人が賛同を切望していることは、誰でも知っている。世間一般の考えでは、「いいね!」や「お気に入り」という形でデジタルな確証を得たがるのは、それが人々を感動させ、自分のソーシャルなステータスを上げた証であるからだ。しかし、匿名アプリ、例えばSecretが示すところによると、人はその賛同に自分たちの名前が付加されているかどうかを必ずしも気にしない。では、なぜ人はそんな「いいね!」だけのために行動するのか。
人間は集団的動物であることを深く刻まれているために、たとえ自分の名前や誉めてくれた人の名前が隠されていても、いかなる外部からの賛同でも喜んで受け入れるからだろうか。
人は匿名サービスのユーザー仲間からコミュニティー意識を感じ、互いに賛同しあうことによってそれが強化されていくのだろうか。
人は、実名「いいね!」に対するパブロフ的反応とそれが自分のステータスを高めるという仮定を身につけた結果、正体不明の匿名の賛同からも、プラシボ的満足を得てしまうのか。
あるいは、モバイル時代はわれわれを、ポケットから聞こえるあの邪魔な騒音を切望させる人間にしまったのか。われわれは、それらの通知が与える生活の束の間の休息が欲しいだけなのか。
“We fear rejection / prize attention / crave affection / dream, dream, dream of perfection”
【日本語版注:上のSpotifyプレーヤーは日本では再生不可】
ともあれ、いいね!に対する欲望は麻薬的だ、麻薬と同様、満足を得るための服用量は多くなり続けるか、ユニークなものが必要になる。
しかし、匿名の賛同がわれわれを満足させ続けられるかどうかは不明だ。それぞれのいいね!は他と区別がつかない。くれたのが最大の親友であれ、遠い知り合いであれ、赤の他人であれ、匿名いいね!からはメタデータの差異がはぎ取られている。それは単なる数字や、一般的なプッシュ通知や、説得力のない「誰かがあなたの秘密にいいね!と言っています」メッセージへと変換される。それは、もはや自分に何かをしてくれるとは言えない。
はじめはスリルを与えてくれたが、時間と共に私の理性的脳みそが作動し始めててこう尋ねた:「何でこんなもの気にするの?」
むなしい時や孤独な時、匿名いいね!はその穴を塞ぎ安らぎを与えてくれる。しかし、私が確固たる自分と自尊心を持ち、自分自身で安心を感じられる時、外的検証は必要ない。道化師を演じて人々の喜ばせる必要はない。考えを持ち、それを自分の中にしまっておくことで満足できる。
ここに、匿名サービスの大きな課題がある。 特定の友達を喜ばせたことがわかった時にスパークする感情電流のアークなしに、匿名サービスはわれわれを再来させるだけのパワーを提供できるのだろうか。
Secretは、コンテキストによって同アプリの重要性が高まることを発見した。「100メートル以内」や「0.5マイル以遠」にいる誰かのSecretを見ることは、「カリフォルニア州サンフランシスコ」と書かれた投稿より興味をそそられる。このコンテキストが、Secretの「匿名」モデルを支えている。他にも匿名の賛同をもっと楽しくする似たようなコンテキストが見つかるかもしれない。
匿名サービスは、われわれが「いいね!」を欲しい時に自発的に投稿するコンテンツに頼っている。もし彼らが、こうした賛同の証を特別なものにし続けることができなければ、誰も見向かなくなるもしれない。
[Image Credit: IHeartTheStreetArt, Asuf Hanuka]
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(翻訳:Nob Takahashi / facebook)