人工知能、ひいてはロボットが人間の仕事を奪おうとしているという話は、これまで幾度となく目にしてきた。
容赦なく進化し続けるテクノロジーの様子を見ていると、確かに現在ある仕事の多くがそのうちなくなってしまうような気がする。しかし歴史を振り返ってみると、蒸気機関や電信システム、コンピューター、さらには産業ロボットも含め、革新的な技術は常に人間から奪うのと同じくらいの数の仕事を新たに生み出してきた。
そんなことは、仕事を失ってしまった人には関係ないかもしれない。シリコンバレーで生まれたテクノロジーに起因する経済的な変化が、現在の政情に少なくとも一部影響を与えているとも言える。しかしどんな理屈を並べたとしても、アメリカでは候補者のスキル不足が原因で何百万件もの仕事が余ってしまっているのは事実だ。
ということは、仕事の数が減っているのではなく、単に仕事の性質が変わりつつあるのだとも考えられる。景況の変化や市場の動き、そしてテクノロジーによって昔の仕事が復活することはないだろうが、仕事で求められるスキルは今後ますます高度になり、労働者はワークライフを通じて継続的にスキルアップしていかなければならなくなる。
しかし、この問題の一端を担っているテクノロジー自体が、このピンチから私たちを救ってくれるかもしれない。実際のところ、今まさにAR(拡張現実)とMR(複合現実)を使ったソリューションが誕生しようとしている。ひとつのテクノロジーで全ての問題が解決するということはないが、次世代の労働者を教育する上で、ARが大きな鍵を握ることになる可能性は高い。しかも、これはまだスタートに過ぎない。
新しい現実
時間と位置関係が把握できるメガネを思い浮かべてみてほしい。オフィスや店舗内でそのメガネをかけると、視界には仕事に関係した図や手順、または3Dホログラムが映し出され、これまで全くやったことがない仕事についてステップごとに学ぶことができるとしたらどうだろうか。ARならこれを実現できるかもしれないのだ。
VR(仮想現実)ではユーザーが完全に別の世界に没入してしまうが、ARは仮想現実という名が示す通り、目の前の現実世界の上に重なったレイヤーのように機能する。ユーザーはARデバイスを使っても別の世界に移動するわけではないので、自分の机や居間、もしくは工場の様子をいつも通り目視できる。ただ違うのは、ユーザーが見るものには追加情報が投影されるようになるということだ。
初のコンシューマー向けARプロダクトとして誕生したPokémon Goは、ARの魅力を全世界に伝えることに成功した。そのかいあってか、一般大衆もARに興味を持ち始めている。Pokémon Goが特別なメガネ型のハードウェアではなくスマートフォンやタブレットを活用したように、初期のARプロダクトの多くでは、身の回りに情報を投影するために従来のデバイスを利用しなければならない。しかし、今後AR業界がテクノロジーと共に進化するにつれて、ウェアラブルデバイスを活用したハンズフリーなAR体験が実現できるようになるだろうし、それ以上のことも考えられる。
ロボット、AI、ウェアラブルの分野に力を入れている調査会社Tracticaの最近のレポートでは、AR・MRヘッドセットが企業や製造現場で特に役に立つとされている。
「手で持つ必要がなく、目の高さで装着でき、必要なときだけ情報を表示できるなど、ARヘッドセットが投影するインターフェースは、手を使わなければいけない作業には理想的です。さらにユーザーは自分の目線で情報を確認できるので、現場作業の自動化やトレーニング、メンテナンス業務などにも役立つでしょう」とTracticaはレポート内で述べている。
Tracticaはこの市場をさらに細かく分け、「複合現実(MR)」と呼んでいる。彼らによれば、このテクノロジーは「位置追跡と深度センサーによって、より没入感の高い体験を提供しつつ、ホログラフィとして映し出された物体にも触れ合えるような仕組み」を備えているという。
この分野で企業向けのユースケースを確立しようとしているプロダクトの中では、恐らくMicrosoft HoloLensが1番よく知られているだろう。盛り上がりや知名度という意味では確かにMicrosoftはいいスタートを切ったが、彼らよりも規模の小さなMetaやOsterhout Design Group(ODG)、Daqriらも果敢に巨人に挑もうとしている。
Facebookも自分で画像フィルターを作れるARツールを4月のF8で発表したほか、Amber Garageはサードパーティーながら、今月Google Cardboard用のMRコンテンツが作れるHolokitをアナウンスした。Appleも最近のWWDCでARコンテンツクリエイター向けのプラットフォームをリリース。SamsungもMRツールを開発中で、Amazonもそのうちこの分野に進出してくるだろう。基本的にこれらのツールはコンシューマー向けのようだが、ビジネス環境で使われることになっても不思議ではない。
まだ市場が形成期にあるため、Tracticaは用心深くかまえているが、今後数年間で一気にこの分野が伸びていくとも予想している。なお、コンシューマー・エンタープライズ向け両方のソリューションがAR市場の成長を支えることになると考えられているが、このふたつのセグメントは別の市場として発展していくだろう。
教育ツール
AIやロボットが具体的にどのくらいの仕事を消滅させるかについては議論の余地があるが、新たなテクノロジーが労働市場に何かしらの影響をもたらすというのは間違いない。ここで重要なのは、どうすればその影響を最小化し、AR・MRテクノロジーを使って労働者に新たなスキルを身につけさせられるかということだ。
AR・VR用のOSをつくろうとしているUpskill(旧名APX Labs)でCEOを務めるBrian Ballardは、私たちの社会では人間と機械の距離がかなり近づいてきているのに、うまく両者を繋げる仕組みがまだできていないと話す。彼は、座学だと現場の環境に基いた学習ができないため、結果的にロボットが人間の仕事を奪うことになると考えているのだ。
