元グーグルの及川卓也氏といえば、日本のソフトウェアエンジニアの中でも抜群の知名度を持つ人物だ。各種の開発者カンファレンスへの登壇も多く、ブログは書籍化されており(『挑まなければ、得られない』2012年)、2012年1月には地上波テレビ(NHK)のドキュメンタリー番組『プロフェッショナル 仕事の流儀』で取り上げられている。
その及川氏が10月21日、グーグルを辞職したことを告げる文章をFacebookにポストし、IT業界の話題になった。次の職場はどこなのか? その答えが本日11月17日に明らかとなった。及川氏はソフトウェアに関する知識を共有するサービスとして伸びつつあるサービス「Qiita(キータ)」の開発元であるIncrementsの14人目の社員となる。今後は、プロダクトマネジメントを中心に手腕を振るう。
及川氏は、日本DECからキャリアをスタートし、マイクロソフト、グーグルと、ITの名門企業をそれぞれ9年ずつ勤め上げてきた。その及川氏の転職先が社員数13人のスタートアップだと聞けば、「なぜ?」と聞きたくなるのが人情というものだろう。
「驚く人もいるかもしれないが、グーグルからスタートアップに行くのはよくある話だ」と及川氏は話す。実際、クラウド会計「freee」創業者の佐々木大輔氏やモバイルビデオ広告「FIVE」共同創業者の菅野圭介氏、予約システム「クービック」創業者の倉岡寛氏などグーグル卒業生が起業した事例は日本でも増えている。それにしても、知名度抜群の及川氏がまだまだ小さな会社であるQiita開発元のIncrementsを選んだのはなぜなのか。
やりたいことが一致、Qiitaはエンジニアから愛されている
及川氏の話を聞いてみよう。
「自分は何をやりたいのかをよく考えた。自分自身で起業することも含めて考えたし、グーグル卒業生にも相談した。その中で出てきたのは、自分がやりたいことはバーティカルなものではなくホリゾンタルなものだということ。Google Developer Day(GDD、グーグルが運営する開発者カンファレンス)、デブサミ(Developer Summit、翔泳社が主催する開発者カンファレンス)、HTML5 Conference(html5jが主催する開発者カンファレンス)などエンジニアを元気付ける、支える活動に関わることは面白く感じていた。そういう方向性の『あること』をやりたい、と(Increments代表取締役の)海野(弘成)さんと話をしたら、考えていることがほとんど同じだった」。
残念ながら「あること」の中身はまだ秘密とのことだが、及川氏が考えていた次の一手とQiitaのIncrementsが考えていたことが近かったことが、今回の決断の背景にはあるらしい。「それならば、今から新しいものを作り上げるより、すでに土台があって優秀なエンジニアが集まっている会社に参加した方が夢の実現が早いだろうと」。
取材に同行したTechCrunch Japan編集長の西村賢がこう聞いた。「給料は上がりました、下がりました?」。及川氏はこう返す。「下がりました。でも、それは前職が良すぎたというべき。スタートアップとしては非常にがんばってもらいました」。そして、こう付け加えた。「お金じゃないと思っているんです。小さい組織じゃないとできないこと、ビビッドに製品の運命を左右するようなことをやりたい」。
及川氏はこうも言う。「Incrementsから声がかかった時には嬉しかった。Qiitaはすでにエンジニアから愛されるプロダクトとなっている。自分が参加して、何ができるだろうとワクワクもした」。
及川氏が入る直前の時点で、Qiitaは社員数13名、平均年齢28歳の若くて小さな会社だ。約20歳も年齢が離れたエンジニアと一緒にやっていくことについては「楽しみだ」と語る。若い才能を集めたスタートアップに“いい感じ”にベテランが参加できそうな予感はある。
グーグルで経験を積んだ及川氏の目から見てもIncrementsは興味深い会社だという。「Incrementsでは、開発や組織管理に実験的な手法を取り入れて、成果を上げている。これはQiitaのブログにもけっこう書いてあるが、例えば海野さんは書籍『Team Geek ―Googleのギークたちはいかにしてチームを作るのか』のコアのエッセンスを実践したいと言っている。そこに加えて自分の経験も共有していきたい」。
