マリオメーカーシリーズは、任天堂がファンにもたらすことができたものの中で、最も太っ腹な贈り物だと言えるかもしれない。そして、この新しいSwitch版は、あらゆる点で前のバージョンよりも優れている。とはいえ、このゲームソフトが与えてくれる自由によって、ついついその気になり、これなら何でもできそうだという野望が芽生え始めると、できないことがあるのに気付かされてがっかりする、ということも避けられない。
念のために言えば、マリオメーカーはもともとWii U用のゲームソフトで、そのちょっと変わったゲーム機の特徴をフルに生かした、想像をはるかに超える面白さが味わえるものだった。プレイヤーはタッチスクリーンとスタイラスを使って、さまざまなスタイルでスーパーマリオのレベルを作り上げることができた。そのため、非常に多くの凝った作品が生み出され、世界中を仰天させることになった。
今年の2月に発表され、この6月末にリリースされた続編、スーパーマリオメーカー2は、前バージョンの自然な進化形となっている。新しいアイテム、新しいスタイル、地形を造形する新たな方法も使えるようになっている。さらに、プレーヤーに課す条件のような、さまざまな複雑な要素を組み合わせることができる。例えば、ある場所ではジャンプできないとか、あるアイテムをゴールまで運ばなければならないとか、そういった条件を課すことできる。
メーカーモードには、充実したチュートリアルが組み込まれているのがうれしい。ちょっと変わった可愛らしい二人組「ニナ」と「ヤマムラ」(少女とハト)が、プレーヤーにツールの使い方をを一通り教えてくれる、プラットフォーム作りの初級講座のようなものが含まれているのだ。シングルプレイヤー用の特典もある。任天堂がデザインした昔ながらのマリオを楽しむことができる100種類の独立したレベルも付属しているのだ。それらは実際にプレイできるだけでなく、いろいろなブロックの使い方やレベルのスタイルのヒントになる。
発売から数日も経たないうちに「コースワールド」は、ちょっと奇妙だが面白く遊べるレベルでいっぱいになった。ブロックや敵の使い方など、独創的なアイディアにあふれ、頭をかきむしりながらコントロラーにかじりついてプレイしたくなるようなものばかり。オリジナルのマリオメーカーの時代に生まれた「全自動マリオ」という斬新な素晴らしいジャンルのカテゴリーも用意されている。場合によってはまったく操作しなくても、プレーヤーを冒険の世界に引き込んでくれる。
大事なのは、このゲームにはマリオのレベルとして不可欠なもの、例えば錠のかかったドアやその鍵、プレーヤーが罰ゲームを何度もやらなくて済むようにするためのチェックポイントなどが、しっかり備わっていること。それだけでだいぶまともになる。すでに、そうしたアイテムを利用して作った面白いレベルが数多く公開されている。それによって、複数のエリアに行けるようになったり、特定の敵を倒してからでないと先に進めないような設定も可能になるのだ。
このゲームの細かな改良点について、詳しいことは他の記事に任せることにする。ここで言っておかなければならないのは、マリオメーカー2は、とにかく面白いということ。シングルプレイヤー、マルチプレーヤー、さらにコースワールドモードを意識しながらレベルを作っていくのは難しいが、ゲームの値段以上の価値は十分にある。ここでは、このゲームに関して特に重要だと感じたこと、そしてレベルの作成に課せられた、よく考え抜かれた制約というあたりに集中して述べたい。
任天堂は、著作権の侵害を探し出して壊滅させることに熱心なことでもよく知られている。つい先週も、ほとんどあっという間に人気のバトルロイヤルゲームをマリオの世界で実現した「Mario Royale」が閉鎖されたのを目にしたばかりだ。さらに同社は、少なくともある意味において、ライセンス供与に関しても、かなり保守的なことで知られている。例えば「ゼルダの伝説」にしても、今だに自社のゲーム機でだけプレイ可能で、ソニーやマイクロソフトのハードウェア用のものは登場していない。それには納得できる十分な理由があるはずだ。
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しかしながら任天堂のファンは、まったく別の熱心さにおいて同社に負けていない。何年にもわたって彼らは、任天堂がバーチャルコンソールを通してそのまま開放したり、慎重にリサイクルしたりしてきたゲームを改変したり、再利用したりするさまざまな方法を開拓してきた。任天堂自身は、Mario Royaleのようなものを作るつもりはまったくなかった。もちろん、伝統的なゲーム内のアイテムの位置を変更して、毎回異なったゲームがプレイできるようにする「A Link to the Past Randomizer」のようなものを作ろうともしなかった。ちなみに、スーパーメトロイドや、他の伝統的な人気ゲーム用にも似たようなものがある。
