テスラがCybertruckの窓の頑丈さを実演しようとして失敗

まあ、そんなことが起こるとはだれも考えていなかっただろう。それは、私がこれまでに見たものの中でも、より超現実的な製品発表の1つとなった、Tesla(テスラ)の3万9900ドル(約430万円)のCybertruckピックアップの発表会での出来事だ。いくつかのスペックを紹介し、スレッジハンマーで車のドアを殴りつけたあと、イーロン・マスク氏はステージ上の人物、テスラのリードデザイナーであるFranz von Holzhausen(フランツ・フォン・ホルツハウゼン)氏に、野球ボール大の硬い金属製の球を運転席側の窓に投げつけて、テスラの「アーマーグラス」の強さを実演するように促した。

しかし、それはうまくいかなかった。

ガラスは完全には砕けなかったが、端から端までヒビが入ったように見えた。「ああ、神よ」とマスク氏は笑った。「ちょっと、ハードすぎたかもしれないね」。

そこで、彼らは後部座席の窓でそれを再び試みたのだが…それも割れてしまった。マスク氏は肩をすくめながら「改善の余地があるね」と言った。

これは冗談だったのかって?「ハハハ!いやいや冗談です、さあこれが本物のグラスでのテストです!」といった類の?そうではない。マスク氏はトラックの前に立って、壊れた窓2つはそのままに、プレゼンテーションを終了した。

ほとんどの標準的な窓が、このようなテストに耐えるとは誰も期待していなかったが、イーロンでさえこの結果に驚いていたようだ。「私たちはレンチも投げつけたし、それ以外のいろいろなものを試したんだけどね」と彼はステージ上で言った。「文字どおり、窓に向かって台所の流し台を投げつけても割れなかったしね。ちょっと奇妙な理由で今は壊れたけど、その理由はわからないね」。

「後で修正しておくから」と彼は笑いながらフォローアップし、車のサスペンションについて話し始めた。ライブストリームが終了してから約30秒後に、テスラのYouTubeチャンネルで、このビデオは非公開になった。

そしてこれによって「ライブデモはうまくいかない」という、否定できない真実が相変わらず生き続けていることがわかったのだ。

テスラサイバートラック

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(翻訳:sako)

会社創設者の私は仕事と自尊心を取り違えていた

今はほぼ毎日がいい日だ。会社創設者や重役をクライアントに持ち、自分でスケジュールを決めて、好きな街に暮らしている。私は、重役向けコーチ兼アドバイザーとして、1億ドル(約110億円)以上の資金を調達した企業の創設者やCEOを相手に仕事をしている。どの企業も同じだろうが、私も、設立、計画、失敗を数多く経験して、今の地位を手にした。

懸命に働き苦労した体験を彼らに伝えるのが私に求められる役割であり、実際にそうしてきた。

しかし、失敗したときの気持ちや、とりわけ恥ずかしいという感情が一番に立ち、それが私の人生や仕事を左右していたことは、特に話す機会がなかった。どん底のとき、どれほど自分が無価値だと感じていたか。私は自傷行為の計画すら立てていた。

企業を立ち上げるためには、超人的なエネルギーが必要になる。だからこそ、起業物語が神話化されるのかも知れない。私の場合もそうだった。もし、一流ベンチャー投資家から資金を調達できたら、10億円の収益を上げられたら、会社を50億円以上で売却できたら、自分は大したものだと思える。ずっと憧れていた青年成功者になれる。そして、まず100万ドルを稼いだら、一気に10億ドル規模の企業を立ち上げる。

愛に価値を感じないことが、つまり本質的な価値観に欠けていたことが、私の意志決定の原動力になっていた。自分で設定した目標を達成できなかったことが、自分が無価値な人間だという感覚を強めていった。だが幸いなことに、やがて私は自意識に目覚め、達成できない目標を無闇に追いかけるのは不健全なことだと気がついた。

しかし、CEOの職を辞することで自分が崩壊してしまうとは、予想もしていなかった。どれほど心が折れてしまうかも、想像できなかった。

徹底した治療の結果、私が最初から間違った方向に進んでいたことを容易に理解できるようになった。もうほぼ完全に、恥は過去のものとなった。しかし長い間、恥は私のあゆる意志決定の燃料となっていて、それは決して枯渇することがなかった。いつだって恥は有り余るほどあった。ビジネスの世界では、それは私たちが想像するよりも、ずっと普通のことだ。私が会った起業家は、ほぼ全員が「違和感」を体験している。私たちは失敗を賛美するが、「自分はダメだ」という恥の感情に結びつくその痛みを、誇りに思えるだけの忍耐力を持たない。

