ハッシュタグおたく、その他、Instagramをつまらなくする6種類の人々

Facebookには10億の利用者がいる。Twitterは利益をかき集めつつあるようだ。

しかし、流行に敏感な若者にきけば、一番ヒップなソーシャルネットワークはInstagramだという回答が戻ってくるのではなかろうか。

但し、Instagramが広がるに連れて、少々変わった使い方をする人も増えてきたようだ。変わっているだけなら問題ないのだが、ときに眉をしかめられてしまう(あるいはアンフォローされてしまう)ことになってしまっている人もいるようだ。

どういう投稿が反感を招くのかについて、見ていってみようと思う。

自分撮りクイーン

まず言っておきたいのだが、自分撮りが悪いというわけでは全くない。

ただし、自分撮り「ばかり」を投稿する人は、白い目で見られることもあることを知っておくべきだろう。写真に撮りたくなる面白いものが自分の姿だけだとするのなら、ぜひとももっと外にでかけるようにした方が良いだろう。また、数秒間隔で自分の写真を撮り、それを共有する人もいる。まず素顔で一枚、そして新しい口紅を付けて一枚、さらに口紅姿にサングラスをかけて一枚といった具合だ。

その程度の違いであれば、一枚にしぼった方がウケは良くなる。

ちなみに最もウザがられる可能性が高いのは「大変さ自慢」の自分撮りだ。エクササイズが終わった瞬間や寝起きの写真に、「大変すぎる」なんてキャプションを加えれば、簡単に多くの人から嫌われることができる。疲れてるのなら、わざわざ自分撮りするようなことをせずに、しっかり休めばいい。

くどいけれど、自分撮りが悪いわけではない。自分撮りがあるおかげで、Instagramフィードに味が出るということもある。ぼく自身も、自分撮りをシェアしている人をフォローしているし、日々、顔を見ないと落ち着かない感じのする人もできた。ただ、やり過ぎは勘弁して欲しいということだ。これぞと思う自分撮りはぜひ見せてほしいのだ。ただ、代わり映えのしない写真ばかりでは飽きてしまう。

スクリーンショット・ラバー

先ほどと同じだが、スクリーンショットがいけないわけではない。ただ、Pinterestで見つけてきた名言集ばかりを載せるのはやめて欲しいのだ。「目標は大きくもとう。失敗しても、目標の近くに達している自分を見出すことができるはずだ」(Shoot for the moon. Even if you miss, you’ll land among the stars)などという「名言」には、ほとんどの人が聞き飽きている。ミミタコなだけでなく、なんだか抽象的すぎて、ほとんど意味をなさない「迷言」も多いのだ。考えてみよう。「Shoot for the moon」と言われて、自分自身を月に向けて打ち出すような努力をしたとしよう。外れても月の近くまで来てるじゃないか、というのが格言の教えだ。しかし近くまで言っても、酸素もなく、結局苦しんで果てることになるわけだ。

また、「マリリン・モンローの言葉によると」などという人も多い。そうして引用される言葉のうち、ほとんどはモンロー自身は全く関与していない言葉なのだそうだ。何かを引用して話をしようとするのであれば、出典は確かめておいた方が良い。

さらに言っておくならば、Instagramの主人公はあくまでも写真だ。テキスト表示のスクリーンショットというのは、基本的にInstagramの扱う素材ではないのではないかというふうにも、ぜひ考えてみよう。

どうしても「名言」系のものを共有したいというのであれば、他にもっと適した場所があるはずだ。たとえばFacebookやTwitterは、そうした言葉でのやり取りを行うのが前提となっている場所だ。言葉で通じ合いたいと思うなら、まず最初にそうしたサービスをターゲットに考えるべきだと思う。

(自分のメモ用アプリケーションのスクリーンショットというのは、一層ウケが悪いことを認識しておこう)

内輪受けマニア

一般的に歓迎されないスクリーンショットの中でも、最悪の部類に属するものだ。ショートメッセージのやりとりをスクリーンショットにとっておいて、Instagramにアップロードする人がいる。

ごく稀なケースには、こうしたスクリーンショットが歓迎されることがあるかもしれない。たとえば、滅多にみない悪夢シリーズなどは、多くの人の興味をひくこともあるだろう。

しかし、通常はテキストメッセージでのやり取りなどは、ごく内輪の人しか興味を持たないものだ(意味すら通じない)。一般的にInstagramの利用者はいろいろな人をフォローしている。友だちや有名人など、その範囲は幅広い。そしてほとんどの人とは、直接に話などしたことがないのが一般的だ。

高校時代の友人が挙げる結婚式の様子を見たり、あるいはテックレポーターがマイアミでのバケーションの様子をアップロードしたりする。そういう様子をみるのは楽しい。

ただ、母親や友だちとの、ちょっと面白いテキストメッセージのやり取りはどうだろう。たいていの人にはほとんど意味をなさない(そもそも興味を持てない)ものだと思うのだ。内輪受けの冗談というのは、あくまでも内輪にいてこそ楽しめるものだ。内輪向けのコンテンツをアップロードするというのは、フォロー関係にある人を排除するという意味でもある。そうしたバランスを十分に考えておきたいと思う。

「いいね!」しない人

その写真が気に入ったかどうかなんて、どうでも良いことじゃないかという人もいるだろう。

ただ「いいね」を押してもらうと、気持よく感じる人というのは多いと思うのだ。どういう写真が人気になっているのかを示すメジャーのような役割にもなっている。自分自身でも、もしガジェット系の写真に平均2ダースほどの「いいね」がついて、料理写真には2、3個しかつかないとしよう。するとやはりガジェット系写真の投稿頻度をあげるのが人情だと思う。こうして、より多くの人が興味をもってくれるコンテンツを、いっそうたくさん投稿できるようにもなる。

とてもカワイイ猫の写真があって、「かわいいですね」とコメントはしても「いいね」しないとしよう。コメントは確かに嬉しいものだが、他に「いいね」を集めた写真と比較して、「いいね」の少なかった写真の投稿頻度は減らすことになるかもしれない。

「いいね」の出し惜しみは、たとえば自分撮り写真ばかりを投稿するのにも似たような話なのだ。また、他の人からの「いいね」を期待しつつ、自分からは「いいね」しないというのもまた身勝手な話だ。Instagramというのは、写真を通じてコミュニケートするための場だ。そしてコミュニケーションの大部分を占めるのが「いいね」なのだ。コミュニティの中でうまくやっていきたいと考ええるのならば、コミュニティのルールに従った行動が望まれる。

そもそも「いいね」をケチっても別に意味はない。何に「いいね」をしたかを、他の人がまとめて確認する術はない。ちょっと親指を動かすだけで「いいね」できるわけで、「いいね」に何の損もないはずだ。それであれば、コメントをするくらいに気に入っているのなら、ついでに「いいね」もすれば良いと思うのだがどうだろう。

Instagram中毒

ある友人の話だ。この記事の中ではBettyとしておこう。彼女はInstagramに投稿したくなるような行動をする際、必ず5枚以上もの写真を投稿する。友だちとバーにでかけると、すぐに6枚ほどもの画像を投稿する。あるいはコンサートに行けば、バンドの写真、集まっている客の写真、彼女自身の写真など、少なくとも9枚は投稿する。

Bettyは面白い人で、彼女の生活ぶりをInstagram経由で見るのも楽しい。しかしいろいろな中毒患者と同じく、Instagram中毒の人も同じようなことを何度も何度も繰り返すという傾向があるのだ。何かを話しだす。聞いている人はそれで理解する。でも中毒な人は、言い方を変えて同じ話を繰り返す。それが何度も繰り返されるのだ。

「わかった。わかったって言ってるじゃないか」と、つい周囲の口調もきつくなったりする。

同じシーンの写真を何度も投稿したいと考えるのなら、ぜひともPicStitchなど、写真をまとめて1枚にすることのできるアプリケーションを使ってみると良いだろう。

全世界旅行者(The World Traveler)

Instagram中毒の対極にあるのが「全世界旅行者」だ。少々わかりにくいネーミングではある。外国に行ったというような、稀な経験をしたときにしかInstagramに出てこない人のことだ。パリでオートバイに乗ったとか、バリでサーフィンを楽しんだなどということが投稿される。そして数ヶ月は音沙汰がなくなる。そしてある日突然ローマの歴史写真が投稿され、そしてまた音信不通になるといった具合だ。

もちろん、珍しい体験をしたときに、その様子をシェアしたくなるというのは、現代をいきる私達の共通した感覚だと思う。一方で、日常的な写真というのもInstagram上にはあふれている。たとえば海岸で撮った足の写真や飛行機の窓。あるいは綺麗なラテアートなどだ。こうした写真は確かにありふれたものではある。しかしそれでも「ちょっと楽しい」シーンでもあるのだ。

そうした写真があるのもInstagramの面白いところだと思うのだ。料理写真を連投してしまうことになるかもしれない。しかしそれも、Instagram上で交流を持つようになった人の日常生活を垣間見るのに役立つ。こうした「日常生活の窓」としての役割も、Instagramに期待している人が多いと思うのだ。バケーション中の非日常ももちろん面白い。ただ、アンティグアを訪れたときの写真を投稿して、あとは次に旅行する時まで放置というのでは「Instagramらしさ」が発揮されないと考える人もいる。日常の様子もバランスよう配することで、Instagramは一層楽しめるようになると思うのだ。

もちろん、どんなにつまらないものでもどしどし投稿しようなどということを言っているのではない。ただ、「珍しいもの」だけを投稿するのでは、全く意に反して「目立ちたがり」などと思われてしまうこともある。「すごい」ものだけでなく「ちょっと面白い」ものが混ざっている方が、面白く感じる人が多いようだ。

面白いと思うんだけどどうだろう、などと思ったら、取り敢えず投稿してみるのも良いかもしれない。

ハッシュタグおたく

実のところ、ハッシュタグおたくが一番の邪魔者だと考えられているのではないかと思う。なんでもかんでもハッシュタグ化して、とにかく何かにひっかかれば儲けものといった態度に反感を持つ人も多いようだ。定冠詞の前にハッシュタグをつけて「#the」などにする意味はないと思うのだ。しかし「#the」を検索してみると1600万もの写真がみつかる。いろいろと言い訳する人もいる。