及川氏は、同社が「目標を持っているが採用で妥協しない」点も気に入っている。Incrementsの海野氏は「エンジニアは増やしたいが、入社のハードルが結構高くて、なかなか増えません」と話す。
そしてIncrementsの大きな魅力は、開発者向けのサービスとしてQiitaの存在感が増している点だ。今や200万UUで、「国内のほとんどのエンジニアが毎月1回は見ている計算になる」(海野氏)。
及川氏は次のように話す。「Qiitaは、ドキュメントにおけるGitHub的なものになりうるポテンシャルがある。今はブログに技術記事を書く例が多いが、内容が陳腐化した記事をメンテナンスし続けることを求めるのは責任が大きすぎる。Qiitaなら次に興味を持った人が引き継いでいけばいい。Forkしてもいいし、コメントを足してもいい」。技術ドキュメントを集積する場として、Qiitaはデファクトスタンダードになりうる可能性があると及川氏は見ているのだ。
3社の名門IT企業を9年ずつ勤め、スタートアップへ
ここで及川氏の経歴を簡単に振り返っておこう。1988年に早稲田大学を卒業する。学生時代から新しいソフトウェア技術が好きだった。卒業研究では、地下資源の探査に関する構造シミュレーションのプログラムをPrologで書いて「指導教官を困らせた」(及川氏)という。
卒業後、日本DECに入社した。若い世代には説明が必要かもしれないが、DECは当時世界2位のコンピュータメーカーであり、特に大学、研究機関では絶大な信頼と人気を誇っていた。AT&Tベル研究所で作られた最初のバージョンのUNIXも、カリフォルニア大学バークレイ校で作られたBSD(TCP/IPとsocketを実装し、インターネットの発展に重要な役割を果たした)も、ターゲットはDEC製マシンだったのだ。DEC出身のエンジニアは今もIT業界の要所要所で活躍している。
日本DEC時代の後半は、同社が開発したRISCチップ「Alpha」向けのWindows NTの開発を手掛けていた。
1997年にマイクロソフトに転職する。DEC時代からWindows NTの開発に関わっていた及川氏は、Windows NTのエキスパートとしてマイクロソフトでのキャリアを築く。やはり念のために説明すると、Windows NTのことを単なるWindowsのバージョン名だと思ってはいけない。DEC出身のDavid Cutlerがカーネルから新規設計したOSであり、中核技術はWindows XP以降のWindowsシリーズのコアテクノロジーとして今も引き継がれている。もしWindows NTが成功していなければ、Windowsが今日まで存続していたかどうかは分からない──それぐらいに重要なテクノロジーである。
2006年にグーグルに転職する。当時のグーグル日本法人は社員数100人に満たない小さな所帯だった。グーグルでの主な仕事はChromeの中核部分の開発だ。Blinkレンダリングエンジンはもちろん、Web技術そのもの──例えばHTML5の実装と普及活動にも関わった。また「Google日本語入力」にも、“20%プロジェクト”で作られた時代からAndroid版を作る頃まで関わっている。
前述したように開発者コミュニティでの活動も目立つ。Google Developer Day(GDD)での及川氏はいわばグーグル日本法人の“顔”だった。HTML5 Conferenceでの及川氏は、「グーグルの人というより、HTML5の人」だった。2011年の東日本大震災を機に立ち上がった開発者コミュニティ「Hack for Japan」では中心的な役割を果たした(例えばこの講演)。「被災地をITで支援できないか」という大きな課題に取り組んだ。Hack for Japanのハッカソンがきっかけで登場したサービス、スマートフォンアプリも数多くある。
及川氏のキャリアを振り返ると、米資本の一流企業での開発マネジメントの経験を持つだけでなく、開発者コミュニティでの活発な活動が目立つ。開発者向けサービスQiitaを軸にビジネスを展開するIncrementsで及川氏がどんな仕事ぶりを見せてくれるのか。多くの開発者の視線が集まっている。