テクノロジーは人類学である

テクノロジービジネスで面白いのは、ほとんどの場合に重要なのはテクノロジーではないことだ。重要なのは人々がどうそれに反応するかであり、それがどんな新しい社会規範をつくりだすかだ。これは、スマートフォンやインターネットが展開期の半ばをはるか過ぎた今日には特にあてはまる。

人々、賢明で思慮深く十分な専門知識と経歴をもつ人々は、AirbnbやUberは失敗する運命にある、なぜなら赤の他人の家に泊まりたい人や赤の他人の車に乗りたい人などいるわけがないからと考えた。人々は、iPhoneは大失敗する、なぜならユーザーは「タッチスクリーンを忌み嫌う」からと考えた。人々は、エンタープライズ用の「サービスとしてのソフトウェア」は成功しない、なぜなら企業幹部はサーバーを自社でもつことにこだわるからと考えた。

その人たちは完全に間違っていた。しかし、注意してほしいのは彼らがテクノロジーを見誤ったのではないということだ(実際、だれもテクノロジーの議論はしなかった)。完全に間違っていたのは、自分以外の人々や自分の社会とカルチャーが、この新しい刺激にどう反応するかだった。彼らは人類学的に間違っていた。

これは、もちろん、あらゆる有力ベンチャー企業や巨大IT企業が、エリート人類学者からなる精鋭チームに多大な予算と自由裁量を与えて幹部チームの直属に置いている理由だ。えっ、違う?実際には、フォーカスグループやユーザーインタビューで、ありえない設定の利用方法や、見知らぬテクノロジーの見知らぬ状況での使い道を質問して、それを彼らなりの人類学的、いや失礼、マーケット・リサーチだと呼んでいる。

冗談、冗談。少なくとも私にはエリート人類学者の精鋭チームがそこまで効果的かどうかわからない。人々が新しいテクノロジーをどのように使うか、それが唯一の変数である時の答えを正確に求めることは難しい。新しいテクノロジーが絶えず変化し進化していく世界に生きているとき、新しいテクノロジーが根付いて広まるポジティブ・フィードバックループが働くとき、そして新しいテクノロジーを最初に20回操作したときに感じることが毎回変わるとき。予測は事実上不可能になる。

そして、そう、苦痛を伴う試行錯誤が、あらゆるところで行われた。UberとLyftも、人々が他人の車に喜んで乗るとは思っていなかった。Uberがスタート当初、現在Uber Blackと呼ばれている電話で呼ぶリムジンサービスだったことや、Lyftには「助手席に乗って、ドライバーとグータッチしよう」というかなり恥ずかしいポリシーがあったのもそれが理由だ。これらはサクセスストーリーだ。企業の墓場には、人類学的予想が大きく外れて、正しい方向転換を素早くできなかった/しなかった会社が山ほど埋められている。

VCやY Combinatorがスタートアップよりはるかに安定したビジネスなのは、それが理由だ。彼らは何十何百もの人類学的実験を並行して進められるのに対して、スタートアップにできるのは1つか2つ、特別速くて3つで、そして死んでいく。

これはエンタープライズビジネスにももちろん当てはまる。Zoomは、信頼性の高い実用的なビデオ会議システムを作れば、企業カルチャーが大成功に導いてくれるという人類学的な賭けだった。「予想外な発見の瞬間」を促す対面の会議が必要だ」という雰囲気がCEOたちの間に立ち込めることは容易に想像できるが、それは多くの大企業がテレワークに否定的で巨大な会社キャンパスを好む、今や古めかしい体質と同じだ。

これはテクノロジーの展開期に限らない。突入期にも独自の人類学がある。ただし、突入フェーズが影響を与えるのは経済の小さなセクターであり、そこにはテクノロジスト自身が主に参加しているので、技術者にとって自分たちの視点に基づいて社会がどう変化するかを見通すことは人類学的に妥当である。

今日極めて高度な技術も、明日にはそうではなくなるというのが多くの人々が支持しているメタ人類学理論だ。これは、恐ろしく非典型的で小規模な暗号通貨コミュニティーで信じられていることでもある。しかし、かつてそれが真実だったとして、果たして今もそうだろうか?それとも、そのパターンから逸脱することが、新しくて大きな社会的変化なのだろうか?私にはわからない。しかし、それを見つける方法はわかる。苦痛を伴う試行錯誤だ。

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(翻訳:Nob Takahashi / facebook

テック業界を支配するスマホの「次」に何が起こっているのか?

