仕事の未来は倫理的か?

Meili Gupta(メイリ・グプタ)さんは新たな疑問を投げかけようとしている。エリートのための寄宿舎制中等教育校であるPhillips Exeter Academy(フィリップス・エクセター・アカデミー)の穏やかで雄弁な3年生グプタさん(17歳)は、内向的で優しい話し方をする技術系オタクの典型のように映る。

しかし、多くの人が知っているどの高校生よりも、彼女はコンピュター・サイエンスに詳しい。しかも、MITの最も重要な刊行物である「MIT Technology Review」(MITテクノロジー・レビュー)の熱心な読者でもある。そのことから彼女は、この夏にMITのキャンパスで開かれた、AI、機械学習、そして「仕事の未来」を考えるMITテクノロジー・レビュー主催のカンファレンス「EmTech Next」(イーエムテック・ネクスト)で最も多く出会う高校生となった。

このカンファレンスの本来の目的は、企業のトップやテクノロジーの専門家が次世代のテクノロジーが、今後数十年で私たちの仕事や経済をどのように変えていくかを話し合うことにある。

だが私にとって、この集まりは生存の危機をもたらすものに感じられた。強いて言うなら、宗教の危機だ。私は無神論者を公言しているばかりでなく、それを職業にしている。私が体験したEmTech Nextは、私たちの他人とそして自分自身との結び付きをテクノロジーが再定義しようとしているこの時期に、人間であることの意味を投票で決めようとする場所のように感じた。

つまり、明日のリーダーには、善意と倫理感を持ち合わせていたとしても、結局はハイテクツールを使って今までにない効率性で人々からの搾取を続けるのか、またはよりよい未来を切り開くのかのどちらかしかないということだ。そこで私は、これからそうした問題全般と向き合ってみる。私のような人間が、しかも報道関係者として、この手のカンファレンスに出席する機会が非常に少ない理由も含めてだ。

まずは、グプタさんの話に戻ろう。彼女は十分に準備をしてカンファレンスに臨んでいた。カンファレンスのための宿題を前もって完全に熟していたという意味ではない。彼女がマイクの前に立ち、質疑応答セッションを開始するたびに、現在最も活発な業界の運命に関して、よく練られた熱意のこもった新しい質問を投げていたということだ。彼女は、仕事の未来について疑問を抱いていただけでなく、彼女自信がそれを体現していた。

「私は携帯電話を手に持って育ちました」とグプタさんはカンファレンス中に行ったインタビューで私に話してくれた。そして「(私のクラスの)ほとんどの人が、自分のコンピューターのカメラを隠しています」という。

エクセターが発行しているSTEM(科学、技術、工学、数学)雑誌「Matter」(マター)の編集主幹を務める彼女は、AIや気候変動といった問題に内在する倫理的挑戦をていねいに分析した記事を書いている。彼女は、学内を散歩中にこの問題に興味を持つようになった。ちなみに彼女は、高校1年生のときに高校3年レベルの「人工知能入門」コースを受講している。

さらに、自動運転車とコンピュータービジョンの授業を受けて学び、機械学習について自主研究を進めてきた。今年の秋、高校3年生になった彼女は、「ソフトウェア工学を通じた社会改革」の授業を受け始めた。そこでは、学生たちが地元にある課題を選び、社会をよくするためのソフトウェアを開発することになっている(十代のころに、こんな授業を受けたという人がどれだけいるだろうか)。

そしてグプタさんは「社会を良くする」ことがしたいと考え、テクノロジーの倫理が自分の世代の仕事だと判断した。すでに彼女は、偏向の少ないアルゴリズムの作り方を学ぶために必要なコンピューター・プログラマーを何人も知っていた。そしてこれには、公正と倫理を求めるハイテク企業と一般の人々の協力が欠かせないこともわかっていた。彼女は不公平をなんとかしたいと思ったが、同時に自分自身が受けている高度な教育こそが、不公平を具現化したものだという皮肉も感じた。

結局、私たちの社会が、特定の人に他者よりも優れた教育を受けさせることを受容しているのであり、応援さえしているということだ。その同じ人たちが未来を独占しようとしていることは、あまり報道されない。しかし重要なのは、経済の未来を意のままに形作ることもできるが、同時に自分たちが不公正な未来を正す方向に努力をすべきであり、十分にその力があると信じている人たちも増えていることだ。そこは特筆すべきだろう。

エクセターや、私が教誨師を務めるMITやハーバードのようなエリート校の学生や卒業生は、通常は寛大で、思いやりがあり、思慮深い市民になるよう訓練を受けている。恵まれない人たちが苦労していることに対して、無関心であったり冷淡であってはならないと、自分たちに言い聞かせている。むしろ私たちは「奉仕」する存在であり、成功した暁には必ず人を助ける。実際、それにはできる限り大成功しなければならない。そうして初めて、人を助けられるだけの資産が得られる。

だが我々には、自分自身が非常に優秀であるという別の観念も出てくる。我々は特別であり、他に秀でていて、天賦の才能があると。私たちはインクルーシブであることを目指している。しかし、いまだに攻撃的であれと教えられる。戦って勝利しろと。あらゆる機会をモノにしろと。

どちらかの側面しか持たなかったとしたら、どうなるだろう?

総取りしていく学生の勝者

アナンド・ギリダラダス氏(写真:Matt Winkelmeyer/Getty Images for WIRED25)

「Winners Take All」を著した作家のAnand Giridharadas(アナンド・ギリダラダス)氏は、「ウィンウィン主義」と彼が称する宗教を批判している。これは、私たちの社会、経済、政治への独占を常に強め続ける人たちは、彼らの独占により生じた不公正や不正を正す能力があるだけでなく、敗北した人々の救済者または解放者として、(自らの勝利のおかげで)現実に理想的な立場にあるという考え方だ。

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そうして、民主主義の根本理念である表現の自由の英雄と持ち上げられ、同時に無数の嘘の政治広告を容認して民主主義を弱体化させているマーク・ザッカーバーグ氏のような人や、資本主義の終焉と新しい倫理観の時代の始まりを宣言しながら、自身の億万長者の地位に固執し、移住証明書のない子どもたちを親から引き離しているにも関わらず米移民税関捜査局を自社のセールスフォースが支持するというマーク・ベニオフ氏のような人が現れる。

MITメディアラボの会議室で話をしたとき、グプタさんの中国出身の母親は、目に見えて優秀な娘の姿に微笑んでいた。お母さんは、あの有名な天安門の学生運動の後に大学院を中退して米国に渡って来た。

だが、十代にして大学院レベルのテクノロジーと人間関係のスキルを身につけたグプタさんのような人は、その後どうなるのか? ハーバードとMITに15年間勤めた私にはわかる。人々は仕事と金を彼女につぎ込む。つまり、億万長者になるかどうかはわからないが、車上生活者になる恐れは少ないということだ。

いや、これは私が心から敬愛し、幸せを願っているグプタさん個人の話ではない。もっと大きな問題がある。仕事の未来は、世界を救いたいと願うグプタさんのような思慮深い若者が、結果的に世界を支配するようになるデストピアにならないかということだ。名門私立学校や大学に属し、MITのカンファレンスに参加するような学生たちが、師匠のツールを巧みに操り、自分が住む場所を壊してしまわないかということだ。

無宗教の教誨師

しかし一歩下がって見れば、これは無宗教の教誨師のような者ですらテクノロジーと仕事の未来に関わることの説明になる。

私は大学で、仏教か道教の僧侶を目指して宗教学を専攻していた。しかし結果的にラビに任命され、宗教を持たない人のための聖職者となった(私は2005年からハーバード大学で人道教誨師を務めている)。

10年前、私は「Good Without God」という本を著した。無数の人々が、どうして信仰を持たずに善良で倫理的で意味のある人生を送っていられるのかについて書いたものだ。それでも私は、非宗教の人たちは、宗教コミュティーが相互援助と相互感化の集団を作り上げた方法から学ぶべきだと主張した。高等教育の機会に恵まれず就労している人たちに元気を与える部分すらも含めて宗教のあらゆる面を攻撃する、リチャード・ホーキンス、サム・ハリス、ローレンス・クラウスといった仲間の無神論者たちと公開討論も行った。そして、単に人々にするべきでないことを諭すのではなく、ポジティブな面に光を当てようと試み、世界最大級の「無神教会」を仲間と創設して、昨年閉鎖されるまで責任者を務めた。

「Good Without God」(写真:著者)

わざわざこのサイトを訪れて読みたいと思っていた内容から、この記事はかけ離れていないだろうか? もしそうなら、そのとおりだ。そこがポイントなのだ。つい最近まで私は、ときに中毒のように熱狂的になる消費者ではあっても、テクノロジーにはまったく関わりのない人間だったからだ。

テクノロジーの倫理

物事は2018年初頭に変化し始めた。私がMITのオフィス・オブ・リリジャス・ライフ(宗教的人生室:後に、宗教的、霊的、倫理的人生室、略してORSELと改名された)に、人道教誨師として加わったときだ。そこで私は、「倫理的人生」のための「招集者」という新しい役割を仰せつかった。世俗的な観点を離れて倫理的な人生を歩むよう学内全体の人々を説得するのが仕事だ。そうしてわかったのは、信仰心があると自覚する学生が49パーセントしかいないきわめて世俗的な教育機関であるMITのような最先端の技術大学では、非宗教の倫理感が必要ということだ。

以前なら、MITの申し出は断っていただろう(おかげさまで、ハーバードやその他の場所の仕事で手一杯だった)。しかし、正直言って、誘いを受けたとき、私は自分自身の良心の危機に感じていた。自分の倫理的観念に疑問を抱き始めていたのだ。

いや、神に目覚めたとわけではない(だとしたらお笑いだ)。そうではなく、比較的恵まれた、ストレートな、性の同一性がある、米国資本主義のパワーと美徳を信じる白人男性として育つ上で抱いてきた価値観に、深刻な欠陥があることを発見したのだ。ちなみに、比較的恵まれたというのはこういうことだ。母は子どものころ、キューバから難民として身ひとつで米国に渡って来た。両親ともコミュニティーカレッジに入学したが、父は卒業できなかった。ティーンエイジャーのころ、父が死んで受け取った唯一の財産は、社会保証給付金の小切手だけだった。

それでも、今思えばなんとか成長でき、大学院に7年間通い、「倫理」に関係する立派で注目を浴びる職業に就けた。米国文化と西洋文明が、基本的に不公平であることの深刻さを本当には理解しないままにだ。

Ta-Nehisi Coates(タナハシ・コーツ)の著書「Between The World and Me」(訳書「世界と僕のあいだに」慶應義塾大学出版会)を2015年に読み、奴隷制度は、それまで思っていたような単純に道徳的悪というだけではないと考えるようになった。それは米国建国から数十年の間、ひとつの最大の産業だったのだ。ニューヨーク・タイムズ・マガジンの「1691プロジェクト」が示すように、残酷な共産党政権から逃れて来た難民の息子として私が受け入れてきた政治経済における米国例外主義は、じつはまるごと残酷な圧政と搾取の上に築かれていた。

タナハシ・コーツ著「Between The World and Me」

ドナルド・トランプが選出されたことから、白人優位と泥棒政治がいまだ健在であると認めざるを得ない。そこへ#YesAllWomenと#MeTooが加わる。私は尊大な男女同権論者として育てられたのだが、男になれと教えられたことの有害性について内省し始めていた。プライベートなときや本当に悪いことをしたときを除いて、心の支えとして大いに依存している女性には決して弱いところを見せてはいけない。攻撃的であれ。常に勝て。なぜなら、敗者は地上でもっとも無価値で哀れな存在だからだ。