#Not #only #does #this #make #your #caption #unreadable, #but #it #makes #you #look #incredibly #desperate #for #Instagram #love(ハッシュタグの乱用はキャプションを見にくくするだけでなく、「必死」すぎる様子にも見えてしまう)。適切な内容のハッシュタグを、適度な数だけ付けるほうが、フォロワーや「いいね」の獲得には役立つように思う。

尚、ハッシュタグにはもうちょっと別の使い方もある(個人的にはすごく便利だと思っている)。すなわちイベントや、特定のメンバーが写る写真に、全くランダムに作ったハッシュタグを付けるようにするのだ。これにより、いつでも自分の呼び起こしたい思い出を引き出すことが出来るようになる。さほど人をいらつかせることもなく、「なんでもハッシュタグ」よりは、他の人の理解も得られるのではないだろうか。

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(翻訳:Maeda, H)


クラウドOSの勝者がOpenStackに決まりデベロッパの活躍の場が高レベルになるのは良いことだ

編集者注記: 筆者のRandy BiasはCloudscalingの協同ファウンダでCTO、OpenStack Foundationの創立理事会のメンバーでもある。彼をTwitterでフォローするには、@randybiasへ。

われら神を信ず。神以外のみんなはデータを持って来い。

信じてほしければデータをくれ、という上の引用は、Total Quality Managementの元祖W. Edwards Demingの言葉だ、と広く信じられている。今朝Tumblrで、私のプレゼンテーション“State of the Stack”を批判している匿名の投稿記事(のちにそれは取り下げられた)を読んだとき、この言葉が脳裏に浮かんだ。その投稿はとりわけ私の分析の、OpenStackがオープンソースのクラウド戦争に勝った、とする結論部分に噛みついていた。その投稿にはほかにもいくつか問題があったが、それらに関しては読者ご自身が判断していただきたいと思う。私は一般的に、匿名でしかも論拠となるデータが提示されていない議論は応じる価値がない、と信じているが、今日はTwitter上の会話に、たまたま参加してしまった。この記事は、そのときのやりとりの、蒸し返しのようなものだ。

コモディティを正しく理解する

まず、Tumblr上の匿名氏は、コモディティ化を誤解している。コモディティ化とは、一つの不可分な能力や機能が商材…売り買いの対象…になった状態を指している。定義をGoogleで調べると: “買ったり売ったりできる原材料や農業の一次産物、たとえば銅やコーヒー”、とある。

原油にも銅にもコーヒーにも石炭にも、さまざまな種類がある。原油には、ライトスウィートクルード、ブレント原油、ウェストテキサス原油などがある。銅も、産地が違えば品質が違う。コーヒーは、さらに種類が多い。でも、それらすべてがコモディティだ。

その基本単位は同じでなくてもよいが、価値を測ることが可能で、それらを互いに比較できる必要がある。最近、商品取引のブローカーだった人とディベートする機会があったが、その人も、彼が買ったり売ったりしたコモディティは、違いと変化が激しかった、と言っている…しかしどんなに違っていても、互いに価値を比較できるのだ。なお、その人の名はJames MitchellCloudOptionsの協同ファウンダでCEOだが、以前はMorgan Stanleyでグローバルな商品取引部門の長だった。

クラウドOSのコモディティ化も、多様化と比較可能性を指しており、単一実装系の圧勝と支配のことではない。

クラウドはゼロサムゲームではない

匿名氏は、OpenStackが勝者なら他はすべて敗者か、と文句を言っている。でも、これはゼロサムゲームではないから、勝者が複数いてもよい。しかしLinuxに関しては、勝者の数はとても少なくて、彼らが多くを支配し、そこにとても長いロングテールがある、という状態になるだろう。

Linuxの成功(私のプレゼンではスライドデッキの13枚目)の意味は、UNIXおよび、そのほかの初期のx86 UNIX派生系(SCO UNIX, 386BSD, FreeBSD, OpenBSD, NetBSDなどなど)が要するに“負けた”ということだ。

しかしLinuxが“勝った”ことの意味は、サーバ用オペレーティングシステムが全世界的にほぼ標準化された、ということになる。そのことによって互いの競争性が増し、また人びとはソフトウェア階層のずっと上の方の、価値の高い学習と知識を追究できるようになった。そして万人に、より良いコンピュータ人生、すなわち高レベルのコンピューティングの追究が保証された。一将功成れば万卒枯る、のような匿名氏の主張は、今のLinux界隈の現状を反映していない。一方的で単純すぎる説だ。

こう言っている私自身も、長年のBSD人間だ。Linuxが勝っても嬉しくなかった。でも、サーバのオペレーティングシステムがほぼ標準化されたことは、とても嬉しい。

これもやはりいつか来た道

クラウドオペレーティングシステムの戦いはサーバやデバイスのオペレーティングシステムの場合と違う結果になる、と想像するのはナンセンスだ。明らかに、一つか二つのメジャーな勝者が決まるだろうし、今のデータを見るかぎり、OpenStackが先頭位置につけていることは確かだ。

読者からのフィードバックを歓迎する。無署名でも、いいですよ。

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(翻訳:iwatani(a.k.a. hiwa))


人はなぜ止めどなく悲劇をリツイートするのか?

被害者と遺族に最大限の敬意を表して、なぜ人々は悪いニュースを広めたがるのかを考えてみたい。爆発や災害が起こるたび、われわれは先を争って起きたことを人に伝えようとする。リアルタイムにニュースを伝えるソーシャルメディアの力をわれわれは知っている。それはわれわれに同情心を表現させてくれると同時に、恐怖や誤った情報も広げる。こうした情報発信が、どんな時あるいはそもそも役立っているのかを考える時期が来ている。

必要としている人々に正確な情報を伝えることは重要だ。しかし、炎上する機体や破壊された都市を伝えるリツイートの中で、それを達成しているものがいくつあるだろうか。

もしその場に居合わせれば、何を見たかを言う。友達に自分の無事を知らせ、事実確認を行う報道機関が現場の話を繋ぎ合わせるのを助ける。

もし未だに危険があなら、危険にさらされている人々に伝える必要がある。工場火災が近隣に有毒ガスをまき散らしているのか、ハリケーンは突然方向を変えるのか、武装した容疑者が逃走中なのか。、危害の起きる地域に多くのフォロワーを持つ人なら、ツイートが人々を救うかもしれない。

そして、何がニュースでシェアする価値があると考えるかは、誰もが持つ権利だ。

しかし、気配りは必要だ。

われわれを脳は、今の時代やわれわれが作った驚くほど強力な情報伝達手段に慣れていない。数千年前は文字通りの口コミだけだった。何か悪いことが起きていると聞いたなら、たぶんそれは自分に影響することだろう。「剣歯虎がやってくるぞ! 走れ!」「その水を飲むな、毒だ」。

おそらくわれわれは、この情報をできるだけ遠く、広く、速く、大声で知らせる本能を養ってきた。それが部族に役立つからだ。しかし、ツールがないのでメッセージは必要以上に広まることがなかった。

今は全く違う。直面する脅威は、われわれのテクノロジーほど早く拡大しない。数十、数百、数千人にとっての危険が、瞬時にして数百万人に伝わる。ニュースを発信する障壁はワンクリックにまで下がった。われわれがこれほど悲劇をリツイートしたがるのは、人を気にかけ、同情を感じ、何か役に立ちたいと思うわれわれの本質によるのかもしれない。しかし、悲報を速く増幅しすぎると、それ自身がリスクを引き起こす。

十分客観的に見て、早すぎるリツイートは不正確な情報を流布しやすい。つい先ほど、アシアナ機がサンフランシスコ空港で衝突し、ある目撃者は飛行機が横転し、怪我はずっとひどくなるに違いないと思ったと話した。しかし、横転したことを確認した者はおらず両翼とも装着されていたが、その情報はすでに数百回数千回リツイートされていた。ニュータウンでは、誤って学校内射撃犯とされたライアン・ランザがデジタル集団リンチにあったが、真犯人は弟だった。そしてボストンでは、人々が殺されたという誤報からリツイートのたびに被害者に1ドルが贈られるというニセキャンペーンまで、誤情報が氾濫した

恐怖による負の効果もある。商用機による移動は実際には驚くほど安全だ。死亡事故は稀で、米国内で走行距離1億マイル当たりの死亡者が1.27人の自動車より、ほほ無限に安全だ。しかし、リツイートされた墜落機の写真は別のメッセージを伝える ― 飛行機は危険。暗黙の誤情報は、経済を損うだけでなく、もっと危険な道路へと人々を駆り立てる。

テロリストにとって主目的に一つは注目を集めることであり、ソーシャルメディアはそれを提供する。彼らの起こした破壊と悲痛を無限にリツイートすることが、実は彼らの攻撃をより効果的にしているかもしれない。

そしてより抽象的なレベルでは、われわれは互いに現実から気をそらせるリスクを負っている。それぞれの命、貢献、さらには話題にしている悲劇の被害者を救う能力まで損っている可能性がある。

ソーシャルメディアを善用できる時は、そうすべきだ。信頼できる救援団体への寄付の呼びかけや、ボランティアに関する情報。必要な時に人々に真の危険を知らせること。1対多のメディアだと情報が広がるすぎる時は、プライベート・メッセージングを使うべきだ。全員に恐怖を押しつける必要はない。

今、われわれは世界レベルのやじ馬になっている。ショックと悲しみの合唱を切望するあまり、良いニュースが無視される。世界が否応なく直面する問題を、単にオウム返しにするか、それとも自らの声でそれを解決しようとするかの選択がわれわれ一人一人にはある。ツイートの前に考えてみよう。

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(翻訳:Nob Takahashi)


Google Readerの終了がいよいよ間近。しかしこれはチャンスなのかもしれない

いよいよGoogle Readerが終了となる。悲嘆にくれる人も多いようだ。しかし個人的には悲しいことと思わないし、残念だとも思っていない。

かつては大いにGoogle Readerを使ったものだった。日々、仕事のためのニュースを入手するためのツールとして大活躍だった。Interenet上の動きはReaderによって得ていた。散歩に出かけたり、あるいは寝ている間におきたことを知るのにも、Readerを活用していたのだった。テックニュースに関わるものとして、Google Readerは、確かに、欠くことのできないツールだったのだ。

