Appleよ、なんてことをしてくれたんだ!?
お前は何百万人もの人びとが日々使っているビジュアル語彙を取り上げて、それを変えてしまった。アイコンの表す象徴的なイメージを破壊して、なんの欠点もなかったものを不必要に調整した。何故だ?なぜこんなことをするのだ?私は桃尻の絵文字が使いたいんだ。漫画の月も、キャンディーのハートも、私の絵文字を返してくれ。しかし、お前は決してそれを返しはしないだろう。
実際私は、最初の頃はAppleの絵文字のファンではなかったということを告白しなければならない。私にとって、そいつらは私に騒々しいクリップアートを、グラデーションと似非の深みと共に叫んでくるものだった。私はGoogleのグミキャンディーのような質感、マイクロソフトの太線、サムスンの強いキャラクター化が好きだった。
しかし、実際には、大部分の人びとはAppleの絵文字を利用した、なぜならそれらはゲームに早くから使われていたし、iPhoneは最も強力な一大ブランドだったからだ。私の友人たちのほとんどは、iPhoneを持っているが、私はAndroidを使っている。なので、相手がどんなものを見るのか想像する代わりに絵文字セットを切り替えたのだ。絵文字を誤った解釈されたときの脅威は、それはそれは怖ろしいものだ!
というわけで、決してスタイルを好きではなかったが、私はそれを利用してきた。皆がそうするように。限定された韻律で書くときや、モノクロで撮影をするときのように、制限はそれ自身が表現のプロセスを興味深いものにしてくれる。それは私の中で育ち、そして数え切れない他者の中でも育っていることを知り、私たちは共有されたビジュアル語彙を皆で作り上げたのだ。
そして、最近はあまりにも頻繁にそれらを使ってきたために、まるで通常の単語のようにそれらを知るようになったのだ。皆それぞれ独自の、言外の意味、ニュアンス、当てこすりなどを作り出していた – あるものは偶然に、そして他のあるものは茶目っ気たっぷりに意図的なものとして。
絵文字は私にとって、モバイルネイティブ言語という意味で興味深いものだった ‐ 意図的に視覚化され、区別しやすく、ひと目で認識できる ‐ そのデザイナーの意図を包含しそして同時に崩すような存在だ。ときどき素っ気なく見える、絵文字言語は、実のところコンテキストとそれを生み出した人間のメタデータの塊であり、深いビジュアルコミュニケーション、豊かな表現力を備えたようなものなのだ。
そしてその全ての基盤がイメージそのもので与えられている。この信じられないほど広く行き渡ったコミュニケーション形式の基礎を再設計することは、破壊的な文化的修正主義の行為だ。
OK、まあ、ちょっと大袈裟に言い過ぎた。でもなにしろ人びとがチャットで使っていた沢山のアイコンたちだったんだ、デザインを変えて大規模なコンテキストと歴史を台無しにしたんだ、そして得るものと行ったらほとんどないと来てる。Appleが絵文字に対して施した変更は(とりあえずここでは、Unicodeの取り込みや随分対応が遅れたジェンダーや肌の色のバリエーションについて話したいわけではない)良くて的外れで、多くは破壊的な代物だ。
おお、古(いにしえ)のAppleの絵文字 — 32×32以上の大きさで表示されることを全く意図していなかった — が、iOS 10.2では素敵に書き直された! Good job!
例えば、果物のシェーディングを変えた理論的根拠は何だろう?カレーの量を調整した件はどうだ?ワイングラスの視点を変えたのは?あるアイテムは光沢を得ているのに、他のものがそれをそれを失っているのは何故だ?なぜブリトーを反転させたのか?なぜ桃が検閲にかかったのか?なぜ魚肉団子を暗くしたのか?
こういったすべてのものには何の理由もないのだ。まるでAppleがそのデザイナーたちに「全部の絵文字を眺めてちょっとずつ変えて。やり方は任せる」と命じたようだ。
目的のないデザインは、本当はデザインではない。交換したものが、オリジナルより優れていないなら、どうしてそれを置き換える必要があっただろうか?そして、もし彼らが何がオリジナルを価値あるものにしていたのかを理解していないのならば ‐ 使われていたイメージそのものの馴染み深さと共有された象徴性ということだが ‐ それは彼らが文化資産の守り手として、まるで力不足だということにならないのか?
Appleはもちろん、これらの変更をもとに戻したりはしない。私はこの文章が基本的に「雲に向かって吠えるブロガー」の振舞だと知っている。しかし、私は本当にがっかりしているのだ。なぜなら私は絵文字利用現象の勃興を純粋に楽しんでいたので、これは正しい判断のできないユーザーに優しくない(最近のAppleがやらかすことの多い)動きに思えるのだ。
もし相手のデバイスでどのように絵文字が見えるのかをコントロールできるようなオープンメッセージングフレームワークがあれば素晴らしいと思うが、私には待っていられない。しかし、おそらくこの新しい絵文字は、また別のビジュアル語彙を作り上げるための、無地の石版を提供することになるのだろう。そうせざるを得まい ‐ 私たちに選択肢はないのだから。
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(翻訳:Sako)