そういう人は大勢いると思うが、私は米国の実力主義の圧力に翻弄されて生きてきた。それは、比較的世俗的ながら、それさえなければ夢のような教義を私たちに教え込む。それは、私のような人間は天賦の才能と高い能力を有する勝ち組であるため、人生で持てるエネルギーを注ぎ込んで、人が個人として達成可能な最大限の成功を目指せ、というものだ。己の成功と支配が不公正に思えたとしても、またはちょっと残酷だったり圧政的だと感じても、心配はいらない。コミュニティーへの奉仕や慈善事業、またはその両方で「還元」してやればいい。

去年、MITで働くようになったころに感じていたのは、その程度の皮肉な気持ちと自己不振だった。その後、ある学生からこんな話を聞いた。「MITの卒業生が創設した会社をすべて集めて国にしたら、G20に参加できますよ」と。それ以前だったら、彼女の言葉に誇りを感じていただろう。だが、私は気付き始めていた。おそらく、こうした場所が問題なのだ。世界中の富と権力をひたすらかき集ることにより、何十億という人たちを実質的に無一文にしている。

問題はおそらく、こうした場所に誇りを持ち、あまりにも無批判にそこへ貢献している私のような人間だ。

つまり、私が問題なのだ。

現代の資本主義の批判家であり、去年、ハーバード・ビジネス・スクールの学生からその著書を教えてもらったギリダラダス氏に話を移そう。「Winner Take All」が昨年秋に出版されると、クリスマス休暇に入る前のハーバード・ビジネス・スクールのロビーでそれを読んだ学生たちは息を飲んだ。すべての服を黒で統一し、バイラルなツイートにかけては超自然的な能力を発揮する早口な38歳のインド系米国人、ギリダラダス氏は、3月に私がTechCrunchに初めて書いたコラムの取材の際にこう話してくれた。「私たちは衝撃的なまでに不平等な時代に生きています。それは基本的に、未来そのものの独占に他なりません」

「この時代の勝者、突然の変化と撹乱の時代の勝者の側になんとか立っていられた人たちは、進歩の成果を自分たちがほとんど吸い上げてしまうシステムを構築し、操作し、維持してきました」と彼は言う。真の偶像破壊主義者であるギリダラダス氏は、ビジネスの巨人であり慈善家のザッカーバーグ氏やビル・ゲイツ氏のような前世代最大のヒーローも、まったく物怖じすることなく批判する。彼らは数十億ドルを寄付しているが、それはおもに強欲、搾取、民主主義の破壊行為を隠すためだと彼は主張する。

彼の言葉の中に、自分自身とその足場となっている構造体への批判を怠ってきたために、その存続を助けてきてしまった今の自分が透けて見えて、恥ずかしく思った。しかしそれは、有害な男らしさを内在する若者であった自分を恥じるのとは違う感覚だ。私は自分の感情を隠したり、押さえつけたりした、妻にだけ打ち明けたいとは思わなかった。私はそれを公にして、なんとか対処したいと考えた。

時を同じくして、私はMITに慣れ、ほとんど取り憑かれたかのように、新しく誕生した、しかし漠然とした研究分野である「テクノロジーの倫理学」について本を読み漁った。そこでは、学者、活動家、政治家、ビジネス界のリーダーといった人たちがテクノロジーの変化が社会に与える影響について討論している。

テクノロジーは、結局のところ、究極の世俗宗教となった。この他に今日の価値観(イノベーションは常に善)が具体化したものの実例には、毎日の儀式の強制(昔は朝起きて祈り、夜寝るときに祈り、とにかく一日中祈っていたが、今の言葉ではそれを「携帯をチェックする」と言う)、有り余る予言の提供(ベンチャー投資家、TEDの講演者、ニューヨーク・タイムズの記者マイク・アイザックが見事に言い表した「創設者の崇拝」)などがある。さらに、神々すらも作られるのではないだろうか(半ば汚名を着せられたテクノロジー界の雄、アンソニー・レバンドウスキー氏は未来のAIの神様を祭る教会の建設を真剣に考えているようだ)。

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Joyce Carol Oates「地下鉄に乗ってる人みんなが頭に小さな装置をくっつけて放心状態。なんかの宗教?」

テクノロジーを宗教と考えるか、「産業」と考えるか(とは言え、今どきテクノロジーと無縁の産業などないが)に関わりなく、それは大変な災難と分断をもたらすことは明らかだ。ウーバーとリフトは、世界中で何百万人ものドライバーを動員しているが、おそらく大多数のドライバーの賃金は非常に低い。YouTubeやフェイスブックのようなプラットフォームは文化を「民主化」し、数十億人の人々に発言力を与えた。それを実現するために彼らが開発した、故意に中毒性のある怒りを煽るアルゴリズムによって、世界はマイノリティーや労働者も投票できる自由で公正な選挙の実施を勝ち取る過程に存在していたパワーの大半を失ってしまったように見える。さらに、「世界に変革をもたらす」あらゆるAIの原動力となっている巨大データセンターが気候に及ぼす悪影響の程度は、数千回の大西洋横断フライトによるものよりも大きい。その気になれば、まだまだ挙げられる。

そこで私はTechCrunchでコラムを書き始め、テクノロジーの倫理を研究するために1年間のサバティカルを取ることにした。「仕事の未来」はそのひとつだ。それがこの夏の出来事につながっている。

意欲に溢れ、それでいて不安を抱えたMITの学生のように、私はEmTech Nextの会場に記者証で入場し、生まれて初めて記者として仕事を行なった。私は充実した仕事を期待していた。企業やカンファレンスに登壇予定の人たちの倫理的な立場を探りたいと思っていた。

しかし歩き回るうちに、私はじつに基本的な疑問にぶち当たった。「仕事の未来」というフレーズは、そもそもどんな意味なのだろう?

仕事の未来とは、そもそもなんだ?

この10年間で、Future of Work(仕事の未来)を見極めるための書籍、記事、委員会、会議、講座、専門家の主張が爆発的に増えた。影響力の強い仕事の未来に関する文献の著者たちは、シンクタンクや大学を経営し、障害者や社会的に恵まれない人たちを擁護し、悩める両親たちの相談に乗り、なかには重要な公職に立候補した人もいる。今年の初め、カリフォルニア州のギャビン・ニューサム知事も、権威ある「仕事の未来委員会」を発足した。この問題に州レベルで対応するは、これが初めてだ。

テクノロジーの倫理の世界では、このフレーズは、今の時代でもっとも盛り上がった非常に激しい政治論争の中の、きわめて重要なサブジャンルと捉えられている。その論争とは、「ハイテク企業が創出する仕事は、はたして社会にとって良いものなのか?」というものだ。ロボットにその仕事が奪われたら、我々はどうしたらよいのか? 我々の仕事が変化すれば、人生、さらには人間性に関する考え方も変わってしまうのか?

このフレーズが生まれたのは1世紀以上前のことだ。おそらく、イタリア系イギリス人経済理論家のL.G.チオッツァ・マネーが皮肉を込めて考え出した造語だ。彼は「The Future of Work and Other Essays」の中でこう主張している。(もし当時、人類が無秩序と無駄によって特徴づけられる競合的な資本主義を乗り越えていさえしたなら)、科学はすでに「貧困の問題」を解決していただろうと。

もっと最近になってタイム誌が仕事の未来に関する記事を掲載し、10年前に、今日の私たちがそのフレーズで連想するものを一般化する役割を果たした。「10年前、フェイスブックは存在していなかった。その10年前、私たちにはウェブがなかった」と記事は始まる。サブタイトルはこう問いかける。「今から10年後に、どんな仕事が生まれているかなど、誰にわかろうか」

タイム「The Future of Work」特集号の表紙(2009年5月25日)

これは都合がいい。なぜなら、私たちはどんな仕事が生まれたかを正確に知っているからだ。

タイムの記事には、10の予言が書かれていた。テクノロジーはエリートの筆頭雇用主となり金融の頂点に立ち、勤務時間が柔軟になり女性リーダーが躍進し、昔ながらの職場と福利厚生は減少するといった、それほど突飛な内容ではない。しかし、一般的な傾向の予測となると、たとえば「どの程度まで?」といったふうに、話はもっと微妙な違いに重点が置かれるようになる。たしかにこの10年で女性の地位は向上したが、納得できるレベルに達したと言えるだろうか?

もっと微妙な差異を記した「仕事の未来」本がある。MIT教授のエリック・ブリニョルフソン氏とアンドリュー・マカフィー氏が書いた「The Second Machine Age」(訳書「ザ・セカンド・マシン・エイジ」日経BP)は、テクノロジーを楽観的な視点で捉えていて、インスタグラムの成功と、インスタグラム社とそのビジネスモデルが生み出した億万長者を例にとり、間もなく「ブリリアント・マシン」(明晰なマシン)が現れて、目一杯進歩した世界の構築を助けると言っている。ブリニョルフソン氏とマカフィー氏は、インスタグラムとコダックを比較しているが、そこには、コダックが一時は14万5000人もの中産階級の社員を抱えていたのに対して、インスタグラムには数千人の従業員しかいない問題の解決策が示されていない。

エリック・ブリニョルフソン、アンドリュー・マカフィー共著「The Second Machine Age」

私はよく疑問に感じる。「未来の仕事」を思索することは、結局は、世界でもっとも裕福でもっとも影響力の強い人たちが今後数十年にわたりその膨大な権力を維持するための戦略を練っている間、自分は従業員を深く気遣っていると安心させているだけなのではないかと。

「進路の分岐」、他の婉曲表現、億万長者の人道主義

そう、そのとおり。

マッキンゼー・グローバル・インスティテュートから新しく発表されたお洒落な報告書「The Future of Work in America」(米国の仕事の未来)では、「進路の分岐」、「異なる出発点」、「溝の広がり」、成長の「集中」、その他、怒りを煽り分極化を助長する不均衡の拡大を遠回しに表した言葉が強調され、仕事の近未来をほぼ確実に言い当てている。彼らの要点はじつに明確だ。分極化が拡大すれば、医療やSTEMといった特定のセクターが大きな利益を得るというものだ。オフィスサポート、製造、外食などの他の分野は打撃を受ける。

マイケル・ブルームバーグ氏(写真:Yana Paskova/Getty Images)

大統領選に出馬しそうなマイケル・ブルームバーグ氏が出資しているイニシアチブ「シフト委員会」もまた、2017年に「仕事の未来」に関する報告書を作成して話題になった。ブルームバーグ氏のシフト委員会と中道派のシンクタンク、ニュー・米国とが共同で発表したこの報告書では、未来の仕事を高齢者に多く与えること、「置き去り」にされた地域での仕事に対する懸念、米国経済の活力が低下しかねないという全体的な憂慮が語られている。

報告書では、10年から20年の間に米国の仕事が変化した際の4つのシナリオを示している。仕事は増えるのか減るのか。それは従来感覚の「職業」なのか、またはプロジェクト、ギグ、フリーランス、委託などの「作業」なのか? それぞれのシナリオには、じゃんけん、お山の大将、なわとび、碁と、遊びになぞらえた名称が付けられている。これにはツイッターで流行ったネタを思い出す。

誰も見てない:
まったく誰もいない:
文字通り無人:

シフト委員会:さあ、次の世代はまっとうな仕事に就けるのか、または我々以外のほとんどの人は貧困に陥ってしまうのか、慎重に論議しよう。可愛い系ゲームにして!