RSSリーダーが大活躍した時代のことを考えてみる。当時(と言ってもすこし前)まで、ニュースの発生速度というのは今よりも多少ゆっくりとしたものであった。ちょうど、1日に2回届けられる新聞の発行ペースに合わせたような感じで、ニュースが発生していた。そのような時代、Google Readerないし、RSSというものを便利に活用することができていた。RSSフィードのアグリゲーションが「リアルタイム」と扱われる時代だった。そうしたフィードを、後でまとめて読むために、一箇所にまとめておくのにReaderは活用されたのだった。この、後の用のためにまとめておくという使い方は、確かに今でも有益な利用法ではあるだろう。

但し、オンラインでニュースを扱うことを仕事にしている人にとって、いつの間にやらRSSのもたらす「リアルタイム性」は十分ではなくなってしまった。RSSを消化することが、時流についていくのに役立つのだと言い難くなってしまったのだ。Readerは確かに革新的なツールだった。しかしその後に生まれてきたTwitterや、真の意味でのリアルタイム性を備えたツールの登場により、Readerはさほど便利なツールではなくなってしまった。

ニュース消化用としてではなく、不定期に投稿されるブログ記事などを対象とするものと考えれば、Readerは依然として便利なツールであると思う。投稿された記事を一箇所に保管しておくこともできるわけだ。しかし、Readerのようなツールを利用する目的に、「面白い記事を読みたい」ということも加えるのであれば、やはりTwitterなどを活用した方が良いのではないかと思う。そしてInstapaperやPocketに保存しておけば、どのサイトの記事であったかなどと探しまわる必要もなく、保存しておいた記事を全てまとめて読めるようにもなる。また、Twitterを活用することは、記事の選別を行うのにも役立つ。長い記事を読んでみたものの、どうにも役に立たないものであったなどという経験を減らすことができる。また趣味的記事のアグリゲーションツールとしてはThe MagazineやMediumなどのようなものも出てきており、こうしたツールの活用も考えてみると良いと思う。

個人的には、まずReaderを仕事では使わなくなった。2年前のことだ。使うのは仕事以外の時間ということになったのだ。仕事ではなく、個人的に興味のある記事(ゲーム関連等)をReader経由で読んでいた。Readerを立ち上げるのは寝る前ということになった。眠りに落ちる際につけておく常夜灯代わりといった雰囲気もあった。

そして、Readerを起動することはますます少なくなっていく。たまに立ち上げても、目にする記事はTwitterの投稿など、どこかで目にしたものばかりという状況になっていった。iOS上でのReaderアイコンの配置場所もドックからホームスクリーンに移り、そして1年前にはiOSホームスクリーンの、ほとんど見ない場所に追いやってしまうこととなった。もう何ヶ月も起動すらしていない。

Readerが優れたツールであったことを否定したいわけではないし、多くの人がまだ利用してもいる。しかし代替アプリケーションも多く出てきた。インターネットの世界におけるRSSの重要性というのも大きく変化しているように思う。情報収集をReaderの存在に頼りきってきた人にとっては、いろいろと世の中の変化をチェックしてみる好機なのかもしれない。そういう意味で、Readerが消え去るのは残念なことではないと思う。Readerが快適さをもたらしてくれた後に、他に便利なツールや手法が誕生しているのではないかと探ってみるのも良いことだと思う。

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(翻訳:Maeda, H)


Facebook Home、Google Playランキングで見る限りは人気は急「降下」中

他記事にも出てきているようにFacebook Homeの人気がいまひとつ上がらない。FacebookのCEOであるMark Zuckerbergが「次世代のFacebook」として投入したものだ。アプリケーションストア分析サービスの報告を見ても、Google Playでのランキングは登場時に話題を集めたとき以来、着実に低下し続けている。Facebook自体のアクティブユーザーは10億を超えているものの、Facebook Homeのダウンロード数は木曜日のアナウンス時点で100万程度であるとのことだった。またAT&TはFacebook Home搭載のHTC Firstの価格を99ドルから99セントに大幅値下げした。

いろいろなデータからわかるのは、Facebook Homeが苦戦を続けているらしいということだ。ユーザー獲得がなかなか進まない状況なのだ。

アプリケーションは、4月12日にGoogle Playで公開された。サポートデバイスはごく限られたもので、HTC One X、HTC One X+、Samsung Galaxy III、そしてGalaxy Note IIだった。HTC Firstには、予めFacebook Homeが搭載され、アプリケーションのリリースと同時に発売されることとなった。少しして、HTC OneおよびGalaxy S4でも利用できるようになった

予め言っておけば、こうして一部の機種でしか利用できなかったのも普及を妨げる一因とはなったのだろう。

いずれにせよ、Facebook Homeが、ダウンロード可能な国々のストアで最高の成績をおさめたのが4月24日だった。しかしそこから主要マーケットで徐々にランキングを落としてきているのだ。すなわち、まず話題になっているアプリケーションに多くの利用者が注目したものの、癖のあるものであるという情報が広まり、新たに導入しようと考える人が減っていったのだろうと思われる。

App Annieのデータにも、人気上昇と下降の様子が現れている。公開されるとすぐにFacebook Homeはアメリカ国内における全体順位で72位まで上昇した。これが4月の16日だ。4月の23日までには8ヵ国でトップ100入りする成績をおさめた(ノルウェイ、シンガポール、カナダ、デンマーク、オーストラリア、香港、ハンガリー、イギリス)。そしてトップ500には38ヵ国で入り込んでいた。しかしそれから4月末に向けてランクを落とし始め、トップ500に入っているのは29ヵ国で、トップ100を記録している場所はなくなってしまった。

以降、いずれのマーケットでもまだトップ100への返り咲きを果たすことができずにいる。

Distimoの分析でも同様の結果が出ているだ。4月末(4/29)の調査では、Facebook Homeはルクセンブルクにて、最高の83位の位置にいて、ポルトガルでは477位だった。しかしこの段階で既に、ランキングを落としつつあるのだ。

下の表は、Facebook Homeの4月29日段階でのランクと、それが4月24日からどのように変化したかを示すものだ。ランクの変動幅は各国の順位を示すバーの上に小さな数字で記されている。

そしてさらに数日後(5/8)、Distimoは状況がさらに悪くなっているということを発見した。フランス、ドイツ、ブラジル、およびアルゼンチン等の主要国では全体ランキングの500位からも脱落している。

そして上位に位置する国の数はさらに減りつつあるのが現状だ(下の表と上の表では国の数がかなり違ってきていることがお分かりいただけるだろう)。

アメリカ、ドイツ、オーストラリアのみを対象として折れ線グラフにも示してみた。

App Annieの調査でも順位の下落が顕著となっている。5月10日の段階で、Facebook Homeが上位500位に入っている国は19しかない。それらの中における最高位はノルウェイの191位で、トップ100には遠く及ばないような状況となっているのだ。

たいていの国では300位ないし400位あたりにいるようだ。たとえばアメリカでの順位は338位となっている。

復活はあるのか?

このような現状を見る限り、Facebook Homeは「ヒット」とは遠い状況にあるといえるだろう。

少し前にFacebook Homeの状況についてFacebook自体が論じていた中で、「100万程度のダウンロード数」ということをアナウンスしていた。しかしそれはあくまでダウンロード数のことであり、アクティブユーザーの話ではなかった。ここまでに示してきたデータを見る限り、ダウンロード数すらも思い通りに伸びていかない状況となってしまいそうだ。

但し、Homeを使っている人のエンゲージメント率は確かに高まっている。先のFacebookからの発表記事によれば、Homeの利用者の間ではFacebookの利用時間が全体で25%伸びたのだとのこと。細かくみるとコメントや「いいね!」が25%の伸び、チャットの利用率が7%、そしてメッセージの利用率も10%伸びているのだそうだ。

ただ、現段階での目標はダウンロードしてくれる人を増やすことだろう。そしてもちろん、それを使ってもらえるようにしなければならない。Facebookも、もちろんその方向で考えており、アイコンドック(ホーム画面の下部に、よく利用するアイコンを登録しておく機能)を追加したり、Dash Barという機能でチャットの相手を見つけやすくなる機能などを搭載することとした。またこれまでの方針を変更し、ホーム画面の代替物としてではなく、既存システムの上で動作するレイヤー型のアプリケーションとしての方向も目指しているようだ。これにより、利用者がFacebook Homeの導入までに行ったカスタマイズなどが消え去ってしまうこともなくなる。

Facebookの方針転換を含む変更が「間に合う」のかどうかは今後を見てみないとわからない。もしかするとFacebook Homeについてネガティブな評価をしているアーリーアダプターたちが、期待を失い、そして興味をなくしてしまうこともあるかも知れない。

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(翻訳:Maeda, H)


Facebook Home、既存システムの代替としてではなく、その上で動作する「レイヤー」として生まれ変わるべき

「Androidはどこへ行った?」。Facebook Homeのレビュー時によく出てくる文句だ。一所懸命にウィジェットの設定を行ったホーム画面が消えてしまい、呆然とする人が多いのだ。Facebookが自前のHome画面をヒットさせたいと思うのならば、利用者それぞれがそれまでに構築した画面にもすぐアクセスできるようにしておく必要があると思う。Facebookも利用者の声は気になるはずだ。現在のようにトレードオフ関係を提供するのではなく、両立的なFacebook Homeを提供するようにすべきだと考えるが如何だろうか。

Facebookの主張としては、Homeとは「世界をアプリケーション経由ではなく、人間を通して見つめる、全く新しいエクスペリエンスを提供する」ものだ。しかしこの「新しいエクスペリエンス」が、それまでの利用者の行為を無にしてしまうことに、多くの利用者が当惑している。アプリケーションの置き場所を考えて、フォルダ毎に整理して、最初の画面に表示するアプリケーションを注意深く選んだはずだった。常に表示して欲しい情報を提供してくれるウィジェットも、場所を探してきちんと配置したはずだった。Facebook Homeを利用するために、そうしたすべての努力をなかったことにしても良いと考える人は少ないはずなのだ。

幸いなことに、FacebookはHomeを毎月アップデートするとアナウンスしている。最初のアップデートは5月12日になる予定だ。いろいろと追加すると面白そうな機能は思いつく。しかし何かを追加する前に、まずはきっちりと地歩を固めるところから始めてもらいたいと思うのだ。

よりオープンな環境を目指すべき

利用者の感想を知るために、Facebook Homeに関する多くのレビューを読んでみた。ジャーナリストやテック系の人々は、私自身を含めて、カバーフィードとチャットヘッドに注目している。こうした人々はインストール時に複雑な設定をする必要があっても別に苦にしない人々だ。しかし、一般の人はFacebook Homeをインストールした瞬間から、慣れ親しんだAndroid環境を失ってしまって混乱してしまっているようなのだ。

