シリコンバレーでは毎年千の単位でスタートアップが生まれている。その中で全国で名前を知られた会社になるというのはそれだけで大変なことだ。
指から一滴の血を絞り出すだけで多数の病気が検査できると主張したTheranosはそうした稀有なスタートアップとなり、続いて真っ逆さまに転落した。
Wall Street Journalの記者、ジョン・カレイルーの忍耐強く勇気ある調査報道が起業家、ファウンダーのエリザベス・ホームズとそのスタートアップの実態を暴露した。これによりバイオテクノロジーの新星は、嘘で塗り固められた急上昇の後、あっというまに空中分解した。Theranosはシリコンバレーの歴史上前例のない大規模な詐欺だった。
Bad Bloodは調査報道報道の金字塔だ。Theranosが崩壊し、弁護士たちという盾を失ったことはこの本に大いに役立った。WSJの記事ではカレイルーが匿名にせざるを得なかった多数の取材源が実名で登場することができた。これにより、過去の多数の記事を総合し、完全なストーリーとすることが可能になった。
しかしこの本は決してスリル満点でもなければショッキングな暴露でもない。地道でストレートなジャーナリズムだった。
ひとつにはカレイルーのいかにもWSJ的な「事実を伝える」という態度と文体にあるだろう。登場人物の動機や心理の考察はごくたまに挟まれるだけだ。もちろんこのスタイルはWSJを毎日読む読者には適切だろうが、一冊の本の長さになるとややカリスマ性を欠くともいえる。
エリザベス・ホームズとナンバー2だったラメシュ・”サニー”・バルワニが連邦検事により起訴されたのだから、公判でさらに事実が明らかになってから本にすべきだったという意見もある。しかし私はそうは考えない。というのも詐欺の手口自体は比較的単純なだったからだ。
事件の核心にあるのは投資家も消費者も重大な判断をするにあたって過去の経験や評判を頼りにしがちだという点だ。またTheranosは小さな雪玉が転がっていくうちに大雪崩を引き起こす現象の例でもある。引退した有名なベンチャーキャピタリストがシード資金を提供した。その実績がTheranosを有名にし、他の投資家を呼び込んだ。10年の間にTheranosの取締役会には現国防長官のジェームズ・マティスやヘンリー・キッシンジャーを始め大勢の有名人が集まった。
その中にはNews Corporationを通じてWall Street Journalの所有者でもあったルパート・マードックがいた。この大富豪は1億2500万ドルをTheranosに投資していたことが本の最後で明かされる。マードックはシリコンバレーのあるディナーでホームズにに会った。
ディナーの席上でホームズはマードックのテーブルにやって来て自己紹介し、少しおしゃべりした。 ホームズはマードックに強い印象を与えた。後日マードックは(投資家の)ユリ・ミルナーに話したところ、ホームズを大いに称賛したので印象はさらに強められた。
しかし他の有力ベンチャーキャピタル会社とは異なり、マードックはなんのデューディリジェンス(適正な調査)をしないまま多額の投資を決めた。84歳になるマードックはデータより直感に頼って行動するほうであり、これまではそれでうまく行っていた。
マードックは電話を一回かけただけで1億2500万ドルを投資した。普通の人間には息をのむような額でもMurdochにとってははした金だったようだ。報道によればマードックの資産は170億ドルだという。
マードックにとって経験則に従って行動したことは資産の1%以下の損失だった。しかも損金処理によって税金が安くなったはずだ。つまり誤った投資をしたといってさしたる痛手を受けたわけではない。
このあたりがこの本の弱点かもしれない。2008年の金融危機では抵当証券の破綻によって普通の人々が何百万人も家を失ったのに対し、Theranosの詐欺で被害を受けたのは大富豪ばかりだった。
しかしちょっとした手間が愚かな投資を防止できた可能性はある。たとえばLinkedInを少し検索するだけでTheranosでは人員の出入りが異常に激しいことがわかったはずだ。これは企業文化と経営陣になにか根本的な問題があることを示す可能性が高い。質問する気さえあれば答えは手近なところにいくらでも転がっていた。
血液検査を受けた消費者の被害を跡づけるのは投資家、社員の場合以上に難しい。Theranosの詐欺が深刻な被害を及ぼしたのはこうした血液検査を受けた人々のはずだ。Edisonと呼ばれたTheranos独自の機械による検査結果はきわめて信頼性が低く、ときにはあからさまな捏造さえ行われた。カレイルーの著書では
Theranosの検査が死亡率を上昇させたというはっきりした証拠は示されていない。【略】
Bad Bloodは〔映画キリング・フィールドと〕似ている。地味で、スリルを盛り上げようとはしない。しかしそこが優れている点だ。この本はわれわれのシリコンバレーに対するステロタイプにいわば針を刺して血を一滴絞り取る。シリコンバレーの投資家やファウンダーは優れた人々であり愚行とは無縁だという通念だ。もちろんそんなことはない。Theranosはそれを思い出させるためのかっこうのキーワードとなるだろう。
画像: Michael Loccisano / Getty Images
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