テクノロジービジネスで面白いのは、ほとんどの場合に重要なのはテクノロジーではないことだ。重要なのは人々がどうそれに反応するかであり、それがどんな新しい社会規範をつくりだすかだ。これは、スマートフォンやインターネットが展開期の半ばをはるか過ぎた今日には特にあてはまる。
人々、賢明で思慮深く十分な専門知識と経歴をもつ人々は、AirbnbやUberは失敗する運命にある、なぜなら赤の他人の家に泊まりたい人や赤の他人の車に乗りたい人などいるわけがないからと考えた。人々は、iPhoneは大失敗する、なぜならユーザーは「タッチスクリーンを忌み嫌う」からと考えた。人々は、エンタープライズ用の「サービスとしてのソフトウェア」は成功しない、なぜなら企業幹部はサーバーを自社でもつことにこだわるからと考えた。
その人たちは完全に間違っていた。しかし、注意してほしいのは彼らがテクノロジーを見誤ったのではないということだ(実際、だれもテクノロジーの議論はしなかった)。完全に間違っていたのは、自分以外の人々や自分の社会とカルチャーが、この新しい刺激にどう反応するかだった。彼らは人類学的に間違っていた。
これは、もちろん、あらゆる有力ベンチャー企業や巨大IT企業が、エリート人類学者からなる精鋭チームに多大な予算と自由裁量を与えて幹部チームの直属に置いている理由だ。えっ、違う?実際には、フォーカスグループやユーザーインタビューで、ありえない設定の利用方法や、見知らぬテクノロジーの見知らぬ状況での使い道を質問して、それを彼らなりの人類学的、いや失礼、マーケット・リサーチだと呼んでいる。
冗談、冗談。少なくとも私にはエリート人類学者の精鋭チームがそこまで効果的かどうかわからない。人々が新しいテクノロジーをどのように使うか、それが唯一の変数である時の答えを正確に求めることは難しい。新しいテクノロジーが絶えず変化し進化していく世界に生きているとき、新しいテクノロジーが根付いて広まるポジティブ・フィードバックループが働くとき、そして新しいテクノロジーを最初に20回操作したときに感じることが毎回変わるとき。予測は事実上不可能になる。
そして、そう、苦痛を伴う試行錯誤が、あらゆるところで行われた。UberとLyftも、人々が他人の車に喜んで乗るとは思っていなかった。Uberがスタート当初、現在Uber Blackと呼ばれている電話で呼ぶリムジンサービスだったことや、Lyftには「助手席に乗って、ドライバーとグータッチしよう」というかなり恥ずかしいポリシーがあったのもそれが理由だ。これらはサクセスストーリーだ。企業の墓場には、人類学的予想が大きく外れて、正しい方向転換を素早くできなかった/しなかった会社が山ほど埋められている。
VCやY Combinatorがスタートアップよりはるかに安定したビジネスなのは、それが理由だ。彼らは何十何百もの人類学的実験を並行して進められるのに対して、スタートアップにできるのは1つか2つ、特別速くて3つで、そして死んでいく。
これはエンタープライズビジネスにももちろん当てはまる。Zoomは、信頼性の高い実用的なビデオ会議システムを作れば、企業カルチャーが大成功に導いてくれるという人類学的な賭けだった。「予想外な発見の瞬間」を促す対面の会議が必要だ」という雰囲気がCEOたちの間に立ち込めることは容易に想像できるが、それは多くの大企業がテレワークに否定的で巨大な会社キャンパスを好む、今や古めかしい体質と同じだ。
これはテクノロジーの展開期に限らない。突入期にも独自の人類学がある。ただし、突入フェーズが影響を与えるのは経済の小さなセクターであり、そこにはテクノロジスト自身が主に参加しているので、技術者にとって自分たちの視点に基づいて社会がどう変化するかを見通すことは人類学的に妥当である。
今日極めて高度な技術も、明日にはそうではなくなるというのが多くの人々が支持しているメタ人類学理論だ。これは、恐ろしく非典型的で小規模な暗号通貨コミュニティーで信じられていることでもある。しかし、かつてそれが真実だったとして、果たして今もそうだろうか?それとも、そのパターンから逸脱することが、新しくて大きな社会的変化なのだろうか?私にはわからない。しかし、それを見つける方法はわかる。苦痛を伴う試行錯誤だ。
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(翻訳:Nob Takahashi / facebook )