私たちは、固い意志を持ち、自分を突き動かし、粘り強くあるべきだ。そのために、私が学んできたことをみなさんにお伝えしたいと思う。自分は無価値だと落ち込んでいる人は、他にも大勢いることを私は知った。幸せは、そして成功の喜びは、まだ手の届くところにある。

たまたま会社を立ち上げた

19歳のとき、私にはまだ、高等教育を変革するという野望を抱いていたわけではなかった。私はただの、不満を抱える大学1年生だった。Chronicle of Higher Educationのインタビューで、Jeff Young氏は私にこう聞いた。私がインターネットで立ち上げたばかりのUnCollegeで何をするつもりかと。

UnCollegeは、大学に対する欲求不満から生まれた、出来たてのウェブサイトだった。高等教育の現状維持の姿勢に疑問を持つ人たちのコミュニティを作ることが狙いだ。それが転換期だった。Young氏にそのサイトの今後を聞かれた私は、即座に自尊心とサイトの未来を結びつけた。結局、それがメジャーな雑誌からインタビューを受ける理由となったのだが。私は、UnCollegeを大きく育てなければならなかった。そうしなければ、私は敗者になる。それだけでは済まないかも知れない。承知のとおり、それは上場企業となったからだ。

そのときから、私は起業家として成功するために取るべき行動を頭の中に書き記すようになった。そのリストはどんどん長くなり、すべての項目に、例のあの注意事項が付随した。本を書かなければ無価値な人間になってしまう。起業して100万ドルを調達しなければ、無価値な人間になってしまう。世界のカンファレンスで演壇に立たなければ、無価値な人間になってしまう。

私は資金を集めた。会社を立ち上げた。100万ドルの収益を上げた。その度ごとに、チェックボックスにチェックマークを入れていった。でも幸せ感は増さなかった。もう満足を感じられない体になってしまったのかと、心配になってきた。「成功した」と実感できなかったのだ。とくに、インターネットや業界で広まった他人の成功を見たときは、なおさらだ。

もし「成功者」になれば、人に欠点を見られることがなく、最終的にはなんらかの価値のある人間になれると私は考えていた。だが、頭の中のリストにチェックマークを入れるごとに恥や不安感に飲み込まれる感じがしていた。そして、自分の価値を実感するためには、次の項目にもチェックマークを入れなければと追い立てられた。

まさに、泥沼にはまった感じだ。自尊心は内側から湧き出るものだと、まだそのときは気付いていなかった。

仕事と自尊心の取り違え

会社を立ち上げようと頑張ってきたのは、失敗が怖いからだとすぐに気がついた。今後10年の人生をかけて克服すべき問題点をじっくり考えたからではなかった。それでも、2013年9月、UnCollegeは最初の学生を迎えた。

その秋、自分は間違っているのではないかと疑うようになった。だが、ここまで事業を大きくすることを私に期待していた投資家たちに、そんな話は怖くてできなかった。私の生き残りの術は、微笑みながら、誰よりも物を知っているふうに振る舞うことだった。謙虚に助言を聞く勇気があればよかったのに。

人に助けを求めずに来た結果、最初に雇った2人の人間を手放すことになった。さらに2人、現金が底を突いたために一時解雇するはめになった。

第一期の学生は気の毒だった。適切な構造のカリキュラムを設計しなかったので、学生たちは不満を抱いた。彼らは自主学習のコミュニティは気に入ってくれたが、会社としては、コミュニティ以上の価値を提供することができなかった。学期が終了する2カ月前、学生たちは反乱を宣言して、プログラムの改善策の提示を求めてきた。

私は恐ろしくなり、逃げ出したくなった。しかし、すでに新学期の授業料を受け取ってしまっている。他に方法はないと、私は思い込んだ。そして、コーチング・プログラムを創設し、コーチを雇い、20の新しいワークショップを開設して、学生たちをインターンシップに送り込むための努力を開始した。私たちが創設したコーチング・モデルはうまくいった。その後2年間、それを改善しながら続けることができた。