テクノロジー業界において、この10年はスマートフォンの時代だった。2009年時点では、Symbian OSがまだ支配的な「スマートフォン」のOSだったが、2010年にはiPhone 4、Samsung Galaxy S、Nexus Oneが発売され、現在、AndroidとiOSがアクティブなデバイス数で合計40億台を誇る。スマートフォンとアプリは、もはや破壊的な新しいプラットフォームではなく成熟した市場だ。次は何がくるのだろうか。

その問いは、次に必ず何かがくることが自然の法則であることを前提としている。この前提が正しそうに見える理由は簡単だ。過去30年以上にわたり、それぞれの分野が重なっている、世界を変える3つの大きなテクノロジープラットフォームへのシフトを我々は経験してきた。3つの分野とはコンピューター、インターネット、スマートフォンのこと。いずれ4つめが地平線のかなたに現れることは避けられないように思える。

AR/VR、ブロックチェーン、チャットボット、IoT、ドローン、自動運転車(自動運転車はプラットフォームだ。まったく新しい周辺産業が爆発的に生まれる)と、過去数年間、次の候補に事欠くはなかった。しかし、いずれも楽観的な予測をはるかに下回っていることに気づくだろう。何が起こっているのだろうか。

PC、インターネット、スマートフォンの成長の勢いが、これまで揺らいだりつまづくようなことはなかったように思える。ここに、インターネットのユーザー数の推移がある。1995年の1600万人から1998年には1億4700万人に増えた。2009年以降のスマートフォンの販売推移はこのとおりだ。Androidはわずか3年で100万台未満から8000万台以上になった。これが、主要なプラットフォームへのシフトだ。

PC、インターネット、スマートフォンの成長をAR/VR、ブロックチェーンといった候補のそれを比べてみよう。不公平な比較だとは思わない。それぞれの分野が「大きな何か」になると主張する事情通がいる。もっと手堅い予測をする人々でさえ、ピークの水準は小さいかもしれないが、少なくともスマートフォンやインターネットと同じ成長の軌道を描くといういう。だが実際のところ、どうだろうか。

AR / VR:2015年にさかのぼるが、筆者は非常に有名なVCと話をした。そのVCは自信満々に、2020年までに最低でも年間1000万台のデバイスが出回ると予想した。実際どうなったか。2017年から2019年までにかけて370万台、470万台、600万台と推移し、Oculusは再編中だ。年間27%の成長率は確かに悪くない。だが「一貫して27%」という成長率は、次の大きな何かになると主張するには、少し心配になるといったどころではない。「3年で10倍」からはさらに遠い。2020年までにMagic Leapが深刻な状況になると予想した人はほとんどいなかった。やれやれ。他のAR / VRスタートアップは「残念な」状況だというのが最も的確な説明だ。

ブロックチェーン:ビットコインは正常に機能していて、2010年代にテクノロジーに起こった最も奇妙で興味深いことだと思う。しかし残りのブロックチェーンはどうだろうか。筆者は広い意味で仮想通貨の信奉者だ。だが、2017年半ばに仮想通貨の敬虔な信者に対して、2019年末までに企業向けブロックチェーンが実質的に死んでしまうとか、分散型アプリケーションの使用が依然として数千台に留まっているとか、スモールビジネスへの担保付き貸し付け以外に本当の新しい利用事例は発生しなかったなどと言おうものなら、彼らを怒らせることになったはずだ。そして、まだその段階にとどまっている。

チャットボット:真面目な話、チャットボットはついこの間まで未来のプラットフォームとしてもてはやされていた(Alexaは、端的に言うとチャットボットではない)。「世界は書き直されようとしており、ボットは将来大きな存在になる」。これは実際の発言からの引用だ。Facebook Mは未来のものだったが、もはや存在しない。マイクロソフトのTayも未来のものだったが、もはや存在しない。Zoに取って代わられた。ご存知でしたか。筆者は知らなかった。そして今やそのZoも存在しない。

IoT:最近の記事のタイトルをいくつか見てみたい。「なぜIoTが一貫して予測を下回っているのか」「IoTは死んだのか」「IoT:昨日の予測と今日の現実」。ネタバラしをすると、最後のタイトルは、現実が予測を超えて成長したことについての記事ではない。むしろ「現実は予想を超えてバラ色ではないことが判明した」といったものだ。