もちろん、Facebook Homeを気に入っている人はいる。最初は驚いてもすぐに慣れたと言っている人も多い。しかしGoogle Playには1つ星のレビューも溢れているのだ。いくつかレビューを見てみよう(利用者の声をそのまま紹介している)。

  • 直感的な操作ができない。ごちゃごちゃしてとても使いにくくなってしまった。結局4、5時間でアンインストール。従来のホームスクリーンに簡単に戻れるようになるのでなければ、もう決して再インストールすることはない。Victoria Wiley
  • スマートフォンが乗っ取られてしまった感じ。とても使い勝手の悪い新しいOSに変わってしまったような気がする。joe smith
  • ウィジェットはどこに消えてしまったんだ? 全くもって使えない。David Marner
  • これまでの設定は何もかも全て消えてしまう。J Erickson

こうした感想や、ここでは取り上げなかった同種の意見を見る限り、Facebook Homeは、従来の環境との切り替えをもっとうまくやる必要があることがわかる。「Complete Action Using」(標準をFacebook Homeに切り替える)というようなメッセージが出ても、たいていの人は何のことかわからず、あるいは判断せずに処理をすすめてしまう。ホーム画面が切り替わってしまうことを、もう少し丁寧に説明すべきだと思う。また、Facebook Homeをインストールして、その環境を使うことに設定したにしても、使えるようになった機能の説明だけを提供するのではなく、さまざまな方向から変更点を説明して、元に戻すための情報も提供すべきだと思うのだ。

利用者の苦労を無にしてはいけない

Facebook Homeではウィジェットがなく、またアプリケーションフォルダには未対応となっている。もちろんこうした状態はすぐにも改善されることと思う。FacebookのProduct部門DirectorのAdam Mosseriは「フォルダーやウィジェットなど、当初から導入したいと考えていながらできなかった機能も多くあります。しかし次々にアップデートしていくことが既定路線です。すぐにみなさんの期待に応じた機能が実装されるはずです」と述べている。

ホーム画面に新しい仕組みを導入しているので、現状のまま進むならばウィジェットやフォルダについても独自の方式で実装していくことになるのだろう。しかしそのようなスタイルでは利用者の不満はおさまらないと思われる。利用者が行なってきたカスタマイズを台無しにするようなアプローチでは、世の中に認められることとはならないだろう。

すなわちFacebookはなんとかして新しいFacebook Homeと、従来型のウィジェット処理システムおよびフォルダ機能の両立を目指していくことが必要となる。このためには全く新しいホーム画面というスタンスから、既存のシステムの上に乗るある種のレイヤー型サービスとして完全に生まれ変わることが必要となる。必要に応じてFacebook Homeを消して、従来のホーム画面や、これまでに行なってきたカスタマイズ画面が利用できるようになるのが理想だ。従来のフォルダやウィジェットは、新しいHomeの「引き出し」に入れておいて、必要な際に取り出して利用するというスタイルを採用しても、利用者にとっては非常に使いやすいものとなるだろう。

現在のところ、カバーフィードの画面で左スワイプするとFacebookメッセンジャーが表示され、右スワイプで利用したアプリケーションの一覧画面になる。そして上スワイプでよく使うアプリケーションが表示されるようになっている。ここに下スワイプを加えるべきだと思うのだ。表示すべきはもちろんFacebook Home以前から使っていたホーム画面だ。あるいは上スワイプで従来のホームに戻っても良いかもしれない。

こうした修正が成されれば、Facebook Homeはより多くの人に受け入れられ、そしてFacebookの利用時間を大幅に伸ばす人も出てくるだろう。Facebook Home以前から使っていた環境を捨てなくて良いとなれば、導入にあたっての障壁も消え去ることとなる。現在の50万ないし100万ダウンロードという数字を大幅に塗り替え、新しい環境を楽しむ人も増えるに違いない。アプリケーションではなくて、人を通して世界と繋がるというコンセプトが気に入っている人は多い。但し、そういう人もアプリケーションを捨てようとまでは考えていないことを、Facebookは認識すべきだと思う。

[Image Credits: Marcio Jose Sanchez / AP, Dashburst]

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(翻訳:Maeda, H)


ハードウェアメーカー御中:視線を外したら自動的に一時停止する機能など欲しくはない!

どうやらMicrosoftが、見ていないときは自動的にビデオ映像をポーズする機能をXboxに実装しようとしているようだ。SamsungがGalaxy S4で採用したものと同様の機能だ。

こんなものに一所懸命になって欲しくないと思うのだが如何だろう。

こんな機能を欲しいと思う人などいないと思うのだ。

ふむ。確かに人によっては喜ぶのかもしれない。広告業界の人にとってはもしかすると福音と受け取られる可能性はある。ドラマの途中に流れる広告の最中にも、電子レンジでおやつを温めてくるなんてことができなくなってしまうわけだ。しかし一般の利用者にとっては、まさに「無駄の典型」と思えるのだがどうだろうか。

持っているXboxで「ちゃんと見ていないから」という理由でビデオが停止してしまったりするのなら、ともに過ごした素晴らしい日々を思い出しながら涙を流し、そしてXboxをゴミ箱に叩きこんでしまうことになるだろう。

そこまでする人は少ないかもしれない。しかしいずれにせよ、この「一旦停止」機能を考えだした人は、人びとがどんな風にテレビと付き合っているのかを「全く理解していない」のではないかと思う。

読者の皆さんにも考えていただきたい。テレビに映像が流れているとき、どのくらい画面を見つめているだろうか。

真剣に画面を見るケースというのは3種類くらいしかないのではないかと思う。すなわち大好きな続き物の最新話を見る時、あるいはずっと見たいと思っていた映画が放映されているとき、そしてあとはポルノだ。

それ以外の場合(それ以外、の方が多いように思うが)は、ただ単に映像を「流している」だけのことが多いと思うのだ。そう、BGMのような扱われ方をしていることが多いのだ。とくに何度も見たドラマの再放送などは、完全に気を抜いてただ流すことになりがちだ。意識は手元のノートパソコンやiPadにあり、そしてごくたまに視線をあげてみるといった具合だ。

「そんなに心配しなくて大丈夫だよ。どうせオプションなのだから」。

そんな風に言う人もいるだろう。しかしオプションであれなんであれ、とにかく馬鹿げた機能であるということは間違いない。オプションではあるにしても、そうした機能を実装することでUIをおかしくしてしまったりすることもある。他にやることが満載のはずの開発者から時間を奪ってしまうことにもなる。オプションがオンになってしまったり、あるいはそのオプションの周辺にバグが入り込むことだってあり、そうなると使い勝手も大いに低下することになる。

それに、こうした機能にはどうしても不具合が入り込んでしまうものなのだ。

個人的には、Xboxが大好きで、これまでに3台を買い換えてきた。持っているデバイスの中ではもっとも利用頻度が高いものとなっている(スマートフォンは別だ)。うちにきた人にはKinectを見せびらかしてあげることにしている。面白いモノなのだが、このKinectもきちんと動作しなくなることがある。

たとえばうちのKinectは、ビデオの音声をコマンドだと誤解して動作することがある(あるいはもしかするとそこらを浮遊している霊的存在がマイクに向かって「止まれ」などと命令しているのかもしれない)。さらに1日に2、3度は、こちらがじっとしているのに何かしらジェスチャーコマンドを発したと誤解してしまう。また、こちらが懸命にボイスコマンドを発しているのに、徹底的に無視されてしまうこともある。

SamsungのGalaxy S4のハンズオンデモを見ても、搭載されたビデオポーズ機能は少々動作が怪しいものであるようだ。

迷惑な機能だと思っているが、もしこうした機能を便利に使えるケースがあるにしても、「きちんと動作」することが非常に大事になる部分だと思う。画面に集中しているのに勝手に一時停止してしまったり、あるいは逆に目をそらしても流れ続けるようなことがあってはならない。

ちなみに、画面を見ているかどうかを検知するメカニズム事態が使い物にならないと言っているわけではない。画面から目を離した時に、画面にCMが何分くらい続くのかを表示してくれたり、あるいは見たくないものを簡単にスキップする仕組みを実装してくれるのなら大歓迎だ。

一時停止や早送りに関する、こちらの自由を奪わないで欲しいのだ。

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(翻訳:Maeda, H)


軍事専門家、安価な軍事目的ドローンの普及を危惧

現在のところ、軍事目的で利用されるドローンのほとんどは複雑で効果なものが多い。しかし安価なものが普及するようになると、テロリストや比較的貧しいグループさえも無人航空機技術を手にして、スパイ、偵察、ないしは攻撃目的に利用できるようになってしまう。これは世界規模での軍事バランスを破壊してしまうことにも成りかねない。

Project 2049 Instituteによるレポートによると、中国は独自の計画を積極的に進めているのだとのこと。計画とは即ち、より安価なドローンを提供できるようにすることで、他国への輸出を目指してのものだそうだ。他にもたとえばイランもシリアなど中東近隣諸国にシンプルなドローンを輸出している。中国の開発計画が進んでいけば、これまではUAVなど保有していない国々も、強力な武器を手にすることになってしまうことになる。

「今後5年ないし10年を経てみれば、各国の開発状況がどのようになるとしても、ともかくアメリカの軍事政策にとってやっかいな問題を引き起こすことは間違いない」と、リサーチフェローのIan EastonはTechNewsDailyに語っている。今後10年で無人航空機市場は890億ドル規模に達すると見込まれている。

もちろんあらゆる国がアメリカ、ヨーロッパ、ないし日本のようなロボット技術を持つわけではない。しかし中国などによるドローンは安価に出回ることになる。そして戦闘目的で利用する国が増加することになるだろうとのことだ。

via HLS

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(翻訳:Maeda, H)


フリーソフトウェア運動はどこで方向性を間違えたのか(そしてその修正方法)

ぼくの視野では、テク産業の過去10年における最大の変化は、ソーシャルメディアでもなければクラウドコンピューティングでもビッグデータでもITの消費者化でもなく、モバイルですらない。それは、業界の主流部分によるオープンソースの受容だ。それまでは、わずか10年前ですら、オープンソースは疑問視されていた。当時は、“オープンvs.プロプライエタリ”という議論が、あちこちの会議やパーティーで噴出していた。ベンダたちは、オープンソースに関するFUDをばらまいていた。しかし今では、あらゆるベンダが自分を“オープン”と呼びたがる。