やはり任天堂の哲学は、こうしたことをほとんど禁じている。ゲームに対する考えはずっと純粋なものであり、その結果が「スーパーマリオオデッセイ」や「ゼルダの伝説ブレスオブザワイルド」のようなものになったとしても、それを責めることはできない。それでも、プレイヤーはもっと多くを欲している。手入れの行き届いた壁に囲まれた庭、同社がプレイヤーのために長年培ってきたその庭から、同社の作品を持ち出すためにできることは何でもしようとずっと狙っているのだ。
話をマリオメーカー2に戻そう。
このタイトルは、任天堂のルールの外で任天堂のゲームをプレイすることに熱心だったコミュニティを拍子抜けさせるような性質のものだ。プレイヤーが自分でレベルを作ることが可能になり、そのための非常に強力なツールを手に入れたことによって、もはやROMをハッキングするしか手段がないというような、切羽詰まった状況から、そうしたユーザーを開放してくれる。
特にこのスーパーマリオメーカーの第2弾は、創造力を解き放つような出来栄えとなっている。新しいアイテムや新機能が複雑なレベルの設計を可能にしている。当初からマリオが備えていた魅力を再現できるようなものだ。レベルを作り上げていくのは、それだけで十分楽しいものだが、任天堂のレベルデザイナーでは、特定のスキルや感覚を念頭に置いて、各レベルのテーマを設定できるようになった。この続編のツールでは、それが以前のものよりもずっと優れた効果を発揮するようになっている。
一方、意図的に取り除かれた機能もある。最も分かりやすい例は、オーバーワールドのマップや、1-1、1-2、1-3といった構造によってレベルを結合することができなくなったこと。これは、ちょっとした方法で回避できるかもしれないが、このツールはレベルを作るためのものであって、ゲームそのものを作るものではない、という同社の意図を表しているのだろう。
個々のレベルより上位の構造を扱えるようにすることは、一種のプレイリストを作るようなもので、難しくはないはずだが、あえてそうしないのは、公式ゲームと差別化するための戦略だろう。仮にレベルやプレイリストを共有できるようにすれば、任天堂独自のアルゴリズムによる煩わしい数字を使った共有システムと比べて、同社にとっても配布手段を管理するのがかえって容易になるように思われるからだ。
もちろん、私は任天堂が、そういうことをすべきではないと言っているわけではない。レベルだけでも、何千もの遊びがいがあるものが登場するだろうし、やがてとても遊びきれないほどの数になるだろう。しかし、マリオメーカーの人気からして明らかなのは、何百万人ものプレイヤーが、同社の厳格なルールにとらわれない同社の創作を見てみたいと考えていること。すでにスーパーマリオメーカー2は、そうしたルールをかなり緩めているわけだが、同時に任天堂がコミュニティに対して積極的に許可することの範囲の限界も示している。
とはいえ、その範囲内でもほとんど無限のバリエーションがある。実際このゲームの製作者は、何を残して何を省くべきか、かなり真剣に考慮したのではないかと思われる。私としては、スーパーマリオワールドの無敵の巨大モグラが使いたいのだが、その調子であれこれとレアな生物を敵の選択肢に加えていったら、ごちゃごちゃしてしまうだろうか?また、オーバーワールドもあればいいと思うのだが、ちょっと作ってみたいという人や、スピード優先でどんどん作りたいという人にとっては、ほとんど見向きもされないような余計な機能ということになってしまうだろうか?このゲームの目的は、創作を助長することにあるはずだが、そのためにはすべての機能を提供すればいいということではなく、制限すべきことをわきまえるのも必要なのだろう。
突き詰めれば、任天堂に庭の囲いを取り除いてもらいたいという私の願いは、いわばお城の扉の鍵の引き渡しを要求しているようなものなのだ。もちろん私は特に不便を強いられているというわけではない。がんばれば、自分の力でまともなコースを作り上げることもできるし、このような制約の中で作業することに満足できる人も多いだろう。私自身は、天才的なコース職人というわけではないので、どうしても可能性よりも制約の方が気になってしまう傾向がある。
私は、もっといろいろなマリオが欲しい。任天堂が与えてくれるより、もっと多くのマリオで遊びたい。スーパーマリオメーカー2によって、マリオ関連のコンテンツを、点滴として体に注入し続けることが可能となった。遊び続けるにはそれで十分だが、そこに課せられた制約によって、次には本物のゲームを手にすることを渇望する気持ちが膨らむのを抑えられないでいる。それが親切心からくるものなのか、あるいは残忍さの表れなのか、私には判断できない。しかしどちらにしても、この先数年は、これに死ぬほど多くの時間を注ぎ込んでしまうことは間違いない。
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(翻訳:Fumihiko Shibata)