著者紹介:Tyler Griffin(タイラー・グリフィン)氏は、2012年に消費者向け決済ツールPrism Money(プリズム・マネー)を共同創業した。現在は、Financial Venture Studio(ファイナンシャル・ベンチャー・スタジオ)のマネージングパートナーとしてアーリーステージのフィンテック系スタートアップに投資している
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「デュアル・トラック・プロセス(複線戦略)を決して取ってはならない」。
資金の調達と会社の売却という2つのプロセスを並行して実行することについて投資家に意見を聞くと、おそらくこのようなアドバイスが返ってくるだろう。そしてこれは、的確なアドバイスだ。2つのプロセスはまったく異なるうえに、どちらも大変な労力を必要とする。さらに、物事を進める際の優先順位が大きく異なるため、両方のプロセスを同時に首尾よく実行することは不可能に近い。ただし、売却プロセスを進めることと、会社を売りに出すことはまったく異なる。会社を売りに出すことは、会社の経営と資金調達に注力しながらでも簡単にできる。会社を売却する予定がない場合でも、買収側の立場で考えることは、ビジネスの改善につながる場合が多い。さらに、いつかは合併や買収(いずれもIPOよりはるかに一般的な方法)でイグジットすることになる場合でも、今から買い手の視点で考えておけば、イグジットを大幅に早めることができる。
KPIだけの問題ではない
投資家は手段よりも結果を重視する。ビジネスが成長していて好業績の場合、創業者が投資家から経営手法の詳細について尋ねられることはほとんどない。
そのため、売却交渉中に買収側がありとあらゆることについて質問を始めると、創業者は想定外の展開に驚くかもしれない。買収というのは、単に収益源を買うことだけを意味するのではない。チーム、テクノロジー、文化、さまざまな契約関係も買い取ることになる。買い手は、今までに創業者が築いてきたすべてのものを取得しようとしている。業績だけでなく、会社に関するすべてのことに強い関心を持つのも当然だろう。
そのせいで、創業者が腹立たしくなるほど不当な扱いを受ける場合もある。筆者が最初に創業したスタートアップPrism(プリズム)を売却した時も、.NET上に構築したことを厳しく非難する買い手が何人かいた。製品は問題なく動いていたし、収益も安定して伸びていた。技術スタックも効率的で信頼できるものだった。実のところ、こちらが開発したテクノロジーを称賛したかと思えば、その舌の根が乾かぬうちに、同テクノロジーの構築手法をあからさまに批判する買い手も多かった。確かにフェアではないかもしれない。しかし、買い手は、買収対象の会社が生み出している結果だけでなく、その会社のチームと製品を自社に統合する方法も考慮する必要があることを考えれば、まったく当然なことだ。文化、人事採用から、コアタイム、パートナーシップまで幅広い問題について、同じような話を創業者仲間から聞いたことがある。
確かに、常に第一に考えるべきなのは会社の成長だ。しかし、たとえ買い手が出現して質問し始めることがないとしても、自社のビジネスを客観的に見つめることには益がある。組織の中にいると視野が狭くなり、好調なKPIの下で悪化している問題を無視してしまいがちだ。自社を買収する企業の視点で考えることは、問題の早期発見に役立つ。そのような問題点の最も分かりやすい例はセキュリティと会計だが、他にも多くある。発見された問題について何らかの変更を行わない場合でも(例えば、プリズムの売却時に技術スタックを変更することはなかった)、何か異議が唱えられた場合に、正面から取り組むことができるようになる。攻撃はいつでも最大の防御だ。買い手と見解が相違しそうな部分を事前に解消しておけば、その分だけ有利な立場で交渉を進めることができる。
売却交渉の舞台裏
会社の売却は実際にはどのように行われ、事前に準備しておくことでどの程度有利になるのだろうか。売却プロセスには、従来型と「偶然の」出会い型の2つのパターンがある。従来型のプロセスでは、創業者が自社の売却を明示的に表明する。大規模な取引では、投資銀行を使ってプロセスを仕切ってもらうのが普通だ。小規模の取引であれば創業者が自分で取り仕切る傾向がある。いずれにしても、創業者と銀行は買収候補者リストを綿密にチェックして、事業内容をプレゼンテーションする。資金調達のプロセスと同じような感じだ。
出会い型のプロセスはもっと緩やかに進む。買収側が思いがけず興味を示す場合など、本当に「偶然」の出会いのようにプロセスが始まることがある。「偶然の」と角括弧が付いていることには重要な意味がある。創業者は、自社のビジネスの素晴らしさを周囲の人間に何気なく話すことによって、実は潜在的な買い手を探し始めている。中には、このようなアプローチが他より抜きんでて上手な創業者もいるが、ひとたび買い手が本当に関心を示したら、後は通常の売却プロセスと同じだ。売却交渉に競合相手がいないことが理にかなっている環境もあれば、「今は、あの大物と戦うことが前に進む最善の道だ」という言葉が妥当な環境もあるだろう。どちらの環境になってもおかしくない。ほとんどすべての場合において、まずは他の企業が自分の会社の買収に関心を持つようにすることが必要不可欠だ。たとえ最初の買い手に売るつもりであっても、それは変わらない。競り合いになれば売却値が上がり、ほぼすべての事項について交渉を売り手に有利に進めることができるので、たとえ事実でなくても、まるでそれを最初から計画していたかのようにプロセスを進めることが必要だ。