ドローン:現在、ドローンの領域では本当にクールなことがたくさん起こっている。筆者は何でも最初に試したい人間だ。しかし、ドローンによる物理的な荷物配送ネットワークを形成の実現には程遠い。Amazonは2015年にPrime Airの計画をもったいぶってチラ見せし、2016年最初のドローンによる配送を開発した。世の中はすばらしい出来事が起こることを期待していた。そしてまだすばらしい出来事を期待しているが、少し期待しすぎている部分はあると思う。

自動運転車:我々にはもっと多くのことが約束されていた。Elon Musk(イーロン・マスク)氏の誇張についてだけ言っているのではない。2016年からこういうタイトルの記事が出始めた。「2020年までに1000万台の自動運転車が路上に」「5年後に真の自動運転車が登場、フォードが発表」。一応、Waymoの好意で、フェニックスでクローズドパイロットプロジェクトが実施されているが、それはフォードが話していたものではない。フォードは「ハンドル、ブレーキ、アクセルペダルがない自動運転フォード車が、5年以内に大量生産される予定だ」と言っていた。それは、今から18カ月後のことになる。「1000万台」の予測に至っては12カ月しかない。筆者が多少の懐疑論を展開しても許してもらえると思う。

もちろん、これらは成功していないようだということを意味しているのではない。AirPods、Apple Watch、Amazon Echoファミリーなど、多くの新製品がヒットした。ただし、これら3つはすべて、新しいプラットフォームというよりも新しいインターフェイスだ。ゴールドラッシュなどではなく、1つの銀の鉱脈にすぎない。

機械学習やAIをリストから外したことに気づいているかもしれない。実際には定性的な飛躍が確かにあったが、a) 急成長が続くというよりは、Sカーブの平坦部分に突入してしまったという一般的な懸念がある  b)いずれにしろ、AIはプラットフォームではない。さらに、ドローンと自動運転車はいずれも汎用自動化という名の壁に直面している。つまりAIの壁だ。AIは多くの驚くべきことが行えるが、2020年に1000万台の自動運転車が走る、というかつての予想は、AIがあれば自動運転は十分に可能だと予測したことを意味しているが、実際のところ予想よりもずっと遅れている。

いずれのテクノロジーも、次の10年を決定づける存在になり得る。ただし、考慮しておくべきもう1つの点として、いずれもそうはならないかもしれないという可能性があることだ。あるテクノロジープラットフォームが成熟し始めると同時に、別のプラットフォームが必然的に台頭し始めるというのは、反論の余地がない法則ではない。「次の大きな何か」の前に、長い空白があるのではないか。その後、2、3つのことが同時に発生するかもしれない。もしあなたが、今度こそその店に入ろうとしていると公言しているなら、筆者は警告したい。店の前で長い間待つかもしれないということを。

画像クレジット:Robert Basic / Wikimedia Commons under a CC BY-SA 2.0 license.

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(翻訳:Mizoguchi)

AlexaからGoogleまでスーパーボウルに、傑作テクノロジーCM集結

今年もスーパーボウルの季節になった。アトランタで開催されるSuper Bowl 2019(有料視聴はこちらからできる)ではペイトリオッツとラムズが対決する。放映されるCMにはAmazon、Google、Microsoftなど巨大テクノロジー企業の自信作が集結する。

実際、Amazonは事業分野ごとに異なるCMを用意した。スマートアシスタントのAlexaのプロモーションだけでなくAmazon Prime Videoで公開されるオリジナル番組、Hannaの予告編も見られる。

Microsoftは、最近強まっているテクノロジー企業バッシングを打ち消すべく、ハンディキャップを持つ子どもたちが最新のテクノロジーによってコミュニケーションが可能になった様子を紹介し、テクノロジーが人々の生活を改善してきたかを強調している。

そこまで有名でないテクノロジー企業、たとえばデート仲介サービスのBumbleはセレーナ・ウィリアムズを起用してメッセージを伝えている。ブログ・プラットフォームのSquarespaceはイドリス・エルバを使って「独自のサイトづくり」をアピールしている。

テクノロジー企業だけでなく、ポテチップで有名なプリングルズ・ブランドもスマートアシスタントが主役だ。自動車のCMでは最新のテクノロジーを強調しているAudiを選んだ。

ここではすでに公開ずみのCMをエンベッドした実際の試合中継9で初めて登場するCMもあるので、必要ならゲームの終了後にアップデートする。

Amazon Alexa

「Alexaにも出来ないことがある」というジョーク。ハリソン・フォードをフィーチャー。 

Amazon Prime/”Hanna”