ビジネスを成功させる「勝利」の戦略は、自分に都合がいいよう競争のルールを大きくねじ曲げるものだが、そこにはちょっとしたお楽しみ(ちょっとした善行)も加味される。だが、仕事の未来がもたらすものは、勝者と同じように、ゲームに負けた者にとっても「楽しいお遊び」となるのだろうか?

ブルームバーグ氏によるシフトの報告書は、「仕事の未来の議論を型にはめてしまいがちな誇張表現や悲観論を排除する」ことを目指している。とは言え報告書には、その文体や内容自体に問題がある。

報告書の筆者は、「年間15万ドル以上を稼ぐ人だけが、自分にとって重要と思える仕事をしていると自己評価でき、その他のすべての人たちは安定した収入を優先させている」という調査結果を強調している。この結論の根拠は? 調査では「仕事でもっとも大切なことは?」という設問にいくつかの選択肢が提示されていたが、もっとも収入の多い人だけが、「できる限り安定した確かな収入を得ること」ではなく「自分で重要と思うこと」を選んでいたからだ。

しかし、貧困に陥るのを恐れるあまり意義よりも安定を求めるのだとしても、金持ちだけが有意義な生活を送りたがる理由のグランドトゥールスを即座に発見したことにはならない。

仕事の未来に関するシフト委員会の報告書より。仕事に関してもっとも重要なことは?(年間世帯収入を基準とする)
安定した収入(緑)は15万ドル以上の人ではもっとも低く、中間層でもっとも高い。

また、シフト(ブルームバーグ氏)のシナリオでは、相当なディストピア的未来に私は衝撃を受けた。どのシナリオでも、スマホ画面への中毒性が高まり、すべての人が仕事を奪い合うようになるが、超金持ちの超高学歴のエリートは、ゲームがどっちに転んでも力を持ち続けることになるらしい。より規制が厳しくなり、不公正が緩和され、劇的に平等な未来になるとは、どのシナリオにも書かれていない。

シフトもマッキンゼーも、その他のどの報告書でも、そこで研究されているシナリオは、シナリオに過ぎない。ブルックリンや「バースタン」(ボストン)の鈍りが強いテレビ司会者たちが来年のスーパーボウルやNBAファイナルにどのチームが進むかを予想しているのと同じだと、私は感じた。

白状すると、私はニューヨーカーやボストンのパイナップル・ストリート・メディアの最新のポッドキャストをダウンロードして聴いたりはしていない。暇なときには、他の男たちがみなそうするように、誰かがニューイングランド鈍りでスポーツを語り合うのを端で聞いては、ベッティングラインを探ったり、どこが勝ってどこが負けるか、MVPは、GOATは誰かを予測している。

つまらない趣味だ。しかし私はそれに夢中になる。だが幸いなことに、私の大好きな数々のスポーツ・トーク番組の資金源ともなっているスポーツギャンブルには手を出していない。私はギャンブルはやらない。だけど、ゲームや選手や試合結果に賭けるのが楽しいであろうことは理解できる。私のような人間が、なぜこんなことに時間を費やすのかは、なにもラスベガスのブックメイカーにならなくてもわかる。どうなるのかを知りたいのだ。予言者になりたい。思い通りにしたい。詩的正義が欲しい。しかし、現実にはそのどれにもなれない。だから、宗教儀式のようなものに没頭して、思い通りにしていると自分に思い込ませたいのだ。日常の幻想、錬金術のような、疑似科学だ。

ベンチャー投資家も同じだろうか?あまたある技術系ジャーナリズムは?そして、テクノロジーの倫理と呼べる数々のものもそうだろうか?

私にはわからない。しかし、彼らのさまざまな仕事の未来のシナリオが正確に未来を予測しているか否かの問いに答えるときに、シフト委員会の主催者たちは典型的な「仕事の未来」対応をすることを私は知っている。彼らはジョン・ケネス・ガルブレイスのこの言葉を引用するのだ。「未来予測者には2種類ある。わかっていない人。そして、自分がわかっていないことをわかっていない人だ」

これらすべてが明白に示しているのは、私たちの多くが穏やかな仕事の未来に抱く希望は、私が気にし始めている「億万長者の人道主義」というものに次第に大きく関連してくるということだ。

億万長者の人道主義とは、私たちはあらゆる人の命を大切で平等なものとして評価しますと宣言したときに問題になってくるものだ。しかし、ほぼ全員が、生まれて死ぬまで、あらゆる不安定要素のストレスを受けながら生活しているならば、実際に気になることはない。だから、ほんの一握りの人たちが、飛び抜けて自由で贅沢な暮らしができるのだ。

億万長者の人道主義は、ギリダラダス氏がTechCrunchのインタビューで私に指摘したとおり、クソみたいな新しいものが無数に発明されるのに、生活の先行きは暗く、見識は低下し、健康も福祉も全体的に劣化する世界だ。億万長者の人道主義とは、そうしたことを私たちが日常の現実として体験しながらも、今が考え得る限り最高の時代であり、未来も確実にそうなると、「進歩」に大いなる期待を寄せることだ。だからこそ、これらの問題を深く考えるときに怒りを覚えるのは、正しいことなのだ。

そこで私はグプタさんを思い出す。MITで話したとき、彼女自身が仕事の未来であるということを、よく自覚していた。高校生として(二十代になったとしても変わらないだろうが)、AIと環境の倫理問題に関する政策立案に対して、驚くほどの認識と興味を示している。

しかし、EmTech Nextで何を得たいかと尋ねたとき、彼女はこう答えた。「大学で何を学ぶべきかを考えるための見識が得られたらと思っています。その次に、追求したいと思えるタイプの仕事、これから生まれる、需要があって本当に面白いものを知りたいと思います」

言い換えるなら、当然のことながらグプタさんも、自分が意のままにできるよう、未来を知りたいと思っている。しかし、需要があって面白い仕事、つまり「インパクト」のある仕事に就きたいという考えはどうだろう? もちろん、両方を望むのは自由だが、どちらかに重心が偏る選択を迫られたときはどうなるのか。彼女の反応には、根本的に矛盾するものがあった。ある種の不可知論。賭けの保証として「状況によります」と答えた。

そしてもし「状況による」という答が、仕事の未来を研究し議論した結果として集約されたものだとしたなら、それはシフト委員会の調査で最高の金持ちがもっとも価値が高いと評価した「重要」な仕事と同じに扱うべきではない。

どのような未来か、それは誰のためのものか?

デイビッド・オーター氏(写真:MIT Technology Review)

EmTech Nextカンファレンスが始まると、いつものように、はっきりしない感情が込み上げてきた。そこは、MITメディアラボ(未来を作る工場として有名だ)の2つの建物のうちの新しいほうの最上階。聖堂のような天井に続く研究室のガラスの壁の向こうから実験段階のロボットがこちらを覗くメディアラボの建物は現代的なデザインの素晴らしい装飾が施され、流行りの服を着た思春期前の女の子も父親と一緒にホールを歩き回り、ぼさぼさの髪型の従業員に「丁寧な仕事をされていますね。ここに来られて最高です……」と声を掛けているのが聞こえてくる。

カンファレンスの口火を切った講演者は、MITの経済学教授David Autor(デイビッド・オーター)氏。最新の論文「Work of the Past, Work of the Future」(過去の仕事、未来の仕事)のプレゼンテーションを行った。彼は、大学を出ていない、製造業に多い男性で、自動化の「ショック」と彼らが呼ぶものに耐えてきた恵まれない労働者の研究をしている。こうした労働者は、大都市では高収入を得ていたこともあり、当時は不公平の害毒を緩和できていたのだが、もう過去の話だとオーター氏は話す。そうした仕事はほとんどが自動化によって消滅したか、外国にアウトソーシングされてしまった。大都市は、金持ちの、若くて健康で高学歴な人たちが集まる天国と化した。

オーター氏の話は、低学歴者のための「就職の道筋の再構築」に集中していた。それは、繁栄を共有するという私たちの感覚にとって、非常に元気づけられるものとなる。

異論はないのだが、私の中のギリダラダス氏のレンズを通して見ると、オーター氏のような経済学者が思い描く仕事の未来には、持てる者と持たざる者との間に大きな恒久的な分断が含まれているのではないかと疑いたくなる。市場主導で築かれた不公正への応急処置以上の解決策を、私たちは望めないのだろうか?(おそらくオーター氏は小さな手術を提案しているようなのだが、その傷口は癌性で大きく開いている)。

外界から切り離された場所では、貧しい労働者ための「訓練」や「技能の向上」は魅力的に聞こえる。だがそうしたアイデアは、社会問題にしっかり向き合おうとEmTech Nextなどの会合に参加する多忙な人たちの思考の余裕をすべて吸い取ってしまう傾向にある。そのため私たちは、数時間だけ自分の寛大さに酔うことで、人々が貧困に陥るそもそもの原因である野蛮な搾取、人種差別、強欲への実行力のある対処を一度もすることなく、引き続き不当なまでの勝利を手に入れることになる。

オープニングパネルでは、オーター氏と共に登壇したMITスローン・ビジネススクールの人材管理学教授Paul Osterman(ポール・オスターマン)氏の番になったときに、私はとくに気が滅入った。オスターマン氏の著書「Who Will Care For Us」(誰が我々の面倒を見るのか)の内容と、ここでの彼の話は、無数の「直接的ケアを行う人」(看護師やヘルパーなど)、つまり今後、老齢化を迎える米国を支える人たちの待遇改善に関するものだった。そうした働き手に、よりよい訓練の選択肢を与えるべきだとオスターマン氏は言う。

当然だ! しかし、仕事の未来のためのビッグなアイデアがこれか? 自分たちが歳をとって自分の体も洗えなくなったときのために、ここに集まっているような金持ちの人たちの後始末の機会を向上させようというのか。これを書いているとき、私は父のことを思い出した。貧しい家に育った父は最後まで大学に通えなかった。一生懸命がんばったが、上の階層に「進級」することはできなかった。「シャンペンの舌を持ちながら水しか買えなかった」と父の死後、何年も経ってから叔母が話してくれた。

死ぬまでの数週間、私は高校3年生だったが、癌に侵され痩せこけた父は、トイレに行くときに私の介助を必要とすることがあった。あのときのストレスと悲しみは、私から一生離れない。職業として毎日介護をしている人たちには、ほんとうに頭が下がる。しかし、大勢の貧しい人たちにその働き口があるばかりか、大きなチャンスでもあるという話を聞いて、部屋を埋め尽くした企業のお偉方たちが相槌を打つのを見て、私は不愉快になった。深い思慮のもとに貧しい人たちの未来を見事にプランニングしたと、彼らは誇りに思うのだろう。

そして、同様の思想家の類も含め、オーター氏やオスターマン氏のような経済学者は、こう言っているように私には聞こえた。「金と政策を自在に操る独創性のある一握りの人間である「我々」は、不幸にも本日この部屋に同席できなかった貧しい「彼ら」の運命を決定するのだと。なんとしても、恵まれない人々の苦痛を取り除き、彼らに「恩返し」をしなければ。

だが私たちは、彼らを実際にこの部屋に呼んで、公平にいっしょに意思決定をするべきなのだろうか?