2015年春、私は筆頭投資家を訪ねた。私の声は震えていた。彼は、私の恐れと不安を感じとっていたが、私はその日、彼にハッキリとこう伝えた。「もう限界です。自分が壊れてしまいます」。

そのとき私は、燃え尽き症候群になっていた。会社は大学の代替学校から予備校に変わっていた。役員会は承認してくれた。CEOを雇う時期だ。

CEOを雇った後、毎日会社に通おうという私の意欲はさらに低下した。ベッドから起き上がるのが難儀になっていた。ある朝、Four Seasonsの投資家と朝食をとった後、私は外へ出て砂浜に座り、泣きだした。目を上げると、以前私の学校で学んでいた学生が私に手を振っているのが見えた。すぐに涙を拭き、私は弱々しく微笑んだ。

私は、恥ずかしくて、弱くて、無力だと感じた。

仕事に自分のアイデンティティを見出すことは、できなかった。もうそれは終わらせるべきだと、自分でもわかっていた。でも、他に何がある?

私は自分の会社と、その新しいリーダーシップに期待を寄せたが、不安でもあった。空虚だった。いつ会社が止まって、いつ始まったのか、知らなかった。25歳の誕生会ディナーでは、何も喉を通らなかった。私は恥と恐れに飲み込まれていた。なんとか夕食を持ちこたえることができたが、家に帰るなり、私は泣き崩れた。

恥るのは癖

12月には、私は自分の会社のCEOを辞めた。6カ月後、私はベッドから起きられなくなった。

それから2カ月ほど、私は休養を取ることにした。まだ会社の役員会には属していたが、何も貢献できなかった。UnCollageの後の人生設計を考え始めたが、どこから手を付けてよいやら、わからなかった。自分ではまだ気がついてはいなかったが、私には個人的なプロセスを経る必要があった。生まれ育った家族とは別に、自分は何者で、何を信じているのかを見極めることだ。すでに25歳になっていた私は、そうした疑問をなんとか避けてきた。皮肉なことに、私の同僚はみな、大学でその疑問と対峙していた。

恥じることは、人を消耗させる。自分自身に関する疑問への答を先延ばしにするほど、恥は私を蝕んでゆく。何に気をつければよいのか? 選択は正しかったのか? この会社を立ち上げるときに払った犠牲には価値があったのか? 間違った道を歩んできてはいないか? 私が耐え抜いてきた苦痛は、どれも無駄だったのか? また幸せを感じられるようになるか? 私には自己がまったくないように思われてきた。

自分が有用な人間だと感じさせてくれる仕事を失い、私は毎日、サンフランシスコのドロレス公園で飲んだくれていた。不健康であることは承知していが、何年間も頑張ってきたご褒美だと自分に言い聞かせていた。まだ25歳なのに、人生に彩りが消えてしまった。かつて私に喜びをもたらしてくれた物事は、もう何ももたらしてくれない。笑うことも、痛みに耐えることもできなくなった。どれだけ承認される人物になったかという自分自信のくだらない確信も、もう効かない。このサイクルが続けば、それはますます強大になり、私は弱くなっていく。どんどん引きずり込まれていく。

10月のある月曜日、私はもう廃人同然になっていた。ひとり家にいて、何日間もベッドから出られず、食事もしていないことに気がついた。私は飛行機に乗ってミネアポリスに行くことになっていたのだが、自分にそうさせることができなかった。そこで父を呼んだ。父は、「うつ病かも知れない」と医師に伝えるよう進言してくれた。だがまだ怖くて電話を手に取ることができず、それを医師に告げられたのは数カ月後のことだった。治療が始まった。だが、快方に向かう前に、事態はさらに悪化した。

「会社が思うように行かないので悲しい」という以外に、自分の心の状態を言い表す言葉がなかった。私の頭に電球が灯ったのは、「不安を感じたのはいつ?」とセラピストに聞かれたときだった。思い出せたのは、現金が底を突いてからわずか数日後のことだ。

「感情を極端に大きく感じているだけだと思ったことは? たとえば、1から10までのレベルなのに、20ぐらいに感じているとか。日々の生活で不安を感じるのは、人間として当然です」。