”Hanna”は2011年公開の同名アクション映画のストリーミング版リメイク。優れた格闘能力を見にけた少女が謎の敵と戦う。

Audi

カシューナッツを喉につまらせた男が一瞬Audiの最新電気自動車の幻を見る。

Bumble

「待っているだけでは今の私はなかった」とセレーナが積極性を奨める。

Expensify

ラッパーが個人会計ソフトを推薦。

Google

Googleが世界で活躍するリアルタイムの翻訳の威力をデモ。

Michelob Ultra

ジム帰りのロボットがミケロブを楽しんでいる人間をうらやむ。

Microsoft

ハンディキャップを持つ子どもたちが最新のテクノロジーによって豊かなコミュニケーションが可能になった様子を紹介し、テクノロジーがいかに人々の生活を改善してきたかを強調する。

Pringles

プリングルズの味の組み合わせをスマートアシスタントに尋ねる。

Squarespace

PR担当者がイドリス・エルバに簡単な質問をして即座にブログを立ち上げる。

TurboTax (teaser)

税務申告ソフトがロボットチャイルドがいる未来を想像。

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滑川海彦@Facebook Google+

テクノロジーの「暗い森」(Dark Forest)

かつての私たちはなんと楽観的だったことだろう。テクノロジーは私たちに環境と調和した豊かな世界をもたらして、さらには新しい世界さえ連れてくる筈だったし、インターネットは国境を消し去り、あらゆる障壁を普遍的な表現の自由で置き換えて、私たち皆をより近しいものにしてくれる筈だった。私たちがあらゆる進歩を楽しみに見つめていた時代のことを覚えているだろうか?

私は、Liu Cixin(劉慈欣)による素晴らしいSF3部作である”Remembrance of Earth’s Past”(地球の追憶)シリーズを読み終えたところだ。それは私たちの時代に対して、冷静に切り込む悲観的な物語である。あまりネタバレしないように紹介するならば、この物語は異世界との楽観的な接触への期待が、決して思うようには進まない ―― なぜなら宇宙は「暗い森」(”The Dark Forest”:3部作の2冊めのタイトル)だから ―― という苦い気付きを描き出す作品だ。ここで語られる「暗い森の理論」とは、文明というものは、お互いを恐れるがゆえに、自分たちがいきなり潜在的な脅威と見なされ破壊されることがないように、あえて自分自身を積極的に晒す(さらす)ことはしないというものだ。

ここにはある種の類似がある。私たちは、テクノロジーを恐れ、それが提供するすべてのものに不信感を抱き、新しいものすべての裏側に、ダークサイドがあると想定するようになってしまった。例えば最近ミニブームとなった“10 Year Challenge”(10年チャレンジ)ミームを考えてみよう。それに対してこのWiredの記事は、このブームは、FacebookのAIが顔の加齢をよりよく認識できるようにする訓練に、私たちを向かわせるトロイの木馬だろうと指摘している。

だが私はそれは疑わしいと考えている。別にFacebookの透明な誠意を信じているからではない。なぜなら彼らは既に、より正確に(そして密かに)タグ付けできるデータを、豊富に所有しているからだ。たとえ明示的なタグ付けが多少役にたつものだとしても(私はそのことに対しても疑念を抱いている。メタデータは失われ、いたずらや冗談目的の投稿も多いからだ)、目立った変化をもたらすものではない。Max Readは次のようにツイートしている

だが私は、上の記事は、私たちの多くがいかにテクノロジーを「暗い森」として扱うようになったかを示す典型的な例だと考えている。テクノロジーが提供するものは何でも、無害と証明されるまでは脅威だと考えられるようになり、たとえ一度無害が証明されたとしてもやはり脅威であると思われ続ける場合もある。この関係が逆であったのはそれほど昔のことではない。どのように、そしてなぜ、こうなってしまったのだろうか?