なぜそうなったのか? ライターのEvgeny Morozovは、最近The Bafflerに寄稿した長文の中で、それをTim O’Reillyのメディア/カンファレンス帝国のせいだ、と言っている。

Morozovによると、O’ReillyはRichard Stallmanのフリーソフトウェア運動をハイジャックして、それを、より企業フレンドリーなオープンソース運動に変えた。そこからさらにO’Reillyは歩を進めて、Webの自由を、Googleのような企業がオンラインで好き勝手ができることへと定義変えし、オープンガバメントを政府に透明性と説明責任を持たせる運動ではなく、営利企業に無料で自由にデータ集合を与えることの必要性へと定義変えした。

フリーソフトウェアのフリーは“自由”の意味、“タダ/無料”ではない。

Morozovの記事は、ドットコムバブル期に話題になったカリフォルニア的イデオロギーと、その政治への影響をあらためて問い直している。つまりそれは、原理原則を犠牲にして実用主義を優先した結果、に対する問いだ。でもMorozovは、オープンソースがフリーソフトウェアを乗っ取ってしまった決定的な理由を、見落としているように思える。

Morozovは、オープンソースとフリーソフトウェアの違いを看過している。フリーソフトウェアのフリーは、その名の通り、言論の自由などと同じく“自由”という意味であり、free beer(無料のビール)のような“無料”という意味ではない。その自由をMorozovは、“ユーザがプログラムをどんな目的にでも使えること、その動作構造を調べられること、そのコピーを再配布できること、その改良バージョンを公開リリースできること”、と解釈している。

しかし(Open Source Initiativeの定義による)オープンソースソフトウェアもその多くは……(Free Software Foundationが定義する)フリーソフトウェアだ。では、何が問題なのか? 二つの運動の違いは、フリーソフトウェアが社会的な運動であるのに対して、オープンソースが方法論であることだ。Stallmanは”Why Open Source misses the point of Free Software“(なぜオープンソースはフリーソフトウェアを誤解しているのか)と題するエッセイで、フリーソフトウェア運動が増進に努めてきた自由をオープンソースの擁護者たちが無視している、と非難している。そして、だからこそ、オープンソースの正しい意味すら世の中に伝わっていないのだ、と。

Morozovは両者の違いについて、フリーソフトウェアはユーザの側面を強調し、オープンソースはデベロッパを強調する、と書いている。でも、フリーソフトウェアも、その主な関心はデベロッパではないだろうか。つまりその自由は、主にデベロッパの自由であり、ほとんど一般大衆とは無縁だ。しかしこの点にこそ、運動がコースを間違えた理由がある。

もちろん、デベロッパ以外の人たちにもソフトウェアの自由を気にする理由はある。活動家やセキュリティに関心のある人たちは、自分たちが使うソフトウェアを調べたい、あるいは信頼できる専門家たちに調べてもらいたい、と思う。でも、グラフィックデザイナーたちに、PhotoshopよりもGIMPを使え、後者ならコードを調べたり、書きかえたり、自分だけのバージョンをリリースできるから、と言ってみよう。あるいはデータアナリストに、ExcelではなくLibreOfficeを使うべき理由を、ミュージシャンにLogicではなくArdourを使うべき理由を述べてみよう。どんな結果になるだろうか。

そこで、こんな疑問が湧いてくる: オープンソースがフリーソフトウェアを日陰者にしてしまったのは、O’Reillyが天才的マーケターだったからか。あるいは、Stallmanが気にするような自由を人びとが全然気にしないからか? フリーソフトウェアの主なユーザがデベロッパであることは、むしろ当然ではないか?

企業とデベロッパがオープンソースソフトウェアを使ってプロダクトを作れると知ったとき、水門が一挙に開いた。

昔を知る人に言わせると、業界の主流部分をオープンソースに改宗させた第一の功績者はApacheだ。その理由は、1)オープンソースの(そしてフリーな)サーバがとても優れていた、2)企業が商用に利用してもおとがめなしのライセンス(カスタムソフトウェアとくっつけてもよい)。

企業とデベロッパがオープンソースソフトウェアを使ってプロダクトを作れると知ったとき、水門が一挙に開いた。その良い面は、オープンソースの技術を勉強する人たちが増えて、企業はオープンソースによる開発に多くの予算を割くようになったこと。オープンソースが今のように優勢にならなかったら、ブログはすべて、プロプライエタリなコンテンツ管理システム(CMS)の上で動いていることだろう。ColdFusionで書かれたコードが、Windows ServerやIISの上で動いているだろう。

O’Reillyがフリーソフトウェア運動に代えて描いた絵の中では、実用主義者たちが実用目的のために妥協を図ろうとしている。オープンガバメントも、企業にとってデータがオープンになりそれによって経済が刺激されなければ、離陸することはなかっただろう、という議論もある。だが、その今後の姿はまだ見えてこない。業界の主流部分(“mainstream, メインストリーム”)がオープンソースを受容したことによって、フリーソフトウェア派のデベロッパに雇用機会が生まれ、本もカンファレンスのチケットもたくさん売れるようになった。でもそれはイデオロギーの軽視であり、デベロッパたちが80年代の初めに夢見たようなソフトウェアの自由だけが受容されたのだ。

ぼくはデベロッパではないけど、ソフトウェアの自由は重視したい。でも、ほかにも重要な自由があると思う:

  1. ハードウェアドングルや執拗なオンラインの本人確認なしに、自分が買ったソフトウェアはどんなデバイスの上でも自由に動かしたい。
  2. 政府や企業から詮索/のぞき見されない自由。
  3. 自分のデータを複数のアプリケーション間で移動(==利用)できる自由。
  4. アプリケーションを異なるホスティングプロバイダ間で移動できる自由。
  5. 高額な年会費月会費に縛られない自由。
  6. 多くのWebサイトの利用規約の「私のやり方に従えないなら出ていって」からの自由。.

〔2番は、パーソナライゼーションへの個人データの利用など。〕

上の1番は、フリーソフトウェア運動にも含まれる。そのほかは、オープンWebや連邦型WebインディーWeb、それにベンダ関係管理(VRM)、などの主唱者たちが、今主張している項目だ。まだほかにも、重要な自由はいくつもあると思うが、それらも含めて、新しいフリーソフトウェア運動、ユーザの今日的なニーズにも対応するフリーソフトウェア運動の基盤が、そこにはあるべきだ。

[原文へ]
(翻訳:iwatani(a.k.a. hiwa))


アプリのSEO、iOS App StoreよりもGoogle Playにチャンスあり

この記事はApp StoreやGooglePlayのSEOためのツールを提供するSearchManの柴田尚樹氏(@shibataism)による寄稿記事。

63%のユーザーがアプリを探す際に検索しているというデータが示す通り、App Store SEOは、アプリ開発者にとって欠かすことが出来ないマーケティングの手段になりつつある。iOS App Storeでは、AppleがChompを買収して以降、度々、検索エンジンのアルゴリズムが変更されているとのことだ。SearchManでは「少なくても2カ月に1度」程度大規模なアルゴリズム変更を検知している。また、iOS 6以降、iOS App Storeの検索結果では、1画面あたり1アプリしか表示されず、アプリ開発者たちからの批判が相次いだ。

これまで、App Store SEOというと、iOS App Storeばかりが話題になっていたが、SearchManはこの度、Google Play / Androidにも対応を開始した。現時点では、日本、アメリカのGoogle Playストアにある70万以上のアプリの検索順位を毎日分析している。SearchManでは、昨年末頃からAndroid対応を希望するアプリ開発社が急激に増えた。特に、日本のアプリ開発社からの要望が多く、これは、Google Playでの売上が日本で急成長しているという点にも合致する。

以下に、SearchManによる、iOS App StoreとGoogle Play(Android)のApp Store SEOの比較を掲載する。これを見る限り、Google Playの方がApp Store SEO経由でのダウンロード獲得に大きなチャンスがあると言えるだろう。

1)Google Playストアの方が、より多くのアプリを検索結果に表示する

  1. 1ページあたりのアプリ数が多い:Google Playストアは、検索結果画面の1ページあたり7、8個のアプリが表示される。他方、iPhoneは1アプリ、iPadでは6アプリだ。
  2. 検索結果を深堀りするのが簡単:Google Playストアは、画面をタップすることなく、フリックするだけで、下方向に無限にスクロールできる。他方、iOSでは、検索結果を追加で読み込むのにタップが必要となる。

2)Google Playストアの方が、同じクエリに対して、より多くのアプリがヒットする

  1. Google Playの方がヒット数が多い:ビックキーワードで検索すると、検索ヒット数がGoogle Playの方が圧倒的に多い。
  2. 類似語を用いたクエリ拡張:ある検索クエリに対して、Google Playの方が、類似語等への拡張をより積極的に行なっているようだ(たとえば、photoというクエリが入力された場合に、photo、photos、写真……と解釈する)。これは、Googleが検索エンジンの会社であることを考えれば想像に難くない。
  3. 自動スペル補正:Google Playの方が、ミススペルをより賢く自動的に補正する。これもGoogleが検索エンジンの会社であるからなせる業だろう。

3)Google PlayにおけるApp Store SEOへの先行投資は今がチャンス

  1. 競争が少ない:アプリ数はApp Storeとほぼ同数だが、アプリ開発社は(Androidアプリは、レビュー審査が無いにも関わらず)iOSアプリをより頻繁にアップデートしている。
  2. 課金チャンスの増大: Google Playは、ユーザーのクレジットカードが登録されていないことが課題だったが、日本ではキャリア課金によってこの問題が克服されつつある。結果として、Google Playでの売上が日本で急成長している。

4)Google Playの方が、App Store SEOを簡単に実行できる

  1. レビュー審査が不要: iOS App Storeでは、アプリ名、iTunesキーワード変更する際に審査が必要だが、Google Playでは不要。
  2. Google PlayにはiTunesキーワードに相当するものが存在しない: Google Playは、iTunesキーワードに相当する「隠しキーワード」が存在しない。iOSアプリでは、アプリ名、アプリ説明文以外に、カンマ区切り100文字でiTunesキーワードを注意深く選ぶ必要がある。このiTunesキーワードは、SEO上、非常に大きなウェイトを占めており、アプリ開発社はこれを選ぶのに神経を研ぎ澄ませる必要がある。
  3. アプリ説明文のウェイトが大きい: 上記のようにiTunesキーワードに相当するものが存在しないため、Google Playでは、アプリ説明文のSEOに占める割合が、App Storeよりも大きいということはよく知られている。