本当の構造変革をもたらす経済学

「仕事の未来」の精神は、かつて私が賛同していた経済的中道派の完璧な定番になる。それは、ビル・クリントンが大統領になってからの米国民主党指導者を特徴付けるものでもある。とは言えそれは、エリザベス・ウォーレン議員が唱えてきた「大きな構造改革」や、バーニー・サンダース議員が腰に手を当て、白髪頭で唾を飛ばしながら叫んだ「レボリューショーン!」を代弁するものではない。

そう、介護士や建築現場の職人の給料を上げて、どうしたら「恩返し」ができるかを話し合うのだ。決して、経済をひっくり返して賠償金を払わせたり、ギリダラダス氏が本の中で要求していたように、世界的な金持ちに手取りを減らせと言ってはいけない。

カンファレンスの直後、私はオーター氏に話を聞いた。私の中には、彼が金持ちに同情的で貧乏人には傲慢な悪者だったなら話が簡単でいいのにと願う自分がいた。新自由主義者のハッキングが大好きな技術オタクたちは、権力者や特権階級に楯突くことなく、部分的な解決策を提案しては安心している。しかし、彼をそのようなイメージに固定するのは難しい。それは、数十年前に奥さんと一緒にバークレーで買ったヤモリのイヤリングをずっと身につけているからだけではない。

たしかに、オーター氏は私に、自分は市場経済の資本主義信者なのだと話した。たしかに、彼は何度も労働組合に「短絡的」なやり方で会社を潰され、「めちゃくちゃムカついた」と話していた。しかし最近では、落ち着いて対話ができるようになり、組織化された労働者にも社会的に重要な役割が必要だと感じるようになった。そして労働者のリーダーたちも「世界が変わったことを受け入れるようになった」とオーター氏は言う。「卑劣なボスや政治家だけの責任じゃない……人が行う仕事に大きく影響を与える経済の力が底流にあるのです」

オーター氏はユダヤ教改革派であり、グライド・メモリアル教会の初期の職員だったとき、自身の3年分の勤務時間を、貧しい人たち、とくに黒人たちにコンピューター技能を教える活動に費やした。グライドは、サンフランシスコのテンダーロイン地区にある大きな合同メソジスト教会で、今では100人を超えるゴスペル合唱隊や、LGBTの肯定、毎年数千人のホームレスに医療を施すコミュニティー・クリニックを広い地下室に設置することなどで有名になっている。これは無視できない。

2017年12月17日、エド・リー元サンフランシスコ市長の葬儀で歌うグライド・アンサンブル(写真:Justin Sullivan/Getty Images)

「私は2度、オバマ大統領に会いました」とオーター氏は誇らしげに切り出した。そこで、ウォーレン上院議員のことを聞こうかと考えた。まさに我々の近所に住んでいる有名な大統領候補だ。彼女は、経済的正義を中心に自身の主張を組み立てている。オーター氏は彼女にも会っている。彼女の反トラスト法や消費者保護のアプローチを支持すると彼は話していた。しかし、学生ローンを国が完済するという考えは「アホだ」と言う。金持ちに余計に金が流れてしまうからだ。

しかし、インクルーシブな経済政策を考えようというときに、それが大問題になるのだろうか。学生ローンを提供している金持ちが?

もちろん、オーター氏とオスターマン氏への私の疑問は、経済学という分野全体に関するものだ。何世代にもわたって経済学者たちは、その独創的で天才的な頭脳が私たちの金融システムを進化させ繁栄させ、集団的な危機の回避を信じなさいと私たちに訴えてきた。ならば、それと同じシステムを使って、経済をもっと公正で平等なものにできないのか?

それは、経済学者には(そして誰の力も)力が及ばない問題だと彼らは言う。

「経済学は、実際には倫理神学の一派なのです」と、偉大なる技術評論家Neil Postman(ニール・ポストマン)氏は1992年の著書「Technopoly」(訳書「技術vs人間―ハイテク社会の危険」新潮社)の宣伝の際に語っている。この本の内容は、テクノロジーが宗教になり(すでになってる!)、米国はそれを国の精神性として公式に認める最初の国になるというものだ。「大学でよりも神学校で教えるべきだ」と彼は言う。

最低所得保証はどうだ?

2019年12月1日アイオワ州デモインの民主党大統領選挙候補者の支持者たち。起業家アンドリュー・ヤン氏は自由と正義の祭典の前に、ウェルズ・ファーゴ・アリーナの脇を行進した(写真:Scott Olson/Getty Images)

Martin Ford(マーティン・フォード)氏の著書「The Rise of the Robots」(訳書「ロボットの脅威」日本経済新聞出版社)は、仕事の未来をあまり楽観的には見ていない。新しい産業は「なったとしても、高度に労働集約的になることはまずない」と嘆き、最終的には最低所得保証が必要になると訴えている。最低所得保証は、ハイテク界の多くのリーダーや仕事の未来のアナリストたちが好む解決策だ。技術系起業家で、民主党大統領候補だが勝ち目が低いアンドリュー・ヤン氏もその一人。

ヤン氏の人気は、テクノロジー・コミュニティーでの高い共感性によるものだ。イーロン・マスク氏のような象徴的な人物からの支持も寄与している。彼の最低所得保証の処方箋である「フリーダム・ディビデンド」(自由の配当)に関しては、ヤン氏はフリーダムが、左派と右派の両方に配慮して昔から使われてきた大統領用語であること、そしてディビデンドが企業から株主に支払われる配当を意味することを認めている。一部の政治家が、私たちが知っている資本主義を終わらせようと提案したとき、ヤン氏は、米国を「ビッグテック」のイメージに作り替えようと訴えた。

当然のことながら、貧困にあえぐ無数の米国人が毎月1000ドルもらえると思えば、魅力的だ。しかし、これはすべて派手な宣伝に過ぎない。最低所得保証では、米国社会の構造的不公平という癌の転移はまったく防げない。フリーダム・ディビデンドが実施されても、貧しい人たちは依然として貧しく、金持ちの躍進は止めようもなく、彼らはさらなる富を積み重ね続ける。本来的に、そうなる仕組みなのだ。

金持ち以外のすべての人が関係するホームレス化、高級志向による地価の高騰、賃金の停滞など、技術系起業家たちがシリコンバレーあたりですでに目にしている、腰を抜かすほどの不平等を考えてみて欲しい。いちばん金を持っている人間に金が集まる仕組みは、プログラムのバグではない。経済的搾取は、70年代、80年代からのシリコンバレーの中核的機能なのだ。それが今日も続いている。

フリーダム・ディビデンドは、実際には、米国人の大半がひと月に1000ドルほどの金でなんとか存在を保つ一方で、エリートは周辺の世界への支配力をさらに強化させるものだ。これが仕事の未来の構造変革を特定し実現することはない。

いまいましいフィードバックループ:ミッションドリブンな仕事の問題点

カレン・ハオ氏(写真:MIT Technology Review)

オーター氏とオスターマン氏のパネルディスカッションの後で、私はKaren Hao(カレン・ハオ)氏のインタビューに向かった。MITテクノロジー・レビュー誌のAIレポーターだ。MITの学部を卒業してから10年も経たないうちに、ハオ氏はおもにAI技術が暗示する倫理と社会に与える影響に関する記事を著している。どちらも、思慮に富んだ快活なニュースレター「アルゴリズム」に掲載されている。彼女は、記事の情報や着想を、寮やクラスの友人から得ている。

彼女は、夢の職場であったミッションドリブン型のハイテク企業に短期間働いていた経験から、倫理的な話に魅せられていった。彼女が話してくれたところによると、創設者でCEOだった人物は、ハオ氏が着任して1カ月経たないうちに取締役会によって追放されてしまったという。「過度にミッションドリブンで、利益をひとつも上げられなかったからです」

「それは私にとって、ものすごい大変革でした」とハオ氏。「民間セクターの仕事は自分には向いていないと気がつきました。私はとてもミッションドリブンな人間だからです。経済的な理由によって自分の意欲が抑え込まれたり、ミッションの方向転換を迫られるような職場は、好ましくないと思いました」

ハオ氏の言葉から、私は、テクノロジーの軌道の上で生活し働くすべての人間が陥っている大きなシステムのことを思った。良いことをしたい、でも良い生活もしたい。自分は社会経済的に一歩身を引いて、他の人に道を譲ろうなどと考える者はまずいない。年間40万ドルも儲けながら、シリコンバレーの住宅ローンを返済できずにいるハイテク企業の重役がいるのはそのためだ。革命は彼らから始めるべきか? そうでないとするなら、特権階級の圧政的システムに参加してしまった責任を、誰に取らせたらいいのだろうか?

その答はどうあれ、誠実で、頭が良くて、善良なハオ氏に私は衝撃を受け、さらに、倫理性に譲歩が求められる営利セクターから離れて、現在のジャーナリストになり、ミッションドリブンな仕事について調べている姿勢に感心した。しかし私も、今は教誨師として彼女に対面しているわけでなく、同業のジャーナリストなのだ。もっと鋭く切り込むべきなのだろうか?

MITテクノロジー・レビューは、結果として、技術的な取材ネタのプレゼンでいくらかの利益を得たのかも知れない。そこには広告費とカンファレンスの登録料が絡んでくる。それがために報道内容に忖度を加えるであろうことは容易に想像がつく。EmTech Nextなどのカンファレンスの参加者は、倫理について考えるという知的な挑戦を期待しているだろう。しかし彼らは本当に、自分の金儲けの才能ばかりか、その倫理的性格にまでケチを付けられる話を2日間ぶっ続けで聞きたいと思っているのか?

たしかに、事実上すべてのマスメディア報道での事実上すべての問題に関する記事を鵜呑みにするのは、リスクが高い。とくにこの数年、ドナルド・トランプが報道機関に対して卑劣で反米国的な扱いをするようになってからは、ハオ氏のように真面目に頑張っているジャーナリストの記事は、疑わしい点があっても善意に解釈するようにしている。とは言うものの、技術系記事が忖度をしなくなれば、ハイテク企業での費用のかさむ判断ミスもずいぶん減らせるのではないか。

ちょっと足元に目をやるだけでいい。実際、倫理的観点からテクノロジーについて書き、研究するという、もっとも期待が持てる作業ですら、どうひいき目に見ても深刻な欠陥があることは、ハオ氏と私が座っているところから数歩も離れずして知ることができる。

MITメディアラボの外観(写真:Craig F. Walker/The Boston Globe via Getty Images)

カンファレンスの会場となった、まばゆいばかりのメディアラボの建物は、かつては伊藤譲一氏の管理下にあった。伊藤氏は、技術倫理学者として伝説的な存在だ。2016年、バラク・オバマ氏が大統領だった当時にワイヤード誌のゲストエディターとして編集に携わったことがあるが、そのときオバマ氏に直接呼ばれ、人工知能の将来について説明をしたほどの人だ。私とハオ氏がそこに座っていた2カ月ほど後のこと、伊藤氏と、他ならぬジェフリー・エプスタイン氏とが長年にわたる交友関係にあることが報道された(幸い、体の関係ではなかった)。エプスタイン氏と言えば、悪名高い児童買春男で、科学、テクノロジー、出版の一部の世界ではエリートとして知らない者はいない。

伊藤穰一氏(写真:Phillip Faraone/Getty Images for WIRED25)