その理由の一部は、おそらく憤りによるものだ。きわめて裕福で影響力のあるハイテク産業は世界有数のパワーセンターの1つになった。そして人びとは、テクノロジーはこの新しいヒエラルキーを破壊したり弱めたりするどころか、ますます強化しようとしているのではないかと(正しく)考えるようになっている。人間のヒエラルキーを改善するのは、民主主義の仕事だ。だがそれはテクノロジーの仕事ではない、という気持ちを振り払うのは難しい。まあ確かに、ここ数年の民主主義は、驚くほど貧弱な仕事しかしてきていなかったように見える。だがそれを全て、テクノロジーのせいだと責めることは難しい。

私は、こうしたテクノロジーを「暗い森」扱いする態度の大部分は、多くのひとにとってテクノロジーが、本質的に魔法化してしまっているからだろうと考えている。AIの場合、上のWiredの記事からもわかるように、専門家たちでさえも、テクノロジーが必要とするものについて合意することはできず、それがどのように機能するのかについてや、結果がどのように得られたかのかについて、正確に説明することはできていない(その「結果」も常に再現性があるわけではない)。

(おそらく知らないうちに、偏った結果が得られているのだ!と叫びたいひとも居るかもしれない。それは真実だし重要な点だ。しかし、業界の外の人びとが皆、声高に机を叩きながら、ハイテク業界に対してAIが暗黙的なバイアスを持っていることを無視しないようにと詰め寄る様子は異様なものに感じる。私が知っているすべてのAI関係者たちはこのリスクを深く認識しており、それを主要な関心事だと常に語っている。そして実際それを軽減もしくは排除するためにあらゆる努力を惜しんではいない。それなのに、すべてのAI研究者およびエンジニアたちが、このリスクを軽いものと受け止め無視しているという暗黙の前提があるのは何故だろう?。そう、繰り返しになるが、テクノロジーが暗い森になってしまったからだ)。

「魔法としてのテクノロジー」は、AIだけとは限らない。スイッチを操作してライトが点灯したときに、何が起こるかを本当に理解している人が何人いるというのだろう。テキストメッセージングがどのように動作しているのかを、少ないとしても本当に理解している人間が何人いるだろうか?あるいは地球の気温がほんの2、3度変わっただけで数十億の人間に壊滅的な影響が及ぶのは何故なのかを理解している人の数は?多くはない筈だ。私たちが恐れているのは何なのか?私たちが恐れているのは未知の出来事なのだ。ほとんどの人にとって、テクノロジーは暗い魔法であるために、テクノロジーは暗い森になってしまうのだ。

だが問題は、この暗い魔法(dark magic)こそが、地球温暖化のような急を要する眼の前の問題を解決する、唯一の希望だということだ。私たちは既に、かすんではっきりしない脅威に満ち溢れた、暗い森の中に住んでいる。それらは新しいテクノロジーによってもたらされたものではなく、旧来のテクノロジーが、私たちの星のもつ容量から溢れ出てしまったことによってもたらされた結果なのだ。気候変動は、森を抜けて恐ろしいスピードで私たちに届けられる恐怖の予感であり、その中でテクノロジーは、私たちを導くことができる火の1つかもしれないのだ。

当然のことながら、そのテクノロジーの火は、理論的には、長期的にはあるいは間違った使われ方をして、最終的にある種の脅威になる可能性がある。それは多くの悪人によって利用されて人びとを操り、抑圧を具体化し、ふさわしくない人びとのてに富をもたらす。地球の一部の地域では、さらなる恐ろしいやり方で技術が誤用されている。すべて実際の出来事だ。だが火が危険であるという理由だけでは、その全ての新しい利用方法が悪意ある脅威になるとは断言できない。お決まりの反対運動はやりすごして、新しいテクノロジーは(たとえそれがFacebookからやって来たとしても)自動的に悪用されてしまうものではないという、ちょっとした楽観主義、ちょっとした希望、そしてちょっとした信頼を取り戻そう。

(私にとって、Facebookが多くの悪いことを行っていることを認め、それを非難することにためらいはない!だがそれは、彼らがすることすべてが悪いという意味ではない。企業は人間のようなものだ。このような時代には信じることは難しいかもしれないが、彼らは善いことも悪いことも同時に行うことができるのだ。ショックだろうが、これはイーロン・マスクに対しても成り立つ話だ)。

私はただそれを良いことだと言っているわけではない。私が言いたいのは、とにかく何かをする必要があることだろうということだ。なぜなら好きか嫌いかにかかわらず、私たちは既に種(しゅ)として、とてつもなく暗い森の中に迷い込んでしまったように思えるからだ。そしてより良いテクノロジーを積み重ねて行くことだけが、その森を抜け出すための手段なのだ。もしそれが意図的に、落とし穴と流砂で一杯の道だと想定して始めてしまっては、その脱出の道筋を切り拓くことはとても困難になってしまう。あらゆる意味で懐疑的ではいよう。しかし私たちの基本的な立場として、犯罪行為と悪意を仮定するのは止めておこう。

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(翻訳:sako)

われわれを分断しているのはフェイクニュースだろうか?

