私が、バーニングマンでいちばん面白いと感じる点は、ポスト希少性社会の叩き台になっているところだ。ただ、膨大な費用と資源を必要とし、非常に過酷で不便な場所で行われる実験というのも皮肉な話だ。そこまで行かなければ、世界の金銭的または希少性の階級構造から抜け出すことはできないというわけだ。
もちろん、それだけではない。世界最大級の、もっともクレイジーでもっとも壮大なパーティーであり、巨大なエレクトロニック・ダンス・ミュージックのフェスティバルであり、圧倒的な野外アートギャラリーであり(はかなく、同時に永遠で、美術館のキュレーターも足を運び、コレクションに加える作品を物色する)、実験的コミュニティーであり、世俗的異教徒の儀式であり、幻覚剤の「セットとセッティング」であり、友人との再会、または共に過ごす休日、などなど。これをヒッピーのイベントだと、からかい半分に誤解している人は多い。火炎放射器とギターの比率は100対1で、「安全第三」や「バーニングマンは常に死と隣り合わせであるべき」といった言葉がモットーになっている。またときには、大変に奇妙なことだが、シリコンバレーの休日のハッカソンの延長だと誤解している人もいる。
その最後の誤解は教訓的だ。今年のイベントリストには、いわゆる「ベンチャー投資家および起業家ネットワーキング・イベントとピッチセッション」というものがあった。私は参加しなかったが、親しい友人が参加して教えてくれたところによると、「あれは究極のポーの法則イベントだったよ。……それがジョークだとわかったとき、大勢の人間が本当にがっくりしていた」とのことだった。どうやら、現状の外の世界の社会的階級構造にはあまり反発する様子がないようだ。むしろ興味深いのは、それを真横から見ていることだ。人によっては、理解が難しいところだ。
たしかに、このStanford Newsの素晴らしい記事が伝えているように、バーニングマンはシリコンバレーに大きな影響を与えている。驚くべきテクノロジーがそこで見られるのは事実だ。壮麗な600機ものドローンが群をなして飛んだり、6メートルの高さのテスラコイルが2基並んでいたり、ロボットが勢揃いしていたり。しかし、その作者たちは、自分たちのコミュニティーに作品を見せたいだけであって、不浄な金儲けを企んでいるわけではない。
勘違いしないで欲しいのは、この砂漠の実験的コミュニティーにも、独自の階級構造があり、独自の社会資本があり、そこにたかろうとする者もあり、独自の不文律が大量にあり、大変に人気の(みんなの誇りになっている)独自のロゴもある。しかし少なくとも、みんなで働く、みんなで建てる(テント一張でもいい)、みんなが砂埃と戦って、そして負けて、みんなで物や行動を、受け取るのではなく寄付して社会資本を増やす、そしてみんなが、火を吐く巨大なアートカーの上に乗ったり、バスでやってきて寝る場所がない人たちに狭いテントの寝場所を分け与えたりする同等の参加者となり、近くにいる知らない人を助けたり、協力し合ったり、またはみんなが楽しめるアート作品や技術プロジェクトを作ったりする、という理想はある。
外の世界の階級社会に直交すること、つまり奪うのではなく与える競争は、その他の実験的コミュニティーの中でも、ポスト希少性社会の実質的な叩き台としては魅力的だ。だからこそ、そこに来てコミュニティーにまったく参加しようとしない人は、ひどく軽蔑され、嫌われ、侮蔑される。
もちろん私は、あの悪名高い「ターンキー・キャンプ」のことを言っている。金持ちの(ときには大金持ち)の人たちが、お金を払って六角形のユルトを建てさせ、食事を用意させ、ガイドや学芸員を雇って見物してゆく。あの壮大な光景の傍観者となるためにだ。バーニングマンの参加者とは異質の存在だ。外の世界での高い階級をプラヤに持ち込み、我々の叩き台に、古い退屈な資本主義を感染させようとしている。
裕福な人たち、とくにシリコンバレーから来た人たちが、バーニングマンで大そう贅沢な時間を長々と過ごしていくのは事実だ。2001年、Googleの共同創設者ラリーとセルゲイがエリック・シュミットをGoogleのCEOに選んだ理由のひとつは、候補者のなかで、彼が唯一バーニングマンの参加経験を持つということだった。マーク・ザッカーバーグは、一度、ヘリコプターで飛んで来て、グリルチーズ・サンドウィッチを無料で配って午後を過ごしていったことがある。イーロン・マスクは、彼がバーニングマンで見たようなシリコンバレーの側面が描かれていないと、れテレビ番組『シリコンバレー』を批判した。それでも彼らは、自分で行動している。その体験が、パッケージとして販売されるようになった(とされている)のは、ここ数年のことだ。
それには、みんな非常に腹を立てている。思うに、その最大の理由は、恐れだ。資本主義は「ボーグ」と同じだ。接触したものすべてに感染して、仲間に組み入れてしまう。バーニングマンは、ただの大きな祭になってしまう。それが恐ろしい。実験的なコミュニティーでも、ましてやポスト希少性社会の叩き台でもなくなってしまう。
それなのになぜか私は、とても清潔で裕福な、ターンキー・キャンプから来た大勢の人たちと土曜日の夜を共に過ごすはめになった。短パン姿の老人たちや、染みひとつないピカピカの何千ドルもしそうなバーニングマン風衣装を着た若者たち、それに、「こっちを見ないで、私はセレブなんかじゃありません」的な特注の黄金の面をつけた女性もいた。彼らは昔ながらのツアー観光客のように振舞っていた。ただ違うのは、ガイドが掲げる彼らの目印は旗ではなく、持っているのは旗ではなく、先端に点滅するLEDのハートを付けた長さ3メートルの6ミリ径鉄筋だったことだ。
そして、最初に抱いた彼らへの怒りが収まったあと、私がいちばん強く感じたのは、彼らへの哀れみだった。私は、前述のバスキャンプの中の、砂だらけのみすぼらしい場所で一人でキャンプをしていた。だが、それが何よりもずっと面白く、楽しい時間だった。たしかに、私は(比較的)このイベントを多く経験したベテランだが、初めてだったとしても、そうしていただろうと思う。それに、ここに集まった7万人の人たちの中には、とても裕福で、ターンキー・キャンプに泊まれる人たちも大勢いるのだが、それでもあえて大変な苦労や実験に身を投じ、巨大な像を作ったり、複雑な機械を組み立てたり、比類なく立派なアート作品を創造したりしていた。それは、大きな喜びという報酬を期待しているからだ。あの嫌われ者の観光客たちにも、そこをわかって欲しかった。
だから、そんな観光客は気にしない。バーニングマンは資本主義のボーグと戦う強力なレジスタンスとして生き残ると、私は期待している。だからそこは、文化、コミュニティー、テクノロジーのための、そして近未来のための、面白い実証実験の場所なのだ(同時に、完全にいかれた人たちに埋め尽くされた完全にいかれたパーティーという側面も、またその顔のひとつ)。ターンキー・キャンプの観光客たちが改心することなど、私は期待していない。彼らはその階級にしがみついているからだ。それに対して私たちは、テクノロジーによって可能となる文化とコミュニティーの非常に面白い実験の時と生きている。そして、バーニングマンがそう見える、また現にそうであるように、馬鹿みたいに弾け過ぎたそうした実験が、真実の価値を持つと私は強く信じている。
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(翻訳:金井哲夫)