伊藤氏は、少なくとも50万ドル(約5500万円)の寄付をエプスタイン氏から、メディアラボのスター教授陣の反対を押し切って受け取っていただけでなく(それで辞任に追い込まれるのだが)、彼はエプスタイン氏の自宅を何度も訪れていた。エプスタイン氏は、伊藤氏が個人的に支援していたファンドや企業にも100万ドルを超える投資をしていた。「許してやれ」と伊藤氏の友人や支援者は言うかも知れない。個人として、人間としてなら、その気持ちもわかる。私は伊藤氏に会ったことはないが、聞いたところによれば、いろいろな意味で偉大な男だったことが想像できる。しかし、彼はそのリーダーとしての立場で、有罪判決の下った、子どもの買春あっせんを常習的に行っていたことで知られる犯罪者と親密な関係を築いていた。MITのある学生が書いているが、彼は「女性の体と命を犠牲にして、その影響力で自らの特権階級にしがみつく大きな権力を持つ個人のグローバル・ネットワークの一員」だったと書いていた。

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伊藤氏の名誉のために言うが、彼はその資金調達の決断が暴露されて、かなり打ちひしがれたようだ(無理もない)。だが、そのテクノロジー資金の出所が、技術系メディアによって綿密に調べられていたなら、ここまで深刻な事態にはならなかったのではないだろうか。

おそらく、このジェフリー・エプスタイン氏とメディアラボの壮大なドラマも、学術論争の一ジャンルとなっている仕事の未来が、いけ好かない金持ちとしてではなく、寛大で思慮深い倫理的模範としての顔を持つ一握りの勝者が、残る我らすべての敗者の犠牲の上に永遠に勝ち続ける残忍な悪循環のことを示すという私が訴えたい大きな論点から見れば、小さいことだ。

ビル&メリンダ・ゲイツ財団のことを考えてみよう。その綱領(少なくとも一度書き直されたが)には、この財団は「すべての命には同等の価値があると言う信念に導かれ」ていて、「すべての人が健康で生産的な人生を送れるよう支援する」と記されている。言葉の上では立派だが、では実際にどう実行するのだろうか。すべての生命に「同等の価値」を持たせていると、誰が何を見て判断するのか。

この疑問は、おそらく哲学的に気取ったものに聞こえるかも知れないが、おそらくそのとおりだ。これには、具体的に言葉どおりの答がある。自分の父親や妻などの他者の大きな貢献があるにも関わらず、最終的には、ビル・ゲイツ氏がその12桁の自己資本に基づく財団の方向性を決める、というものだ。

ゲイツ氏がどのようにして、すべての人に同等の価値をもたらすのかを考えるとき、文字通り慈善事業コンサルタント軍団とも呼ぶべき人たちの助言があったはずなのに、2011年に、あの凶悪事件で有罪判決を受けたずっと後のジェフリー・エプスタイン氏と和やかな雰囲気で、正直、かなり気持ち悪いが、面会する決断を本人が下したことを思い起こさずにはいられない。エプスタイン氏の犠牲になった少女たちの命の価値を、その同等性を、エプスタイン氏との会合に耽っていたゲイツ氏は、どう評価していたのか。ジャーナリストのXeni Jardin(ジーニ・ジャーディン)氏が指摘したように、彼女らは傷つきやすい「子ども」であり、ゲイツ氏もそれを知っていたはずだ。それとも、彼に情報を与えていたであろう専門家集団の言葉を敢えて聞き流していたのか。

ビル・ゲイツ氏は、この点においては、その奇妙な行動に対する批判からほぼ逃れることができた。彼の財団が実践している「社会的利益」のお陰だ。そのため私たちは、彼のような個人が、大規模な慈善活動に必要となる資金を溜め込むことを許している。彼らにもっと税金を掛けて、貧しい人や搾取された人たちにその収益を再分配することも可能だ。そうすれば、そもそも彼らの慈善事業の必要性をずっと小さくできる。しかし、そうはならない。なぜか? ゲイツ氏のような人たちは超天才だという信念が大きく影響している。だが、エプスタイン氏と関わりを持ったことが、ゲイツ氏天才説を覆しているようにも思える。

MITの場合はもっと範囲が大きい。この大学の理念は「知識を高め、21世紀の国家と世界に最大限に貢献する科学、技術、その他の学術分野の教育を学生に施す」となっている。だがもちろん、そこには武器や大量破壊兵器の開発を推し進め、軍産複合体に貢献してきた長い歴史ある。このほどMITが新設を発表したスティーブン・A・シュワルツマン・カレッジ・オブ・コンピューティングでは、MITの学部としては初めて、テクノロジーの倫理が必須科目になる。この学校の名称は、寄付者の名前に因んでいるが、その人はドナルド・トランプと個人的に近い関係にあり、言うまでもなく、サウジアラビアのモハンマド・ビン・サルマン皇太子とも近い。そして、低所得者に安価な住まいを提供するアフォーダブル住宅政策に反対している人物だ。

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いわばこれらすべては、腹の立つフィードバックループだ。

私たちはそれでも、ゲイツ氏のような「特別」な人や、MITやハーバードのような学校がよりよい未来を築いてくれると信じている。来たるべき災厄から私たちを救ってくれるのは彼ら以外にないという神話によって、その信念を正当化している。そして、彼らが、自分のためのよりよい今を優先させる決定を下すごとに大きなショックを受ける。そして水に流し、また繰り返す。

もちろん、MITも結局は自分がやりたいこと、自分のフィードバックループを優先する人たちの集まりに過ぎない。だが、大きな善行の支援も行っている。ともかく私たちには、テクノロジー関連記事、テクノロジーの倫理、テクノロジーの倫理のためのカンファレンス、さらにはテクノロジーの倫理を追うジャーナリストや、私のような無神論者の教誨師ですら、何も考えずに信じられるだけの余裕などないということだ。倫理に背くようそそのかす可能性のあるものひとつを取っただけでも、大変な金が絡んでくる。

よりよい未来を合言葉に、そんな産業に身を置こうと決めた人はみな、懐疑心を持ち、毎日、自分の行動を振り返って検証しながら生きてゆくべきだったのだ。

予算を見せてくれれば、あなたの価値がわかる

チャールズ・イズベル氏(写真:MIT Technology Review)

「組織について古いジョークがあります」と、ジョージア工科大学カレッジ・オブ・コンピューティングの学長であり、「仕事の変化する性質に対応する」と題したEmTech Nextの次なるパネルディスカッションに登壇したスター、Charles Isbell(チャールズ・イズベル)氏は言った。「あなたの価値を言わなくて結構。予算を見せてくれれば、あなたの価値がわかりますから。なぜなら、人は自分が大切に思っているものにお金をかけるものですからね」

イズベル氏は、ジョージア工科大学コンピューターサイエンス学部のオンライン修士課程に福音をもたらしている。この学部には、コンピューターサイエンスでは異例の約9000人もの学生が在籍しており、この分野の平均を超える割合で有色人種が多い。それは、この大学の理性的な決断によるものだ。コンピューターサイエンスのオンライン修士課程を、全日制の課程とまったく同じ扱いにし、能力のある志願者を「排他的」に拒否するようなことは一切せずに、学位取得の可能性のある者全員を受け入れている。この取り組みにより、数年以内に、米国でコンピューターサイエンスの大学院学位を取得した人の最大で8分の1がジョージア工科大学の卒業生という時が来ると、イズベル氏は予測している。

長身でお洒落で、公共放送のホストのような話し方をするイズベル氏は、パネルディスカッションの後も、廊下で質問者の長蛇の列に応対していた(もちろんそこには、グプタさんも私も並んでいた)。送られてくるすべての電子メールに目を通すことは約束できないため、件名にとくにいい質問を書き込んだ人に対しては、彼は大好きな80年代のヒップホップのレコードから言葉を引用している。

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出番が終わり、質問者の長い列が片付いた後で、私は彼との一対一のインタビューで簡単な追加質問を行った。他所ではますます排他的になる傾向があるが、技術系の高等教育機関で、彼と彼の同僚たちがインクルーシブなモデルを実現できたのはなぜか、と私は尋ねた。彼の答は、仕事の未来を考える聡明な人たちが最優先に掲げて欲しいと私が願っていたことを要約していた。「どれだけ(学生の)能力を伸ばしたかで
、その人の威信が高まる世界に移行しなければなりません。つまり、成功できるとあなたが感じた人間すべてを受け入れるということです。それが、平等と公平の違いです」

「平等とは」とイズベル氏は続けた。「すべての人に、(実際にそうなるかどうかわからなくても)よいことが等しく行き渡るように扱うことです。公平とは、ここからそこへ移動できる人を、実際に成功できる場所に連れて行くことです。……公平性がなければ、成功に必要な人材を大勢生み出し、純粋に利己的であったとしても、経済を変革し、労働力(の視点)を強化すことはできません」

たぶん、私たちが本当に必要としているのは、公平の未来に関するカンファレンスだろう。この数十年間にテクノロジーの創造と発展のためにつぎ込まれた、ずば抜けた才能、創造性、自制心、技能を、世界中のすべての人が、必要最低限の、自由で尊厳のある上質な人生を送れるように振り向けられていたならどうだったろう? 私たちはiPhone 1に、はたまたT型フォードに夢中になっていただろうか。

そうだったかも知れない。しかし、70億の人たちが生きて行く上で必要な物事に日々悩まずに済むよう、十分に食事ができて、教育を受けられて、医療も受けられるようになれば、みんなで力を合わせてイノベーションを起こす余裕と意欲が生まれるだろう。

だが、ここで倫理を考えなければならない。そこで、具体的な的を絞った補足質問を次のインタビュー相手であるMITテクノロジー・レビューの編集長Gideon Lichfield(ギデオン・リッチフィールド)氏の登場だ。リッチフィールド氏は、自身の刊行物の役割を、イズベル氏が説明していたような公平性を世に送り出すことと考えているか。またはその雑誌の内容は、ハイテク界のリーダーの大半が、最低所得保証のような「ビッグなアイデア」を言い触らすときに思い描いている、何の効力もない現状維持の「機会」の「平等化」を推進するのが目的なのか?

ギデオン・フィッチフィールド氏(写真:MIT Technology Review)

カンファレンス会場で個人的な謁見するために彼を脇に連れ出すや、私は、それほど攻撃的にはならずに自分の考えを話し始めた。おそらくそれが、彼の非の打ちどころのない折衷的な持ち衣装だったのだろう。ヨーロッパのデザイナーブランドのジャケットに、襟にはネオンカラーの宇宙怪獣のようなピンバッジを付けていた。それを見て私は、金持ちか、ケンカが強いか、またはその両方の子どもたちの間の流行に追いつこうと努力したが追いつけなかった、ニューヨークでの子ども時代を思い出した。

私は威圧的にならないように気をつけた。しかし、彼と私の両方が取材対象としているビジネスの世界に関して弱気であるかのように見られたくもなかった。リッチフィールド氏は、正義と不平等に関する質問には、まったくもって頭脳明晰だった。彼の話を聞いていた人たちの多くは、自らの投資の価値や「高度な判断」について考えなければならないメディアや大企業の人間だと彼が説明したとき、もし彼が、いわゆるソーシャル・ジャスティス・ウォーリアーばかりが登壇するカンファレンスを企画したら、どんなことになるかが想像できた。

それでも、より公正で公平な仕事の未来を築くという役割において、彼がどこまで責任を負う覚悟があるのか、私は知りたかった。そこで私は、教誨師として受けてきた訓練を活かして、まったく自由回答形式の質問をぶつけた。これは、相談者がどう考えるかを知りたいときに行う「社会心理的面接」という手法だ。仕事の未来に関するこれまでの会話からさらに進めて、私はこう尋ねた。「20年か30年経ったとき、現状と比べて人類の未来が良くなったと、どうしたらわかるでしょうか?」

「それは手厳しい」とリッチフィールド氏。「本当に論争になりそうな質問だよ」

「まさに」と私は真剣さのあまり即答した。「あなたに対してもっとも論争になりそうな質問をしているのです」

そして最終的にリッチフィールド氏は、もし社会の「意志決定プロセス」にもっと多くの貧しい人たちが参加できたら、それがよりよい未来になると答えた。なぜなら「不均衡を招く」かも知れないが、「選択はできるようになる」からだと言う。しかしそれでは、ジョージア工科大学のイズベル氏やその同僚たちが示すビジョン、つまり、現在のシステムでは手が届かない、もっとずっと多くの人たちの手に知識を届けるというプロジェクトの考え方には及ばないのではないか?