すべてインターネットのせいだそうだ。イギリスのEU離脱派対残留派、アメリカの共和党対民主党などの対立する層は互いに別種の現実に住んでおり、相手陣営に向かってあらゆる機会をとらえて「フェイクニュース!」と叫んでいる。メディアも政治的立場によって分裂し、FacebookとGoogleが圧倒的な地位を占めるにつれてユーザーは自分の好むニュースや検索結果しか目にしないというフィルターバブル現象も生じている。現実に対するコンセサスが失われてしまった等々…。

しかし、今週私は映画『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』を見て、そもそもわれわれは現実のあり方に対するコンセンサスなど持っていたことはなかったのだと感じた。われわれがコンセンサスと思っていたのは、実は押し付けられたものだった。マスメディアや政権は常にわれわれの前にあり、大衆に届けられるべきニュースはどれとどれであるかについて暗黙の合意があった(ノーム・チョムスキーの『マニュファクチャリング・コンセント マスメディアの政治経済学』も参考になる)。現在の倫理的な危機は政府がメディアでウソをついていたことに発しているが、実はそれははるか以前からのことだった。

大昔の歴史の話ではない。イラクの政体はベトナムとそう異なるものではなかったが、ホワイトハウスは(それに英国政府も)真っ赤なウソをつき、メディアもそれを承認して拡散した。イラクを巡る戦争は何十万もの命を犠牲にし、何兆ドルもの金が投じられた。ドナルド・トランプはなるほど嫌う人間がいちばん多い大統領かもしれないが、トランプ政権は(今のところ)リチャード・ニクソンやジョージ・W.ブッシュの政権のような戦争を始めていない。

ただし、違いもある。伝統的なジャーナリズムでは、自分たちの仕事はアメリカ市民に対して判断の材料となる証拠を提供することだというのが密かな信条だった。市民はこれに基いてそれぞれの見解を作り、投票する。つまり人々のマインドセットはエンジニア的である、新たな証拠が得られた場合は見解を修正するはずだと考えられていた。たとえそれが現在の見解に反するものであっても、新たな証拠を検討し、必要であれば見解を修正するという姿勢こそ科学、工学が成功した基礎だ。おそらく民主主義の基礎でもあるだろう。

この態度はフェイクニュースに対しても有効だ。証拠を捏造するというのは今に始まったことではない。アメリカ政府はベトナム戦争当時、都合の悪い証拠を発表しないことによってフェイクニュースを作ってきた。政治的におけるセンセーショナリズム、いわゆる政治的イエロージャーナリズムの歴史は控えめに言っても19世紀にさかのぼる。しかし人々はニュースにおける偽りや矛盾を見つけようとする、すくなくともはっきりと指摘されたときはそれを喜んで受け入れるということが前提されていた。フェイクニュースはたしかに問題ではあるが、正しい情報を得ようとする性向が広く存在することによって十分に修正され得るものと考えられた。

本当の問題はフェイクニュースが存在することではない。人々が正しいニュースを探す努力を放棄したとするなら、それこそが問題だ。エンジニアリング的マインドセット、手に入れた証拠を検討し、信頼できるものであるなら現在の見解に反するものであっても新しい証拠を受け入れるという姿勢が現在ほど希薄になった時代はない(私はこうした姿勢が常に大勢だったと言っているわけではない。民主主義がなんとか機能する程度にはこうした姿勢が社会に存在したと主張しているに過ぎない)。

しかし現状は違う。エンジニアリング的マインドセットは影を潜め、弁護士のマインドセットが優勢になってきた。このマインドセットはまず最初に対立する陣営のいずれか選ぶ。そして相手側の証拠を無視し、信用を失わせ、却下させるためにありとあらゆる努力を傾ける。逆に自陣に有利なるようならどんなガラクタであろうとモーゼの十戒を刻んだ石版であるかのように麗々しく提示する。もちろん私は現実の法律家の職務にケチをつけたいわけではない。私の友人には弁護士が大勢いるし、第一は私は弁護士と結婚している。弁護士のアプローチは激しく対立する主張から真実を発見するための優れた方法だ。

