家庭用プリンターで電子回路を「印字」するというユニークなプロダクトでTechCrunch Tokyo 2014のスタートアップバトルで見事に優勝した東大発スタートアップ企業「AgIC」(エージック)が今日、総額1億7500万円の資金調達を行ったことを発表した。同社がTechCrunch Japanに語ったところでは、1月末までにBeyond Next Venturesをリードとし、さらに接着剤メーカーとして誰もが知る、あのセメダインからも調達しているという。
Beyond Next Venturesは先日代表のインタビューを記事にしたばかりだが、2014年設立で、主に大学発の技術系ベンチャーを支援していてる独立系VC。代表を務める伊藤毅氏は前職のジャフコ時代には、介護用ロボットスーツ「HAL」を手掛けるサイバーダインや、クモの糸を人工合成するSpiber、次世代ゲノム解析装置の開発するクオンタムバイオシステムズ、バイオ3Dプリンターを活用した再生医療のサイフューズなど、多くの大学発ベンチャーを技術シーズの段階から支援して、社外取締役を務めた経験がある。
投資領域としても金額的にもBeyond Next VenturesがAgICに投資する理由は分かりやすい。しかし、セメダインは一体……!? セメダインがスタートアップ企業に投資するのは恐らく初めてなのではないかと思うが、多くの読者が「なぜ?」と思うことだろう。
AgIC創業者の清水信哉CEOの話を聞くと、背景には「プリンテッド・エレクトロニクス」の広い応用市場を見据えて「導電性の接着剤を作る」という共通の目標があるのだそうだ。そして、これはAgICのピボットと深い関係がある。
回路プロトタイプより、はるかに大きなプリンテッド・エレクトロニクス市場
もともとAgICは、家庭用インクジェットプリンターで導電性をもった専用インクを「印字」して紙の上に電子回路を打ち出すことで、安価にプロトタイプを作るためのプロダクトだった。ハードウェアが絡む製品や研究で、いちいち基板パターンを業者に発注して1週間とか1カ月待たなくても電子回路の試作を繰り返せることから、プロトタイプ作成時のイテレーション速度がグンと上がる。インクジェットのカートリッジを専用のものに差し替えるというハックも注目されたのだった。
しかし、開発と事業化を進めていくなかで別の可能性があることにも気付いたのだそうだ。「当初はプロトタイピング用途ぐらいにしか使えないかなと思っていました。ただ、大手企業と提携したりしていく中で産業用途で使えると気付いたんです」と清水CEOはいう。
ふだん消費者としては気づかないが、家庭用インクジェットだと品質を保証できないという問題があるそうだ。一般ユーザー用途ならときどき印字すべきところでインクが抜けていても問題にならないが、回路だと断線する、ということだから使えない。一方、工場などで使われる産業用のインクジェットプリンターは「構造からして家庭用とはぜんぜん違う」(清水CEO)。産業用インクジェットプリンターの大手であるミマキエンジニアリングと技術提携していくなかでAgICは、「回路プロトタイピング向けの家庭用プリンター・モジュール販売」というビジネスから、「プリンテッド・エレクトロニクス製造」という領域へとピボットを決めたのだそうだ。
IoT・ウェアラブルに必須となる基礎製造技術開発で走り出す米国
プリンテッド・エレクトロニクスは、文字通り印刷による電子製品の製造をさすが、より広い視点で捉えると「フレキシブル・ハイブリッド・エレクトロニクス」と呼ばれる技術フロンティアにおけるカギとして注目されている領域だ。薄く、曲げたり丸めたりできるような電子製品の製造技術には、回路を形成するフィルム、そこに正確に微細にプリントする技術、導電性のあるインク、インクを定着させる接着剤、安定して稼働する回路パターンについての知見など、さまざまな技術が必要となる。