それが扉を開いてくれた。会社を辞めるのが悲しかっただけではない。「成功」しなかったことを恥じていたのだ。ビジネスと結びけていた私のアイデンティティは、成功だけではない。自尊心もだ。心の奥底で、私はこう思い込んでいた。私はダメな人間だと。恥とは、私たちの自我のいちばん深いところに空いた穴だ。永久に存在するように見えるために、埋めることができない。それが自分の本質であるかのように感じられる。業績とは関係ない。

恥は、子どものころに、いろいろな感情から生まれてくる。私は、子どものころ吃音があった。声が悪くて言葉が伝わりにくかったので、それを隠していた。うまく発音できない言葉は、同義語に置き換えていた。そうしていたのは、自分の苗字をどもらずに言えないことへの強烈な羞恥心に対処できなかったからだ。そのうちに、強い恥の感情を麻痺させるために、無視することを憶えた。なんとか対処した。早い時期になんとか対処する方法を学んだので、恥と一緒に、他の感情も麻痺させられるようになった。

会社を立ち上げたころ、悲しみ、消耗、フラストレーション、当惑、不安、罪悪感などといった、「何かが間違っている」と私たちに告げるすべての感情は、表面には現れず、名前も付けられていなかった。そのため、長い目で見て成功した人でも、起業家なら日常茶飯事の、当たり前の、ごく自然な失敗をやらかした日は、家に帰るときに「間違っているのはお前だ」と自分に言い聞かせるしかなかった。

感情を無視することは、子どものころからの私のサバイバル術だった。始めのころに受けた批判から生じる疑いや不安を無視することで、会社の設立を押し通すことができた。しかしそれは、私のアキレス腱でもある。それが私のアイデンティティと自尊心を、自分の仕事に求めるよう仕向けたのだ。

CEOは、それをすべて、まとめて持ってると言われている。CEOは、誰の助けも借りずに先を見通せる、先見の明の持ち主だ。だからこそ私は、他人に助けを求める許可を自分に与えることができなかった。さらに会社を去るとき、私には自分の感情を表現する語彙も意識も欠如していた。ずっと昔、吃音を無視するための手段だった私の完璧主義は、助けと失敗を結びつけ、失敗と恥を結びつけた。

そんな月日を過ごした後も、私はまだ人に助けを求めることを許せなかった。

トラウマを手懐ける

ストレス、過重な負担、燃え尽き症候群。これらは私の感情にもっとも近い言葉だ。スタートアップ企業の間では、繰り返し経験するそれを示す決まり文句にもなっているが、それを押しのけて仕事を続けるのだという。しかし、これらは感情ではない。苦痛や恥といった感情を覆い隠すものだ。すなわちそれは、トラウマのことを指す。

トラウマと聞くと、自動車事故や自然災害や暴力を思い浮かべる人が多い。機能能力を完全に抑え込んでしまう事件だ。しかしトラウマは、現在まで引きずっている過去の経験のひとつに過ぎず、それが、ポジティブにもネガティブにも私たちの心を形作る。

コーチの仕事を通して、私は、可愛すぎる人、醜すぎる人、ゲイすぎる人、太りすぎている人、外国人的すぎる人、頭が悪すぎる人、頭が良すぎる人、暗すぎる人、明るすぎる人など、さまざまな起業家や重役に出会った。これらは、埋めることができず、常にそこにあると自分で信じ込んでいる恥の穴だ。彼らは決して敗者ではない。最大の成功を収めた人でもトラウマを抱えている。彼らはそれを鞭にして、自らを突き動かしているのだ。しかし、恥は振り切ることができない。いつかかならず追いつかれる。それを理解するまでに、私は長い年月を要した。そして、自分自身に温情を持つことが、生涯を通しての課題になった。

自分の自尊心を職業的な野望から切り離すための語彙を手に入れた私は、UnCollageを、誇り高い失敗と思えるようになった。次のプロジェクトに活かせる学びがあったことは言うまでもない。みなさんも、自分自身を愛することを学んで欲しい。そしてその結果として、大成功をもたらす会社を設立して欲しい。

【編集部注】
Dale Stephens
Thiel Fellowの初期メンバーであり、教育関係の企業を6年間経営していた。近年は会社重役向けコーチや、起業家や重役を企業の成長速度に合わせて成長できるよう手助けをしている。

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(翻訳:金井哲夫)