TechCrunch Japanでは起業家の「原体験」に焦点を当てた、記事と動画のコンテンツからなる「Founder Story」シリーズを展開している。スタートアップ起業家はどのような社会課題を解決していくため、または世の中をどのように変えていくため、「起業」という選択肢を選んだのだろうか。普段のニュース記事とは異なるカタチで、起業家たちの物語を「図鑑」のように記録として残していきたいと思っている。今回の主人公はKids Publicで代表取締役社長を務める橋本直也氏だ。
橋本直也
- ・2009年 日本大学医学部卒。
- ・2009-2011年 聖路加国際病院にて初期研修。
- ・2011-2014年 国立成育医療研究センターにて小児科研修。
- ・2014-2016年 東京大学大学院医学系研究科公共健康医学専攻 修士課程。
- ・2015年-現在 都内小児科クリニック勤務。
- ・2015年 Kids Public設立。
- ・2016年 TechCrunch Tokyo 2016のスタートアップバトルで優勝
Interviewer:Daisuke Kikuchi
TechCrunch Japan 編集記者
東京生まれで米国カリフォルニア州サンディエゴ育ち。英字新聞を発行する新聞社で政治・社会を担当の記者として活動後、2018年よりTechCrunch Japanに加入。
「不本意な虐待」の現実に直面し、取り組むべき課題を認識
「小児科医」。
Kids Public代表取締役社長・橋本直也氏のもう一つの肩書だ。
産婦人科医院を開業する医師の父のもとに生まれた橋本氏。「いずれは医師に」という周囲の雰囲気に流され、医学部へ進んだ。
橋本氏「「研修で医療現場に入ってから、『いい職業だな』と思うようになりました。そして医学部5年のとき、小児科を専門にしようと決めたんです。子どもたちが健康になって退院していく姿を見て、これから何十年も続く未来へ送り出せる仕事って素敵だな、このやりがいは他の診療科にはないな、と」
こうして小児科医となった橋本氏が、なぜビジネスの世界で起業するに至ったのか。そのきっかけは、「親の虐待」を目の当たりにした経験だった。
小児科には、虐待が疑われるケガを負った子どもが度々運ばれてくる。しかし真相はわからないままのケースが多い。
そんな中、橋本氏はある母子に出会う。夜中に3歳の女の子が救急車で運ばれてきた。脚がひどく腫れており、レントゲンを撮ると大腿骨が骨折していた。
「私がやりました」。
「とんでもないことをしてしまった」そんな表情で母親は娘の横に寄り添っていた。
橋本氏「その母親は孤独な育児環境に置かれていた。仕事も育児も頑張ってきた結果、ストレスが爆発してしまったのでしょう。社会のサポートがあれば、この母親がここまで追い詰められることはなかったんじゃないか……そう考えるようになりました。ケガを負った子を治療するのが医療者の役割ですが、そんな事態になるのを防ぐことが先決。医師も社会の仕組みにまで介入しなければ、この課題は解決できない。病院で待っているだけでなく、家庭や社会にリーチしていくべきだと思ったんです」
社会構造が子どもに与える影響を体系的に理解し、対策を研究するため、東京大学大学院へ。公衆衛生学を2年間学んだ後、2015年、Kids Publicを設立した。
病院に行く前に、不安を解決できる仕組みをつくる
「子育てにおいて誰も孤立しない社会の実現」を理念に掲げるKids Publicは、インターネットを通じて子どもの健康や子育てに寄り添うサービスを展開している。
LINE・電話を使った遠隔健康医療相談サービス「小児科オンライン」「産婦人科オンライン」を運営。現在、医療スタッフ65名が相談に対応している。法人に導入しており、法人が費用を支払うことで利用者(自治体の住民や企業の社員)は無料で利用できるシステムだ。
富士通、東急不動産、リクルート、三井住友海上、小田急電鉄など、導入企業が広がっている。
橋本氏「親やママ友など、近くに相談相手がいない母親は多い。ちょっとしたことを不安に感じ、鼻水が垂れている、蚊に刺されて腫れているといったことで病院に駆け込んでくるほど。孤独からの不安がエスカレートすれば、子への虐待や産後鬱、自殺といった悲劇にもつながります。早い段階で不安を解決する手段の一つとして、活用が広がればと思います」