結論としては、現時点でGoogle Play SEOに少しばかりの時間を投資するのは、理にかなっている。SearchManでは、iOSアプリでもGoogle Playアプリでも同じように、時間をかけずにSEO対策が行えるようなツールを提供している。SearchManが提供している「検索知名度ランキング」はこちらから、例えば「パズル&ドラゴンズ」のキーワード分析はこちらから見られる。アプリ開発社は、会員登録を行うことでより詳細でカスタマイズされたSEO分析、SEO改善が行える。


OracleはJava APIの著作権にあくまでも固執, デベロッパの自由が危機に

[筆者: Sacha Labourey, Steven G. Harris]

編集者注記: Sacha LaboureyはCloudBeesのCEOで元JBossのCTOだ。彼をTwitterでフォローするには@SachaLaboureyへ。Steven G. HarrisはCloudBeesの製品担当SVPで、前はOracleのJavaサーバ開発担当SVPだった。彼のTwitterアドレスは@stevengharrisだ。

OracleがGoogleを訴訟した裁判で、William Alsup判事が下した裁定は、デベロッパたちを一(ひと)安堵させた。Oracleの言い分はほとんど何一つ通らなかったが、中でもOracleに致命傷を与えたのは、次の一文だ:

メソッドを実装するために使われているコードが異なってさえいれば、著作権法の下では誰もが自由に、Java APIで使われているどんなメソッドでも、それと正確に同じ機能や仕様を実現する自己独自のコードを書いてよい。メソッドの宣言やヘッダ行は同一であってもかまわない。Javaの規則においては、同じ機能を指定するメソッドはそれらの宣言も同じでなければならない–実装が異なっていても。ある考えや機能を表現する方法が一つしかないときは、誰もが自由にその表現ができ、誰もその表現を独占することはできない。そして、Androidのメソッドとクラスの名前をJavaにおけるそれらの同等物とは違う名前にしても、たしかに正常に動作したではあろうが、しかし著作権法による保護は名前や短い語句にまでは及ばないものである。

Oracleを支持する法廷助言人たちからの具申書にも示されているように、この裁定は企業世界の超保守派大物たちの憤激を買った。OracleがライバルのMicrosoftやIBMらと(Business Software Allianceを介して)一つのベッドを共にする光景は、珍しい。彼らの今回の同床異夢ならぬ同床同夢は、スタートアップという「ファウンデーション」から彼らの老いたる「帝国」を守ることであった。さらにそこに、合衆国著作権局のトップも加わる。そしてこのごった煮に最後にふりかけるスパイスと調味料が、さまざまな業界関係者たちだ。元Sunの役員Scott McNealyとBrian Sutphinも、彼らに兵糧を送った

法廷助言人たちによるこれらの趣意書の内容は、ソフトウェアデベロッパ全般と業界の未来に対し警鐘を鳴らしている。なぜか? 彼らは口を揃えて、Alsup判事の裁定は業界にとって有害だと主張している。たしかにそれは、旧守派の事業にとっては有害だろう。それでなくても彼らは今、オープンソースとクラウドベースのサービスがますます激しく燃え立たせている変化の炎の脅威にさらされている。しかし、Alsup判事の裁定が控訴審で否定されたら、逆に、ソフトウェアのプロフェッショナルとしてのあなたにとって、有害な事態になることは確実だ。

APIは、なぜ存在するのか? それは実装の提供者とその実装のユーザ、すなわちデベロッパとの間のコミュニケーションチャネル、共通語、接触界面である。もちろん、APIを作るためには投資が必要だ。高度な専門知識と経験知と、そして良い趣味も、効果的なAPIを作るためには必要だ。しかし企業や個人がそのような投資をするのは、実装をAPIを通じて露出することにより、デベロッパたちにその実装を使ってほしいからだ。その実装は、人びとにあなたのハードウェアやソフトウェア、あるいはサービスを買う動機を与えるかもしれない。それはもしかして、広告を売るためのより効果的な方法ですらありえる。

APIを作るときには、それなりのねらいや目的がある。しかしAPI自体は、収益化のための素材…商材…ではない。収益化の対象はあくまでも、そのAPIによってアクセス可能となる何ものかだ。APIは多くの本やブログやオープンソースのプロジェクトにドキュメントされ、使われている。APIの成功は、その採用利用数によって計れるかもしれない。しかしデベロッパにAPIの使用を積極的に勧めるときに、それによって生ずる副作用を抑えることはできない。Captain PicardがOracleのレプリケータに“お茶、アールグレイをホットで”とオーダーするとき、彼はお茶だけでなく、“オブジェクト、クォリファイヤー(Object, Qualifier)”といったAPI概念も使っている。Oracleが、ほかのシンタクスを使えと言い張るなら、Googleなどは自分たち独自のレプリケータを作らなければならない。

Oracleは、特許に関する彼ら独自の定義を、通せなかった。彼らは、Googleがほんの数行のコードをコピーしたことを、特許侵犯と認めてもらえなかった。彼らの主張どおり、コミュニティがスタンダードとしてプッシュしているJava APIを、Oracleの許可なくして使えなくなったら、敗者となるのはGoogleではなくソフトウェアデベロッパとイノベーションだ。Java言語を学ぶことは比較的易しいが、そのAPIをマスターするためには、Javaデベロッパとしての相当大きな–個人としての–投資が必要だ。AndroidがJavaデベロッパに与えたものは、彼らのそれまでの個人的なキャリアと職業的投資を、Sunがその正しい取り組みを失したモバイルの市場で、そのまま活かせる、という事態だ。

Androidの分裂と互換性の問題は、どうなるのか? 私たちは、Javaの互換性、Javaというブランドの力、そしてコンプライアンス試験の価値を大きく信じている。私たちはJava Community Process Executive Committeeに参加している。Javaに比べてAndroidには互換性という問題が確かにある。Googleによる互換性努力も、完全な成功には遠い(しかしJava MEも互換性が完璧ではなかった)。Androidの、Java APIをベースとするライブラリの下には、ノンJavaの仮想マシン(Dalvik)があり、Googleはそれによって、ライセンスの問題や、それに伴う互換性、サブセットかスーパーセットか、名前空間の汚染、といった問題を避けようとした。そこまでのことができる者は、今の世界にそんなに多くはない。

いずれにしても、AndroidがJava APIを使っているおかげで、JavaデベロッパはAndroidにすぐなじめる。コーヒーカップのロゴが消えただけだ。Javaデベロッパにとっては、Androidから得られる機会の方が、AndroidがJavaの標準APIのサブセットしか提供していないことによる不完全な互換性の問題よりも、大きかった。今JCP(Java Community Process)では、現在のルールをもっと前進させ、Javaをよりフォークフレンドリーなオープンソースやクラウドの世界で円滑に共用できるよう努力している。Java APIもその多くの部分はJCPが進化させてきた。それに対してOracleが今権利を主張しているが、それによって互換性が犠牲になり、Javaがコミュニティを無視して完全に私企業の商材になることはない、ありえない、と信じたい。

IT産業がパッケージソフトからクラウドベースのサービスというモデルへ移行していくに伴い、この議論はさらに重要性を増す。企業が今後ますます、SaaSやPaaSやIaaSによるソリューションに投資していくとき、彼らのオペレーションはサードパーティAPIへの依存度を増していかざるをえない。それらのAPIは、総体的にまだ標準化が未整備であり、そこに、APIの合法的使用をめぐる不安や恐れや懸念を今回のように持ち込むことは、業界に、イノベーションを阻む無意味な足かせを課すことにほかならない。

今は、そのナイフの柄を誰が持つべきか、を決めなければならない。経済の繁栄と競争力の強化は、APIが同一だから企業がサービスプロバイダのスイッチを安心して容易にできることにかかっている。ベンダロックイン(vendor lock-in, 閉じこめ)の停滞沈滞とは、逆の状態である。APIのプロプライエタリ化によるロックインは、競争を鈍化し、経済を窒息させる。しかもそんな事態が、ほんの一握りのレガシーソフトウェアのベンダたちが彼らのフランチャイズをせめてあと数年保護したいがために起きるとしたら、一体そんなことは、許されるだろうか?

Java〜Java APIの柄を握るのは誰か? その決定が及ぼす影響は今後数十年と長く、そしてクラウドという新しいITモデルにも影響は及ぶ。それなのにその決定が今、この激しい変化の時代に生き残りを画策するレガシーベンダたちによる、強力なロビー活動によって為されようとしている。デベロッパのみなさん、あなたの今後の長期的な生計の糧、技術選択の幅広さ、そして私たちの業界の活発な競争性、それらが今、危機に瀕しているのだ。

〔訳注: 豊富な原文コメントも、ぜひお読みください。〕

[原文へ]
(翻訳:iwatani(a.k.a. hiwa))


利用規約を作ることはサービスを作ること

この寄稿はAZX総合法律事務所の弁護士、雨宮美季氏によるものだ。雨宮氏は共著で本日発売の『良いウェブサービスを支える「利用規約」の作り方』を上梓している。この本は昨年3月に開催された「利用規約ナイト」がきっかけとなり、エンジニアや経営者のために「この1冊を読めば、利用規約について検討すべきことがひと通りわかる」というガイドブックを作りたいと考えて書かれたものだ。

新しくサービスをローンチしようとするとき、「利用規約」を準備しなければならないということは、随分知られてきた。これは、facebookやInstagramなどで利用規約の改定を行おうとする際にユーザーから猛反発を受け、内容変更を余儀なくされるニュースが相次いだため、利用規約に対するユーザーの関心が高まり、これをサービス運営者側も無視できなくなったことも背景にある。実際、弁護士である私のところにも、利用規約のたたき台を準備したうえで、連絡をしてくるスタートアップは多い。

しかしながら、これらを「なぜ作らなければならないのか」「どうやって作ればよいのか」「いつのタイミングで依頼すればよいのか」については、まだまだ知られていない。

また、応対する弁護士の方でも、サービス内容を把握したうえで、法的構成を整理し、適法性を検討できる能力を要求される。「分かりにくい法律用語で一方的に会社に有利な内容を作る」という時代はとうに終わり、ユーザーフレンドリーな分かりやすい内容にしなければtwitter等で炎上の可能性もあり、何よりサービスのファンが根付かない。

こうなってくると何が正解かは教科書に書いてあるものではなくなり、利用規約に関する情報が驚くほど少ないことに気がつく。そこで、今回は、「利用規約の作り方」の最初の1歩として、利用規約を「なぜ作らなければならないのか」「どうやって作ればよいのか」「いつのタイミングで依頼すればよいのか」をお伝えしたい。


「利用規約」はなぜ必要なのか?