TechCrunchのインタビューとしては最後となる「私たち共通の未来を、あなたはどれほど楽観視していますか?」というとっておきの質問を向けると、リッチフィールド氏は、その日行った40以上のインタビューの中で、もっとも陰鬱な答を返してきた。「私は特別に楽観的なわけではありません……うんと長期的には、こんなことはひとつも問題にならなくなります。人類は絶滅してしまうからです。短期的には(にも)、私は大変に悲観的です」

今世紀の終わりまでには、私たちの展望の中に安心できる事柄が生まれるかも知れないという、ちょっとした慰めを述べた後、インタビューを締めくくり、いつかまた語り合いましょうと約束した。だが、私の中には相反する感情が残された。

しかし、影響力のある(ときどきは私のような)人間は、批判を避けるために、どれだけ「好感度」を利用するのだろうか。動機への疑問を抱かせないように、収益については触れさせないように、人柄を信じろと迫ってくる。リッチフィールド氏が当てはまるか否かは別として、これが、明日にはもっと強力に世界を支配力しようとその道筋を整備するかたわら、今日、私たちに(そして自分自身に)その長所や善良さを売り込もうと、こうしたカンファレンスのスポンサーになったり参加してくる多くの金持ちの企業幹部やエリートのリーダーへの正当な批判になるだう。

ゴーストの困った点は人に取り憑くこと

メアリー・グレイ氏(写真:MIT Technology Review)

私が参加した次なる大きなパネルディスカッションは、物事をダークにする話だ。ただし、良い方向に。

「オンデマンド仕事の暗黒面」と題されたこのセッションは、AIリポーターのハオ氏が司会を務め、文化人類学者で技術研究者のMary Gray(メアリー・グレイ)氏と、スタートアップ企業リードジーニアスの創設者で、グレイ氏の著書「Ghost Work: How to Stop Silicon Valley from Building a New Global Underclass」(ゴーストワーク:シリコンバレーに新しい世界的な下層階級を作らせない方法:コンピューターサイエンス者のシダース・スリ共著)にも登場するPrayag Narula(プレイヤグ・ナルラ)氏が登壇した。

「ギデオンは今朝、最高の仕事と、それをもっと手に入れる方法について話しましたが」とハオ氏は皮肉り、「ここでは最悪の仕事について話し合います」と紹介した。

このセッションのテーマは」オンデマンドのプラットフォーム知的労働」。
それは請負労働、つまり、いわゆる「ギグワーク」のことで、そうした仕事に就く数え切れないほどの人たちの仕事は人目につかない労働(ゴーストワーク)であるため、AIが実際よりも余計に素晴らしく見えてしまうというのが全体的な論点だ(言うまでもなく彼らは影の存在であり、生活賃金の交渉でも弱い立場にある)。

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米国の請負労働者の正確な数はわからないが、近年の経済の発展の多くは彼らに支えられており、2020年には250億ドル(約2兆7000億円)産業になると言われている。

ギグワークが未来だとするなら、働く人たちはどのようにキャリアを積めばいいのだろうか? 「ウーバーの運転手は、ウーバー・シニア運転手、ウーバー・マネージャーと昇格するわけではありません」とナルラ氏は声を高ぶらせた。彼が講演に招かれたのは、忙しい重役に代わって見込み客のトラッキング作業にゴーストワーカーを使っていると彼が認めるそ自身の会社で、なんとか生活賃金を支払っているからだ。別次元にある社会主義のユートピアだったら、クリス・ロックに似たコメディアンが、別次元のジョークを放っていただろう。「会社創設者たちはこう話す。生活賃金を払ったご褒美にお菓子をもらわないと。それが彼らにできる精一杯のいちばん楽な対応だから」

しかしこちらの次元では、ゴーストワーカーの生活賃金は、いまだにMITメディアラボのステージで議論されるほどの大問題だ。だからこそ、自分よりも「共産主義者っぽい」とナルラ氏を言わしめるグレイ氏は、
正規社員と非正規従業員との区別をなくす考え方を支持し、最近カリフォルニア州議会で可決された契約労働者を守るためのAB5法案に従って、進歩的なギグエコノミー革命の潜在力を刺激しようとしている。グレイが目指しているのは持続可能な生活が送れるよう人々を援助する全国的な「レイバー・コモンズ」(労働共有地)の構築だ。彼女は自著「Ghost Work」を、なぜそれが必要で、何をすべきかを説いた「ビジネスケース」だと言っている。

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私たちはこぞってAIをイノベーションの未来だと褒め称えるが、ゴーストワークや脱税など数々の問題をひとくくりにして自分自身を騙し、
私たちの現在と未来の社会は実際よりもずっと進歩していると信じ込もうとしているのだとしたら、どうだろう?

価値が足りません

ケンドールスクエア(写真:Tim Pierce/Wikipedia)カンファレンスから家に帰るために、MITのケンドールスクエア駅で地下鉄レッドライン線に乗ろうとして地下鉄用の「チャーリー・カード」を改札機に挿入したら、けたたましくブザーが鳴り響いた。「バリュー(残高)が足りません」という。テクノロジーが人の価値を決めていることにあまりにも慣れっこになっていた私は、正直、一瞬、そのエラーメッセージを、自分の人間としてのバリュー(価値)が足りていないことの表明と受け取ってしまった。

親父ギャグのように聞こえるだろう。私は上質な親父ギャグは好きだが、これはいただけない。私は長年、教誨師の仕事の一環として、セラピーや臨床スーパービジョンの現場で働いてきた。頭が良くて大きな成功を収めた大勢の人たちと同じく、私も子どものころから、人間としての自分の価値は、自分が何者かではなく、自分が何をしたかによって決まるという考え方を身につけている。

偉大な心理療法士の Alice Miller(アリス・ミラー)氏は、その著書「The Drama of the Gifted Child」(訳書「才能ある子のドラマ」人文書院)の中でこう説明している。両親は私たちを愛し、いろいろな形で大変にいたわってくれたかであろうが、優秀でなければ愛されないという暗黙のメッセージを私たちに与えた。「お前は本当に頭がいい」と、親は幼い子どもに繰り返し言う。やがて子どもはほぼ就学までの間に、「お父さんがどうやって勝ったのか知りたい」と言い出すようになる。

私たちのコメントは善意によるものだが、そこに込められた意味は明らかだ。自分は自分の行動の結果だ。特別に優れているからこそ、価値がある。つまり、そうでない人間には神頼みしかない。子どもは、優しさ、好奇心、愛情関係の価値を本能的に感じ取るもののようだが、自分の優秀さを確かめたい欲求に流されがちだ。

その「才能ある子」の心理が、勤勉さを生む。これは確かなことだ。これを、プロテスタントの労働倫理の公式な精神病理学と言う。だが、よく検証されないまま、それは私たちに、誰よりも働き、誰よりも稼ぎ、誰よりも立派になることで、絶えず自分の価値を示せと強要する。私たちは、普通の人たちと単純につながったり、自分に弱さを感じ取ろうとして立ち止まることなど、滅多にしない。

しかし、常に持ち続けることを要求されるこの価値観にはまっている間は、他人に対して温かい気持ちを持つことが難しくなる。なぜなら、「勝者」は裸のソシオパスであってはならないからだ。彼らは、今もこの先も永遠に、資本主義ゲームを単純に支配するだけでは満足しない。それを行っている間も、己の好感度の高さを人に示さなければならないのだ。ただうまくやるだけでなく、「善い行いをする」ことでその特別な地位に就く十分な資格があることを示さなければならない。

そのようにして、ウィーワークのような企業が生まれた。シェアオフィスの会社で、非倫理的なテクノロジーの未来の象徴的な存在だ。先日、新規株式公開の申請を行ったウィーワークは、従業員は「仕事の再発明」を熱望していると話していた。ウィーワークのオフィスを借りている人は、クライアントでも顧客でもなく「メンバー」で、隣で仕事をしている人は同僚でななく「コミュニティー」の一員とされていた。そう、アダム・ニューマン氏は、プラチナパラシュートとも言える10億から20億ドルという途方もない退職金を引き出して立ち去る1カ月ほど前に話していた。その影響で、会社の財政状況は数千人の一時解雇者に退職手当も出せないまでに悪化してしまった。

関連記事:ソフトバンクがWeWorkの経営権を握る、評価額は8100億円程度と6分の1以下ニューマン氏のお花畑のような共同社会的発言と、胸が悪くなるような利己主義とのコントラストは、おそらく極端なケースだろうが、じつに典型的でもある。「仕事の未来」という知的な議論で知られるエリートたちの社交サークルでは、重要に聞こえる上に、英雄的な響きのある華やかな言葉を使うのが常識になっている。「イノベーション」という言葉ですら、人々の生活を破壊し、コミュニティーを傷つけている。

「調子はどう?」「あまりよくないね」汝の隣人を己自身のごとく愛せ

2日目、私はカンファレンスに遅刻しそうになった。幼い息子アクセルと、居間の長椅子の上で、のんびりと大好きなゲーム「ジャンプ・ザ・シャーク」で遊んでいたのだ。アクセルが生まれたとき、私は法律の仕事で忙しい妻にもっと精を出すよう促し、自分は目標達成をがむしゃらに追いかけるワーカホリックな人生から身を引いた。収入の安定を図る
ためだけではない。アクセルと毎日顔を合わせていたかったのだ。オムツをすべて自分で交換し、保育園に連れて行ったときは息子の友だちを笑わせ、毎日の長い散歩の間、しっかりとその手を握り、道すがら新しい発見について話し合っていたかったのだ。

プレイヤグ・ナルラ氏(写真:MIT Technology Review)

メディアラボに到着するや、ナルラ氏をみつけた。彼は前日のパネルディスカッションの前に、彼のスタートアップのような企業は、今、人間中心のプロジェクトでベンチャー投資家の興味を惹きつけるのに苦労する理由を説明すると約束してくれていたのだ。彼は、同じようなビジネスモデル(ゴーストワーク)を採用している友人の話を聞かせてくれた。ナルラ氏と違って、彼はベンチャー投資家へのピッチの際にヒューマン・ファクターには触れなかった。そうしたピッチで多くの成功を収めた友人は、こう打ち明けたという。「ボクはこうピッチした。「まあ、今は人を使ってやってますが、将来は自動化されます。データはすべて手元にあるので、私たちには自動化が可能なのです」とね」

ナルラ氏が「本当に自動化できると信じてるのか?」と尋ねると、友人はこう答えた。「そこは問題じゃない」

「我々の経済は、人を使うビジネスに制裁を加えます」とナルラ氏。「教育システムとソートリーダーは、テクノロジーの人間的側面を真剣に考えることなく、今のこのテクノロジーのカスケード効果を作り上げました」。彼の話を反芻して、私はしばらく立ち止まっていた。朝一番のパネルディスカッションに遅れてしまう。

