私はTechCrunchの常駐腕時計オタクとして、今使っているオメガやセイコーやJLCをApple Watchに代えるつもりがあるかどうか、しょっちゅう尋ねられる。
そして私は、代えた。本当に。私はApple Watchを手に入れて以来毎日これを着用し、次に機械式を身につけるのがいつなのかわからない。長年、どのスマートウォッチも良くできているが必要ではない、と言い続けてきた私にとって、これはこの世で一番言いたくないことだが、ついに私はこのピカピカの安物に屈服した。理由はいくつかある。
通知の扱いが適切
私はいくつかのAndroid WearやPebbleを使ってみた。MartianやGeak等のデバイスも試したが、どれもスマートウォッチのなすべきことができていない。私が行動することも無視することもできる通知をよこすことだ。Pebbleはそのゴールに一番近かったが(そして私はあの会社が大好きなのでカラーPebbleを予約した)、SaumsungやAppleのスマートウォッチの優れている点の殆どを欠いていた ― ワークアウトのモニターや単純な「アプリ」等。
だったら、なぜFitbitやSppedmasterを持たないのか?それは、Apple Watchは、その両方の目的を一つのパッケージに収め、Speedmaster並みの仕事をするからだ。
美しい
私は腕時計がどうやって作られているかを知っている。いくつか機械式時計を修理したこともあるし、時計工場も何度か見学した。数多くのスイス企業がモンラッシェを飲みながら、Appleがいかにうまくやったかを語り合っているに違いない。Appleはスチール製のケースに曲面とクリスタルを加え、スイスのどの工場よりはるかに安い価格で作ることに成功した。
大変人気のあるレッセンスType 3を思い浮かべてほしい。これと2500ドルのスイスアーミー・アルピナッハ・オートマチック・クロノグラフ(恐らくオモチャ以外の機械式クロノグラフで最も安い)との違いは、ケースと文字盤だ。あのケースを作るためには多くの高給な人々と多くの時間が必要だったが、Appleエンジニアほど高給な人はいなかったと私は思う。
要するに、3万4000ドルのレッセンス最大のセールスポイント ― 柔らかく有機的にさえ感じるケースと文字盤のスタイル ― が、携帯電話を作っている会社によって改善され量産されているのだ。私は、正真正銘の芸術作品であるレッセンスをApple Watchと比べるつもりなど毛頭ないが、製造という観点から見て違いは殆どない。
ちなみに、Apple Watchのバンド交換システムはそれほど斬新だと思わない。ジャガー・ルクルトやカルティエは同じ押しボタン方式を何年も前から使っている。Appleが盗んだのだ!
私の他のウェアラブルを置き換える ― そしてスマートフォンを
上に書いたように、Apple Watchは私のFitbitに取って替わった。歩数計を身に付けるなど無駄だと主張する向きも多いが、私は自分が一日中動き回り楽しんだことを知りたいのだ。しかも、私への通知やヘルスデータがスマホではなく手首で見られるこは驚くべき利便性だ。
確実な通知のおかげで、私は携帯電話を取り出すより腕を見るようになり、思っていたのと違うメールを見るためにアプリを操作することもなく、前を向いている時間が長くなった。
私はクロノグラフ文字盤を使っているが、私の興味を引きつけておくのに十分な日々の情報を与えてくれる。今やApple Watchを着けていないと寂しさを感じ、気がつくとベル&ロスの文字盤をスライドしている自分がいる。
新しい
腕時計は欲望をかき立てる。本気でコレクションしていた2004~2006年頃、私は常に60台の腕時計を持っていた。時計コレクターは、ほぼ無限に新しい時計を探し続けるという欲望を持っている。そんな新しもの好き癖は決して健全ではなく、多くの場合、長くは続かない。
多くの時計コレクターは20台くらいに落ち着き ― 経験からわかる ― 新たに追加するために時計を売買する。しかし、Apple Watchはそんな新し物好き欲を長時間満足させだろう。時計とは、所有者から永遠に称賛されるアイテムだ。
かつて私は、時計を分解し隅々まで部品やしくみを観察したり、ガラス裏ブタの向こうでテンプが往復するのに合わせて秒針が動くところを見て感動したことを覚えている。Apple Watchは、あの同じ感動をソフトウェアを通じて与えてくれる。これは新しいもの中毒患者にとって明らかに危検だ。
いつか機械式に戻るかって? かもしれない。私は信頼できる機械式時計の価値を知っているし、時計作りの歴史や起源も知っている。私はかつて時計が人類最高の偉績であったことを知っているが、テクノロジーがこの百年だけでも複数回にわたって時計業界に打撃を加えたことも知っている。
偉大なるメーカーたち ― ロレックス、オメガ、ブレゲ ― は1970年代終りまで裕福なバブルの中に存在していたが、セイコー、カシオ、テキサスインスツルメントらによる極めて現実的手段によって殆ど破壊された。最初のクォーツ時計は車1台くらいの値段だったが、電子メーカーが部品の量産に成功して以来、価格はドル、いやセント単位にまで下がった。スイスの時計産業は高級品へと移行することによって対抗し、その結果多くの人々にとってスイス腕時計はホビーを超える価格になった。
スイスはどうなっているのか?