「利用規約」はなぜ必要なのか。これらはサービスの運営を円滑に行うために必要なのだ。クレーム対応の際の話し合いの土俵を作っておき、サービス運営者として最低限のディフェンスをするために重要な意味を持つ。また、利用規約とあわせて作られる「プライバシーポリシー」については個人情報保護法、「特定商取引法に基づく表示」は特定商取引法というそれぞれの法律に基づく要請を実現するという機能も持つ。例えば、「通信販売にはクーリングオフ制度はない」のだが、返品の取扱い(返品を禁止する旨の表示でもよい)について法律に従って明確に規定していないと返品を認めなければならないという規制はあるため、適切に表示しておかないと重大なビジネスリスクをもたらすことになる。さらに、「プライバシーポリシー」については、今や「個人情報」に限定されず、プライバシーに関わる情報にも配慮した対応が求められている。

どうやって作ればよいのか? 

利用規約などを作成する際、他社の類似サービスのものを比較検討するのは非常に勉強になる。たとえば、禁止事項を確認することで、どのようなクレームが起こりがちなのかが分かり、免責事項を確認することで、特に回避すべきリスクが分かる。また、「なぜこれが規定されているのだろう」と理由がわからない条項があったら、その理由を弁護士などに相談するといい。法律上の理由が隠されている場合も多いからだ。たとえば、CtoCのオークションサイトをやろうとしたときに、他社の「出品禁止ガイドライン」を参考にしようとすると、「動物」「お酒」「薬」などが規定されていることに気づくだろうが、これらは法律の規制に配慮してのものなのだ。日本に類似するサービスがない場合は、海外の先行するサービスの利用規約も十分参考になる(但し、法規制の違いや商習慣の違いには注意する必要がある)。

もっとも、他社の利用規約をそのままマネしただけでは道義的に批判をあびる可能性はもちろん、サービス自体の競争優位性も確保できない場合が多いだろう。そこで、自由な使用を前提に公開されているひな型をベースに、他社の類似サービスの禁止事項や免責事項などを参考にカスタマイズしていく形で作成するのも一案である。基本的な条項については、どこも大きな違いはなく、「カスタマイズ」が必要な部分にこそ、サービスの特徴が出るのである。

いつのタイミングで相談すればよいのか?

遅くとも(クローズドの)βサービスローンチ前には、「利用規約」の内容の相談に来てほしい。実際、サービス内容を聞いてみると、法的構成が整理されていなかったり、適法性のリスクが把握されていなかったりするケースが少なくないからだ。法的構成が違えば、売上計上の仕方、法的責任、未収の場合のリスク、適用される法的規制も異なる。また、ひとくちに「適法性のリスク」といっても、届出制など厳しくないものもあり、理屈の立て方で抵触しない構成も可能である場合もある。だからこそ、サービスページを最終的に作り込む前に相談に来てほしい。例えば、電気通信事業法に基づく届出や有料職業紹介はベンチャーにとってもハードルは高くはなく、該当可能性についても官公庁のガイドラインが出ており、分かりやすい 。

「もちはもち屋」であり、関連する法律を全て知っている必要などなく、構えずに相談に来ていただき、サービスのありのままの現状と、将来のビジョンを出来る限り教えて欲しいのだ。

私が過去に経験した例でも、早い段階で相談に来てもらえたために、料金のもらい方でリスクをヘッジすることができたり、競合との差別化を明確に打ち出せたりした例もある。また、利用規約を作っていくうちに、特にクレームが起こりやすいことがみえてきて、これを利用規約のみならず、ユーザー登録画面にも明確に書いておくことで高い信頼を得ることができた例も多い。利用規約の作成は、UIや画面遷移にも大きく影響するのだ。

「利用規約を作ることはサービスを作ることなんですね」

最近クライアントに言われてうれしかった言葉。これをみなさんにも実感してほしい。


JavaScriptは今, 豚から豹に変身中: 最先端の言語改良努力をMLOC.jsカンファレンスに見る

[筆者: Péter Halácsy]

編集者注記: Péter HalácsyはPreziの協同ファウンダでCTOだ。Twitterで彼をフォローするには、@halacsyで。

スタートアップはJavaScriptが好きだ。あなたが駆け出しの若造なら、ダイナミックであることが必要だ*。柔軟性も必要だ。とりあえず動くプロトタイプを素早く作れることも必要だし、コードをコンパイルせずにその場で書き換えられる能力も必要だ。JavaScriptはかつて、ブラウザ戦国時代のスタートアップだった。やがてJavaやFlashを圧倒してしまったが、それはスタートアップが市場をディスラプトして既製勢力を追ん出したのと同じ理由からだ。すなわち、アジリティ(敏速性)と柔軟性。〔*: ここでのdynamicとは、コードを書いたらそれが即動くという言語…インタープリタ言語やJIT言語…の使用の意。〕

今日、JavaScriptはもはやスタートアップではなく、またそれを使っているのはもはやスタートアップだけではない。あらゆるサイズの企業が、Webアプリケーションを作る腕前の上手下手を問わず、どこでも/誰もがJavaScriptでアプリを作っている。かつてはC/C++やJavaのような言語に殺到した需要が、今ではJavaScriptに集まり、そして需要のこのようなシフトは言語の限界を露呈している: パフォーマンスとメンテナンス性だ。

最新世代のJavaScriptエンジンはパフォーマンスがすごく向上しているが、でもまだ十分ではない。YouTubeやHuluのようなサイト、それにFacebookやEAのゲームプラットホームを見てみよう。高いパフォーマンスを要求されるマルチメディアのアプリケーションでは、いまだにFlashが使われている。Steve Jobsのご神託がFlashの命運を告げても、JavaScriptのパフォーマンスが劣るかぎりは、使い続けざるをえない。〔PreziはFlashベース。〕

あなたのコードベースが数十万行のオーダーに達し、しかもそれがすべて、JavaScriptのようなダイナミック言語で書かれていたら、開発のペースは牛歩する。コードベースのどこかを書きかえたとき、それが別のところにバグを導入していないか、それは実際にアプリケーションを動かしてみないと分からない。事前の試験には限界がある。ありとあらゆる、予期せぬ事態が起こりえる。バグが累積し、納期は延びる。

誰かがこれらの限界や制約を解決して、Webアプリケーションのこれからのイノベーションを導く必要がある。誰が、どうやって、それをやるのか?

JavaScriptは自分が作った鉄の三角形に囚われている。

PreziとLogMeInとUstreamが、JavaScriptをどうやってスケールするかをテーマとするカンファレンスMLOC.jsを開催した。GoogleやFacebookやMozillaやGrouponなどで毎日のように、問題解決に苦闘している連中が三日間、ブダペストの会場に集まり、JavaScriptの限界/制約対策について話し合った。彼らの努力で、JavaScriptは未来の言語として生き残るだけでなく、Webアプリケーションの書き方も今とは違ったものになるだろう。

今のぼくの見方はこうだ: JavaScriptは自分が作った鉄の三角形に囚われている。ぼくらはJavaScriptの柔軟性と自由に慣れてしまって、それを捨てたくない。しかし同時に、それは爆速であったほしい。JavaScriptは、コードが何百万行にもなると、その柔軟性ゆえにメンテナンスが困難になる。柔軟性とパフォーマンスとメンテナンス性、この三つは互いに入り組んでいる。一つを進歩させたら、他の二つのどちらか、あるいは両方が苦しむ。

たぶん特効薬は一つではなく、複数の組み合わせだろう。JavaScriptはダイナミック言語として、Webのための優れた糊だ。そのことは、変わるべきでない。

コード以前に、ビジネスロジックが正しくないとだめだ。またDartやTypeScriptなどの静的分析ツールは、アプリケーションのいちばん難しい部分が…今後のアップデートにもめげず…正しく動くために欠かせない。静的分析ツールは、もっと進化してもいい、とぼくは感じている。ただしその技術を幅広く、ブラウザがネイティブでサポートするのは、まだまだ先の話だろう。

ブラウザが新しい言語をネイティブでサポートすることは、必ずしも必要ではない。MozillaのAlon Zakaiが紹介したASM.jsはJavaScriptのサブセットで、現代的なブラウザの上で何も変更せずにものすごく高速に動く。スピードが重要なら、ASM.jsで書こう。Cで書いてコンパイラがASM.jsを作りだす方式でもよい。このテクニックは、パフォーマンス以外のほかの方面にも応用できそうだ。デベロッパたちはすでにそれをやっているし、彼らの努力はatl.jsにまとめて載っている。

さて、メンテナンス性の良いコードを書く最良の方法は、なるべく少なく書くことだ。bacon.jsのようなライブラリやElm言語は、複雑なデータ依存性を簡潔に表現し、デベロッパがデータの形をライブラリに合わせる努力をなくす。その結果、コードの量が少なくなり、メンテナンス性の良い高品質なアプリケーションになる。

JavaScriptは、消えてなくなりはしないが、今、変身中だ。デベロッパたちはこの言語の変種や、表現力の豊かなライブラリを作って、特定のユースケースをより扱いやすくしている。パフォーマンスへの要求も含めて。ツールと静的分析も、進歩している。これらのトレンドが全部合わさって、Webアプリケーションの書き方を変えつつある。MLOC.jsが終わったら、いよいよ本格的に始動する。

JavaScriptを毎日のように書いている大企業のみなさまもぜひ、この言語の柔軟性とパフォーマンスとスケーラビリティを大きく増すために、貢献していただきたいと思う。

[原文へ]
(翻訳:iwatani(a.k.a. hiwa))


ますます好調のAmazon。目指すのは「帝国」ではなく「世界」

amazon hidden empire編集部注本稿寄稿者のJohn Geraciはイノベーション・エージェンシーのfaberNovelのマーケティング部門を率いている。企業向けに事業創設のためのコンサルティングサービスを提供している。Twitterアカウントは@johngeraci