MITテクノロジー・レビューの編集者David Rotman(デイビッド・ロトマン)氏が司会を務める自動化の倫理に関するディスカッションの会場に駆け込むと、ロトマン氏はこう質問したところだった。「景気はどうですか?」

「あまりよくない」と、カリフォルニア大学の高名なコンピューターサイエンス教授Pramod Khargonekar(プラモド・カーゴニカ)氏は答えた。

カーゴニカ氏と共に、ハーバード大学ベルファー・センターの「Technology and Public Purpose Project」(テクノロジーと公共目的プロジェクト)のフェロー、Susan Winterberg(スーザン・ウィンターバーグ)氏も登壇していた。ウィンターバーグ氏は、ミシガン州のフリント市のことを話していた。貧しい住民、とくに有色人種の市民からの搾取で知られる街で、市の水道事業が破綻したため水道水に有害物質が混ざっていた。そして、米国人の70パーセント以上がその日暮らしだと彼女は説明した。

フリント・ウォーター・プラントの給水塔(写真: Bill Pugliano/Getty Images)

その数字は、このカンファレンスで私がもっとも強い憤りを覚えたものだ。大多数の人が自分の仕事の将来に疑いを抱いている場所を、ほんの一握りの快適な生活を享受している人たちは文字通りほとんど別世界にいるような場所を、コミュニティー(共同体)などと呼べるのか。人種隔離政策が実施されているとは思わないが、2014年4月から……いつまでだ? ともかくそれが、そこで起きたことだ。実際、いまだに2500世帯で鉛の水道管が使用されている

だがウィンターバーグ氏は、明るい未来の話題に切り替えた。ノキアの幹部と、ノキアの地元であるフィンランドの元首相が、律儀にも、創造性を発揮して、間もなく解雇される従業員たちを救った話だ。

ウィンターバーグ氏の話は、ハーバード・ビジネススクールの教授Sandra Sucher(サンドラ・サッチャー)氏と共同で同校のケーススタディーとして数回に分けて発表されているが、2008年のドイツで始まった。その年ノキアは、記録的な収益があったにも関わらず、ドイツにあった携帯電話の組み立て工場を閉鎖した。「コスト競争力」がないというのが会社幹部の説明だった。同様の作業は、東ヨーロッパやアジアでも行われていた。

工場の従業員、政治家、ドイツの大衆は激怒し、ノキア製品の大規模な不買運動を起こした。労働組合は人々に呼びかけ、みんなが持っていたノキアの携帯電話をフィンランドの国際事業本部に送り返した。ウィンターバーグ氏とサッチャー氏の調べでは、この反ノキア・キャンペーン
による売り上げ低下の損失額は7億ユーロ(2008年当時で約1500億円)にのぼった。

数年後、スマートフォン革命によりノキアが世界で展開していた携帯電話製造事業は縮小されることが確実になったとき、ノキアの幹部は従業員を見捨てない方針を決めた。その代わりに、解雇される従業員を救うための大規模なキャンペーンを実施し、就職フェアまで開催し、彼らを大量雇用してくれるよう他企業に働きかけたのだ。2人の研究者の分析によれば、そのキャンペーンの投資収益率は1000対1だったという。

写真:Josep Lago/AFP via Getty Images

「それが彼らの価値なんです。それはその会社の最上層部の決断です」と、ウィンターバーグ氏は、パネルディスカッションの後で私に話してくれた。「取締役会の会長の意向で、このように言っています。「敬意をもって人々を処遇できる方法を探して欲しい。それは当社の価値観に合致するものであり、私たちが達成を目指す変革の実現を促す。報告を待っている」と」

彼女の話を聞いて、私は疑問を口にせずにはいられなかった。ノキアがそのような連帯をモデル化できたのは(しかも、わずか3年前にドイツで大失敗をしていたのに)、そもそも彼らの基盤が均質で豊かな社会で、経営側が労働者側とずっと簡単に同一化できる環境だったからではないのか。聖書の時代から言われてきた「汝の隣人を愛せ」が通用するのは、一般的に、人種差別や頑なな偏見が幅を利かせていない場所でのことだ。

しかしウィンターバーグ氏は、ノキアの寛大な対応はグローバルなものだったことを私に思い出させてくれた。ノキアの工場は、中国、米国、そしてもっとずっと遠い場所にもあり、そこでは「ブリッジプログラム」が基本的に例外なく適用されていた。そこで私は、話を変えて彼女の経歴を聞いてみた。シンシナティ出身の彼女は、シンシナティ大学に入学した。そして大都市デトロイトを社会見学したときに、大きな衝撃を受けた。その荒廃した状態を見て、ウィンターバーグ氏は「なぜこのようなことが起きるのか」を知りたくなったのだ。

都市計画を学ぶために修士課程に進んだ後、ハーバード大学の研究者として働くようになり、知らぬ間に汚染されていた沿岸地区や、ドナルド・トランプを支えてきた経済エリート主義などの米国中西部の失敗について理解を深めていった。「小さな街に住んでいて、飛び抜けたテクノロジーの技能もない人の場合」とウィンターバーグ氏は話す。「将来は悲観的です。このプレゼンは、ごく平均的な人たちが集団解雇によってどうなるかを理解してもらえるよう組み立てています。こうしたことが単に不運な出来事で、数週間だけ我慢すれば済むような生活には、その人たちはもう戻れないのです。破滅的な事件であり、人生が狂わされるのです」

言い換えれば、仕事の未来をゲームとして考えられる余裕のある人、または比較的上から目線の、こうした技術系カンファレンスの典型的な参加者のような人は、わずかだということだ。さらにウィンターバーグ氏は、トランプと右派のポピュリズムについて話を広げた。「彼は、政治的な視点からはそれを理解しています。彼はずっとそれを利用してきました。ヨーロッパの政治家たちも、右派のポピュリズムに軸足を置くようになっています。ブレグジットは、米国の大統領選挙の数カ月前に始まりましたが、それも同じことです」

私たち全員が関与している、そう思うようになった。米国の中間層をドナルド・トランプの手中に追い込もうと目論む会社経営者や役員はそう多くない。オバマ政権の中道派の経済顧問たちがそうでないことは、確実だ。

しかし私たちはみな、手段と特権を持つ人間たちが、あまりにも簡単に暗躍できるシステムの一員になっている。災厄を防ぐには、途方もなく大きな、積極的な、革新的な行動を自ら起こさなければならない。だが、私たちは否定論に固執している。

そんなわけで、ウィンターバーグ氏との対話は、私たちの集団としての無知と、2011年のノキアのような希望の持てる例があまりに少ないことを悲観したまま、切り上げることにした。

公正に

次に会ったWalter Erike(ウォルター・イーライク)氏の話を聞いて、私は元気を取り戻した。イーライク氏は中堅の独立系経営コンサルタントだ。現在、コーネル大学ジョンソン・スクール・オブ・ビジネスでMBAの取得を目指している。コンサルティング業に活かせる見識を高めようと、フィラデルフィアからEmTech Nextに参加するために旅してきた。

イーライク氏は、子ども時代のほとんどをハーレムで過ごした黒人男性だ。カンファレンスではマイノリティーであることで少々気後れしていたようだが、楽観的で前向きな元気に溢れていた。

「MITに金は払いたくない」とイーライク氏は、大勢の白人に囲まれて、テクノロジーやその他の分野の黒人にとって、このようなカンファレンスにどんな意味があるかという私の問いに答えて言った。「フェアじゃないから。でも、アーバンリーグ(黒人による社会運動組織)を支援してくれるなら、全国黒人MBA協会を支援してくれるなら、ザ・コンソーシアム(黒人のMBA取得を援助する団体)を支援してくれるなら、全国的なアジア系団体NAAPを支援してくれるなら、もっと人種的な多様性を高めてくれるなら、助けになると思います」

イーライク氏は人種格差の話には固執せず、話を地勢的な格差というアイデアに持って行った。米国中西部の製造業の雇用喪失を心配するウィンターバーグ氏の話と重なる。「この部屋にいる大勢の企業の人たちに話を聞いて、本社がどこかを推測すれば、西海岸ではシリコンバレーに、金融関係ではニューヨークに集中しているはずです」と彼は指摘する。「本当に知的で意欲に溢れている人が、米国中部や中西部の穀倉地帯にもいます。私が見聞きした限りでは、そこを代表してきた人はいません」

(これまでにTechCrunchのために倫理をテーマにインタビューした40人以上の人の話の中でも、ウォルターの話は私の大のお気に入りになった)

次に私が会ったのは、ディリジェント・ロボティクスのCEOで共同創設者のAndrea Thomaz(アンドレア・トマズ)氏だ。ディリジェントと言えば、Moxi(モクシー)というプロトタイプのロボットが有名だが、プレゼンテーションルームの外の廊下を歩き回っていた。アニメ「宇宙家族ジェットソン」に出て来るお手伝いロボットのロージーにちょっと似ているが、モクシーは過重労働に苦しむ病院職員のための、人間サイズのプレゼンスロボットだ。トマズの説明では、モクシーの典型的な一日の過ごし方は、医師や看護師を追いかけて、いつどのように薬やその他の医療品を入手して、彼らが患者と接する時間を長くできるように学習することだという。

ディリジェント・ロボティクスのモクシー(写真:MIT Technology Review)

トマズ氏の製品は、いわば、AIや機械学習の辛辣な批評家に、両手を挙げさせて「参った」と認めさせるようなものだ。モクシーで傷つく人はいるだろうか? 人間の本質的な問題の解決に、少なくとも部分的に貢献できるはずだ。そして、トマズ氏自身の経歴だ。比較的若い女性CEOでロボティクス企業の創設者。MITメディアラボで博士号を取得し、公立学校で教鞭を取った経験もある。彼女のような人の話を、もっと聞きたい。イーライク氏、ナルラ氏、グプタさんなどと並んで、彼女の誠実さ、頭脳、自分の技術に専念する姿勢、それを倫理的に追求する決意に私は感服した。

たぶん、人間の本来の良識に沿ってテクノロジーを発展させる道がある。まだ良識は消え失せてはいない。

鮮魚店「ゲットフックト」が答えなのか?

カンファレンスも終わりの時間となった。スタッフたちは、壁のEmTechのロゴを剥がしにかかる。だが、私はまだメディアラボを離れるわけにいかない。考えをまとめる場所が必要だ。はたして仕事の未来は、億万長者の人道主義と「勝者の全部取り」の、じつは狡猾で利己的な見せかけの「慈善事業」によって、どんどん膨らんでゆく不均衡をもたらすのか。それとも、このカンファレンスで私が出会った善良な人たちが、単に優れているだけでなく、倫理的で、人々に活力を与える規範となってくれるのか?