今私はスイスを心配しているか? イエスでありノーだ。スイスは長年その栄誉を拠りどころにして平均的消費者を無視してきた。私が2004年にWristWatchReviewというサイトを開いたのは、困惑を感じたからだった。GQやEsquire等のページを開くと、モデルがプラダのジャケット(900ドル、ゼンガのシャツ(400ドル)、ブライトリングの時計(2万ドル)等を身に着けていた。ジャケットに900ドル払う人が裕福すぎることは暗に理解できたが、腕時計が当時デトロイトの好地で家一軒買えるほどの値段であることは理解できなかった。
時計メーカーが決して教えなかった ― そして今も教えない ― こと、それは21世紀の時計作りが、四輪馬車を作ったり、ゼラチンシルバープロセスで写真を現像するのと同じくらい道理にかなっていることだ。とはいえ、月の光の下で馬車に乗ることや、生まれたばかりの赤ん坊の美しくプリントされた写真より素晴らしいものなどあるだろうか?
テクノロジーは、時計作り技術の大部分をハンダ付けロボットと低賃金工場労働者で置き換えた。だからこそ、私は時計愛好家として、時計作りの歴史、尊厳、そして大切さを世界と共有することが重要だと考えるようになった。
しかしスイスはそれを理解していない。例えば、Speedmaster Professional。スイスはこれを初めて月へ行った時計として宣伝している。しかし、この名高いSpeedmaster Proが重要なのは月へ一度行ったからではなく、現存する最も読みやすく信頼性の高い機械式クロノグラフの一つだからだ。
1950年代60年代の偉人たちはそれを身に着けていた。われわれには初期のクロノグラフの作者や使用者たちに対して、情報時代を切り拓いてもらった恩がある。それは独自のデザインと機械技術の時代に作られた、驚くべき作品である。
スイスは死んだ馬を見つけては鞭を入れ続けている。私の愛する時計メーカーの一つ、ウブロは、事実上1種類の時計を並べ替えながら売っている。ロレックスは前世紀から殆ど変わっていない(ただしロレックスおたくにこれを言ってはいけない)― 価格を除いて。この退屈で鈍感な倫理は何十年も彼らの間で通用している ― クオーツ危機が起きた後でさえ。一種類の時計とその微妙なバリエーションを繰り返し作り続け、値札に際限なくゼロを加え続ける、なぜならコレクターがそれを払うから。これは正気な消費者に対する侮辱であり、いわゆる「良い」時計は、魅力よりも非常識さを感じさせる。
「ヴィンテージ時計はアナログ時代の最も優れた化石である。一つひとつが小さな世界であり、小さく機能的なメカニズムは微小で謎めいた動く部品の集まりだ。動く部品!その結果これらの時計は、ある意味で、生きている。彼らには鼓動がある」とウィリアム・ギブソンは15年前に書いている。「彼らは、タマゴッチのように、『愛』に反応し、通常それは特別な専門技術者による高価な仕事を通じてなされる。まるで古代の蒸気機関トラクターやヴィンセントのバイクのように、時計は事実上どんな崩壊状態からでも苦労して復元される」
私は彼に全面的に賛成する。純機械的なものには魔法のようなものが漂い、それは専門家が習得に一生かかるほど複雑である。この量産ハードウェアと容易な対話の時代に、それは何かを意味している。
しかしサイバネティック予言者のギブソンでさえ、もう一つの、はるかに心引かれるタマゴッチを予見することはできなかった。Apple Watchは同じようには愛に反応しないが ― それは冷たく、計算されている ― デザインと欲求、テクノロジーとファッション、単一性とつながり等の奇妙な融合を通じて愛を生み出す。そしてそれらの融合こそ、スイスが警戒すべき理由なのである。
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(翻訳:Nob Takahashi / facebook)