2年前、faberNovelから「Amazon.com: The Hidden Empire」という資料をリリースしている。ひとつのスタートアップとして始まったサービスが、17年間でいかにして世界を代表するEコマースサイトになったのかを示したものだ。資料は多くの人に見ていただき、そして多くの議論を巻き起こした。

資料のタイトルを「Hidden Empire」としたのは、当時の段階でAmazonはまだ「誰もが認める巨人」というわけではなかったからだ。もちろん大勢の人が書籍を購入するのにAmazonを利用していた。しかし2011年当時、IT業界の「巨人」といえばApple、Google、そしてFacebookを指すものだったのだ。「巨人」たちはビジョナリー・カンパニーとして君臨していた。Amazonは当時、まだ「本および小物」の店という存在に過ぎなかった。

2年のうちに状況は大きく変化した。

資料をリリースしてからも、Amazonは進化を続けて、常に話題の中心として成長を続けてきた。ライバルとしての小売店群を徹底的に蹴散らしてきた。そのような状況をうけ、faberNovelは「Amazon.com: The Hidden Empire」の改訂版をリリースした。最新の動向をまとめてあり、きっとお読みになる方のお役に立つものと思う。以下に、2013年版のハイライトを記しておこう。

  • Kindleが大成功となった。低価格デバイスを広く提供することで、Appleに対する挑戦者としての地位も獲得した。
  • 当日配送やピックアップ・ロッカーサービスの実現により、他の小売サイトなどのみではなく、地域の小売店舗とも直接的競合関係に入った。
  • Amazon SupplyによりB2B分野にも進出している。その他でも企業ユーザーの獲得に動いていて、どうやら成功しつつあるようだ。
  • Amazonは常に、新しい、そして影響度の高いビジネスモデルを開発し続けている。たとえば生徒に対する教科書レンタルサービスなども手がけて、将来の可能性を探り続けている。
  • Amazonは、あらゆるものを(anything)、どこにでも(anywhere)、そしていつでも(anytime)提供できるようになりつつある。
  • Bezosはこれからのスティーブ・ジョブズとなるのだろうか。外見的魅力で言えばジョブズが上だろう(申し訳ない)。しかしビジョナリーとしての存在感は増しつつあると思う。

ビジネスを展開するにあたって、Amazonとどのような位置関係を築くべきだろうか。あらゆる場所にAmazonありという時代になりつつある。ぜひ、私たちの資料もご覧頂き、ご意見をお聞かせ願えれば幸いだ。

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(翻訳:Maeda, H)

電子メールは死にません。本当はとても便利なものだから、電子メールは死にません

編集部注Dave Girouardは、将来に見込まれる収入の一部を担保に、大学卒業生たちに資金を提供するUpstartというスタートアップのファウンダー兼CEO。以前はGoogleのエンタープライズ部門CEOを務めていた。Twitterアカウントは@davegirouard

「みんなが使ってる電子メールは、混雑し過ぎているので誰も使わない」(ヨギ・ベラ迷言集より)

日曜日のニューヨーク・タイムズに、煽りのような記事が載っていた。電子メールは機能不全に陥っていて、既に過去の遺物のような存在になっているというような記事だ。「いろいろなコミュニケーション手段が登場して、ソーシャルネットワークなども普及して、今や電子メールは何光年も時代遅れのものになっている」などと言う人も多く、今回のニューヨーク・タイムズの記事も同様のことを主張するものだ。

keyboardchairしかしそれは本当のことなのだろうか。真の問題は電子メールにあるのではなくて、キーボードと椅子の間のところ(PEBKAC:図を参照)にあるのではなかろうか。

もちろんメールシステムに改善の余地がないなどと言っているわけではない(Gmailの動作がもう少し軽ければ良いのにと思う人は多いに違いない)。そして、確かにメール分野におけるイノベーションというのは、あまり目にしなくなってはいる。しかしSimple Mail Transfer Protocol(SMTP)は30年も前から十分に機能してきて、これからも有益なサービスとして利用され続けるのではないかと思うのだ。

「受信箱がいっぱいでやってられない」というのは、ねじくれた自慢(humblebrag)と管理不足によるものだとも感じている。メールが多すぎるなどというツイートは、プロムに誘われすぎて困ってる(「みんなが私のことを大好きなのね」とか「私がいなくちゃどうしようもないのね」)風の目立ちたがり屋意識からくるものだと感じられるのだ。すなわち、駄目なのはメールというシステムではなく、それを使う人にあるのではなかろうか。

また、電子メールというのは無駄な時間ばかりかかって、仕事の進捗を遅らせるものだという言説もある。エンジニアやデザイナー、アーティストや、あるいはライターなど、集中して作業を行わなければならない人にとっては、確かに事実なのだろう。集中しているときにメールを読むと、集中力が一気に失われてしまうことがある。しかし逆も言えるのではなかろうか。多くの人にとってメールとは仕事になくてはならないものなのではなかろうか。あるいは仕事の効率を大いに上げてくれるものでもあるように思う。

CEOがメール禁止令を出した。「80年代作戦」と名付けて挑戦してみたものの…

メールのチェックは1日に1度ないし2度までといったようなことがルールになれば、Upstartも立ちゆかなくなると思う。多くの人にとっては、実はメールとはコミュニケートして作業を完了させるための手段なのだ。以前はGoogleで働いていたが、メール禁止などという事態になれば、そちらでも仕事は完全に止まってしまったに違いない。

ときに、メールの使用を禁止するCEOがいたりもする。目的はとても生産的人間らしい電話連絡や会議を体験することだ。こうした試みは「80年代作戦」などとと呼ばれることになる。そして、確かにメールではなく、電話ないし直接顔を合わせて行った方が良い連絡事項があることを再認識するきっかけとはなる。しかし、電子メールを利用することによる効率性が失われてしまうことにもなる。メール禁止を1ヵ月も続ければ、たいていの場合は、会社自体が失われてしまうことになりかねない。

メールは、老人のように徐々に消え去っていくものだと言う人もいる。たとえばミレニアル世代の人には、メールを使うのはフォーマルな時や(ジェネレーションXが直筆の手紙を書くようなケースだ)あるいはAmazonからの通知を見るときだけだと言う人もいる。少々大げさかもしれないけれど、確かにそういう傾向はあるのだろう。伝達事項が少ないときや、即時に伝えたいことがあればテキストメッセージの方が便利だ。そうした連絡事項にメールを使わなくなることで、メールの受信箱の見通しだってよくなる。しかし、それでもメールというものが完全になくなってしまうわけではないのだ。

FacebookやTwitterだってあるじゃないかと言う人もいる。企業向けのソーシャルアプリケーションも数多く存在しており、それらはすなわち電子メールの「最後」を予言するものなのではないかというわけだ。しかし、ソーシャルアプリケーションがいくら普及した所で、それがすなわち電子メールの最後に繋がるわけではない。ソーシャルアプリケーションによるコンタクトというのは、通りすがりに声を掛けるといったスタイルにも似たものだ。うちの中に入っていくのではなく、笑顔を交換して、窓越しに手を振り、そして通り過ぎるというやり方だ。とくにニュースフィード上で行うコミュニケーションというのは、こうしたスタイルに似たものだろう。確かに、より直接的な、もっといえば電子メールにも似た(ときには電子メールの劣化版のような)ツールがソーシャルアプリケーションにも登場している。また、Facebookのおかげで電子メールアドレスをいちいちメモしておく必要はなくなった。但し、おかげでコミュニケーションの手段をひとつの営利企業に任せてしまうことになるというデメリットもある。電子メールには、やはり存在意義があり続けるのだと思う。

さらに、電子メールが「死んだ」ものであると主張する際の背景に存在するソーシャル系/位置情報系/モバイル系アプリケーションは、あらゆる通知を他ならぬ電子メールで送ってくる。これは、メールこそが信頼性のある通信手段であり、そこから、いろいろな行動が各種アプリケーションに広がっていくからだ。

電子メールが嫌いだという人にも聞いて欲しい。SMTPというプロトコルは1982年以来、さまざまな仕組みないしアプリケーションで利用されて、今日では「当たり前」とも受け取られている各種サービスを提供してきた。また、電子メールのメリットのひとつとして、SMTPが単一の企業のものではないこともあげておきたい。SMTPはSMS同様、非常にシンプルなコミュニケーション手段であり、事実上無限のイノベーションを引き起こし得るものなのだ。例えばメールのやり取りをスレッドで表示したいなどという欲求があれば対応できた。優先的インボックスのようなものも実現した。添付ファイルの添付し忘れなどということにも対応してきた。さらに、受信したいときが来るまでメールの受信を行わないというシンプルな機能を実現したMailboxは大人気となっている。きっとシンプルなメール関連サービスを公開すると、数多くのベンチャーキャピタリストからタームシートを受け取ることになるに違いない(もちろんオファーはメールでやってくるだろう)。

ニューヨーク・タイムズの記事などを見て不安に感じている人は、これから記す注意事項をまず守ってみていただきたい。きっと自分が時代遅れに電子メールを使っているわけではないことを実感してもらえると思う。

1. 自分でコントロールできる最新のメールサービスを利用すること。個人的にはGmailが好きだ。世の中の何億人もの人びとも、やはりGmailを気に入って利用しているようだ。

2. ソーシャルネットワークの通知機能はオフにしておくこと。無用な通知が大量にやってきて、いらいらしてしまうことが多くなる。ぜひとも設定を見なおしておくこと。

3. 本当に必要なのでなければ、メーリングリストの購読は行わないこと。誰も強制などしないはずだ。否、職場の上司の指示で購読しなければならないなどということはあるかもしれない。いずれにせよ可能な限り、自分のコントロール下においておくことだ。

4. 急を要しないメールについては受信箱外で管理しよう。ほぼ無限のディスク容量が利用できるようになり(ここ8年くらいの技術進歩の結果だ)、メールもすぐに処理せずにアーカイブしておけるようになった。後で、必要な時ないし暇なときに見返すという処理方法を選択できるようになっているのだ。

5. 上に書いた内容をじっくりと検討し、アドバイスにも従ってみたのに、それでも不必要なメールが大量に押し寄せてくると、不満を感じる人もいるだろう。そうした場合は仕方がない。誰もがコミュニケートしたいと感じるあなたは、大の人気者であり、その立場をどうこうしようというのは本稿の目的とは外れるものだ。

Upstart

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(翻訳:Maeda, H)