学生時代には映画製作に取り組み、映像編集を経験するほか、WordPressを使ってWebメディアの記事も執筆していたという橋本氏。IT・ネットを活用するのは、ごく自然な発想だった。
そして、強くこだわるのは「無料で利用できる」ということだ。
橋本氏「日本の医療体制は素晴らしい。国民皆保険の仕組みにより、家庭の経済格差に関わらず、平等に医療にアクセスできます。次は『病院に行く前の相談』においても、皆が平等にサービスを受けられるようにしたい。今は利用契約を結んでいる法人の社員や自治体の住民で、スマホを持っている人、LINEを使える人が対象となっていますが、なるべく利用の壁を取っ払っていきたいと思います」
また、利用者に不安が生じたときに相談を受け付けるだけでなく、こちらから伝えたい情報やメッセージを定期的に発信していきたいと考え、「小児科オンラインジャーナル」「産婦人科オンラインジャーナル」も発行している。医療者が執筆し、医療者が編集するメディアだ。
想いを同じくするパートナーと手を結び、これから目指すもの
起業に踏み切れた背景には、さまざまな人との出会いがあった。
大学院で学び始めた頃は、自分がビジネスをするイメージはまだ持っていなかった。そんなとき、Webメディアを立ち上げた経営者に出会う。
橋本氏「彼は専門知識を社会にわかりやすく伝えていくことに、社会的な使命感を持って取り組んでいた。『社会を変えるために起業する人がいるのか』と、衝撃を受けました。サービスを開発し、マネタイズし、スケールさせ、サスティナブル(持続可能)経営を行う。そうしたノウハウを学んでビジネス化することは、自分の想いを叶え、目指す社会を実現させるためのエンジンになる、と思ったんです」
こうして起業を決意。創業パートナーとなったのは、女性小児科医の千先園子氏だ。
橋本氏と千先氏が初めて会ったのは大学1年の頃。大学は別だったが、国際医学生連盟で活動を共にした。国際問題・医療問題への意識が高い医学生が集まる、世界各国に支部を置く団体だ。その後、国立成育医療研究センターでの小児科研修で再会した。
以前から社会課題への認識が合致していたこともあり、橋本氏のビジョンに賛同。夫も起業家であり、フレキシブルな思考力を持つ千先氏は、心強いパートナーだ。
また、「育児の孤立を防ぐには、妊娠期からのサポートが必要」と考え、産婦人科領域の知人に相談。紹介により、産婦人科医の重見大介氏と出会った。もともと同じ構想を持っていた重見氏と意気投合。重見氏は現在、産婦人科オンラインの代表を務める。
橋本氏「『子どもに投資する社会であるべき』。そんな共通認識を持っている人とパートナーシップを結んでいます」
今後は、女性の健康全般、思春期の子どもたちの悩みなどにも接点を持っていきたいと考えている。婦人科も巻き込んだ女性の健康サポート体制の構築、子どもとドクターがオンラインで対話できる場などを設けていく構想を練っている。
橋本氏「もっと多くの人にとって『医療』を身近なものにする役割を担っていきたいですね」
<取材を終えて>
国立成育医療研究センターなどのチームは2018年9月、2015年から2016年に102人の女性が妊娠中から産後にかけて自殺しており、妊産婦死亡の原因の中で最も多いと発表。また、日本労働組合総連合会による「働きながら妊娠をした経験がある20歳〜49歳の女性」への調査(2015年)によると、過度の就労が早産などのトラブルのリスクを高めることについて「自分も職場の人も十分な知識がなかった」と回答した割合が4人に1人。
気軽に相談ができる産婦人科オンラインは母親たちのストレスや悩みを軽減する心強いサービスとなっている。
「近くに相談相手がいない母親は多い」と橋本氏は話していたが、“ICTのちから”を使い寄り添うことで孤独から救える対象はまだまだ多く存在すると思う。
僕はこれまでに“いじめ防止プラットフォーム”の「STOPit」などを紹介してきたが、子供たちには家族や友人に相談しにくい“健康”に関する悩みもあるだろう。そんな彼らを救うための遠隔相談サービスのローンチに期待したい。(Daisuke Kikuchi)
( 取材・構成:Daisuke Kikuchi / 執筆:青木典子 / 撮影:田中振一 / ディレクション・動画:平泉佑真 )