当惑しながら、私は帰途についた。MITから家に帰るには、ウーバーかリフトがもっとも効率的な足なのだが、私はライドシェアは倫理を危機にさらすというテーマで調査し執筆しているところだ。今の気分では乗れない。

電車も、速すぎるし、閉塞的すぎるし、あまりにも……技術的だ。なので、1時間かけて歩くことにした。まずはお洒落でモノリシックな美しさのあるMITのケンドールスクエア(いわゆる「1平方マイルあたりのイノベーションの密度がもっとも高い場所」)を通り、活気のない牽引車の工場地帯、うち捨てられたような鉄道車両基地、いろいろな民族の労働者が暮らす一角(ボストン地下鉄グリーンラインが延伸するのにともない、数十億ドルを投じて再開発される予定)を抜けた。

そしてようやくBow Market(ボウマーケット)に到着した。今の私の地元サマービルの経済的拠点だ。持続可能な近代化を精力的に推し進めている。

ボウマーケットは2018年の春にオープンした。倉庫だった施設の半円形の広場には、30件以上の地元の独立系レストラン、店舗、ギャラリー、それにコメディーパブまである。これらの事業所の経営者は女性が多く、マーケットの開発業者は、オーナーの30パーセントがマイノリティーで、20パーセントが非シスジェンダーであることも自慢している。ちょっと歩くだけで、ジェームズ・ボールドウィンとゾラ・ニール・ハーストのパイン製の手彫りのピン、ビンテージのヘビーメタルTシャツとオートバイ用品、グリルで焼いたピクルスのピザ、私が生まれてこの方最高に旨いと思った小さなチョコレートのワッフルコーンに入ったチョコレートムースなど、あらゆるものが目に入る。

私はボウマーケットの鮮魚店Get Hooked(ゲットフックト)に立ち寄った。そこは、がっしりとした身長180センチほどの、グレーの顎髭を蓄えバースタン(ボストン)訛りのあるニューイングランドの漁師、ジェイソン・タッカー氏の店だ。タッカーは素朴で庶民的な人間で、口の中でとろけるブルーベリーほどの大きさのサイコロ型に整え軽くマリネした魚に、青野菜と柑橘類コーシャー海塩とブラウンライスを添えた繊細な料理も得意にしている。

彼と、彼の商売のパートナー、ジミー・ライダー氏がこの店を立ち上げた。後に、ジェイソンがぶっきらぼうに「マネー・ローヤ」(金にがめつい弁護士)と呼ぶとマット・バウマン氏が加わった。バウマン氏は数年前に方向転換をして魚の燻製屋になった。5月から10月の間、ジェイソンはケープコッド湾でシマスズキ、サバ、ムツ、マグロを追いかける。そして夏のある水曜日の夜には、彼はここに戻ってきて一皿14ドルの料理を私のような客に振る舞う。私は、堆肥になる神の箱に入ったマグロのセビーチェを注文する。金属のテーブルには、青い水差しの飾りがひとつだけ置かれている。料理を食べていると、水差しはきらきらと光り出す。暗くなると点灯するソーラーランタンなのだ。

ジ・アトランティック誌の記者Derek Thompson(デレク・トンプソン)氏は、2015年の記事「A World Without Work」(仕事のない世界)で、今後数十年間に米国の仕事は激減するという盛んになりつつある研究を追っている。その記事には、たとえば、作家で、孫がいて、大学で文学を教えていたことのある54歳の女性が、かつて工業の街だったオハイオ州ヤングスタウンで、生活のためにアルバイトでカフェのホステスをしているといった話が紹介されている。

また別の可能性にも触れている。その中には、彼が「職人のリベンジ」と呼ぶシナリオもある。私たちの基本的なインフラのほとんどが3Dプリンターで作れるようになり、そこから生まれた余裕から新しい職人経済が発展するという、ハーバード大学の経済学者Lawrence Katz(ローレンス・カッツ)氏のビジョンだ。「自己表現を中心に構築され、人々は余暇に芸術活動が行える」という。

3Dプリンターは仕事の未来なのか?(写真:Manjunath Kiran/AFP via Getty Images)

「言い換えれば」仕事の未来は「テクノロジーが製造のためのツールを個人の手に戻し、大量生産の手段を民主化することで、消費ではなく創造の未来となる」とトンプソン氏は書いている。

ということは、ゲットフックトが、そしてその店があるボウマーケット全体が、答なのだろうか? 地元の働く人たちが、卓越した手作り品を、生活してゆくのに十分でありつつ、同じ働く階層の人たちがときどきご褒美に買えるだけの代金で販売している。同時に、多様な人種による、性的な偏見のない、社会的に公正なコミュニティーの構築を支えている。そこには街中の人たちが集まり、共に笑い、祝い、食べ、重要な問題を一緒に考える。

それともこれは、ソマービルに家を持てた強運と財産のある私のような人間に限られることなのだろうか(ソマービルで中程度の家族向け一戸建ての価格はおよそ8700万円から上昇中だ)。軽い食事に20ドル以上出せる人だけが、こうした「職人」と「コミュニティー」の「持続可能」な生活を送れるのだろうか。私はこれにより、問題の一端である責任を倍増させてしまっているのか。わからない。しかし、私がどっちに根ざしているかはわかっているつもりだ。なぜなら、そこの魚の燻製は最高だからだ。

仕事の未来は倫理的だろうか?

仕事の未来がどうなるべきか、はっきりとわからない自分を私は喜んで受け入れている。本当の人間の尊厳と繁栄とは何を意味するのか、そして、健全で、あまりディスピア的ではない未来はどんなところなのか、常に変化し続ける考えを私は練り続けている。それは後でゆっくり考えたい。このほど執筆を始めた本に書けたらいいと思っている。

今のところ、よりよい未来には、現在、権力を握っている特権階級の人たちに情緒的な気づきを得て、勇気を挫く必要がなる。しかし私たちも、これらの問題は自分たちが引き起こしたものではないかも知れないが、その責任はあると認識する必要がある。その認識は、苦痛と混乱を招く恐れがある。だが、ひとりでその現実に向き合わなければならないことはない。むしろ、そうしないほうが賢明だ。

状態化した私たちの不安や不適応の感覚に対処するために、テクノロジー産業は全体的に最高ソーシャルワーク責任者を置くべきだと私は書いてきたが、それはまんざら冗談ではない。男女同権論者の技術系哲学者Moira Wiegel(モイラ・ウィーガル)氏の話を聞く限りでは、取締役会にもっと多くの女性幹部が加わるようになれば改善されるのかも知れない。

ウィーガル氏は、インターネットは私たちの文化を全体的に女性化したが、その変化のポジティブな面を私たちは受け入れるべきだと主張している。そうすれば、力を追い求めたがる私たちの性向を、部分的にでも、技術系評論家にして倫理家のDouglas Rushkoff(ダグラス・ラシュコフ)氏が唱える「チーム・ヒューマン」の本能的な喜びに置き換えることができる。

だが一方で、「仕事の未来」の論議として通用しているものの大半は的外れであることを知るには、よりよい未来のための完璧な予言は必要ない。そうした議論では、その未来を実際に生きなければならない人たちの大半は含まれておらず、実質的に無視しているからだ。

現在までに明らかになったのは、利益幅を維持するために腐敗した不公正な仕事の未来を選ぶとするならば、利益をずっと小さくする必要があるということだ。

ベンチャー投資会社の哲学者の抗議が聞こえるようだ。「私の金を再分配するなど、誰が決めたのだ?」と。もちろん、人間の労働の未来を再構築するための再分配は、複雑で、欠点もあり、激しい議論を必要とする。

だが、私が言いたいことの要点は、きわめてシンプルだ。大きく不均衡な経済にもできるし、倫理的なものにもできるということだ。ただし、今のまま両方を取り続けるという選択だけは、勘弁願いたい。

仕事を「作った」人の手によって、それにあやかることができる幸運な人たちにその仕事が分配される今の形を、どちらかと言えば維持したいという人は、その地位に留まればいい。ただし、自分で苦労して作り上げた慈善家や人道主義者の顔のために、数百万(または数十億?)の、さらに増え続ける人たちから、あなた自身、そしてあなたの地位が、心の底からみんなの利益を最優先に考えていると思われ、本当にそうさせられてしまったとしても、慌てないで欲しい。

報告書やカンファレンスではほとんど語られないが、仕事の未来には、ストライキが増えるだろう。もっと多くの抗議運動が起きる。11人の死者と数千人の逮捕者を出したチリのように。100万人近い群衆が道路を埋めた香港のように。そこでも10人以上の人が死んでいる。仕事の未来は、米国の道路も塞いでしまうかも知れない。優秀な人材の確保が難しくなり、IPOの評価額は低下する。労働組合の数も、あらゆる産業、あらゆるセクターで増加する。生協も増える。新しいラッダイトが台頭し、億万長者の数は激減し、グリーン・ニューディールも実施されるかも知れない。要するに仕事の未来は、政治的にも倫理的にも、今よりもずっと多様な土俵の上で展開されるということだ。

期待が持てる倫理的なビジョンは、これだけなのか? そんなことはない。しかし、別の価値ある可能性の存在は、今、権力を握っている人たちが責任を持って示すべきものだ。

「仕事の未来は倫理的になるでしょうか?」と私は、この質問がこのエッセイのタイトルになるかも知れないことを説明し、パネルディスカッション後のメアリー・グレイ氏のインタビューで尋ねた。「そう望むわ」とグレイ氏は答えてくれた。哲学者は、質問にさらなる質問で答える。文化人類学者は、こちらの質問を補足してから、自分の考えをまとめる作業に戻る。

「でも、そうなるでしょうか?」

「可能性はあると言えます」とグレイ氏は応じた。「人々の集団的な貢献を重んじるよう想像して、過去のよう姿の仕事の未来を望むのは止めればね。そうすれば、過去の改良版にはなりません」

カンファレンス以来、私はグプタさんとときどき連絡を取り合っている。私がエクセターを訪問して、彼女と彼女のマターの仲間と討論会を開こうといった話もしている。彼女は変わらず純粋で、思慮深く、献身的で、そしてもちろん、聡明だ。しかし、彼女や、少なくとも彼女のような学生たちが、「需要がある」(つまり儲かる)、そして「インパクト」がある(つまり、とくに私たち自身が、そして私たちが生み出す利益に恵まれないことに対して、自分の寛大さと心の広さに安心させてくれる)仕事を追い求めるときに、多少なりとも利己的になる自分を拒絶できなくなってしまうことを、私はずっと心配している。

「誰もがあなたほど(AIに関する)知識を持っているわけではありません」とあるとき私は言った。「私は持っていない」

「ほんとに?」と彼女は無邪気に反応した。頭では、自分がいかに幸運であるかを彼女は理解しているが、自分と私のような特定の人間とを比較したとき、それが難しくなる。

おそらく、自分自身の特権に関して、わずかに視点を欠いたところが、グプタさんがあまりにも恵まれているために勝ち組に属してしまった理由の一部になっている。つまり、彼女とその他大勢が、積極的に意識的に大量に特権を放棄して、経済的支配から距離を置き、自らの幸運の多くを他人に譲る未来を選択しない以上は、ギリダラダス氏が指摘したように、セクセターなどの学校で教えている「ウィンウィン」が常に実現できるとは限らない。

「もっと多くの人たちが、今、パニックになってくれるといいけど。個人的には、それに関してちょっとだけ楽観視してますが」とグプタさんは、1学期を費やして学び執筆している気候変動について語った。

「未来に行きましょうよ」

【編集部注】著者のGreg M. Epstein(グレッグ・M・エプスタイン)は、ハーバード大学とMITの人道教誨師。ニューヨーク・タイムズ発行のベストセラー「Good Without God」の著者。信仰を持たない人や共感する仲間たちのための、インクルーシブで、人々に元気を与える倫理的なコミュニティー構築への尽力を称え、ニューヨーク・タイムズ・マガジンは「ヒューマニスト運動のゴッドファーザー」と評した。また、キリスト教連合教会とスタンフォード・ロースクールのインターネットおよび社会センターによるプロジェクト「Faithful Internet」(誠実なインターネット)により「米国で最も誠実で倫理的なリーダーの一人」と称されている。

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(翻訳:金井哲夫)