しかしこれには重要な前提がある。弁護士のマインドセットが有効なのは、十分な知識があり、慎重かつ公平な判事によって双方の主張が検討される場合に限られる。しかし民主主義一般についていえばそうした法廷は存在しない。あるいは、民主主義が機能するならそれが法廷だといえるだろう。だから民主主義が機能するためにはエンジニアリング的マインドセットが必須だ。アメリカにせよイギリスにせよ他の民主主義国にせよ、こうしたマインドセットセットが一定の水準以下に衰えるなら、それは多大なコストを伴う損失だ。

だからこそ、現代の政治的、社会的危機の原因としてテクノロジーを責めるというのは皮相だ。テクノロジーに多くの欠陥、弱点があるのはもちろんだが、「自分の見解は間違っているかもしれない。そうであるなら、それを示す証拠を検討してみたい」というエンジニアリング的マインドセットこそ(少なくとも理論の上では)民主主義を機能させる最後の拠り所として賞賛されるべき美点のはずだ。

こうなったのは冷戦終結後、共通の敵と呼べる存在を失ったことが原因かもしれない。強力な帝国も次第に衰えるのは歴史の趨勢かもしれない。世界の複雑さ、理解の難しさが増すことに対する自然な反応かもしれない。富の大部分を独占する1%の富裕層と金融ビジネスが寄生的支配体制から目をそらすために対立を仕組んでいるのかもしれない。しかし原因がどうであれ、フェイクニュースは問題そのものではない。私の見るところ、それは結果の一つであって、この根深い危機の原因ではない。

〔日本版〕カット写真は映画からメリル・ストリープ(ワシントン・ポスト社主ケイ・グレアム)とトム・ハンクス(ベン・ブラッドレー記者)。

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(翻訳:滑川海彦@Facebook Google+

テクノロジーの分野で脚光を浴びる折り紙に注目!

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【編集部注:本稿の執筆者、Don Basileは起業家でテクノロジー、ヘルスケア、通信の分野で20年以上の管理職経験を持つベンチャーキャピタリスト】

3Dプリンターの出現よりはるか以前から、平らな紙を使って実物そっくりのモデルを作り出せる、折り紙と言う技術が存在した。折るということは構造を畳んだり、曲げたり、広げたりが思いのままにできるということだ。つまりこういった性質を利用すれば工学的に様々な局面での利用が考えられる。消化可能な折り紙でできた錠剤があれば侵襲的な外科手術を行わないで済むかもしれないし、ソーラーパネルに応用すれば、航空機で輸送する際は小さく畳んでおいて、打ち上げた後で広げてやれば良い。折り紙が現代において利用される要因は、折り紙の技術を使えば物の形を劇的に変化させることができるからだ。

折り紙自身、6世紀に仏教徒が中国から日本に紙を伝えて以来変化し続けている。紙は当時高級で広く普及はしていなかったため、最初の折り紙の利用法は宗教儀式においてであった。

もっとも初期に見られる形の1つは「紙垂(しで)」と呼ばれ、ジグザグに折って裁断された紙をいくつもロープや木に結わい付け、浄化の儀式を表すのに使われた。次に現れるのが「雌蝶」と「雄蝶」、つまりメスとオスの蝶の折り紙で、伝統的な神道の結婚式において日本酒の瓶に飾られた。17世紀までには折り紙は儀式の域を超えて一般的な娯楽として楽しまれるようになった。紙の大量生産が実現したおかげである。そして何百万という紙の折り鶴が作られることとなった。

それ以降、折り紙の様式自体に大きな変化がないまま月日は流れたが、1950年代に日本人の折り紙アーティストである吉澤章が現れ、その複雑かつ実物そっくりの動物の立体モデルは新しい世代の芸術家と科学者に強い印象を与えた。そして現れたのが物理学者のRobert Langである。彼はコンピュータ折り紙の発展において主導的役割を果たし、数学の公式と紙を折る技術を結びつけたのだ。Langは折り紙技術を実生活に応用する様々なアイディアを思いついたが、その中には自動車のエアバッグの安全性を向上させるものもある。

複数分野が交錯するこの領域では、現世に存在する種々の工学的問題を解決する可能性で満ちているが、このことは折り紙がコンプライアントメカニズムで作動するのが主な理由である。折り紙においては蝶番やベアリングではなく、曲げたりたわましたりすることで動きをつけ、そういった動きは紙自身の柔軟性に依存する。もしこういった強さや柔軟性の原則を紙よりも丈夫な素材に適用すれば、その可能性は無限大だ。

折り紙の「極小の」可能性

昨年スウェーデンのカロリンスカ研究所の科学者たちが示したのは、何重にも折りたたんだDNAは優れたドラッグ・デリバリーの手段と成り得るということだ。何度も巧妙にDNAを畳むことにより、コンピュータでデザインした、例えばウサギのような複雑な形も、合成DNAを使って組み上げることが出来る。