「まず、ある仕事をするためにはスキルを高めなければいけません」とBallardは言い「そして、スキルアップに繋がる有益な情報をうまく表示し、常にそれを確認できるような手段が存在します」と付け加えた。その手段こそがARテクノロジーを活用したもので、ARを使えば労働者の目の前に状況に合った情報を表示できるようになる。
MRヘッドセットを製造するDaqriのCEOであるBrian Mullinsは、AR・MRデバイスがスキルギャップを埋め、労働者が新たな仕事を獲得するための手助けをするようになると考えている。「ARは人間中心のテクノロジーで、うまく使えば知識の移転にも使えます。ARデバイスを活用すれば、労働者にこれまで携わったことのない仕事の手順を教え、彼らが正しい判断を下せるような情報を提供することができるのです」と彼は説明する。つまりARは強力なトレーニングツールになる可能性を秘めているのだ。
実用に耐えうるARソリューション
ARはまだ成長過程にあるテクノロジーで、ARを活用した教育ソリューションのほとんどが実験段階にあるが、これまでの様子を見ると、このテクノロジーがトレーニング期間の短縮に繋がりそうだということがわかる。あとは、メーカーやコンテンツの製作者、ユーザー次第だ。
例えば、GEはHoloLensを活用し、医療知識がない人でも超音波検査機を使って各臓器を特定できるようなテクノロジーを開発しようとしている。まだ製品化まではかなり時間がかかることが予想されるが、これはMRテクノロジーを使って新しい情報を提供しつつ、フィードバックを即座に与えることで、ユーザーの効率的な学習を支援するプロダクトの好例だ。
さらに、BoeingはARを利用して航空機用ワイヤーハブの製造といった業務の効率性を上げようとしている。同社が行った研究によれば、ARをトレーニングに活用した社員の方が、そうでない社員に比べて生産性や正確性が高く、トレーニング自体への満足度も高かったとされている。教室で授業を聞くだけのときとは逆に、彼らはトレーニング自体や学んだことを現場で思い出す過程さえ楽しんでいたのだ。
アイオワ州立大学と共同で行ったこの研究で、Boeingは被験者(ほとんどが大学側の人たち)が翼形の部品をつくる様子を観察した。作業前のトレーニングとして、あるグループは部屋の隅におかれたデスクトップマシンを使って手順書のPDFファイルを読み、別のグループは調節可能なアームのついたタブレットで同じPDFファイルを読み、最後のグループは3D映像で構成されたアニメーション入りの手順ビデオをARシステム上で視聴した。実験の結果、デスクトップマシンを与えられたグループのエラー率は劇的に高く、タブレット、ARシステムの順番でエラー率が下がっていった。
DaqriはSiemensの協力の元、Boeingの実験をさらに発展させ、世界レベルで同様の調査を行った。風力原動機やガスタービンの保守作業が対象となったこの調査でも、トレーニングにARを活用することで、Boeingの実験と同じような結果が得られた。DaqriのARヘルメットを活用しなかった場合、事前知識のない人が組立作業を終えるのには480分かかったが、ARヘルメットを使うことで作業時間はなんと45〜52分に短縮された。
世界規模といえば、先日Walmartは社員のトレーニングにSTRIVR Labs製のVRコンテンツを導入すると発表した。同社はOculus Riftのヘッドセットをトレーニングセンターに配備し、VRコンテンツと360度動画を使って幹部社員やカスタマーサービス部門のスタッフの教育を行おうとしているが、そのうちこれもMRに近い形に変わっていく可能性がある。
エンタープライズ市場でのスケール
もちろんAR周りの実験を行うのも大事だが、企業を相手にしたARビジネスをはじめるというのはまた別の話だ。というのも、大企業のほぼ全てで、各プロセスが在庫システムや基幹システムをはじめとする複雑なレガシーシステムと接続されている。
そこで先月DaqriはDellとパートナーシップを締結した。Dellでプロダクト戦略・イノベーション担当VPを務めるNeil Handは、同社がDaqriのヘッドセットの販売を通してエンタープライズ市場でARを普及させようとしていると話す。さらに彼によれば、DellがARと相性の良い業界を探そうとしていたことが、Daqriとタッグを組むにいたった主な理由のようだ。
「効率よくさまざまな分野でARの有用性を確かめられるというのが、Daqriとパートナーシップを結んだ主な理由です。過去にも他の技術に関して同じような戦略をとっていました。新しいテクノロジーをできるだけ多くの顧客に届けるにはどうすればいいのか、という問いが全ての出発点です」とHandは説明する。
DellはARプロダクトの開発についてもDaqriの協力を仰いでいく予定だが、彼ら自身はバックエンドシステムとの接続支援などを行うコンサルタントとしての機能を担っていく。DaqriのデバイスとDellのパソコンがセットで売れるなど、パートナーシップがDellのハードウェア売上にも繋がれば、両社にとっては願ったり叶ったりだ。
このパートナーシップの結果はもう少し時間が経たないと判断できないが、既にDaqriは、現場で利用可能なARソリューションの導入手順や各ユーザーのニーズに基いたプロダクト設計の方法、各業務に最適なUXの開発方法、さらには効果測定や他の業界に進出するための方法を突き止めることができた。
上記のような目覚ましい発展を遂げているとはいえ、まだARは生まれたばかりのテクノロジーだ。しかし今後人々が期待している通り市場が成長すれば、企業は社員が日々変わる経済に順応できるようにトレーニングを実施し、どんな環境の変化にも対応できるようになるだろう。
[原文へ]
(翻訳:Atsushi Yukutake/ Twitter)