銃がある限り銃設計図はなくせない

銃規制とはあらゆる銃の規制である。先進諸国におけるこのトートロジーに交渉の余地はない。もしこの国に銃が存在するなら、銃の設計図は存在し得る。そして私はほぼあらゆる武器の厳正な規制に強く賛成する立場をとるが、Defense Distributedのピストル「リベレイター」の設計図を禁止する動きは受け入れ難い。銃は存在する、よってその設計図も、存在すべきである。

はっきりさせておくが、私は、Cody Wilsonの発想は自由主義論者のたわごとだと思っている。彼がリベレイター ― ナチを脅かすためにドイツ占領地域に空中投下された簡易な銃の名前 ― という名称を採用した好戦的態度は、戦没者の記憶を冒涜するものだ。未知の力を持つ敵に対する最後の武装闘争には、平和主義者でさえ価値を見出すだろう。しかし、自由のない人々の苦闘と、銃商人がスムーズに取引きする権利との間にある決定的な違いを理解している銃支持論者はいない。

そしてそれが、これらのばかばかしい設計図を私が擁護し続ける理由だ。かつてのアナーキストクックブックと同じく、リベレイターは陰謀論と不当な怒りに満ち著しく自己認識に欠けた妄想の産物である。クックブックの著者で19歳のウィリアム・パウエルは、彼の「論文」をベトナム戦争への抗議として書いた。彼は自らの命 ― そして他の無数の感じやすい十代の命 ― を賭けて、笑ってしまうような急造武器の概要を公開するほどの強い気持ちを抱いた。しかし、彼が出版、製造する権利は決して脅かされるべきではない。彼の目的は本物だったが標的が誤っていた。同じことはWilsonにも言える。

3Dプリンティングは重要な新産業分野だ。BASICがビットをいじるのを簡単にしたのと同じように、それはプラスチックをいじるのを簡単にする。私には将来子供がプラスチック製ナイフやおもちゃの手榴弾など危険が潜む物体をいくらでもデザインしてプリントする状況を予見できる。これが探究というものだ。極端に走ることによって本質を理解する。

ある夏の日々を思い出す。たぶん私が11か12の時で、友達とふたりで裏庭にあった古いガラスのドアを見つけた。ふたりは午後いっぱいかけてガラスを割り「ナイフ」を作った。実際には、自分を傷つけることなく手に持てる破片を見つけることだった。ナイフにはホークアイとかサムライとか名前を付け、私が「スパイ任務」に使っていた布張りのブリーフケースにしまった。後に両親は私たちが庭で割れたガラスで遊んでいるところを見つけた。私は自宅謹慎させられた。ふたりともクラブハウスにも行けなくなった。リベレイターも同じだ。愚か者はガラス窓を見てそこにナイフを見る。賢い心は同じドアを見て温室の入口に使おうとするだろう。あのドアに有用な利用法を見出せなかったことが、私たちを愚か者にしたのだ。

われわれは3Dプリンティングを恐れることもできる。しかし、たとえあらゆるデジタルファイルを禁止しても、誰かが危険な何かを作り、そこに自由というレッテルを貼るだろう。最終的にわれわれは、知能と思いやりだけに抑制さられた混沌に住むことになる。人間の特性のうち、後者が勝利することは私の一生の願いであり、だから私はいじくり回すことの価値を理解している。Wilsonが自らの “No Takedown” [分解禁止]ルールを無視したそのスピードは、この少年がいかに厳格で頑強な自由の闘士であるかを示すものだ。しかし私は、恐怖心につけこみ大げさに物を言うカルチャーよりも、時に見当違いであっても、活気あるアイディアの市場の方がずっといい。Wilsonの銃をダウンロードしてプリントするのは愚か者だけだ。しかし、われわれのロッカーやクローゼットに銃があり続ける限り、それを行うのは愚か者の権利だ。

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(翻訳:Nob Takahashi)