形状が多次元の場合、折り紙構造の全てのでDNA鎖は広がることになる。この方法はオイラー閉路と呼ばれる数学の方程式を利用したもので、環状のDNA分子を、その柔軟性を保ったまま簡単に折りたたむことができる。「この成果により、生理的塩濃度の環境下でも折りたたまれ、形が崩れないDNA折り紙をデザインすることが可能になりました。このことはDNAのナノ構造を生物学的に応用する上で非常に重要なことです」と、この研究をリードしたBjörn Högbergは述べた。この画期的方法により、既にこれまでより高効率でガン腫瘍に到達するドラッグ・デリバリー・システムが開発された。

一方で、MITの研究者は子供の間でしばしば見られる、バッテリーの誤飲問題に対して、新たな解決方法を見つけ出した。それはざっと以下の通りだ。小さな折り紙で出来た錠剤を飲めば、それが胃の中で開いて、さらに磁石と併用することでバッテリーを体外にすくい出してしまう。これまでのところ、この方法は豚の胃を使った実験で成功を収めているが、人間ではまだ試していない。こういった、麻酔も必要としない非侵襲的なアプローチは大きな可能性を秘めている。

MITは世界最小の(且つ最も気持ち悪い)、自己組み立て型ロボットも開発した。このロボットは歩いたり、掘ったり、泳いだりでき、終いには溶けてなくなってしまう。

このロボットはたったの1.7センチの大きさで、磁石とPVCがレーザー裁断された紙かポリスチレンの層に挟み込まれた素材で出来ている。加熱素子で加熱することでPVCは収縮し、あらかじめ切れ込みを入れておいた箇所が折れ曲がる。それが下面に設置した電磁コイルと協働し、ロボットが折れ曲がって動く為の動力源となる。

さらに研究を進めることでもっと小さな、より多くのセンサーを積んだ自律型ロボットの開発が期待される。これらのロボットは完全に溶けてしまう様にデザインされているので、がん細胞の退治や動脈詰まりの解消といった用途が想定される。

巨大折り紙も活躍中

折り紙が宇宙研究の分野に貢献できる可能性は極めて大きい。折り紙技術によって物体を折り畳めれば収納が簡単になり、いったん目的地に着いて展開すれば元通りにできる。ソーラーパネルを軌道に乗せ、宇宙空間からエネルギーを地球に向け照射する場合を考えてみれば良い。

Bigelow Aerospace

 ソーラーパネルの効率はその巨大なパネルサイズに依存しており、その様な大きなものを如何に宇宙に持ち出すかが常に問題だった。それに対する答えが、賢くたたみ込むことだ。この理屈に基づきNASAはソーラーアレイのプロトタイプの開発に取り組んでいる。このソーラーアレイは宇宙船に積み込むことができ、収納時は差し渡し8.9フィートにしかならないが、いったん設置すると直径82フィートもの大きさにまで広がる。

さらにNASAは新しいプロジェクトであるBigelow Expandable Activity Model (BEAM)を立ち上げたが、これは巨大なエアーバッグ状の物体で、膨らますことでスペースステーションの居住空間を拡張することができる。宇宙ステーションに拡張可能な居住空間が設置されるのは初めての試みであり、これから2年間に渡りISSで行われるテストがうまくいけば大きなブレークスルーとなるだろう。

もし人類の火星旅行を実現させようとするならばスペースシャトルの今のサイズでは不十分で、そのサイズを拡張することが必要になるだろう。それでは、この太古の技術である折り紙が未来の宇宙探査にできることとはなんだろうか。それについては、NASAが用意したorigaBEAMiを自分で作って確認してほしい。「乗組員による手順の説明」にしっかりと従うように。「しっかり正確に折らないと居住モジュールの空気が漏れ出す危険があります。安全第一を心がけましょう」

折り紙は何世紀もの歴史があるが、我々は世界を変えうる程の折り紙の潜在能力にやっと気づき始めたに過ぎない。あたかもドラッグ・デリバリーロボットやスペースステーションの拡張では十分でないかのように、折り紙はそれ以外にも建築、医学、ロボット工学などの分野での革新に貢献している。折り紙が工学の分野でこれ程までに新しいフロンティアを切り開くとは誰が予想できただろうか。

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(翻訳:Tsubouchi)