では、「関心」とは何を意味するのだろうか。あいまいな概念だが、通常は、誰か(経営幹部レベルの役職または企業のM&A部門)が代理人を通じて、あなたの会社の買収を検討したいと伝えてきた状態を指す。買い手はこの時、創業者を怖がらせないようにありとあらゆる遠回し表現を駆使する。「親密な関係を構築する」とか、「より体系的で一貫性のある方法で提携する」といった言葉のサラダが並べられる。相手がニューヨークの投資銀行にいたことがある人物なら、テーブルの表面を指でコツコツとつついて意欲をアピールしながら「早速、交渉をまとめましょう」と言うだろう。これらのフレーズはすべて同じこと、すなわち、その人物が代理人を務める企業があなたの会社を買収することを検討している、ということを意味している。
この時点では、企業の全体像を把握するための話し合いが行われる。通常、創業者はここで自社の優れた技術力についていきなり力説するようなことはせず、交渉を有利に進めるためのカード(優れたビジネスモデル、信頼性の高い製品、チームのメンバー間の強い絆、買い手のビジネスにぴったりの製品など)はこちらが持っていることをはっきりと示す。創業者であるあなたと共同創業者、数名の上級エンジニアが買収側企業のオフィスで時間を過ごし、管理部門や生産部門の人間と会って、さまざまな部門がどの程度互いにうまくやっているかを観察する。CEOは買収側のCEO(大企業の場合は部門長)と会って、従業員の福利厚生や買収側企業への移行契約について詳細に議論する。ここでプロからのアドバイスを一つ。「シナジー」とは社員の解雇を意味する。もし、社員の解雇は受け入れられない、という場合は事前のその意思表示を明確にしておくこと。チームの全メンバーを残したいという要望があったとしても、すべての従業員が買収側企業に移ることはめったにない。
最初の数回のミーティングがうまくいったら、次は、交渉プロセスを正式なものにする必要がある。売却のかじ取りをする社内の担当者(CEOの場合もあるが、経営企画部長、部門長、相談役が理想的)を任命すれば、売却取引が成功する確率はぐっと上がるだろう。キーパーソンを1人決めておくと、プロセスが効率的に進むため、創業者は、売却のどさくさのせいでビジネスがさまざまな混乱によってビジネスが破たんすることを防ぐことにのみ集中できる。
このプロセスの初期段階で、Initial Indication of Interest(IOI:初期関心確認書)を買収側に要求してみるとよいだろう。法的拘束力はないが、正直な人物であれば約束を守ってくれる。IOIには、提案された契約の条項、想定される時期、その他の主要契約事項が記載されている。実際はIOIの通りに物事が進まないことも多い。しかし、売却側と買収側で共通の開始点を文書化しておくことは重要だ。NDA(機密保持契約)もこの時期に締結されることが多いが、より正式な形で交渉プロセスを開始した場合にはすでにNDAが締結済みである場合もある。もし他にも買収に名乗りをあげている企業があるなら、この時点で、それらの企業に連絡して、現在「排他交渉中」なので、他の企業とは交渉できないことを伝える必要がある。そうすると、買い手候補企業の関心は一段と高まる場合が多い。それが人間の性だ。そこからは、新たな買い手候補企業とビジネスについて話すことは、ほぼ確実に禁止されるため、交渉が決裂しても、すでに交渉プロセスに入っている別企業に変更することしかできなくなる。
その後は、ゴールに向けて一気に進める。技術デューデリジェンス、法務デューデリジェンス、セキュリティレビュー、会計レビューなどを行う。これらの調査はすべて、当初の予定より長くかかり、いろいろと頭の痛い問題が出てくる。交渉が頓挫する可能性はいくらでもあるが、デューデリジェンスの結果は大抵、買収側企業の交渉の余地を広げるだけだ。高額で時間のかかる不動産査定のようなもので、今まできちんとメンテナンスを行ってきていれば、査定はスムーズに進む(前のセクションを参照)。
売り手の利害関係者も重要
売却側の投資家、従業員、顧客もすべて、売却交渉の結果に関心を持っている。買い手の立場で考えることも重要だが、売り手側のすべての利害関係者にも配慮する必要がある。個々の交渉によって状況は異なるので、どの状況にも当てはまる一般的なアドバイスをすることは難しい。十分なコミュニケーションを取ることが理想的だ。とりわけ、M&Aを最初に承認する必要があると思われる主要投資家への連絡は重要である。売却交渉が突然始まると、事態が絶望的に感じられ、投資家はまだ交渉の余地が残っている点がないかと必死で考えるだろう。そして、コミュニケーションが不十分なのは経営体制が貧弱なせいだと考えるようになる。それを不当な思い込みだと言うことはできない。
デューディリジェンスプロセスに入ったら、従業員をプロセスに参加させる必要がある。経営幹部をプロセスに参加させることは、適切な最初のステップとなる場合が多い。経営幹部たちに交渉に参加してもらう必要がある。交渉プロセス中および交渉結果について発言権が与えられれば、高い士気を持って売却取引に取り組んでくれる。残念ながら、顧客は売却が公式に発表されるまで待つ必要があるが、公式発表は透明性が高くごまかしのない内容にする必要がある。発表はCEOが行うべきだ。
最後に、ジャーナリスト、ブロガー、ポッドキャストホスト、アドバイザーなど、これまでに支援してくれた人たちにも、不意打ちを食らったと思われないように、事前に連絡を入れておく。買収によって自社製品が混乱に巻き込まれる可能性がある場合は、この連絡が特に重要だ。この売却で自分の評判が危険にさらされる人がいる場合は、その人が売却の話を朝のニュースで初めて知る、というようなことがないように、事前に知らせるよう最善を尽くすべきだ。
セールスリーダーのように考えよ
すべてのCEOはセールスの仕事をしている。投資家へのプレゼンテーション、顧客への販売、重要ポストの採用、買収企業へのアピールなど、すべてセールス活動である。自分の最も重要な資産である会社を売却する準備をするということは、まさにセールスのエキスパートのDNAそのものだ。創業者はセールスリーダーとして考えることを止めてはならない。
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