米国ではオバマ政権主導のもと国防省が2015年8月にこの領域でイニシアチブ「FlexTech」をシリコンバレーに発足したのがニュースになっている。政府から7500万ドル(約88億円)、民間から9600万ドル(約112億円)を集めて、向こう5年かけて関連技術の研究開発に投資するといい、96社、11の研究所、42大学、そして14の州・地域の組織がこのイニシアチブに参加している。これは米国内で製造業が空洞化したことに対して、次のフロンティアであるフレキシブルでは主導権を握ろうという危機感に基づく強いリーダーシップの現れであると同時に、市場ポテンシャルを示しているように思われる。東海岸でなく西海岸にハブを作るというのも、これがソフトウェア・ネット産業と連携する領域であると見てのことだろう。
薄くて曲げられる電子製品は、身体にフィットするウェアラブルには不可欠な技術となるだろうし、広い領域に張り巡らせるセンサーネットワークを安価に実現するには「プリントするだけ」で良いプリンテッド・エレクトロニクスの実現が欠かせない。
AgIC創業者の清水CEOは日米間の温度差に危機感を覚えていてるそうで、TechCrunch Japanの取材に対して、こう話す。
「センサーネットワークは、ホワイトハウスが言っている本命です。例えば壁にプリンテッド・エレクトロニクスが使われていてセンサー類が貼ってある。その前を人が通ったかとか、体温はどうだとか、そういうことが分かる。床も同様です」。
国境警備とか陸橋にセンサーを貼るようなことも、安価にできるだろうという。お騒がせ大統領候補のドナルド・トランプ氏が米国とメキシコの国境に「トランプの長城」を作ろうと言ったりしたネタを真に受け、もし作ったらコストがいくらだなんて議論も聞こえてくるが、ロール紙に回路をプリントして何百kmにも及ぶ長大なセンサーネットワークも実現できるのかもしれない。
薄く、曲がるようになったエレクトロニクスは社会の中に入っていくだろう。そのときに重要な要素技術がプリンテッド・エレクトロニクスなのだ、というのがAgIC清水CEOの見方だ。「壁や床にセンサーを貼れば、店舗や商業施設での動態管理に応用できる。ただ、面白い未来もあるが、まだサービスのニーズがあるかどうか見えない」。
いまAgICが狙っているのは床暖房の置き換えだそうだ。
既存家屋に床暖房を入れるためには床を上げて温水パイプを入れないといけない。これが回路をプリントしただけの薄い「電気式ヒーター」であれば、敷くだけで実現できる。いくらでもロール紙でプリントして大きな面積をカバーできるのもメリットだ。
AgICでは、断線やショートが起こらない印刷パターンを自動生成するアルゴリズムを持っているそうで、今は線と線の間のマージンをどのくらいにすべきかといったノウハウをためている段階だという。
すでに国内市場では、マンションのリノベーションを手掛ける業者と具体的な話を進めている。国内だけでなく、「床暖房はまだこれから世界的に伸びる市場」と清水CEOは見る。世界的に見れば、床暖房はまだまだ贅沢設備。ちょうど自動車が贅沢品だったのと同じで、中国などでは、これから床暖房市場は伸びいくだろうという。
セメダインが導電性の接着剤を作る
AgICは前回の資金調達ラウンドで三菱製紙とも資本提携している。これは回路を印刷するためのフィルム及びインクの領域で協業するためだ。プリンテッド・エレクトロニクス実現には、他にも要素技術が必要になる。
その1つが、プリントした回路を定着させるための「導電性の接着剤」だ。これがAgICがセメダインと協力して研究開発を進める理由だそうだ。
セメダインは1923年創業の材料メーカーとして、多種多様な材料を生産している。ただ、これまでは非導電性の接着剤を作ってきた。今回AgICへの出資に伴い、プリンテッド・エレクトロニクス分野に積極的に展開していくという。
「日本の材料メーカーは高い技術を持っています。AgICで使うのは銀粒子を練り込んだ材料ですが、粘度を下げたり、導電性を変えたりといろいろ試しているところです。硬化温度や弾力性、伸縮性などいろいろと見るべきパラメーターがあります。セメダインはどこにでも接着できることと、弾力性が高くて曲げたときにはがれにくいことが強みなのですが、プリンテッド・エレクトロニクス自体は曲げない用途もあります。そういう場合は弾力性が不要ですし、何種類か作っていくことなると思います」
セメダイン単体では、実際の応用に直結した知見を得づらい上に、まだ研究中の材料だと、ちょっと市場に出してみる、というようなことができない。そんな事情もAgICのようなスタートアップ企業との提携の背景にあるようだ。