

しかし、もしリンク先が10分かそれ以上長いビデオで、「全部を見るべし」などの推薦文がついていればなおさら、あなたはすでに非論理的で不条理の世界に入りかけている。

なぜならビデオは「ホット」なメディアであり、大脳の辺縁系に直接働きかけるため、半分の真実やうわべだけの議論を覆い隠すのに異常なほど適しているからだ。人は本能的に、情熱のこもったあるいは確信をもった人や意見をとりあえず信じる傾向がある、 文字で書かれたものよりも。

それともこれは、相関関係であって因果関係ではないのか?長いビデオを最後まで見ようとする人というのは、そもそもすでにその意見を内在化していて、批判的に考えようとしないのではないか? あるいは、長いビデオから情報を得ることを好む人は、文章リテラシーが低く、批判的思考が停止しているからなのではないか?

あるいは、長いビデオにリンクする人は、全編を通して見る時間も興味も誰にもないことを知っているのだろうか? 彼らは「引用」を、熱心で真剣な研究家であることを偽装する煙幕に使っているだけのか? 多くの場合私にはそれが一番しっくりくる。「この30分のビデオを見よ」系人々の多くは、誠実な動機で行動しているように見える、見当違いというだけだ。

30分ビデオを引用する人が実際には説得力ある意見を持っていない、というのは宇宙に内在する法則ではない。しかし、インターネットの法則ではあるように思える。それで万事うまくいくのかもしれない。というのは、ディープフェイク(偽の画像や映像)が大挙してやってきた時、われわれは、少なくとも批判的思考を持つ人たちは、すぐに疑いを持つようになるから。それまでの間に、ビデオに対する自動的な懐疑的態度が広まることを願いたい。

画像クレジット:Pikrepo under a license.

[原文へ]

(翻訳:Nob Takahashi / facebook

投稿者:

TechCrunch Japan

TechCrunchは2005年にシリコンバレーでスタートし、スタートアップ企業の紹介やインターネットの新しいプロダクトのレビュー、そして業界の重要なニュースを扱うテクノロジーメディアとして成長してきました。現在、米国を始め、欧州、アジア地域のテクノロジー業界の話題をカバーしています。そして、米国では2010年9月に世界的なオンラインメディア企業のAOLの傘下となりその運営が続けられています。 日本では2006年6月から翻訳版となるTechCrunch Japanが産声を上げてスタートしています。その後、日本でのオリジナル記事の投稿やイベントなどを開催しています。なお、TechCrunch Japanも2011年4月1日より米国と同様に米AOLの日本法人AOLオンライン・ジャパンにより運営されています。